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第2章

エピローグ『クロノスタシス⑥-ゼロ-』

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 3年前。俺は交通事故で両脚をケガして、陸上生活を送れなくなった。
 普通に走ることができる程度には治ったけど、一度、脚を痛めてしまい、楽しく走ることもできなくなった。
 毎回、走る度に脚が痛くならないかどうか不安になって。何事もないことにほっとして。高校2年生の今になっても繰り返していた。走る感覚はあのときのままだ。

「久しぶりに……昔のように私と一緒に走ってみませんか?」

 事故のことを知った上であおいが言ってくれたその言葉が、楽しく走ることへの道を示してくれたような気がした。



 4月19日、火曜日。
 今日は朝からよく晴れている。たまに雲が出る時間帯はあるものの、雨が降る心配は全くないという。
 昼休みになるとすぐに、俺とあおいはそれぞれお手洗いに行き、制服から体操着に着替えた。2時間目に体育の授業があったので、汗の匂いが少し付いた体操着を。ちょっと不思議な感覚だ。
 下はジャージではなくハーフパンツ。なので、3年前の事故の際に受けた手術の痕がはっきりと見える。一時期は視界に入れたくないほどに嫌だったけど、今は……この脚であおいと競走するんだという気持ちにさせてくれる。
 体操着に着替えて廊下に出ると、体操着に着替えたあおいと制服姿の愛実達が待ってくれていた。

「お待たせ。待ったかな」
「いえいえ。……健康診断のときは下がジャージでしたけど、今日はハーフパンツなんですね」
「この方が速く走れるからな。それに……今までは手術跡を隠すために、特に暑い時期以外はジャージのズボンを穿くことが多かったんだ」
「そうでしたか」

 あおいはそう言うと、俺の脚を見てくる。この脚を見てあおいはどう思うだろうか。

「……事故の話を聞いたからでしょうか。この手術跡も涼我君なんだって思えます」

 落ち着いた笑みを浮かべながらそう言うあおい。そのことにほっとしたし、嬉しかった。

「おやおやおや。みんなで集まってどうしたんだい? 涼我君とあおいちゃんは体操着姿だし」

 隣の3組の教室から出てきた佐藤先生が、俺達にそう問いかけてきた。そんな先生は白衣を羽織っている。授業をするときは白衣を羽織ることが多い。

「久しぶりに涼我君と校庭で徒競走するんです。小さい頃は公園でよく走っていましたから」
「そうなんだ。……面白そうだから、私もその様子を見ていいかい?」
「もちろんですよ! 樹理先生」
「いいですよ」

 佐藤先生なら全然かまわない。
 佐藤先生は微笑みながら「ありがとう」と言った。
 それから、教材を持っている佐藤先生とは一旦別れ、俺達6人は昇降口で外履きに履き替えて、校庭へ向かう。
 昼休みが始まって10分も経っていないからだろうか。授業終わりと思われる生徒が校舎に向かって歩く姿は見えるけど、校庭で遊んでいる生徒の姿は全然見受けられない。これなら、走る場所を難なく確保できそうだ。
 事前に道本と鈴木、海老名さんで話し合っていたようで、スターターを道本、ゴールの判定を鈴木と海老名さんが担当するとのこと。
 道本と海老名さんがスタートラインとゴールラインに線を引いてくれる。だいたい100mらしい。さすがは普段、部活で短距離走の練習をしていたり、マネージャーをしたりしているだけのことはある。
 俺とあおいはスタートラインへ行き、各自準備運動をしたり、短い距離を軽く走ったりする。うん、いい感じだ。

「何だか懐かしいな。麻丘が準備運動して、軽くアップしたりしている姿を見ると」

 スタートラインの横に立つ道本が微笑みながらそう言ってきた。

「事故が起きてから、体育の授業や体育祭以外はしなかったからな。家でストレッチするのは習慣でやっているけど」
「そうなんですね」
「そうか。……楽しみだな。麻丘と桐山がどういうレースをしてくれるのか」

 そう言う道本の笑みが、微笑みからいつもの爽やかな笑みへと変わる。そういえば、大会に出場すると、他の選手のレースを楽しそうに見ていたっけ。そんな道本だから、こういう形でのレースでも見るのが楽しみなのだろう。
 俺とあおいがウォーミングアップしている間に、白衣を脱いだ状態の佐藤先生が校庭に現れる。先生はコースの横に立っている愛実の側に立った。何やら雑談しているように見える。このレースを行ういきさつを愛実が先生に話しているのかな。

「体が温まってきました。私は大丈夫です」
「……俺も大丈夫だ」
「じゃあ、2人ともスタートラインに言ってくれ。クラウチングスタートで始めよう」

 道本のその言葉に俺とあおいは頷き、スタートラインに向かう。
 いよいよ、10年ぶりにあおいと一緒に走るのか。

「涼我君。どうですか? 気持ち的に」
「……脚の不安がないと言ったら嘘になる。でも、あおいと久しぶりに走れるのが楽しみな気持ちの方がずっと強い。今の俺の全力の走りができそうだ」
「そうですか。良かった。私も思いっきり走れそうです。……これは競走ですからね。負けませんよ!」
「俺も負けないさ。3年前までだけど、あおいみたいに速く走れるように練習したからな」

