仁義と血縁、その先に小雨〜黒龍の息子と白龍の娘、因縁を乗り越え平和を掴むまで〜

桐生刻

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本編

第3話 月明かりの密会と、不穏な足音

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 白竜の屋敷を包み込む夜気は、深まる秋の鋭利な冷たさを帯びており、庭の松の木々が落とす影は墨を流したように濃く、静寂の中に沈殿していた。
 小雨は自室の窓辺に立ち、磨き上げられたガラス越しに、中天に懸かる蒼白い月を見上げていたが、その瞳に映るのは天体の輝きではなく、一週間前の河川敷での記憶だった。
(あの人……勇さん。私の傷に、気づいていたわ)
 カーテンを握りしめる彼女の白い指先が微かに震え、胸の奥で温かさと痛みという相反する感情が複雑に絡み合い、締め付けられるような感覚に襲われる。
 あの時、彼が向けてくれた眼差しは、裏社会の人間が持つ値踏みするような視線とは異なり、純粋な懸念と優しさに満ちていたが、それゆえに小雨の心には鋭い棘となって刺さっていた。
 自分の弱みを見せてしまったことへの恥辱、そして何より、敵対する組織の跡取りである彼に「心配される」という事実が、彼女の張り詰めた警戒心を内側から溶かそうとしていたからだ。
(私は強くならなきゃいけない。母様が命を賭して守ってくれたこの命、無駄にするわけにはいかないもの)
 修練で負った打撲や擦過傷は、彼女が持つ治癒の魔術によってあらかた塞がり、皮膚の表面には薄い痕跡しか残っていないものの、心に刻まれた無力感という傷口は未だに膿んだように疼き続けている。
 勇の真っ直ぐな瞳の中に、この薄暗い世界では稀有な「希望」の光を見た気がしたあの一瞬、小雨は確かに救われたような心地がしたが、それと同時に底知れぬ恐怖が足元から這い上がってくるのを感じていた。
 自分に関わる人間は皆、母のように不幸な結末を迎えるのではないかという、呪いにも似た予感が彼女の思考を黒く塗り潰していく。
「姉ちゃん、どうかした? 部屋の電気も点けないで」
 背後の襖が開く音と共に、弟の大樹が顔を覗かせた。廊下の明かりを背負ったその少年の顔立ちは、年相応の幼さを残しているが、九年前のあの日、母親を失って以来、小雨はこの弟を守り抜くことだけを生きる指針としてきた。
「なんでもないわ、大樹。少し月が綺麗だったから、見惚れていただけよ」
 小雨は務めて明るい声を作り、唇の端を持ち上げてみせたが、その動きは長年の修練で身につけた仮面のようなもので、弟を安心させるための演技に過ぎなかった。
 心の中では、勇ともう一度会いたいという焦がれるような渇望と、彼をこれ以上危険な領域に踏み込ませてはならないという理性が、激しい渦となってせめぎ合っている。
「……そっか。姉ちゃんが元気ならいいんだけど」
 大樹は少し怪訝そうに眉を寄せたが、それ以上深く追求することはせず、姉のプライバシーを尊重するように静かに襖を閉めた。
 閉ざされた空間に再び静寂が戻ると、小雨は額を冷たいガラスに押し当て、誰にも聞こえない声で溜息を吐き出した。

