吉野の山の桜閑話 -冥府庁異聞-

秋初夏生

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第三話:記憶にある場所

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 吉野山の桜並木を抜けて、二人は裏手の細い山道を登っていた。

 観光客の姿は、もうどこにもない。
 人の気配が消えた瞬間、風の音さえ違って聞こえた。

「……このあたりか」
 アイリの言葉に、神崎は小さく頷く。
 けれど、その視線はずっと先を見ていた。

 ふと、空気が変わった。
 風がぴたりと止み、空が少しだけ白く霞む。

 そして——

「……あれだ」
 神崎の声は、どこか懐かしさを含んでいた。

 一本だけ、他の木から離れて立つ枝垂れ桜。
 幹は太く、枝は滝のように垂れ下がり、花は淡くやわらかな紅。

それはまるで、人目に触れないことを選び、
けれど、誰かの帰りをずっと待っているような佇まいだった。

神崎は、自然とその前に足を運ぶ。
まるで、何度もこの道を歩いたことがあるかのように。

「……誰もいませんね」

 ぽつりとこぼしながら、神崎は幹に手を添える。
 ざらり、と木肌の感触が指先に伝わる。

 その瞬間、背中にひやりとした気配が走った。

(……見られている?)

 けれど、それは不快ではなかった。
 懐かしさと、微かな切なさを孕んだ、あたたかな視線のようだった。

「何か感じたのか?」
「……ちょっと、妙な感覚がありました」

 神崎は枝を見上げる。
 風はないのに、花びらが一枚、ふわりと落ちてくる。
 その動きに目を奪われながら、彼は静かに思った。

(ここに、来たことがある……)
 
 確信ではない。けれど、心がそれを知っている。

「……まあ、今のところ異常はなさそうですね」

 神崎はふっと笑って肩をすくめる。

「せっかくですし、お昼にしません?」
「……切り替えが早いな」

 アイリの声には、微かな呆れと、それ以上にどかこか安心が滲んでいた。

 ◇

 村の小さな食堂で、二人は昼食をとることにした。

 頼んだのは、柿の葉寿司と茶粥の定食。
 木の葉の香りをまとった酢飯に、やわらかく締めた 鯖が添えられ、茶粥の素朴な甘みが、ほっとする温かさを持っていた。

「……うん、美味しいですね。柿の葉の香りがちょうどよくて」

 神崎は、どこか落ち着かないように箸を運ぶ。
 言葉とは裏腹に、視線は窓の外に流れていた。

「お前が“静かに”食べるの、逆に落ち着かないな」
 茶粥をすくいながら、アイリが呟く。

「え、そんなに普段しゃべってます?」
「しゃべりっぱなしだ。……今日は特に静かすぎる」
「……すみません、ちょっと考えごとを」

神崎は茶碗を持ったまま、視線を落とした。

「……あの桜の前に立ったとき、呼ばれたような気がしたんです。“おかえり”って……そんな声が、耳の奥に残ってる気がして」

アイリはその言葉に眉をひそめる。

「幻聴か、記憶の混濁か。あの木の影響を受けた可能性もある」
「……でも、嫌じゃなかったんですよ。むしろ、懐かしくて、安心するような……そんな感覚でした」
「……」

しばらく沈黙が流れた。
箸の音と、茶粥の香りだけが、その間を埋めていた。

「……今のお前は、どこか不安定だな」

アイリが静かに口を開く。

「え?」
「まるで、あの桜に“引き寄せられている”ように見える。今にも、ふっとどこかへ行きそうな……」

神崎は苦笑し、箸を置いた。

「さすがに、それはないですよ」

「……そう思っているうちは、まだ戻って来られる」
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
あたたかい茶粥が喉を通っていくのに、胸の奥では、別の何かがざわついていた。

——それはまるで、
遠い昔に知っていた味を、もう一度口にしたような感覚だった。
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