10 / 15
本編
第10話 絶体絶命と、希望の光
しおりを挟む
雨上がりの湿気を孕んだ夜風が、錆びたトタン屋根の隙間を縫って不協和音を奏でている。三江の町の外れ、かつてこの地の経済を支えた「金属鉱」は、今や巨大な墓標のように闇夜に聳え立っていた。
黒龍勇は、ぬかるんだ地面を踏みしめ、迷宮のように入り組んだ坑道の入口に立った。鼻腔を刺すのは、金属が腐食した独特の酸っぱい臭いと、地下特有の冷たい澱んだ空気だった。坑道の奥からは、時折微かな人の気配と、重機が動くような鈍い音が反響してくる。
「……待っててくれ、小雨さん」
勇はポケットの中にある小鮫のヘアピンを、指先が白くなるほど強く握りしめた。その冷たく硬い感触だけが、焦燥感で焼き切れそうな彼の理性を辛うじて繋ぎ止めている。
彼は息を潜め、影に溶け込むようにして足を踏み入れた。
内部は、敵対組織「真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》」によって完全に陣地化されていた。朽ちかけた支柱には真新しい投光器が括り付けられ、埃っぽい光の筋が闇を切り裂いて交差している。勇は遮蔽物から遮蔽物へと滑るように移動し、見回りの兵士たちの死角を縫って進んだ。
狭い坑道と、採掘跡の広い空洞が不規則に連なる複雑な地形。勇は幼い頃から父・誠に叩き込まれた戦場の感覚を総動員し、足音一つ立てずに奥へと進んでいく。だが、彼の背中には常に冷たい視線が張り付いているような、得体の知れない違和感が拭えなかった。
そして、かつての中継基地であったと思しき、巨大なドーム状の空間に出た時だった。
「ようこそ、勇敢なる騎士様」
頭上から降り注いだ声と共に、空気を裂く鋭い風切り音が響いた。
勇が反応するよりも早く、天井の暗闇から無数の銀色の鎖が蛇のような軌道を描いて落下してきた。それはただの鎖ではない。先端に重りをつけた特殊な拘束具であり、勇の手足を瞬時に、そして正確に絡め取った。
「くっ……!?」
勇は反射的に魔力を練り上げ、衝撃波で鎖を吹き飛ばそうとした。だが、体内の魔力回路が何かに詰まったように熱を持ち、不発に終わる。鎖の節目に埋め込まれた紫色の石が、不気味な脈動を放っていた。
「無駄よ。その鎖には高密度の抗魔石が編み込んであるの」
闇の中から、愉悦を含んだ女の声が響く。
同時に、周囲の岩陰やコンテナの影から、武装した構成員たちが一斉に姿を現した。その数、およそ二十。銃口と刃が一斉に勇へと向けられる。
勇は拘束を強引に振りほどこうともがいたが、動けば動くほど鎖は肉に食い込み、自由を奪っていく。
「卑怯な……!」
「卑怯? これは狩りよ。罠にかかった獣が吠えるなんて、滑稽ね」
数人の男たちが勇に飛びかかり、抵抗する彼を地面に押さえつけた。太い腕が首を締め上げ、腹部に重い蹴りが叩き込まれる。勇は苦悶の声を漏らしながらも、必死に顔を上げ、闇の奥を睨みつけた。
視界が明滅する中、彼の体は引き摺られるようにして、更に奥へと連行されていった。
連れて行かれた先は、かつて選鉱場として使われていた広大なホールだった。天井は高く、中央にはスポットライトのように一本の照明が落とされている。その光の中に浮かび上がっていた光景を目にした瞬間、勇の心臓が早鐘を打った。
「勇さん……!」
光の中央、無骨な木馬に跨らせられ、両腕を鎖で吊り上げられた小雨がいた。
彼女の白い肌には、鮮血が滲む無数のミミズ腫れが刻まれている。着ていたはずの服は見るも無残に引き裂かれ、露わになった肌が冷たい地下の空気に晒されて震えていた。だが、その瞳だけはまだ死んでおらず、連行されてきた勇の姿を認めると、悲痛な叫びを上げた。