 一方、街の反対側に位置する黒龍組の本宅でも、同じ月を見上げる少年の姿があった。
 勇は自室の革張りのソファに深く沈み込み、天井の染みを睨みつけるように凝視していたが、その脳裏に焼き付いているのは、小雨の袖口から覗いた赤黒い痣と、彼女が一瞬だけ見せた仔鹿のような怯えだった。
(あれは、絶対に修練の失敗なんかじゃない。あんな位置に、あんな形の痣ができるはずがない……誰かにやられたのか?)
 疑念は毒のように広がり、勇の思考を蝕んでいく。あの痣は、明らかに人為的な暴力によるものだ。それも、抵抗できない状態でつけられた屈辱的な刻印のように思えた。
 彼女は気丈に振る舞っていたが、その笑顔の裏側に隠された悲鳴が、勇の耳元で絶えず反響しているようで、居ても立ってもいられない焦燥感が全身を駆け巡る。
「坊っちゃん、どうかされましたか? 先ほどから難しい顔をされていますが」
 音もなく現れた執事の月島蓮司が、銀盆に乗せたハーブティーをサイドテーブルに置きながら、静かな声で問いかけた。その表情は能面のように感情を読み取らせないが、主を見る目には微かな憂慮の色が滲んでいる。
「……蓮司。俺は、あの時、何もできなかった」
 勇は拳を膝の上で強く握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みで己の無力さを噛み締めた。
 彼は小雨が一ヶ月前に受けた凄惨な受難の真実を知る由もなかったが、目の前で傷ついている彼女に対して、ただ無難な言葉をかけることしかできなかった自分自身への怒りが、腹の底で煮えくり返っていた。
「力がなければ何も守れない、と父さんは言う。だが、その力が誰かを傷つけるために使われているとしたら……俺たちは何のために存在しているんだ」
「力とは使い手次第で毒にも薬にもなるもの。しかし、今の坊っちゃんに必要なのは、答えを急ぐことではなく、ご自身の心を鎮めることかと存じます」
 蓮司の言葉はあくまで執事としての自分を弁えたものだったが、勇はその奥に含まれた「迷うな」という無言の励ましを感じ取った。
 もし、またあの人が危険な目に遭ったら──その仮定が脳裏を掠めた瞬間、勇の中で曖昧だった感情が確固たる決意へと結晶化し、父・誠が掲げる冷徹な支配の論理とは異なる、守るための「正義」を貫きたいという欲求が明確な輪郭を持ち始めた。その「正義」の象徴こそが、敵対組織の娘である白龍小雨だったのだ。
 勇は立ち上がり、窓の外に広がる夜の闇を睨みつけた。携帯電話もメールもないこの閉鎖的な世界で、彼女と再び連絡を取る手段など公式には存在しない。だが、彼の記憶には、風に揺れるススキと川のせせらぎ、そしてそこで舞うように修練をしていた彼女の姿が鮮明に焼き付いていた。
(賭けるしかない。彼女は、またあそこに来るはずだ)

 翌日から、勇の孤独な賭けが始まった。学校が終わると、彼は鞄を肩に掛けたまま息を切らせて河川敷へと走り、夕闇が迫る堤防の上でひたすらに待ち続けた。
 一日目は徒労に終わり、二日目も冷たい風が吹くだけで彼女の姿は現れなかったが、勇の足が止まることはなかった。
 そして、三日目の夕暮れ時。
 川面が茜色に染まり、空と大地の境界が曖昧に溶け合い始めた頃、勇はいつものように堤防の階段を駆け下り、息を整えながら視線を巡らせた。
 すると、川風に揺れるススキの向こう、大きな石の上に腰掛けている人影が、夕陽の逆光の中に浮かび上がっているのが見えた。
「……勇さん」
 砂利を踏む音に気づいて振り返った小雨が、信じられないものを見るように目を大きく見開いた。その表情には驚きと共に、隠しきれない安堵と微かな喜びが滲んでおり、それを見た瞬間に勇の心臓が大きく跳ねた。
「やっぱり、ここにいた」
 勇は強張っていた表情を崩し、自然な笑顔を浮かべて彼女へと歩み寄った。鼓動は早鐘を打っていたが、努めて平静を装い、彼女の隣、互いの体温を感じない程度の距離に立ち止まる。
「偶然ですね、こんな時間にまたお会いするなんて」
「ええ、本当に……また会えると思っていました」
 交わされる言葉は、どこにでもある他人行儀な挨拶であり、その表面上は単なる偶然の再会を装ってはいたが、二人の間に流れる空気は言葉以上の意味を含んで振動していた。
 小雨は膝の上で手を組み合わせ、勇はポケットに手を入れたまま、沈みゆく太陽を見つめ、互いの存在が隣にあるという事実だけで、この数日間の孤独と不安が嘘のように浄化されていくのを感じていた。
 この日を境に、二人の間には言葉を必要としない暗黙の了解が生まれた。示し合わせたわけでもないのに、学校が終わる放課後の時間になると、磁石が引き合うように二人はこの河川敷へと足を運ぶようになった。
「今日は学校で、先生が妙なことを言っていたんだ」
「ふふ、勇さんの学校の先生、面白い方なんですね」
 並んで座る二人の影が、秋草の上に長く伸びて重なり合う。会話の内容は他愛のない日常の断片であり、組織の話や深刻な事情には決して触れなかったが、それがかえって二人にとっては救いだった。
 ヴォーン・レイラの策動により、街の至る所で不穏な火種が燻り始め、大人たちのピリピリとした緊張感が肌を刺す中、人目のないこの河川敷だけが、社会のしがらみから切り離された聖域となり、二人だけの密やかな「密会」の場所となっていたのだ。
「……風が、冷たくなってきましたね」
 小雨が身を縮めると、勇は何も言わずに風上に立って彼女を寒風から庇った。その不器用で寡黙な優しさに、小雨の胸の奥が切なさと温もりで満たされていく。川の流れは変わることなく続き、二人の若者の儚い逢瀬を、ただ静かに見守り続けていた。

