仁義と血縁、その先に小雨〜黒龍の息子と白龍の娘、因縁を乗り越え平和を掴むまで〜

桐生刻

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第2話 希望と傷痕

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 朝の庭で、小雨はゆっくりと剣を振った。木剣の先端が空気を裂き、朝露を弾く。白い稽古着の裾が、風に翻る。額に汗が浮かび、頬を伝って滴る。
「はっ!」
 気合と共に、一閃。木剣が描く弧は、まるで鳥の翼のようだった。足元の砂利が、軽い音を立てる。小雨は息を整えながら、同じ型を三度繰り返した。
 裾が泥に触れても構わない。膝に軽い擦り傷があるが、それも修練の証だ。一週間前のことは、もう遠い夢のようだった。体は回復し、心も固まった。
「今日は、風が冷たいな」
 呟きながら、小雨は額の汗を手の甲で拭った。指先に、まだ薄い傷跡が残る。それも、すぐに消えるだろう。体は若いし、魔術の加護もある。
 砂利の上に座り込み、小雨は空を見上げた。青空に浮かぶ雲が、ゆっくりと流れる。母がいた頃は、ここで一緒に朝餉を食べた。母の手作りの味噌汁の匂いが、今でも鼻の奥に残る。
 ——母さんは、覚悟していたんだろうか。
 小雨は膝を抱えた。母が殺された日のことを、はっきりと覚えている。雨の中、母は小雨と大樹を連れて走った。手のひらで、母の鼓動が速くなっていくのが分かった。
 あの時、母は何を思っていたのだろう。自分の命より、子供の安全を優先した。そして、小雨も同じ選択をした。家族の命を守るためなら、自分の体など安いものだと。
「...私も、母さんみたいに強くならなきゃ」
 小雨は立ち上がり、再び剣を構えた。今度は、風の魔術を織り込む。木剣の周りに、小さな渦が生まれる。落ち葉が舞い上がり、再び静かに降る。
 修練を続けるうちに、心も澄んでいく。
 一週間前の痛みは、もう遠い記憶だ。16歳の体は、すぐに傷を癒す。そして、心もまた、強くなる。
「姉ちゃん、もう大丈夫?」
 引き戸の陰から、14歳の弟ーー大樹が顔を出した。パジャマのまま、髪を寝癖で立てている。手には、まだ温かそうな牛乳の入ったコップを持っている。
 小雨は剣を下ろし、笑顔を向けた。
「もう大丈夫だよ。ほら、ぴんぴんしてるでしょ?」
 軽くジャンプしてみせる。大樹は、少し安心したような顔で近づいてきた。コップを置いて、小雨の周りを歩き回る。
「でも、まだ傷跡が...」
 大樹が、小雨の手首をそっと掴んだ。薄い傷跡がある。小雨は、弟の頭を撫でた。
「これくらいで、すぐに消えるよ。大樹は心配しすぎ」
 弟の髪は、母に似て柔らかい。小雨は、幼い頃を思い出す。母が不在になってから、大樹は姉にべったりだった。夜中に泣いても、小雨が抱きしめてやれば、すぐに寝ついた。
「あの時、姉ちゃんを見たら...」
 大樹が、小声で呟いた。一週間前の朝のことを、弟も覚えているのだろう。木箱に入れられた小雨を見て、大樹は真っ先にナイフを握りしめた。
「黒龍組の野郎を...」
 だが、小雨の弱々しい声で止められた。姉の願いなら、なんでも聞くと、大樹はナイフを鞘に戻した。
「もう、それは過去の話だよ」
 小雨は、弟の肩を叩いた。大樹は、まだ14歳だ。肩は細く、頬も幼い。この世界に順応するには、幼すぎる年齢だった。
「でも、姉ちゃんを守れない自分が情けない...」
 大樹が、俯いた。小雨は、弟の手を握った。
「いいよ。姉ちゃんがやりたいことやったから。大樹は何も悪くない」