「逃げて……勇さん、見ちゃダメ……!」
「小雨さん!」
勇が叫ぼうとしたその時、二人の間に影が落ちた。
豪奢なイブニングドレスを纏ったヴォーン・レイラが、クリスタルのグラスを片手に優雅な足取りで現れたのだ。彼女は小雨の顎を指先で掬い上げ、品定めするように左右に向けさせた後、勇の方を向いて冷ややかな笑みを浮かべた。
「ようやく揃ったわね。敵同士の子女が恋人になる悲劇の気取りも結構だけれど、現実はそう甘くないわよ?」
小雨はレイラの手を振り払い、涙で濡れた瞳で彼女を睨み返した。
「あなたたちの思い通りにはならない。勇さんが、きっと止めてくれるわ」
「あら、そう? その勇さんは今、どんな格好をしているのかしら」
レイラが指を鳴らすと、勇を押さえつけていた男たちが乱暴に彼を立たせた。そして、一人が勇のズボンに手をかけ、一気に引き下ろした。下着ごと剥ぎ取られた勇の下半身が、冷たい外気に晒される。
「なっ、やめろ!」
勇は顔を真っ赤にして抵抗したが、屈強な男たちの力には敵わない。まだ少年特有の柔らかさを残したその秘所が、無慈悲な照明の下に晒された。
「あら、かわいいこと。お嬢ちゃんは毎回これで満足できる?」
レイラは口元を手で覆い、クスクスと笑いながら二人を見比べる。
勇にとって、自分の裸を見られる羞恥心よりも、小雨がこの状況を見せつけられ、尊厳を傷つけられることの方が耐え難かった。
「小雨を侮辱するな! 俺たちは……おめえが思ってるような汚い関係じゃねえ!」
「……汚い関係?」
レイラの目が意地悪く細められる。
「あら、つまり坊やはチェリーボーイってこと? えぇっ、嘘でしょ? ラッキー! お嬢ちゃん、恋人の童貞をもらっていいよね!?」
「勇に触るな!」小雨が悲鳴のように叫んだ。
「あなたの汚い手で、彼に触れないで!」
「あら、生意気な口」
乾いた音がホールに響いた。レイラの手のひらが、小雨の頬を強く張ったのだ。小雨の顔が大きく横を向き、白い肌に赤い指の跡が浮かび上がる。
「勇を触るな!この……ビッチ!」
小雨の口から、勇も今まで一度も聞いたことのない罵倒が飛び出した。激情に突き動かされ、ただ勇を守るために、思いつく限りの汚い言葉を投げつけるしかなかった。勇の心が痛む。自分の情けなさに、好きな子が自分を守るために、口にすることがなかった汚い言葉を吐き出した。
「あら、ひっどい。お嬢ちゃん、そんな言葉は痛くないよ?」
レイラは心外そうに肩をすくめ、再び小雨の頬を撫でた。その仕草は爬虫類が獲物を愛でるようで、小雨は屈辱に唇を噛み締めながらも、毅然とレイラを睨み続けた。
「小雨を殴らないでくれ……頼む」
勇の声が震えた。武力も魔力も封じられ、今の彼には懇願することしか残されていない。その無力感に、奥歯が砕けそうなほど食いしばる。
「いいわ。じゃあ……私としたら、この子を解放してあげようか?」
レイラは唐突に提案し、妖艶な笑みを深めた。
「えっ?」
勇は耳を疑った。
「レイラとセックスしたら、小雨ちゃんを解放するって言ってるの。淑女にこんなはしたない言葉、言わせちゃ~、メっだぞ?」
彼女は人差し指を唇に当て、子供をあやすような口調で言った。その提案の悪魔的な響きに、勇の思考が凍りつく。
「さあ、どうする? 坊やの操一つで、大事なお姫様が助かるのよ?」
勇が迷う暇もなく、背後の男が彼の顎を掴み、口を無理やりこじ開けた。別の男が小瓶に入ったピンク色の液体を流し込む。
「がっ、ごほっ……!」
