黒に染まった華を摘む

馬場 蓮実

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第12章 代償

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 耳元で荒く響いていた吐息が、ゆっくりと離れていく。入れ違うように、スピーカーの雑音が次第に大きく耳に入ってきて、僕を現実に引き戻した。


 ぽた……ぽた……。

 彼女の体が離れた直後、湿ったものが太ももに触れる。張り付くように、垂れていく。これは涙じゃない。僕の罪そのもので、間違いない。

「はい、これで拭いて」

 彼女は、テーブルにあった使い捨てのおしぼりを取り出し、それを僕に手渡した。僕が受け取ると、彼女はソファーから降りてサンダルを履き、静かに立ち上がった。

「ちょっと……お手洗い、行ってくるね」

「……うん」

 上着をそのままに、キャミソール姿の彼女が部屋を出ていく。その一瞬、ドアの隙間から差し込んだ光が室内を淡く照らし、僕はその光の中で、自分がどれほどみっともない姿だったかに気づいた。

 慌てて、身体を拭く。ズボンを直し、ソファーを確認して、おしぼりを新しいもので包んでゴミ箱に入れた。鼓動はようやく落ち着いてきたのに、呼吸だけがまだ浅く、乱れていた。

 あとは、彼女が戻ってくるのを待つだけ——。

 やることがなくなって、また別のことに気づいた。いや……気づいてしまったと言う方が、正しいのかもしれない。

 僕は……終わってからの麻美ちゃんが、何故か気になった。

 ついさっきまでの、悲しみだとか、恐怖だとか、そういう感情を彼女からは感じなかった。優しい口調だったし、気も遣ってくれている。それなのに——何か……間違いなく何かが違った。さっきまで近かったはずなのに、急に距離ができたというか。同じ時間を過ごしたはずなのに、余韻の重さが違っていたというか。

 満たされたはずなのに、なぜか胸の奥が冷えていく。そんな、切なさと虚しさに近い感覚が、じわじわと脳裏に染み込んでいく。

「考えすぎかな……」

 自分に言い聞かせるように、天井に向かってつぶやいた。あと何分で一時間だろう。もう少しだけ……彼女のそばに居たい。脱力しながら、そんなことを考えていた。

 思ったより早く、彼女は帰ってきた。ドアが、のそっと開き、ゆっくりと閉じられる。僕は天井を見上げたまま、目を瞑って彼女を待った。次の振る舞いが、どうしても気になった。帰ろうと急かすのか、それとも——さっきみたいに、隣に寄り添ってくれるのか。


「明希くん」


 彼女が、僕を呼んだ。か細く、掠れた声で。僕は彼女の方を見た。真っ暗な中、思ったより遠く——離れた場所に立っている。


「なにしてるの?こんなところで」



 ————え?


 次のその声は、はっきりと聞こえた。


 瞬間、圧倒的な違和感が、僕を襲った。
 背骨の一番下から脳天めがけて、稲妻のように悪寒が突き抜ける。


 この声は——麻美ちゃんじゃない。


 僕は反射的にソファーから立ち上がった。人の影が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

「なにしてるの?こんなところで」

 は、淡々と同じ言葉を繰り返した。僕は言葉を失った。頭が、真っ白になった。
 理解が追いつかない。でも現実が、容赦なく押し寄せてくる。

 どうして……どうしてが、ここにいるんだ——。

 その時、遅れてもう一度ドアが開いた。今度は、はっきりと栞ちゃんの姿が視界に映った。

 静かな表情だった。けれど、僕には分かった。感情は明らかに飽和していて、ただ今は、それを必死に押し殺しているだけだ。

「……しー、ちゃん……?」

 部屋に入ってきた麻美ちゃんも、僕と同じように、その場に固まっていた。唖然と、ドアの前で栞ちゃんの後ろ姿を見つめている。

「どうして、ここがわかったの?」 

 かろうじて声を出した麻美ちゃんに、栞ちゃんは、視線を移して静かに答えた。

「……わかってないよ。わかるわけ、ないじゃん」

 その口調には、冷たさと……乾いた諦めの色が、滲んでいた。


「私は、ちゃんと十四時まで明希くんを待つつもりだった。でも、支度は昼前に済んでたから、時間まで図書館で待つことにしたの。……びっくりした。外には明希くんの自転車、自習室には見覚えのあるトートバッグ。きっと二人は、この近くで話してるんだろうなって」

 けど——と、彼女は麻美ちゃんに近づいていく。

「なんだか心配になった。一時間待ってと言われただけで、『何時に会うか』は聞いてなかったから。それで、職員さんに二人のこと聞いてみたの。そしたら——女の子しか見てないって。しかも、正午前には出て行ったって……。嫌な予感がして、慌てて周囲を探して……学校も覗いてみた。でも、居なかった。そうなったら、私にはもう、バスでどこかに行ったとしか思えなかった」

 服が揺れ、ハンガーのフックが金具と軋み、断片的な光が二人を照らす。

 その中に見えたのは——栞ちゃんが、麻美ちゃんの腕を掴んでいる姿だった。

「どうして……どうして、ここなの?私は、ここ以外なら、もうどこでも良かった。ここにだけは……居てほしくなかった。それなのに——」
「しーちゃん、私は……明希君に付き添ってもらっただけだよ。カラオケの——」

 パチンッ。

 頬を打つ鋭い音が、室内に鳴り響いた。
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