このたびゲスの極み上司に脅されまして

猫田けだま

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この気持ちに名前はつけません

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「帰りたくねえな」


類さんがしみじみと呟いて、瞼を下ろす。


「はい、本当に」


私も習って目を閉じると、ガラスのように透明な空気が身に染みた。


不思議な沈黙が落ちる。だけどそれは、心地良い沈黙だった。
静寂の中、遠くから聞こえる海の音に耳を傾け続ける。


過ぎてゆくのが惜しいと思えるほどに贅沢なひとときだった。
陽介のことも仕事のことも、全部忘れて、このまま乳白色のお湯に溶けてしまいたい。


そんな欲望に従って、目の下までどっぷりと湯船に身を沈める。


と――、いきなり左腕を掴まれた。


「おい、大丈夫か?」
「へ?」


目の前には、焦った表情の類さん。
状況が把握できない私の腕を持ち、湯船から引き上げようとする。


「な、なにするんですか!」


このまま立ち上がったら、貧弱な胸を晒してしまう。咄嗟に反対の手で、彼に向かってお湯をひっかけた。


「うわっ、なにすんだよ――って、のぼせたんじゃないのか?」


自分の勘違いに気づいたのだろう。私の腕を解放した彼は、ホッとしたように息を吐く。


「紛らわしい動きをするな、カバかおまえは」
「カバ……?」


脳内に浮かんだのは、いつか見たテレビ番組。アマゾンだかなんだかに住むカバが、目の辺りまで沈みながら泳いでいたような気がする。


「たとえが、独特ですね」


思わず笑ってしまう。
類さんはなんだか気まずそうに私から距離を取り、焼酎を煽った。


けど、少し意外――。
類さんのことだから、勘違いにかこつけて、破廉恥な行為を仕掛けてきそうなものだけど。そういえば、ずっと適度な距離を保ってくれているし、私が服を脱いでお湯につかるまでは、背を向けていてくれた。


「いつも、これくらい紳士的ならいいのに」
「あ?」
「いいえ、なんでもありません」


肩を竦めて、升酒を手に取る。


「あんまり飲み過ぎるなよ」
「はーい」


たしかに入浴中の飲酒は酔いが回りやすいみたいだ。まだ一杯半しか飲んでいないのに、フワフワしている。普段どんなに飲んでも顔色一つ変えない類さんの頬も、心なしか赤い。


「水、飲むだろ?」


そう言っていったん湯船から上がった彼は、すぐにミネラルウォーターを二本持ってきてくれた。


「ありがとう……ございます」


この人って、こういう所……あるんだよなあ。
普段は雑な性格のくせに、絶妙なタイミングで優しさを見せる。
たぶん世の女は、これに騙されてしまうのだろう。


「上手いですよねえ」
「なにが?」
「女の子のツボをつくの」


よく冷えたミネラルウォーターが喉を通り過ぎ、体だけでなく頭も覚醒させてくれる。
類さんは「なに言ってんだよ」と笑って、自分の分のペットボトルの蓋を開けた。
濡れた髪をかき上げながら、旨そうに喉を鳴らす彼を見て、素直に思う。


「類さんがモテるのって、分かる気がします」


最初はこんな下衆にひっかかるなんて、あり得ないと思っていた。
でも今なら、マンションの両隣と上の階の女を同時にたらしこめたのも納得できる。


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