強烈な甘い香りと共に、喉を焼くような熱さが食道を通って胃に落ちた。数秒もしないうちに、視界が歪み、全身の血液が沸騰したかのような感覚に襲われる。そして、意に反して血液が下半身へと集中し、さっきまで萎縮していた自身が、嘘のように硬く脈打ち始めた。
「わお、薬の効き目もあるけど、素質あるんじゃない?長さも気になる~」
レイラは興味深そうに近づき、部下にメジャーを持ってこさせた。勇の意思とは関係なく鎌首をもたげたそれを、彼女は躊躇なく冷たい手で握り、メジャーを這わせる。
「……すっごい~、16センチもあるじゃない。お嬢ちゃん幸せ~、こんなデカいの、私に譲ってくれる?」
「や、やめ……」
勇は未知の快感と薬による火照りで朦朧とする意識を必死に保ちながら、小雨の方を見た。
「するから……俺が何でもするから、だから小雨をいじめないでくれ……!」
それは、プライドをかなぐり捨てた、魂からの叫びだった。
「勇さん……ダメよ! 私のためにこんな女としちゃダメぇ!」
小雨は木馬の上で身をよじり、鎖が食い込む痛みも忘れて絶叫した。
「お願い、やめて! 勇さんは……勇さんはまだ誰とも……! 私なんかどうなってもいい、だから逃げて! そんなことしないで!」
彼女にとって、勇は汚れてはならない聖域だった。自分がどれだけ傷つこうとも、彼だけは綺麗なままで、いつか愛する人と結ばれるべきだと信じていた。それが自分であればと願った日もあったが、今この瞬間、彼女が望むのは勇の尊厳を守ることだけだった。
「泣ける~勇ちゃん、こんな素敵な彼女持って、私ヤキモチ妬いちゃうわ」
レイラはわざとらしく溜息をつき、ゆっくりと自分のドレスを引き上げた。黒いレースの下着をずらし、濡れた秘所を露わにする。
「見ててね、お嬢ちゃん。彼が初めて『男』になる瞬間を」
レイラは勇の腰に跨り、彼の熱り立つ先端を、自身の濡れた肉へと導いた。
「くっ……うぅ……!」
勇は歯を食いしばり、目を閉じようとしたが、レイラの両手が彼の顔を挟み込み、強制的に目を開かせた。
「こっちを見なさい。そして、あの子に見せつけてあげて」
ぬぷり、という水音と共に、勇の純潔がレイラの中に飲み込まれていく。
その光景を目にした瞬間、小雨の中で何かが決定的に砕け散る音がした。
(あ……あぁ……)
自分は、汚れてしまった。
体についた傷ではない。魂が、存在そのものが、罪悪感という泥に塗れていくのを感じた。
記憶すら曖昧な祖父母は、幼い自分を守るために死んだ。
母は、自分を逃がすための囮となって命を落とした。
そして今、一番大切に想っていた勇さえも、自分を助けるために、その身を、その心を、汚されている。
(私が生きている限り……私を愛してくれる人は、みんな不幸になる)
小雨の瞳から光が消え、暗い虚無が広がっていく。
レイラが腰を動かすたびに響く水音と、勇が漏らす苦悶の喘ぎ声が、小雨の精神を削り取る鋭利な刃となって突き刺さる。
「ふふっ、すごい……初めてなのに、こんなに……っ!」
レイラは恍惚の表情を浮かべ、勇の胸板に爪を立てながら腰を振った。勇のアレが彼女の最奥を突くたび、彼女は快感に身を震わせ、わざとらしく高い声を上げる。
「見て、小雨ちゃん! 勇くん、すっごく硬くなってる! 身体は正直ねぇ!」
勇は必死に声を殺そうとしたが、薬の効果で増幅された感覚は、彼の理性を容赦なく蹂躙していく。小雨を救うためだ、と言い聞かせても、生理的な快感が波のように押し寄せ、罪悪感と共に彼を責め立てた。
「う、あぁ……っ!」
限界が近づいていた。レイラの肉の締め付けと、高まる熱量が臨界点を超える。
「出しなさい……私の中に、全部!」
レイラの命令と共に、勇の身体が大きく弓なりになった。