 手は、まだ小さかった。でも、この手でいつか、家族を守れるようになるだろう。
「でも、あの野郎が...」
 大樹の拳が震える。小雨は、弟の額に軽く指を当てた。
「そんな考えはダメよ。姉ちゃんは抗争を止めるため、努力したの。止められるかは分からないけど、少なくとも大樹はやめてほしい。姉さんは家族のみんな、死なずに過ごすのを求めてるの」
 小雨は朝の庭で、膝を抱えて座っていた。足元に落ちた木剣が、朝露で濡れて光っている。母のことを思うと、胸の奥がざわざわした。
 でも、それは「仇を取りたい」という気持ちではなかった。
「母さんは、運が悪かっただけなんだ」
 小雨は呟いた。母が殺された日、雨が降っていた。母はただ、通りかかっただけだった。
 刃物を持った男たちは、白龍組の組長の家族だと知っていて襲った。でも、それは「悪意」というより「仕事」だったような気がする。
「この世界は、最初からこんな風だった」
 小雨は立ち上がると、木剣を拾い上げた。手にした感触は、木の温もりだけだった。どんなに剣を磨いても、血の匂いは消えない。でも、それでいい。この世界の不条理に、抗う覚悟はできている。
「私がどうなっても、大樹やパパ、組のみんなが生きてくれれば」
 小雨は木剣を振った。風が、頬を撫でる。
 母の笑顔が浮かんだ。母はいつも言っていた。「小雨は強い子だから、みんなを守ってね」その言葉を、今は胸の奥にしまっている。
 大樹が縁側から顔を出した。まだ寝癖のついた髪を、手で押さえている。手には、湯飲み茶碗を二つ持っている。
 小雨は笑顔で答えた。大樹は、姉の前に正座すると、湯飲みを置いた。湯気が立ち上る。
「母さんの味噌汁、作ってみた」
 大樹は照れくさそうに言った。小雨は、茶碗を手に取った。一口飲むと、確かに母の味がする。でも、少し塩味が足りない。
「うん、おいしい」
 小雨は、弟の頭を撫でた。大樹は嬉しそうに笑った。でも、その笑顔の奥に、何かを隠しているのが分かった。
「大樹は、まだ怒ってる?」
 小雨が聞くと、大樹は俯いた。湯飲み茶碗を、両手で包むように持っている。
「姉ちゃんが、あんな目に遭ったのに...」
 大樹の声が震えた。小雨は、弟の手を握った。
「私は…自分で選んだことなの。だから、大樹は怒らないで」
 大樹は、首を横に振った。
「でも、あんなこと...」
「大樹には、まだ分からないでしょう。でも、これで戦争が止まるかもしれない。みんなが死なずにすむかもしれない」
 小雨は、弟の髪を優しく梳いた。大樹は、姉の膝に額をつけた。
「でも、姉ちゃんが傷つくのは嫌だ」
「大丈夫。私は強いから」
 小雨は、弟を抱きしめた。温もりが伝わってくる。この温もりを守るために、自分の体など安いものだと思える。

 ——一方、その頃。
 黒龍組の事務所では、誠が煙草を吹かしていた。灰皿には、吸殼が山のようになっている。窓から差し込む朝日が、煙を白く浮かび上がらせている。
「組長、今日も静かですね」
 側近の組員が、お茶を淹れながら言った。誠は、無言で頷いた。
 一週間前から、白龍組は奇妙に静かだった。報復も、抗議もない。
「嵐の前の静けさ、とかね」
 誠は呟いた。煙草の先が、赤く輝いている。あの小娘——小雨のことを思うと、胸の奥がざわざわする。「抗争を止めたい」という言葉が、耳に残っている。
「あの小娘が本当に止められるのか?」
 誠は、煙草を揉み消した。自分は相手の親を殺し、娘を犯した。このままでは、細切れにされてもおかしくない。