 十月初旬の空は、抜け落ちた歯のような不自然な青さを湛えていた。
 三江の街を覆っていた硝煙と血の匂いは、一ヶ月という時間がもたらした風雨によって洗い流され、表向きには穏やかな日常が戻ってきているかのように見えた。
 商店街を行き交う人々の足取りは軽く、路面電車のベルが規則正しく響き渡り、軒先の風鈴が季節外れの音を奏でているが、その平穏さはあまりにも鮮やかすぎて、まるで出来の悪い舞台背景を見せられているような違和感を抱かせた。
 小雨という一人の少女が受けた凄惨な受難と、その直後に勃発した両組織の小競り合いは、あたかも最初から存在しなかったかのように、街の記憶から丁寧に削ぎ落とされている。
 警察組織による徹底的な規制と、白龍・黒龍双方の手打ちにも似た沈黙が、アスファルトの亀裂を強引に塗り込めたのだ。だが、街の住人たちは本能的に知っている──水面下で澱んだ汚泥が渦を巻き、次の嵐が牙を研いでいることを。
 白龍組の本拠地、組長室には重苦しい紫煙が充満していた。
「チッ……」
 刃は窓際に立ち、高級なスーツのポケットに手を突っ込んだまま、眼下に広がる平和な街並みを睨みつけていた。短く刈り込んだ白髪混じりの頭髪が、午後の日差しを受けて銀色に光る。彼の舌打ちは、部屋の空気を切り裂くように鋭く響いた。
 この一ヶ月、誠の黒龍組からは何の連絡もない。挑発も、謝罪も、あるいは報復の気配すらも、完璧に断たれている。
 あの日、血塗れになった愛娘を抱き上げた時の重みが、未だに両腕の筋肉に焼き付いて離れない。誠は何かを企んでいるのか、それとも恐怖に縮み上がっているのか。
「……お義父さんも、黙り込みやがって。何を考えてやがる」
 刃の独り言は、苦い煙草の煙と共に吐き出された。警察署長である国清──小雨の祖父にあたる男が見せた、あの不可解な静観。
 孫娘があのような目に遭わされたというのに、彼は法の手続きを盾に、個人的な激情を表に出すことを避けた。それが組織の長としての矜持なのか、あるいはもっと別の、冷徹な計算に基づいたものなのか、古くから付き合いのある刃でさえ読み切れないでいる。
「剛、龍平」
 刃が低い声で名を呼ぶと、隣室を隔てる襖が音もなく開き、二人の偉丈夫が姿を現した。
「組長、何か」
 熊谷剛が、岩のような巨躯に屈めるようにして入室してくる。その声は地底から響くような重低音で、部屋の空気を微かに震わせた。続いて入ってきた三宅龍平は対照的に細身だが、その眼光は剃刀のように鋭く、無駄のない所作で剛の隣に控えた。
「誠のところの動きは変わらずか?」
「はッ、不気味なほどに静かです」龍平が抑揚のない声で即答する。
「表だった動きは一切ありません。組員たちも派手な夜遊びを控え、息を潜めているようです。ですが、裏では資金の移動や、古い武器ルートの確認を行っているという情報も……」
「狸寝入りを決め込んで、腹の下で爆弾を温めているってわけか」
 刃は顎鬚をジョリジョリと撫でた。爪先から頭のてっぺんまで、焦燥感が蟻のように這い回る。この静寂は、誠が警察権力に怯えている証拠なのか、それとも嵐が来る前の凪なのか。どちらにせよ、結論は一つだった。
「警備の手を緩めるな。小雨を一歩たりとも屋敷から出すんじゃねえぞ。……二度とあんな思いはさせねえ」
 刃の言葉には、父親としての悲痛な決意と、組長としての冷酷な殺意が同居していた。窓の外で一羽の烏が鳴き、不吉な羽音を残して飛び去っていくのが見えた。