「ぐっ……うぁぁぁッ!」
獣のような咆哮と共に、勇はレイラの胎内へ、白い生命の奔流を叩きつけた。ドクドクと脈打つ感覚が静まるまで、レイラは彼を放そうとはしなかった。
長い余韻の後、レイラは満足げな表情で勇から離れ、ゆっくりと衣服を整えた。床にへたり込んだ勇は、荒い息を吐きながら、虚ろな目で天井を見つめていた。
「ふぅ……ご馳走様。勇ちゃんは素敵だったわ」
レイラはハンカチで口元を拭い、勝ち誇った声で宣言した
「お姉ちゃんはイかされたよ、小雨ちゃん」
その言葉は、小雨に残されていた最後の理性の糸を断ち切った。
小雨は木馬の上でぐらりと身体を揺らし、焦点の合わない瞳で虚空を見つめた。涙すら枯れ果て、ただ乾いた絶望だけが彼女を支配していた。
(死にたい……)
もし自分の死が、勇をこの地獄から解放する鍵になるのなら、今すぐにでもこの首を刎ねてほしい。そう願わずにはいられなかった。
勇は震える手でズボンを引き上げ、ふらつく足取りで小雨の元へ這い寄った。
彼の心もまた、ズタズタに引き裂かれていた。自分の無力さが、浅はかな行動が、最愛の人をここまで追い詰めてしまったのだ。
だが、彼にはまだ守らなければならないものがあった。泥だらけの手で彼を掴み、涙ながらに訴えた大樹との約束。
『絶対に、姉ちゃんを連れて帰ってくる』
その言葉だけが、崩れそうになる勇の精神をギリギリで支えていた。
勇は震える指先で小雨の冷え切った足首にそっと触れ、必死に唇の形を歪めて笑顔を作ろうとしていた。
「……見た、通りだ。俺は……まだ、大丈夫だから」
その声は枯れ、力なく掠れていた。
無理に作ったその笑顔は、まるでひび割れた仮面のように脆く、今にも崩れ落ちそうだったが、それでも彼は、小雨を安心させるためにその言葉を紡ぐことしかできなかった。その表情は、ひび割れた陶器を無理やり繋ぎ合わせたようにいびつで、見る者の胸を抉るような痛々しさを湛えていたが、彼方にあるのは疑いようのない献身だった。
自分が最も傷つき、尊厳を踏みにじられ、魂まで汚されたというのに、それでも尚、彼は小雨のことだけを案じている。
その事実は、小雨の凍りついた心臓に熱湯を浴びせかけるような衝撃を与えた。
(どうして……どうしてなの、勇さん)
自分は守られるばかりで、泣いてばかりで、彼の献身をただ貪るだけの寄生虫のような存在ではなかったか。彼が自分のために汚泥を啜り、見知らぬ女に跨られ、獣のように扱われるのを、ただ傍観していただけの共犯者ではなかったか。
レイラはそんな二人を見下ろし、愉悦に満ちた瞳で赤ワインのグラスを掲げた。
「さて、素晴らしいショーの第一幕は終了ね」
彼女がグラスを傾け、赤い液体が煌めく中、部下たちが再び動き出した。
「次は、もっと楽しい『教育』の時間にしましょうか」
「あ……あっ……」
小雨の喉の奥から、嗚咽とも咆哮ともつかない空気が漏れた。
勇の瞳から光が消えていない。あの真っ直ぐで、少し不器用な優しさは、泥にまみれても決して損なわれていない。
それを守らなくてどうする。
彼が命を賭して守ろうとした「白龍小雨」という人間が、ここで心を折って死を選べば、勇の犠牲は無駄になる。彼が飲まされた屈辱は、ただの徒労へと成り下がる。
(そんなこと、絶対にさせない)
消えかけていた瞳の奥底に、どす黒い熾火のような激情が灯った。それは恐怖や絶望を瞬時に焼き尽くし、純粋な怒りという燃料を得て爆発的なエネルギーへと変換されていく。
「……あら、まだお喋りする気力が残っているの? 健気ねぇ」
レイラがグラスのワインを飲み干し、気だるげに手を振ったのと同時だった。
バヂィッ!