「父さん、何かあったんですか?」
 声がして、誠は振り返った。息子の勇が、ドアの前に立っていた。16歳の少年は、誠の若い頃を思い出させる。
「ああ、勇か。どうした?」
 勇は、少し躊躇いながら近づいてきた。誠は、息子の顔を見ると、昔のことを思い出した。
 ——20年前。
 誠は、まだ一組員だった。ある女に惚れていた。でも、ただの組員の自分には、何もなかった。告白する勇気も、結婚する資格も。
 その時、刃がいた。同じ組の兄弟分だった刃が、背中を押してくれた。
「お前の気持ち、ちゃんと伝えろ。俺がなんとかする」
 刃の言葉で、誠は勇気を出した。その女と結婚し、勇が生まれた。
 同じ年に、刃にも娘が生まれた——小雨だ。
「お前たちは、結婚するんだ」
 二人は、笑いながら約束した。でも、そんな平和な時間は長くは続かなかった。
 組が分断され、それぞれの派閥に別れた。それでも、信頼はあった。
 息子の嫁になるはずだった小雨の純潔まで、自分の手で散らしてしまった。
「父さん?」
 勇の声で、誠は我に返った。息子は、心配そうな顔で見つめている。
「なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだ」
「でも、顔色が悪いよ」
 誠は、苦笑いした。勇は、自分とは違って、きちんと育った。任侠の義理を、しっかりと体に染み込ませている。
「勇、なんかごめんな」
 誠は、思わず呟いた。勇は、首を傾げた。
「何のこと?」
「いや...」
 誠は言葉を濁した。
 勇にとって、小雨は許嫁のはずだった。その許嫁候補を、自分が犯してしまったことを、口裂けても言えないのだ。
「そうだ。勇は、おなごに興味あるか?」
 誠は話題を変えた。勇の顔が、赤くなった。
「う、うん。好きな子がいて...」
「ほう。で、許嫁がいるとしたら、その子と、どっちにする?」
 誠は、自分でも分からない理由で聞いてみた。勇は、迷わずに答えた。
「もし許嫁と結婚して、父さんに有利であれば、許嫁を選びます」
 その言葉に、誠は胸が締めつけられた。勇は、本気でそう思っているのだ。
「そうか...さすが俺の息子だ。でも大丈夫だ。そんなことはない!その好きな子とヤればいい」
「父さん、下品な言い方はやめてください」
 勇は、眉をひそめた。誠は、苦笑いして頷いた。
「ああ、ごめん」
 でも、誠は知らなかった。勇が好きな子はまさにあの「許嫁」であることを。そして、それが運命のいたずらであることを。

 勇は一週間前の出会いをまだ鮮明に覚えている。
 重く垂れ込めた鉛色の空気が、路地裏の湿ったアスファルトにへばりついているようだった。錆びついた鉄の臭気と、下水溝から立ち昇る腐敗臭が混じり合い、そこかしこで怒号と鈍い打撃音に掻き消されていく。
 三流組織同士の抗争など、この街では日常茶飯事の出来事に過ぎない。名乗るほどの価値もない男たちが、薄汚れた欲望を剥き出しにして、安い鉄パイプや粗悪な魔導具を振り回し、互いの肉を削り合っているだけの醜悪な光景だ。
「……またですか。懲りない連中だ」
 路地の入口、影の落ちる場所に佇む黒塗りの高級車の傍らで、月島蓮司が短く息を吐いた。白髪混じりの髪を完璧に撫で付けた初老の執事は、懐から取り出したハンカチで口元を覆う仕草を見せる。その視線の先では、十数人の男たちが獣のように絡み合っていた。
「放っておけ、蓮司。親父の代理で挨拶回りに行く途中だ、余計な油を売る時間はねえよ」
 後部座席から降り立った少年──黒龍勇は、不快げに眉を寄せながらネクタイの結び目を緩めた。