 同時刻、街の反対側に位置する黒龍組の事務所でも、同様の張り詰めた空気が支配していた。
 黒革のソファに深く沈み込んだ誠は、手元の書類に視線を落としているふりをしながら、内心では出口のない迷路を彷徨っていた。
 極道の頂点に立つ男としての威厳を保ちながらも、その眉間には隠しきれない苦渋の深い皺が刻まれている。
「勇の奴……」
 呟きは、誰に聞かせるでもなく虚空へ消えた。自分の息子が、あろうことか白龍組の娘──自分がかつて蹂躙した小雨に惹かれているという事実。それを知った時の衝撃は、腹部に鉛弾を撃ち込まれたような鈍い痛みを伴っていた。因果応報という言葉が、呪詛のように脳裏を駆け巡る。
 かつての親友の娘を犯し、その両親を殺めた罪。その業火が、今度は最愛の息子を焼き尽くそうとしているのか。
「組長」
 執務机の脇に控えていた月島蓮司が、氷のように静かな声で水を向けた。初老の執事は、主人の葛藤など微塵も感じさせない完璧な立ち居振る舞いでティーカップを差し出した。
「署長殿の動き、依然として不明です。表立った捜査の圧力はございませんが、各所への根回しは着実に進んでいる模様。我々への締め付けが強まる可能性は否定できません」
「……ああ、分かってる」
 誠は苛立ちを紛らわすようにカップを受け取り、一口啜った。紅茶の豊潤な香りが鼻孔をくすぐるが、味などしなかった。
 国清という古狸が何を狙っているのか、それが不気味で仕方がない。警察が本気になれば、組織などひとたまりもない。だが、それ以上に誠を苛んだのは、やはり息子のことだった。
「……勇は?」
「本日も、街の見回りと称して外出しております」
 蓮司は表情筋一つ動かさずに答えた。その能面のような顔の裏で、彼が何を考えているのか誠には分からない。
 勇の教育係として絶対的な信頼を置いていたが、最近の彼はどこか勇に甘いようにも見える。
 誠はカップを乱暴にソーサーへ戻した。磁器がぶつかる乾いた音が響く。
「見回りだか何だか知らねえが……あの馬鹿息子、まだあの娘を探してやがるんじゃねえだろうな」
「坊ちゃんは、ご自身の信念に従って行動されているだけかと」
「信念だと? その信念が命取りになるんだよ、この世界じゃあな」
 誠は窓の外へ鋭い視線を投げた。午後の太陽がビル群に長い影を落とし始めている。この仮初めの平和が、いつまで続くか。自分自身の罪悪感と、迫り来る破滅の足音が、誠の心臓を冷たい手で握り締めていた。