鋭い放電音が響き、小雨を拘束していた鎖の表面に幾何学的な光の紋様が走った。
「なっ、何!?」
部下の一人が叫ぶ間もなく、小雨の手首を締め付けていた抗魔石入りの手錠が、内側からの圧力に耐えきれず悲鳴を上げ始めた。小雨は痛みに顔を歪めることもなく、ただ自身の体内に眠る「気」の回路を強引にこじ開け、奔流となって溢れ出るエネルギーを手首の一点へと集中させたのだ。
皮膚が裂け、鮮血が噴き出す。肉が削れる激痛が脳髄を走るが、そんなものは勇が味わった苦痛に比べれば、蚊に刺された程度のものでしかなかった。
「あなたたちには……これ以上、勇を汚させない!」
裂帛の気合いと共に、金属の破断音が轟いた。
鋼鉄の拘束具が飴細工のように弾け飛び、破片が床に散らばる。自身の手首から滴る血が、彼女の白い肌に鮮烈な赤の軌跡を描いていたが、小雨はその痛みすらも武器に変えるかのように、血に濡れた両手を構えた。
「殺せ! 撃ち殺せ!」
レイラが顔色を変えて叫ぶ。
傭兵たちが一斉に引き金を引こうとした瞬間、小雨は既に動いていた。彼女が空中に指先を疾らせると、目に見えない軌跡が青白く発光し、複雑な術式が一瞬にして虚空に刻まれる。
それは呪文の詠唱などという悠長なものではない。彼女の意志が物理法則を書き換えるためのプログラムコードとなり、世界に直接干渉する暴力的な演算だ。
「穿て、烈風!」
小雨が両掌を突き出すと、坑道内の停滞した空気が一気に収束し、目に見えない巨大な槌となって傭兵たちを襲った。
「ぐわぁっ!」
数人の大男たちが、まるで枯れ葉のように吹き飛ばされ、コンクリートの壁に叩きつけられる。銃弾が明後日の方向へ乱射され、火花が散る中で、小雨は畳み掛けるように次の術式を展開した。
地下水脈から滲み出していた汚水が、彼女の意志に呼応して地を這う蛇のように鎌首をもたげる。
「消え失せろ!」
彼女が腕を薙ぎ払うと、汚水の塊は高圧のウォーターカッターのごとき奔流となり、残りの敵を薙ぎ倒した。水圧に足を掬われた男たちが悲鳴を上げて転倒し、武器を取り落とす。
「馬鹿な……抗魔石の結界内で、これだけの出力を!?」
レイラは信じられないものを見る目で小雨を凝視し、一歩後ずさった。単なる箱入り娘だと思っていた少女が、まさかこれほど高純度の魔力適性を持っているとは予想外だったのだ。
小雨はその隙を見逃さず、床にヘタリ込んでいた勇の元へ駆け寄った。
「勇さん! 立てますか!?」
「こ、小雨さん……その手……」
勇は小雨の手を取り、見るも無残に裂けた手首の傷を見て息を呑んだ。白く華奢な手首には、拘束を引きちぎった際についた深い裂傷が刻まれ、血がとめどなく滴り落ちている。
「こんなの、どうでもいい! ……早く、ここから出ないと」
小雨は自分の傷になど目もくれず、勇の腕を肩に回して強引に立たせた。勇の体は薬の影響で熱く、足元はおぼつかない。それでも、小雨の小さな体のどこにそんな力が残っているのか、彼女は勇の体重を支えながら出口の方角へと視線を走らせた。
「逃がすわけないでしょ、クソアマが!」
我に返ったレイラが、優雅さをかなぐり捨てて金切り声を上げた。彼女もまた一流の魔術師だ。ドレスの裾を翻すと、その周囲の空間が蜃気楼のように歪み、無数の氷柱が生成される。
「串刺しにしてあげるわ!」
氷の槍が弾丸のような速度で射出される。
小雨は勇を庇うようにして振り返り、咄嗟に防御の術式を構築しようとしたが、連戦と手首の傷による失血が彼女の反応を鈍らせていた。
「くっ……!」
展開された風の障壁が氷柱の雨を受け止めきれず、数本の氷片が障壁を貫通して小雨の肩や頬を掠める。鮮血が舞い散り、衝撃で二人は後方へとたたらを踏んだ。
「はぁ、はぁ……」
小雨は苦しげに息をつき、左手で右肩の傷を押さえた。さすがに幹部クラスの魔術師相手に、正面からの撃ち合いは分が悪すぎる。それに、勇を連れたままでは、これ以上の戦闘継続は自殺行為に等しい。
「所詮は素人のデタラメな力押しね。基礎がなってないのよ、お嬢ちゃん」
レイラは冷酷な笑みを浮かべ、掌に新たな魔力を収束させながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。背後からは、体勢を立て直した傭兵たちが再び銃口を向けていた。
絶体絶命の包囲網。
だが、小雨の瞳から闘志が消えることはなかった。彼女は周囲の地形を瞬時に観察し、天井付近の脆くなった岩盤と、そこに張り巡らされた錆びついた配管に目をつける。
(あそこなら……!)