 俺がそう言うと、あおいは勇ましい笑顔を見せて、握りしめた右手を俺に差し出してくる。俺も右手を握りしめ、あおいの右手に軽く当てた。

「じゃあ、そろそろ始めるぞー!」

 愛実達に向かって、道本が大きな声でそう言う。そんな道本に愛実、鈴木、海老名さん、佐藤先生は手を挙げて返事した。

「位置について!」

 俺とあおいはスタートラインでクラウチングスタートの姿勢を取る。その際、俺の左側にいるあおいをチラッと見る。集中しているのか、あおいは凜々しい表情に。
 今の俺ができる全力の走りをするんだ。その姿を愛実達に見てもらうんだ。

「よーい! スタート!」

 スターターによる道本によって、俺とあおいによる10年ぶりのレースが始まった。
 スタートしてすぐ、左側にあおいの背中が見える状況に。昔もスタートした直後から、あおいの背中が見えていた。走力の差もあるだろうけど、きっとあおいはスタートダッシュが上手なのだろう。
 あおい、今でも脚が速いんだな。さすがは中学生の頃は3年間テニスをやっていただけのことはある。
 昔はあおいの背中を見えてばかりで、差が開いて背中がどんどん小さく見えてしまうこともあった。
 でも、今の俺なら。
 3年のブランクはあるけど、ここから追いつくんだ!
 脚の動きが段々と軽くなってきて、あおいの背中が近くなってきた。あおいの横顔も見えるようになってきて。あおいの息づかいも聞こえてくる。

「頑張って! リョウ君もあおいちゃんも頑張って!」

 横から、愛実の大きな応援の声が聞こえた。
 その瞬間、全身が軽くなって前進する速度がより速くなった気がした。あおいの背中は視界から見えなくなり、彼女の横顔も一生懸命に振る右腕も見えなくなっていく。
 ゴールラインで待っている鈴木と海老名さんの姿もだいぶ大きくなっていた。ゴールまではあと少しだ。
 それにしても、何て気持ちいいんだろう。
 体の前面に受ける空気も。
 両脚から伝わるグラウンドを踏む感覚も。
 それは小さい頃にあおいと一緒に走ったり、中学の陸上部で道本達と一緒に練習したりしているときに感じていたものだった。当時は当たり前で気づかなかったけど、こんなにも気持ちいいことをしていたんだ。
 走る気持ち良さと懐かしさを感じながら、俺はゴールラインを駆け抜けた。その際、あおいの姿が見えなかった。
 俺はゆっくり走り終えて、立ち止まる。その瞬間に普段よりもやや激しい息づかいになる。両脚中心に疲労感もあって。中学で陸上をやっていた頃は100mを一度走っただけでは、こういう感覚にはならなかった。陸上を辞めた影響だろう。
 振り返ると、近くには両手を膝に置いて、激しい息づかいで呼吸しているあおいの姿があった。

『麻丘涼我の勝利!』

 鈴木と海老名さんが声を揃え、レースの結果を言ってくれた。それを聞き、あおいに初めて勝利できたのだと実感する。
 パチパチ、と校舎の方から拍手の音が複数聞こえてくる。そちらを見てみると、いくつかの窓から、こちらに向かって拍手をしたり、スマホを向けたりする生徒達が。体操着姿で校庭にいるから、それを見た生徒が俺達の競走を見ていたのだろうか。

「涼我君。脚は大丈夫ですか?」
「疲労感はあるけど、痛みは全くないよ。大丈夫だ」
「良かったです。あと、初めて負けましたね……」

 そう言うあおいは爽やかな笑みを浮かべている。勝敗の感想よりも前に、俺に脚のことについて質問するなんて。あおいは優しいな。

「リョウ君! あおいちゃん!」

 愛実と道本、佐藤先生が小走りでこちらに向かって走ってくる。愛実は……可愛い笑顔を浮かべて。

「リョウ君、脚は大丈夫?」

 俺達の目の前にやってきた途端、愛実はそう問いかけてくる。愛実もまずは俺の脚を気遣ってくれるなんて。俺の幼馴染達は優しい。

「大丈夫だ。疲れはあるけど痛みはない」
「良かった……」

 愛実はほっと胸を撫で下ろす。

「リョウ君とあおいちゃん、2人とも楽しそうに走っていたね。昔、こういうことをたくさんしてきたんだね」
「あおいに勝てたのは今日が初めてだけどな。でも……昔と同じように楽しく走れたよ」