 学生服の上に羽織った黒いジャケットが、彼の鍛え抜かれた体躯を包み込んでいる。十六歳という年齢には不釣り合いな鋭い眼光が、荒れ狂う暴徒たちを冷ややかに見据えた。力こそが正義であり、弱者は踏みにじられるのが当然とされるこの世界。父・誠の背中は常にその冷酷な真理を体現していたが、勇の胸中には、言葉にできぬ焦燥と違和感が澱のように溜まっていた。
 その時だった。泥沼のような喧騒と暴力の只中へ、一陣の風が吹き抜けたのは。
 これまでの淀んだ空気を切り裂くような、凛とした清涼な風。湿ったアスファルトを踏みしめる足音が、狂乱の中でも奇妙なほど澄んで響く。路地の奥から現れた人影に、殴り合っていた男たちの動きが一人、また一人と凍りついたように止まった。
「あぁン? 誰だ、そいつは!」
 血走った目を剥いた男の一人が、口端から飛沫を飛ばして叫ぶ。だが、男たちが嘲笑を浮かべて襲いかかるよりも早く、その風は確固たる意志を持って形を変えた。
 紺色の着物の袖が、優雅に翻る。そこにいたのは、戦場にはあまりに似つかわしくない、一人の少女だった。
 夜の闇を溶かしたような黒髪を結い上げ、白磁のような肌を持つ彼女の指先には、霊力が込められた数枚の護符が挟まれている。
「無益な争いは、そこまでにしてください」
 少女の声は低く、穏やかでありながら、騒音を貫いて鼓膜に届く不可思議な力強さを帯びていた。男たちが罵声を浴びせかけようと踏み出した刹那、白い指先が鋭く空を切り裂く。
「──縛!」
 唇から紡がれた言葉は、号令というよりは祈りのようだった。放たれた護符が物理法則を無視した軌道で宙を走り、先頭の男の足首に蛇のように絡みつく。
 男は何かに足を掬われたかのように前につんのめり、受け身も取れずに顔面を地面に打ち付けた。続く二人目、三人目もまた、見えない風の鎖に手足を封じられ、次々と冷たい石畳の上へと転がされていく。
 それは、勇が知る暴力的な制圧とは対極にあるものだった。骨を砕く音も、血が飛散する光景もない。流れる水が岩を避けて海へ注ぐように、あるいは風が落ち葉を舞い上げるように、彼女は最低限の動きで、確実に相手の戦意と身体の自由だけを奪っていく。
 泥に汚れることさえ厭わず、ただ淡々と、しかし毅然としてその場を鎮圧していく姿は、暴力に慣れきって麻痺していた勇の網膜に強烈に焼き付いた。
「……見事ですね。無駄な殺傷を避けている」
 隣に立つ蓮司が、感嘆を押し殺した低い声で漏らした。
 勇は答えることさえ忘れ、ただ息を呑んで立ち尽くしていた。彼女の戦い方には、相手を傷つけまいとする慈悲があった。急所を外し、関節を破壊することなく、ただ無力化のみを徹底する技術。
 そして何より、その細い背中に漂う凛とした気高さ。裏社会の掃き溜めのようなこの場所で、彼女だけが泥中の蓮のように、圧倒的な潔癖さを保って咲き誇っている。
(裏社会にも……こんな奴がいるのか)
 胸の奥で、何かが熱く脈打ち始めるのを勇は感じた。それは単なる異性への関心を超えた、自身が求めてやまなかった「仁義」という理想を具現化した存在に対する、魂からの渇望にも似た憧憬だった。
「坊ちゃん、あまり近づかない方が賢明です。あれは白龍組の──」
 蓮司が鋭く諌めようとした、その瞬間だ。
 地面に縫い止められていた男の一人が、最後のあがきとばかりに懐から握り拳大の石を取り出した。
 粗悪な魔力が込められた、違法な増幅石だ。男の眼球は恐怖と憎悪で白目を剥き、正気を失っている。
「ふざけやがって……死ねぇ! みんな纏めて道連れだ!」