「勇さん、耳を塞いで!」
小雨は最後の魔力を振り絞り、攻撃の術式ではなく、より単純で原始的な衝撃波を練り上げた。狙うのは敵ではない。この空間そのものの構造的弱点だ。
「砕けろぉッ!」
彼女が放った衝撃波は、レイラたちを飛び越え、天井の巨大な鉄骨と岩盤の接合部を直撃した。
ズヂジジジッ……!
嫌な音が響いた直後、轟音と共に天井の一部が崩落した。
「なっ、気でも狂ったの!?」
レイラが悲鳴を上げて後退する。大量の瓦礫と粉塵が滝のように降り注ぎ、坑道内は一瞬にして白濁した視界不良の闇に包まれた。巻き上がった土煙が視界を奪い、敵の怒号と咳き込む声が錯綜する。
「今よ!」
小雨はこのカオスこそが唯一の勝機だと確信していた。彼女は勇の体を抱き寄せ、粉塵の幕を隠れ蓑にして、迷うことなく闇の奥へと駆け出した。
「ゴホッ、ゴホッ……待ちなさい! 撃て! 音のする方へ撃ちまくりなさい!」
レイラのヒステリックな命令が響き、闇雲に放たれた銃弾がコンクリートの壁を削り、火花を散らす。
小雨は頭を低くし、勇を引きずるようにして走り続けた。手首の傷口から痛みが脈打ち、肺が焼けつくように熱かったが、勇の体温を感じている限り、足が止まることはなかった。
地下の冷たい風が頬を撫でる。カビと錆の臭いが充満する迷路のような通路を、二つの影はただひたすらに、出口を求めて疾走していった。
坑道の奥から届いていた崩落の轟音は既に遠く、今はただ、天井の染みから落ちる雫の音だけが、二人の荒い呼吸の合間を縫って時を刻んでいた。
濡れた岩肌に背を預けた勇の身体は、薬の効果で煮えたぎるような熱を持て余しており、その内側から食い破ろうとする獣のような衝動を、理性という鎖だけで辛うじて繋ぎ止めながら、腕の中に横たわる小雨の安否を確かめるように視線を落とした。
「……はぁ、はぁ。小雨さん、大丈夫か」
暗闇に目が慣れるにつれ、小雨の白い肌に刻まれた惨状が、勇の網膜に焼き付いて離れない。泥と埃に塗れた頬、引き裂かれた服の隙間から覗く鬱血した痣、そして何より、あの鎖を引きちぎる際に生じた手首の深い裂傷が、どす黒い赤色を絶えず滲ませている様は、勇の胸を鋭利な刃物で抉るような痛みを伴っていた。
(まただ……また、俺のせいだ)
勇は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、血の気の引いた拳を濡れた地面に叩きつけた。彼女を守ると誓ったはずの自分が、あろうことか彼女を人質に取られ、あのような恥辱を受けさせ、挙句の果てに彼女自身の身を削って助けられるなど、男としての矜持も何もかもが泥に塗れた気分だった。
「すまない……俺がもっと強ければ、こんな傷なんて……」
勇の声は湿った空気の中で震え、自責の念に押し潰されそうになっていたが、その時、冷え切った指先がそっと勇の頬に触れ、その熱を確かめるように包み込んだ。
「……馬鹿なことを言わないで」
小雨の声は弱々しく掠れていたが、そこには勇が未だかつて聞いたことのないような、芯の通った強さが宿っていた。彼女は痛む身体を無理やり起こし、勇の正面に座り込むと、その潤んだ瞳で勇の揺れる瞳を射抜くように見つめた。
「私が怪我をしたのが、勇さんのせいだっていうの? じゃあ、勇さんがあんな酷いことをされて、傷ついたのは誰のせいなの?」
「それは……俺が未熟だから……」
