吉野の山の桜閑話 -冥府庁異聞-

秋初夏生

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第一話 吉野山への道中

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春の風が、吉野山の斜面をなでるように吹き抜けていく。

幾千もの桜の花が、その流れに揺れて、ひとひら、またひとひらと宙に舞い上がる。
淡い光をまとって空を昇り、静かに地に落ちる花たち。
まるで——なにかを告げるように。

 

だが、その美しさの裏で、人知れず始まっていた異変があった。

観光客が夜桜を見に訪れた翌朝、
「倒れていた」「そのまま目を覚まさなかった」
そんな噂が、村の内外でひそかに囁かれ始めていた。

 

姿を消したわけではない。ただ“眠ったまま”戻らない。

発見された者たちは、皆、まるで深い夢に囚われたように静かに横たわっていた。

検査では異常なし。
目を覚ますまでにかかるのは、きっかり七日間。
目覚めた者たちが口にするのは、決まってこうだった。



——「なにも、覚えていません」と。
 

そして、もうひとつ。
その者たちが見つかった場所には、ある共通点があった。

それは、観光地・千本桜の賑わいから外れた、誰も近づかない山の奥。
地図にも載っていないその一帯に、一本だけ、古い桜の木が立っている。

今も、そこに。

誰にも気づかれず。
誰かを待つように。
ずっと、静かに——。

物語は、再び“その桜”から、動き出す。





「……で、今回の調査地って、ここなんですか?」

助手席で地図を広げながら、神崎イサナが眉をひそめた。
視線の先には、観光ガイドの写真たち。柿の葉寿司、鹿せんべい、くず餅。

「……くず餅、美味しそうですね。あと奈良公園の鹿、ぜったいかわいい。俺、鹿せんべいあげたいです」

「これは観光じゃなくて、仕事だ」

運転席の黒野アイリが、ピシャリと切り返す。
目は前を見たまま、語調だけで神崎を制した。
 
神崎イサナ。
冥府庁——この世とあの世の狭間に存在する、霊的行政機関の調査課に所属する新人調査官。
かつて、生きたまま冥府に迷い込み、それがきっかけで異例の任命を受けた、少し変わった経歴の持ち主だ。
彼の隣に座るのは、冷静沈着な先輩調査官・黒野アイリ。
各地に現れる怪異や不可解な出来事の背後を探り、解決へ導くのが彼らの任務だ。

「いや、ちゃんと仕事ですよ? でもせっかく吉野まで来たんですし。楽しみも大事というか」

「もちろん、仕事もちゃんとやりますよ。でも、ついでにちょっとくらい癒されても……」

「今、“ついで”と言ったか?」

「いえ、言ってないです。空耳です」

神崎は慌てて訂正しつつ、ガイドのページをめくった。

「にしても、今回の現場……山奥すぎません? 千本桜エリアからも外れてるし、なんかこう……幽霊出そうというか」

「事実、不審な“眠り”の報告がある。冗談抜きで、怪異性を疑っている」

「え、じゃあ……ほんとに出る系?」

「その可能性が高い。お前も浮ついた観光モードをちゃんと切り替えておくように」

「うっ……はい」

肩をすくめつつ、神崎は地図をなぞる指を止めた。

「……でも、このあたり、なんか……来たことある気がします」

「ほう?」

アイリの目が、一瞬だけ神崎に向けられる。

「小さいころ、祖父に連れられて花見に来たんです。途中で迷子になって、泣いてて。誰かと話してた記憶があって……でも、その“誰か”の顔が思い出せなくて」

「どこぞの怪談みたいな話だな」

「でしょう? でも本当に、不思議だったんです。桜がすごく綺麗で、空気があたたかくて、安心して眠って……目が覚めたら祖父が見つけてくれてました」

「それは……ただの迷子の幼児エピソードでは?」

「いや、俺の中では結構印象深かったんですよ。“誰かに守られてた”感じがして」

神崎の声に、ふと空気が和らぐ。
アイリは少しだけ眉を寄せ、けれどそれ以上は何も言わなかった。

「……なんか、大事なことを忘れてる気がするんですよね。あのとき、誰と話してたのか——それが、ずっと気になってて」

「記憶の曖昧な部分ほど、妙に残るものだ」

「そうかもしれません。でも今回は、その答えに会える気がするんですよね」

「それはいいが、迷子にはなるな」

「いや、だから迷子になったんじゃないですって」

そんなやりとりを乗せて、車は山道をゆっくりと登っていった。
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