 男が魔石を握り潰すと、ひび割れた石の内部から制御を失った魔力が赤黒い火花となって噴き出した。安物の増幅器が臨界点を超え、圧縮されたエネルギーが周囲を無差別に薙ぎ払おうと不気味に膨れ上がる。
 少女の顔色がさっと変わった。彼女は踵を返して逃げるどころか、あろうことか暴走の中心へと踏み込んだのだ。
「いけません、まだそこに人が!」
 彼女の叫び声が路地に響く。だが、崩壊しようとする魔力は今にも破裂寸前だ。
 彼女一人で障壁を展開したところで、周囲に倒れている雑魚たちまでは守りきれないだろう。自分だけ助かる術などいくらでもあるはずなのに、彼女は他人のために命を懸けようとしている。
 その愚かしくも高潔な選択を見た瞬間、勇の身体は思考よりも先に動いていた。理屈も利害も、父の教えも、すべてが彼方へと吹き飛んだ。
「蓮司! 手を貸せとは言わねえ。だが止めるなよ!」
 叫ぶが早いか、勇はアスファルトを蹴り砕くほどの勢いで駆け出した。
 背後で「坊ちゃん!」という蓮司の制止の声が遠ざかる。勇は突風のように路地を駆け抜け、少女の隣へと滑り込むと、全身の気を両掌に集中させて前に突き出した。
「あんた一人じゃ無理だ! 俺が抑える、中和してくれ!」
 突然の乱入者に、少女は一瞬だけ大きく目を見開いた。黒曜石のような瞳が、驚愕に揺れる。だが、迷っている暇など一秒もなかった。彼女は即座に勇の意図を理解し、力強く頷いた。
「……お願いします!」
 勇が前面に立ち、両手を突き出して見えない壁を作る。暴走する赤黒い奔流を、彼自身の魔力で真正面から受け止める。肌が焼けつくような熱波が襲いかかり、鼓膜を圧迫する轟音が全身の骨を軋ませた。
 まるでハンマーで殴られ続けるような衝撃に、勇の足がアスファルトを削って後退する。だが、彼は歯を食いしばり、一歩も引かなかった。未熟ながらも強靭な勇の魔力が、辛うじて防波堤となって破裂を食い止めている。
 その僅かな拮抗の間に、少女が動いた。
 彼女は躊躇いなく自らの指先を噛み切り、滲み出た鮮血で空中に複雑な紋様を描く。
「鎮まれ、荒ぶる気よ──浄化!」
 描かれた血の文字が青白く発光し、勇が抑え込んでいる暴走魔力の核へと矢のように突き刺さる。勇が支え、少女が断つ。二つの異なる力が噛み合った瞬間、周囲を揺るがしていた赤黒い光は、ガラスが砕け散るような音を立てて霧散し、後には嘘のような静寂だけが残された。
 二人同時に、肩で大きく息をする。
「……はぁ、はぁ……なんとかなったか」
 勇が額の汗を乱暴に拭いながら振り返ると、少女はすでに、魔力暴走を起こした男のもとへ駆け寄っていた。
 男は気絶していたが、その腕は高熱による火傷で赤く爛れていた。少女は懐から清潔な晒と常備薬を取り出し、驚くほど手際よく男の傷の手当てを始めた。直前まで自分を殺そうとした敵の汚れた腕を、嫌悪感ひとつ見せず、まるで怪我をした小鳥でも扱うかのように慈しんで包み込んでいく。
「酷い火傷……でも、幸い命に別状はありません」
 その横顔を見て、勇の胸は再び早鐘を打った。強さの中に宿る、揺るぎない優しさ。泥水を啜るようなこの世界で、彼女の存在だけが奇跡のように輝いて見えた。
 ひと通りの処置を終え、少女が立ち上がる。彼女はようやく、助太刀に入った少年に向き直った。乱れた着物の襟を直し、深々と頭を下げる。
「あの……先ほどは、本当にありがとうございました。貴方がいなければ、被害はもっと広がっていたでしょう」
「いや、礼を言われるようなことじゃねえ。俺はただ……あんたが一人で飛び込んでいくのを見て、放っておけなかっただけだ」