 街を見下ろす高台、豪奢な洋館の書斎にて、一人の老人が静かに新聞を広げていた。
 三江警察署長、国清。白い髭を蓄えたその相貌は、見る者に温厚な好々爺という印象を与えるが、眼鏡の奥に光る瞳は猛禽類のように鋭く、底知れぬ知性を湛えている。
 部屋には古時計の振り子が時を刻む音だけが響き、重厚な革表紙の洋書が壁一面を埋め尽くしていた。
「署長、コーヒーでございます」
 家政婦が音もなく現れ、湯気の立つカップをサイドテーブルに置いた。
「ありがとう」
 国清は新聞を丁寧に畳み、それを読みかけのページに挟むようにして置くと、ゆっくりとカップを手に取った。
 黒い液体が揺れ、窓から差し込む光を反射する。彼の頭の中では、三江という盤面の上で、白龍と黒龍、そして小雨と勇という駒が複雑に交錯していた。
「……ふむ」
 一口含んだコーヒーの苦味を楽しみながら、彼は独り言つ。
「『やつ』らは、この静けさをどう利用するつもりかのう……」
 小雨は可愛い孫娘だ。その身に起きた悲劇には胸が張り裂ける思いだった。だが、彼は単なる祖父である前に、この街の治安を預かる警察署長であり、秩序の守護者だった。
 感情に任せて動けば、事態はさらに泥沼化する。必要なのは、外科医の手術のような冷徹で正確な一撃だ。
 誠の怯え、刃の憤り、勇の純真、小雨の傷。それらすべてが、やがて来るべき決定的な瞬間のための火薬となる。彼はただ、その導火線に火がつく最適なタイミングを、蜘蛛が網を張って待つように静かに見計らっているのだ。
 この一ヶ月という期間は、彼にとって停滞ではなく、完璧な終幕を用意するための助走期間に過ぎなかった。
「さて、そろそろ動き出すとするか」
 カップを置き、国清は窓の外へ視線を移した。遠くに見える河川敷、そこには枯れススキが風に揺れる荒涼とした景色が広がっていた。

 玄関の重厚な扉が開く音がして、勇が革靴の踵を踏み鳴らしながら外へ出た。秋の風が頬を打ち、制服の襟を弄ぶ。
「坊ちゃん、お車をお出ししましょうか」
 背後から、影のように寄り添う気配があった。振り返ると、月島蓮司が恭しく一礼している。手には勇のコートと、自身の黒い傘を持っていた。
「いや、いい。少し歩きたい気分なんだ」
 勇は短く答え、空を見上げた。雲の流れが速い。彼の胸中には、まだ見ぬ小雨の面影と、言いようのない焦燥感が渦巻いていた。
 この一ヶ月、彼女の姿を探して街を彷徨ったが、その影すら踏むことはできていない。
「左様でございますか。では、お供いたします」
 蓮司は拒絶を許さない穏やかな声で告げると、勇の隣に並んだ。執事としての一線を守りつつも、その歩調は完璧に勇とシンクロしている。
「蓮司、親父には……」
「組長には、詳しく申し上げておりません。坊ちゃんは、ただ風に当たりに行くだけ……そうでしょう?」
 勇は苦笑し、肩の力を抜いた。この男には敵わない。二人の影が、夕暮れの街へと長く伸びていった。

