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閑話.あの人たちの崩れていく日常

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「あれ……恵のやつまだ起きてないのか、珍しい」


 いつもなら用意されているはずの朝食がない。
 というか、起きている気配がしない。
 まだ不貞腐れてるのか……はぁ、面倒だな。そんなことしても、ご機嫌取りなんてしてやる気はないぞ。


「お腹すいたー。恭ちゃん、朝ご飯食べよ」

「美緒、それがな……用意されてないんだ。まだ起きてないみたいで」

「えー? 何やってんのよ、恵さんってば……しっかりしてよねー」

「全くだ。仕方ない、駅前で済ませるか。もう出よう、送ってくから準備して」

「はーい。さすが恭ちゃん、徹と違って頼りになるわ」


 そっちがそのつもりなら、こっちだって構うものか。
 お前の思いどおりになんてならないぞと、気にかけることなく家を出た。

 美緒を駅まで車で送るついでに朝食を済ませ、改札まで見送って、自分も出社する。
 仕事を初めて一時間ほどした頃、仕事用ではない自分の携帯に電話がかかってきた。
 ポケットから取り出して見ると、表示には保育園とある。
 ……保育園? あぁ、美緒の娘のとこか。一応何かあった時のためにと俺の携帯も連絡先を登録されてたな。

 もしもし、と出てみれば、愛ちゃんは今日お休みでいいんですかと聞かれた。
 はぁ……? そんなこと俺が知るわけないだろう……とは思いつつも、恵に聞いてくれと言ったところ、恵も美緒も何度かけても電話に出なくて、最後に俺にかけてきたのだと。
 美緒は仕事が忙しくて出られないのだろうと考えられる。
 だが、恵はなんだ?
 昨夜からの態度に少しイラっとしたのもあり、今日は休ませますと勝手に言っておいた。

 やれやれと思った次の瞬間、また電話がかかってくる。
 まだ何かあるのかと思って見れば、表示されていた文字は保育園ではなく、恵のパート先のドラッグストアだった。

 何なんだと思いながらも一応出ると、始業時間になっても恵が現れないと、何かあったのか、休むのかと……またもや、知らねぇよと言いたくなるような内容だった。
 いい加減にしてくれと思いながら、こっちも勝手に休みだと言っておいた。

 不貞腐れてるのか何なのか知らないが、周りに迷惑かけてんじゃねぇ。
 帰ったら説教だな。

 なんて、この時はまだ悠長に構えていた。

 仕事を終え、駅で美緒を拾って帰宅した我家は、今日も灯りは消えていて、鍵が閉まっていた。
 その様子に苛立ちが込み上げるが、まだここは外だと言い聞かせ、叫びそうになる自分を抑える。

 鍵を開けて入った玄関で、そういえばと今更に気づいたのは、恵とあの娘の靴がないということ。
 ……いつからだ? 昨夜は……どうだったか。
 靴がないということは、家にはいないということ。
 本当にそうなのかと疑いながら、家中の扉を開けて確認してみるも、どこにもいない。

 もしかして、ついに出て行ったのか?
 分けてから随分経った寝室も鍵がかかってなかったから開けてみたが、荷物をまとめた形跡はなかった。
 大きな旅行鞄も部屋に置かれたまま。本人たちだけがいない。

 大した荷物も持たずに行ける場所と言えば――


「実家に帰ったのか…………?」

「えっ、恵さん帰っちゃったの? 愛も一緒にってこと? 何それ、意味わかんないんだけど。他人わたしの子、勝手に連れて行っちゃうなんて誘拐じゃない」

「誘拐……誘拐、そうか……それだ!」

「何々、どうしたの」


 今日、恵のパート先や保育園から電話が来たことを話し、このまま帰って来なければ色々噂されることになるだろうと伝えた。
 夫と弟嫁が仲良くしてるなんて、傍目からすれば俺たちに非があるように見えてしまう。
 だが、恵は今、他人みおの娘を勝手に連れ出すという誘拐と取られてもおかしくない行動をしているのだ。


「妻の身勝手な行動に傷つけられた弟嫁に責任をもって寄り添う義兄、というわけだ」

「なるほど……これは浮気じゃなくって、恵さんのせいだから、仕方なく恭ちゃんが寄り添ってあげてるってことね。頭いい!」


 とてもいい考えだと褒められいい気になった俺は、後々、現実がそんなに甘くないことを思い知っていく。

 休日が明け、月曜日を迎えた。
 結局、恵は帰って来ず、一切の連絡すらない。
 とりあえず、誰かに何か言われるまでは黙っていよう。
 こちらから下手に騒ぐのは余計な憶測を呼びかねないと、美緒と話し合い、パート先と保育園には急遽実家に帰省することになったと連絡しておいた。

 火曜、水曜と何事もなく過ごしていたが、さすがにこのままとはいかなかった。

 木曜日、恐らくパート先か保育園の関係者が何かおかしいと思い始めたのだろう、朝早くから警察が訪ねてきた。
 誰かしら知り合いが様子を伺いに来るかとは思ったが、まさかいきなり警察が来るとは思わなかったため、背中に嫌な汗が伝う。


「何人もの方がね、同じ案件で連絡をくださってねぇ。お話、聞かせてもらえる?」


 穏やかな声と笑みで話しかけられているのに、なぜだか責め立てられているような気になるのは、相手が警察だからなのか、それとも、やましいことをしている自覚があるからなのか。

 初めに聞かれた内容は、恵は本当に実家に帰っているのかということだった。
 そう言っていたと(聞いたことにしてあるので)そう伝えると、どうやらパート仲間でもある古くからの知り合いが恵の実家に連絡し、帰っていないことを確かめたらしいと教えられた。
 ……実家じゃなかったのか。じゃあ、どこに行ったんだ? 素直にそう思った。

 何も言わずに出て行ったと本当のことを伝えたが、ではなぜいなくなったことを疑問に思わなかったのかとか、心配じゃなかったのかとか、すぐに実家に確認しなかったのかとか色々言われて、つい、アイツが不貞腐れて構ってほしさ故に出て行ったと思っていたことを話してしまった。


「……なるほど。では、そちらの……美緒さんと不倫関係にあって、それに耐えかねて出て行ったと。ほうほう、で? 美緒さんの娘さんはなぜ一緒に?」

「それはっ……きっと、私に対して腹いせに連れ出したに違いないわ。誘拐よ!」

「娘さんがいなくなったのに通報しなかったのはなぜです?」

「えっ……あ、それは……恵さんが一緒だから……大丈夫かと……」

「腹いせに連れ出した憎い相手の娘に何もしないと確証があったんですか? 誘拐だと思ってるのに?」

「いや、あの……それは……」


 話せば話すほどボロが出る。
 自分たちでさえ言ってることが滅茶苦茶だと思うのだから、相手はそれ以上だろう。

 とりあえず、隠そうとしていたものはほぼ全て明るみに出てしまったところで、出て行った理由が俺たちにあるかもしれないが、俺たちが何かしたわけではないと判断され、失踪事件として捜索願が出されることになった。

 ひとまずは解放されたことに安堵した。

 ――そんな安らぎもすぐに消えていくことになったが。

 世間は狭いという言葉を痛感した。
 朝の通勤時間帯に家にパトカーが止まっていれば目撃者も多くなるわけで、どこで誰が見ていて、どういう経由で広まっていったのか分からないが、出社した俺を待っていたのはチラチラ様子を覗う鬱陶しい視線と、ヒソヒソ聞こえる煩わしい話し声だった。


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