 勇は慌てて手を振り、居住まいを正すと、まっすぐに少女の瞳を見つめた。
 ここで自分の苗字を──『黒龍』の名を明かすべきか、一瞬の迷いが生じる。白龍組の彼女に対して、それは壁を作る言葉になるかもしれない。だから彼は、ただの個人として名乗ることを選んだ。
「俺は、勇だ。ただの勇。……あんたの名前は?」
「小雨です。白龍小雨と申します」
 彼女──小雨はそう言って、花が綻ぶような微かな笑みを浮かべた。
 その笑顔を見た瞬間、勇の中で世界の色が変わったような気がした。路地裏の悪臭も、遠くの車の音も消え失せ、ただ彼女の存在だけが鮮明に浮かび上がる。
 空を見上げると、いつの間にか厚い雲の切れ間から、わずかに薄日が差し始めていた。光の筋が路地裏に降り注ぎ、埃っぽい空気を黄金色に染めていく。それはまるで、彼女の行いが天に届いたかのようだった。
「それじゃあ、俺は行くよ。小雨さん、気をつけてな。こんな物騒な連中は放っておいて、早く帰った方がいい」
「はい、貴方もどうぞご無事で。勇さん」
 別れの言葉は短かった。これ以上長く留まれば、互いの立場の違いが露呈するかもしれないという予感を、二人とも無意識に感じ取っていたのかもしれない。背を向けて歩き出そうとする小雨の背中を、勇は呼び止めた。
「あ、あのさ!」
 小雨が足を止め、振り返る。風に揺れる黒髪が、逆光の中で輝いて見えた。
「また……会えるか?」
 口をついて出た言葉は、我ながら情けないほど不器用だった。
 蓮司が聞けば呆れて溜息をつくかもしれない。だが、小雨は驚いたように少し目を丸くした後、柔らかく微笑んで頷いた。
「ええ、きっと。ご縁があれば、また必ず」
 再会の約束とも、単なる社交辞令とも取れる言葉。だが勇には、それが確かな誓いのように聞こえた。
 小雨の姿が路地の角を曲がって見えなくなるまで、勇はその場から動けなかった。まるでこの街の汚れを洗濯するように、彼女という名の雨が降ってきて、自分の心まで洗い流していったような感覚。
「坊ちゃん、そろそろ時間が」
 いつの間にか背後に戻っていた蓮司が、静かに声をかけた。勇は大きく一つ深呼吸をして、自分の掌を見つめた。まだ、暴走した魔力を受け止めた時の熱さが微かに残っている。そして、小雨と共闘したあの瞬間の、魂が震えるような高揚感も。
「ああ、行くぞ蓮司。……世界は、まだ絶望だけじゃねえのかもしれねえな」
 勇の独り言に、蓮司は何も言わず、ただ恭しく車のドアを開けた。
 勇は一度だけ振り返り、誰もいなくなった路地裏を眺めてから車に乗り込んだ。曇天の空はまだ重たかったが、勇の心の中には、決して消えることのない小さな灯火が灯っていた。それは、初対面の少女に奪われた心であり、そしてこれから始まる過酷な運命への序章でもあった。


 秋の気配を色濃く孕んだ風が、河川敷の枯れススキを撫でていく乾いた音が、午後の静寂を微かに震わせていた。
 川面は傾きかけた陽光を浴びて無数の鱗のように煌めき、その畔で一人の少女が舞うように腕を振るっている。
 白龍小雨──彼女の指先から放たれた数枚の符が、目に見えない糸に引かれるように空中で円を描き、風を孕んで小気味よい音を立てていた。修練着の裾が翻るたびに、彼女の周囲だけ空気が澄み渡っていくような錯覚を覚える。
 堤防の上の道を、学生鞄を肩にかけた黒龍勇が通りかかったのは、まさにその時だった。
 学校の帰り道、退屈な授業の余韻を引きずりながら何気なく視線を向けた先に、記憶に焼き付いて離れなかったその姿を見つけた瞬間、勇の心臓が早鐘を打った。