 重厚なカーテンの隙間から差し込む一条の光が、舞い踊る塵埃を照らし出しているだけで、廃ビルの最上階は死人の肺腑のように冷たく乾いた空気に満たされていた。
 ガラスの割れた窓枠の向こうには、三江の街並みが秋の陽光を浴びて広がっているが、この高さから見下ろせば、そこを行き交う極道たちの誇りも、市民たちのささやかな営みも、すべては路上の染みほどにしか映らない。
「予定通り、と言ったところでしょうか。盤上の駒は全て凍りついたように動きを止めている」
 ヒールの足音が、剥き出しのコンクリートの床を叩く。ヴォーン・レイラは、その豪奢で時代がかったドレスの裾を僅かに持ち上げ、瓦礫の散らばる窓際へと歩み寄った。
 彼女の手には年代物のワイングラスが握られており、注がれた真紅の液体が、窓からの逆光を受けて血のように黒ずんで揺れている。その整った横顔には、彫刻のような美しさと、爬虫類を思わせる冷酷な無関心が同居していた。
「はっ……。赤龍国清署長が沈黙を守っている以上、黒龍組の誠も警察権力の介入を恐れて迂闊には動けません。白龍の刃もまた、娘である小雨の件があり、身動きが取れない状態です」
 数歩下がった暗がりで、黒いスーツを着た部下が報告を行う。その声には隠しきれない畏怖の色が滲んでいた。
 レイラという女が放つ圧力は、単なる暴力装置としての強さではなく、人間の倫理観の欠落という根源的な恐怖に根ざしていることを、彼は肌で知っているのだ。
「ふふ、愚かなこと」
 レイラは短く笑い、グラスを唇に運んだ。喉を鳴らす音さえさせずに液体を嚥下し、眼下に広がる街を蔑むように一瞥する。
「所詮は、狭い箱庭の中での縄張り争い。彼らは自分たちがこの街の支配者だと信じているようですが、私たちが欲しいのは、その更に下──この腐った街の地下深くに眠る『魔石』の流通経路だけですわ。刃も、誠も、あの喰えない老犬の国清でさえ、私の前では踊るだけの道化に過ぎません」
 彼女の声は、温度のない風のように部下の耳朶を打つ。目的のためならば、市井の人間が何人死のうが、あるいは街一つが灰になろうが、彼女の眉一つ動かすことはないだろう。この街は彼女にとって、搾取すべき資源の埋蔵地に過ぎないのだ。
「しかし……一つだけ、計算外の事象が発生いたしました」
 部下が言い淀みながら、視線を床へ落とした。その躊躇いを察したレイラが、ゆっくりと振り返る。銀色の長髪が、薄暗い室内で燐光のような輝きを放った。
「その口ごもりよう……良い報告ではなさそうですね。申してごらんなさい」
「は、はい。あの黒龍の息子、勇と……白龍の娘、小雨。あの二人が接触し、あまつさえ個人的な繋がりを持ち始めているという情報が入っております」
 一瞬、レイラの表情から感情の色が抜け落ちた。氷海のような瞳が部下を射抜く。だが、それはすぐに艶めかしくも残酷な笑みへと変貌した。
 彼女は記憶の抽斗を開け、かつて刃の精神を破壊するために小雨の母親を殺害させた夜のことを思い出す。あの時、母親の自己犠牲という不確定要素によって計画は狂ったが、その「誤算」が新たな芽を吹いたというのか。
「なるほど……ロミオとジュリエット気取り、というわけですか。反吐が出ますね」
 レイラはグラスの中で揺れる液体を見つめ、愉悦を含んだ声で呟いた。
「構いません。いえ、むしろ好都合ですわ。利用価値はこちらの方が高い」
「利用、でございますか? 全面抗争の火種になりかねない危険な組み合わせですが」
「それが狙いですのよ。あなたは何も分かっていない」
 カツン、と高い音を立てて、レイラはグラスを窓枠のコンクリートに置いた。
「人間というのは、絶望には耐えられても、無残に引き裂かれた希望には耐えられない生き物です。あの二人の関係は、膠着した両組にとっての『平和への架け橋』になり得る希望。
 ……だからこそ、その希望を私たち第三者が無慈悲にへし折って差し上げることで、両組の理性は消し飛び、完璧な殺し合いが始まるのです」
 彼女の指先が空をなぞると、そこに見えない亀裂が走るような錯覚を覚える。
「すぐに手を回しなさい。白龍と黒龍、両方のシマで些細なトラブルを頻発させるのです。ボヤ騒ぎ、積み荷の横流し、末端組員の喧嘩……何でも構いませんわ。お互いの疑心暗鬼を極限まで高めたところで、あの二人──勇と小雨の密会を、両方の組長にリークするのです」
 部下は息を呑んだ。それはあまりにも悪辣で、人の心の最も柔らかな部分を土足で踏み荒らす所業だ。
「……御意に。しかし、もし失敗すれば我々の介入が露見いたしますが」
「失敗? それを許すほど、私は寛容ではありませんよ」
 レイラの瞳が怪しく光り、部下の背筋に戦慄が走った。彼女は窓の外、遥か彼方に見える白龍の屋敷の方角を見据え、紅を引いた唇を歪めた。
「さあ、始めましょうか。愛と仁義の茶番劇は、血塗れのフィナーレがお似合いですわ」