 あおいと愛実の顔を見て、俺は走った感想を口にする。それを受けてか、2人はニッコリと可愛らしい笑顔を浮かべる。走った後に2人の笑顔を見られて嬉しい。

「私も涼我君と久しぶりに競走できて楽しかったですよ!」
「……良かった」

 あおいも楽しむことができたと分かって、頬が緩んでいく。昔も、走った後は楽しかったって言い合っていたな。

「スタート地点からだけど、麻丘の走りは事故が起きてから一番良かったぞ。桐山の走りも良かった」
「道本君の言う通りね。楽しそうに走る麻丘君の姿が懐かしかった。あおいの走りも良かったわ。陸上部の女子部員にも負けないくらい」
「2人ともいい走りぶりだったぜ!」
「愛実ちゃんから3年前の事故について軽く聞いたけど……いい走りをするじゃないか、涼我君。あおいちゃんもどこか運動系の部活に入っているようないい走りだったよ」

 道本達は笑顔で俺とあおいに賞賛の言葉を贈ってくれる。きっと、あおいと一緒に走って、愛実達が見ていてくれたから、ここまでの走りができたんだと思う。

「涼我君。今日初めて、走っている間に涼我君の横顔と背中を見ました。そのどちらもかっこよかったです」
「……そうか。昔はいつもあおいの背中ばかり見えていたから、俺は今日初めて走っている間にあおいの横顔を見て、あおいの姿が見えない中でゴールできたのが新鮮だったよ」
「そうですか。……それはきっと、速く走れるようになりたいと頑張った賜物だと思います。涼我君は3年前に事故に遭い、そのことで陸上は辞めました。でも、それまで練習してきたものは涼我君の体にちゃんと身についているんです。私がそれを保証します」

 あおいは優しい笑顔で、優しい声色で俺にそう話してくれる。そんなあおいの横から愛実が、2人の後ろからは道本達が俺に笑顔を向けてくれている。そのことがたまらなく嬉しくて。だからなのだろうか。気づけば、あおいや愛実達の笑顔が揺らめいて見え、その直後に両頬に温かいものが伝う。

「リョウ君……」
「涙が……」
「……いいんだよ。これは嬉し涙だから」

 事故の痛みや陸上を辞めなければならないこともあって、事故が起きた直後は何度も泣いた。ただし、愛実達になるべく心配を掛けないためにも、一人でいるときに。誰かがいる前では普段と変わらない振る舞いをしようと心に決めていた。
 ただ、事故から3年近く経って、走ることが楽しいと味わえたことと、あおいと愛実達の笑顔を見られたことの嬉しさで泣くなんて。想像もしなかった。
 これが嬉し涙なのもあるだろうけど、一人で泣いていたときと比べて気持ちがスッキリしている。

「……愛実」
「うん」
「……あのとき、愛実のところへ走り出せて良かったって思ってるよ。結果として、重傷を負って、陸上も辞めた。それを辛く思うこともあった。それでも、愛実に大きなケガをさせることがなくて良かったって思うよ。愛実の笑顔をたくさん見られるようになって良かったって」

 あの日から罪悪感を抱き続けている愛実に、俺は精一杯の気持ちを伝える。これで少しでも愛実の心が軽くなれたら嬉しい。
 愛実は持ち前の優しい笑顔を浮かべて、

「私もリョウ君が楽しく走って、笑顔でいる姿を見られて良かったよ。リョウ君、かっこよかった! 3年前のあのとき、リョウ君が助けてくれなかったら、もしかしたら大きなケガをしていたかもしれない。死んでいたかもしれない。リョウ君のおかげで今があると思ってるよ。リョウ君、あのときは助けてくれてありがとう」

 俺に対して感謝の言葉を伝えてくれる。その直後、愛実の笑顔が嬉しそうなものに変わって。そんな愛実を見ていると、自然と口角が上がって。きっと、俺も愛実と同じような表情をしているんじゃないだろうか。

「いえいえ。……愛実、リハビリや学校生活のサポートをしてくれてありがとう。あおい、また走りたいって言ってくれて、一緒に走ってくれてありがとう。道本も海老名さんもサポートや、俺が陸上部を辞めても変わらず接してくれてありがとう。鈴木、佐藤先生、あおいとのレースを見守ってくれてありがとう。また思いっきり走れて良かった。走るのって楽しいな。みんな、本当に……ありがとう」

 ここにいるあおいや愛実達にはもちろんのこと、ここにいない家族などにも感謝の言葉を言った。
 ようやく、3年前の事故から時計の針が進んだような気がした。一度は深い傷を負った両脚で再び走り出せたような気がした。
 右腕であおい、左腕で愛実のことを抱きしめる。2人から伝わる温もりはとても強く、優しいもので。いつまでも感じていたいと思えるほどだ。すぐ近くから2人の笑顔を見ると、胸がとても温かくなって。
 それからしばらくの間、涙が止まらなかった。あおいや愛実達が見ているけど、止められなかった。ただ、涙の温もりさえも、今はとても心地良く思えたのであった。



第2章 おわり



第3章に続く。
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