 一週間前の路地裏での出会いが、鮮烈な色彩を伴って脳裏に蘇る。泥にまみれることを厭わず、他者のために傷つくことを恐れなかった彼女の凛とした瞳が、今も変わらぬ輝きを放っていることに、勇は胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
「……小雨さん?」
 勇は堤防の斜面を駆け下りながら、声をかけた。砂利を踏む音が響き、小雨が驚いたように振り返る。ふわりと舞った黒髪の隙間から覗いた瞳が、勇の姿を認めてわずかに見開かれた。
「あ……勇さん」
 彼女の唇から自分の名前が紡がれただけで、勇の全身に温かな充足感が広がった。
 小雨は空中に浮かんでいた符を一瞬の手技で懐に収めると、丁寧にお辞儀をした。その所作の一つ一つが洗練されており、暴力と欲望が渦巻く裏社会の人間とは到底思えないほどの品格を漂わせている。
「奇遇ですね。こんなところでお会いできるなんて」
 勇は努めて自然な笑顔を作り、少し息を弾ませながら彼女のそばに立った。近くで見ると、彼女の肌は透き通るように白く、運動直後の紅潮が頬に薄く差しているのが何とも言えず愛らしい。
「ええ、本当に。……先日はありがとうございました。あの後、怪我はありませんでしたか?」
 小雨の声には、心からの安堵と気遣いが滲んでいた。彼女自身、一週間前の出来事で心身ともに疲弊していたはずなのに、真っ先に相手の身を案じるその優しさが、勇には眩しく映った。
 前回の共闘以来、彼女の無事を案じ続けていた勇にとって、こうして再び言葉をかわせる現実は、まるで神が与えてくれた小さな奇跡のように思えた。
「俺のほうこそ、助けられました。あんな無茶をする人は初めて見ましたよ」
 勇は照れ隠しに鼻の頭を擦りながら、川面へと視線を移した。
 川風が二人の間を吹き抜け、心地よい沈黙が流れる。ただ隣に立っているだけで、心臓の音が耳元でうるさいほどに鳴り響いていた。
「ここで、修練を?」
「はい。少し体が鈍ってしまって……風の音が聞きたくて」
 小雨は少し恥ずかしそうに目を伏せ、着物の袖を直した。その何気ない仕草に、勇の視線が吸い寄せられる。
 しかし、次の瞬間──勇の表情が凍りついた。
 小雨が袖を整えようと腕を上げた際、修練着の袖口が重力に従って滑り落ち、白磁のような手首から前腕にかけてが露わになったのだ。そこにあったのは、美しい肌にはあまりに不釣り合いな、生々しい変色だった。
 赤紫から黄色へと移り変わりつつあるその痕跡は、斑点のように散らばり、さらに首元の襟の隙間からも、どす黒い鬱血の跡が覗いているのが見えた。
「その痣……どうしたんですか?」
 勇の声から、先ほどまでの浮ついた色が消え失せた。彼の双眸は鋭く細められ、小雨の腕に残された痕跡を凝視する。それは単なる転倒や打撲によるものではない。指の形に沿って圧迫されたような跡、あるいは何か硬いもので長時間縛り付けられたような線──勇は組の跡取りとして幼い頃から荒事を見て育ってきた。だからこそ、その痣が持つ意味を本能的に理解してしまった。
 それは、「暴力」による支配の痕跡だ。
 小雨の肩がびくりと跳ねた。彼女は慌てて袖を下ろし、反対の手でその腕を庇うように抱きしめた。先ほどまでの柔らかな空気が一変し、張り詰めた緊張が二人の間に立ち込める。
「あ、これ……その、大したことありません」
 小雨は視線を泳がせ、無理に作ったような笑顔を勇に向けた。だが、その唇は微かに震え、顔色はさっと蒼白になっている。