 一方、三江の街の空気が不穏に澱み始めていることを、敏感に察知している男がいた。
 警察署長公邸の重厚な書斎では、幾千もの蔵書に囲まれた国清が、アンティークのデスクの前で沈思黙考していた。
 部屋の隅に置かれた古時計の振り子が、規則的なリズムを刻み続けているが、その音は国清の鼓膜には焦燥のカウントダウンのように響いていた。
「……妙だ」
 彼は老眼鏡の位置を直し、手元に広げられた数枚の報告書に視線を走らせる。表向きには平穏に見えるこの街だが、警察の情報網に引っかかる「ノイズ」が、ここ数日で急激に増加しているのだ。
 繁華街の裏通りでの小競り合い、倉庫街での不審火、港湾部での原因不明の事故。一つ一つは事件にするほどでもない些細な出来事だが、それらが白龍と黒龍の境界線上で集中的に起きている事実を見過ごすほど、彼は耄碌してはいなかった。
「自然発生的な抗争の予兆ではない。これは……何者かが、意図的に火種を蒔いている動きだ」
 国清は万年筆を置き、指を組み合わせた。誠も刃も、今は動けないはずだ。ならば、この糸を引いているのは誰か。
 彼の脳裏に、かつてこの街を影から操ろうとした古い亡霊たちの伝説がよぎるが、具体像を結ぶまでには至らない。ただ一つ確かなことは、その悪意の切っ先が、最終的にはこの街の秩序と、そして愛する孫娘・小雨へと向けられるであろうことだ。
「署長、お呼びでしょうか」
 ノックと共に、私服姿の刑事が一人、音もなく部屋に入ってきた。国清の腹心であり、極秘の任務を任せられる数少ない部下の一人だ。
「ああ。例の件だが、調査の範囲を広げろ。組関係者だけでなく、最近この街に出入りしている『よそ者』、特に魔術的な背景を持つ組織の痕跡を洗うんだ」
 刑事は眉一つ動かさずに頷いた。
「承知いたしました。それと……黒龍組のほうに潜ませている協力者──月島蓮司と接触を図りますか?」
「いや、蓮司にはまだ動くなと伝えろ。あいつには勇を見張るという重要な役目がある。今下手に動いて誠に勘付かれれば、勇という重要な駒まで失うことになる」
 国清は窓の外、曇り始めた空を見上げた。雲の切れ間から差し込む光が弱々しく、まるで街全体が巨大な影に飲み込まれようとしているかのようだ。
「嵐が来るな……。だが、小雨だけは、何があっても守り抜かねばならん」
 その呟きは、署長としての義務感を超えた、一人の祖父としての悲壮な決意に満ちていた。国清がデスクの引き出しから一枚の写真を取り出す。
 そこには、まだ幼い頃の小雨と、今は亡き彼女の母が幸せそうに笑う姿があった。その笑顔を二度と曇らせはしない。そのためなら、警察署長の地位はおろか、この命を賭しても構わない──老いた竜の瞳に、静かだが激しい炎が灯った。

 同時刻、黒龍組の屋敷の玄関先では、勇が靴紐を結び終え、立ち上がったところだった。傍らには、すでに外出の支度を整えた月島蓮司が、影のように控えている。
「行くぞ、蓮司」
「はい、坊ちゃん」
 短いやり取りの中に、言葉にはできない信頼と覚悟が交錯する。彼らの向かう先には、まだ誰も知らない罠が待ち受けているとも知らず、二人は静まり返った午後の街へと足を踏み出した。
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