「修練で、少し失敗してしまって……受け身を取り損ねただけです。魔術ですぐに治りますから」
 その言葉は、あまりにも脆い嘘だった。
 魔術による回復力で傷口そのものは塞がっていたとしても、皮下組織に残った内出血までは消しきれていない。何より、受け身の失敗で首筋に指の跡が残るわけがない。手首に縄の痕のような線が残るはずがない。
 勇の胸の内で、再会の喜びは急速に冷え込み、代わりにどす黒い疑念と怒りが渦を巻き始めた。
「受け身の失敗で、そんな風にはならない」
 勇は低く、しかし強い口調で言った。
 一歩、彼女に詰め寄る。小雨は怯えたように半歩後ずさった。その反応が、勇の推測を確信へと変えていく。
 彼女は、誰かにやられたのだ。それも、一方的な暴力によって、抵抗も許されないような状況で。
「誰にやられたんですか」
 問いかける声が、怒りで震えそうになるのを必死に抑え込む。もし相手がその辺のごろつきなら、今すぐにでも叩きのめしに行くだろう。
 だが、小雨の瞳に宿る色は、単なる恐怖だけではなかった。そこには、深い諦念と、何かを必死に隠そうとする頑なな拒絶があった。
「違います……本当に、私の不注意なんです」
 小雨は首を横に振り、懇願するように勇を見上げた。その瞳が潤んでいるのを見て、勇は言葉を飲み込んだ。
 これ以上問い詰めれば、彼女をさらに追い詰めることになる。彼女が必死に隠そうとしているもの、それは単なる怪我の理由ではなく、もっと深く、暗い事情なのだと察したからだ。
「……そうですか」
 勇は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで己の衝動を鎮めた。
「なら、いいんです。でも……」
 勇は真っ直ぐに小雨を見つめた。川風が強く吹き付け、勇の学ランと小雨の修練着を激しくはためかせた。
「何かあったら、俺に言ってください。俺にできることなら、何でもしますから」
 それは、ただの好意から出た言葉ではなかった。
 傷だらけの彼女を目の当たりにしたことで、勇の中で曖昧だった感情が、明確な「守りたい」という意志へと変わった瞬間だった。
 小雨は驚いたように目を丸くし、やがて静かに目を伏せて小さく頷いた。
「ありがとう……ございます」
 その声は風に消え入りそうなほど儚かった。勇はそれ以上何も言わず、ただ彼女の無事を祈るように一瞥すると、逃げるようにその場を後にした。背後で川の流れる音が、変わらずに響いている。
 堤防へ戻る坂道を登りながら、勇の脳裏には小雨の首筋に残っていたあの指の跡が焼き付いて離れなかった。
 あれは、男の手によるものだ。それも、力の強い男の。小雨が白龍組の娘であることを考えれば、敵対組織の仕業か、あるいは内部の粛清か。
 どちらにせよ、彼女は今、地獄の淵に立たされている。
「クソッ……!」
 勇はガードレールを拳で殴りつけた。鈍い金属音が夕暮れの空に響く。
 一目惚れした少女との再会は、甘酸っぱい青春の1ページなどではなく、血生臭い闇への入り口だったのだ。
 近くの街路樹の陰には、黒塗りの車の傍らで待機している蓮司の姿があった。
 勇は乱れた呼吸を整えながら、車の方へと歩き出した。その背中には、少年特有の無邪気さはもう消え失せ、何か重い決意を背負った男の陰影が落ちていた。
(絶対に突き止めてやる。お前をそんな目にあわせた奴を、俺は絶対に許さない)
 沈みゆく夕陽が、勇の影を長く、鋭く引き伸ばしていた。
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