「違うッ!」
小雨の鋭い叱咤が、坑道の静寂を切り裂いた。彼女は血の滲む手で勇のシャツの胸元を掴み、力任せに引き寄せる。
「私たちは二人で一つでしょう? あなたが傷つけば私も痛いし、私が傷つけばあなたも痛い。……守られるだけの悲劇のヒロインなんて、私はもう御免よ」
かつて箱入り娘として籠の中にいた頃の、儚げで壊れそうな少女の面影はそこにはなく、泥と血に塗れながらも、自らの足で地獄を歩く覚悟を決めた一人の女性の顔がそこにあった。
「勇さんが戦うなら、私も戦う。勇さんが地獄に行くなら、私もそこまでついて行く。……これが、私の決意よ!」
その言葉はただの慰めではなく、魂の契約にも似た重みを持って勇の胸に響き、心臓にこびりついていた罪悪感という名の澱を洗い流していった。
彼女は守るべき対象であると同時に、背中を預けるべき対等な共犯者なのだと、勇は痛烈に理解させられた。
「……ああ。分かった」
勇の瞳から迷いが消え、代わりに静かで熱い炎が灯る。彼は自分の胸元を掴む小雨の手を取り、その甲に誓いの口づけを落とすようにして額を押し当てた。
「一緒に行こう、小雨さん。……最後まで」
小雨は張り詰めていた糸が切れたようにふわりと微笑むと、そのまま吸い寄せられるように勇の胸へと身を預けた。連日の拷問に近い拘束と、魔力を使い果たした反動が、彼女の意識を急速に深い眠りの底へと引きずり込んでいく。
「……うん。勇さんの匂い……安心……する……」
最後の言葉は寝息へと溶け、彼女の身体から完全に力が抜けた。
その無防備な重みと柔らかさが勇の腕の中に沈み込むと同時に、彼の中で抑え込んでいた別の「熱」が鎌首をもたげた。レイラによって盛られた薬は未だ体内で猛威を振るっており、小雨の甘い体臭と柔らかな感触は、理性の防波堤を決壊させかねないほどの暴力的な刺激となって脳髄を揺さぶる。
(くっ……鎮まれ、頼む……!)
勇は荒くなる呼吸を必死に噛み殺し、自らの舌を噛んで意識を覚醒させた。今、この目の前で無防備に眠る彼女を襲ってしまえば、それこそ本当に獣に成り下がってしまう。震える手で小雨の肩を抱き寄せながら、勇は彼女の寝顔を見つめたまま、ただひたすらに自分の中の魔物と戦い続けていた。
その時だった。
遠くから聞こえていた風鳴りが、人工的なサイレンの咆哮へと変わり、坑道の入口付近が一斉に赤いパトランプの光で染め上げられた。
「……いたぞ! 二人とも無事だ!」
複数の足音と共に、三宅龍平の安堵した声が響き渡る。続いて、熊谷剛の巨体がライトの逆光の中に現れ、その後ろから、この街の暗部を統べる二人の「父親」が姿を現した。
刃は、娘が無事であるという事実に安堵の息を漏らしたのも束の間、勇の腕の中で泥のように眠る小雨の姿を見て、その表情を複雑に強張らせた。
仇敵の息子であり、あろうことか娘を危険に晒した張本人。本来であれば、その手から娘を強引に引き剥がし、二度と近づけぬよう壁を作るところだろう。
だが、刃の目は節穴ではない。勇が身体中の血管が浮き出るほど何かに耐えている様子や、小雨の衣服を整え、冷たい地面から彼女を守るように抱いているその手の甲に滲む血を見て、彼がどれだけの覚悟で娘を守り抜いたのかを悟らずにはいられなかった。
「……チッ。生意気な顔をしやがって」
刃は短く毒づいたが、その手から拳銃を下ろし、深く溜息をついた。
一方、その隣に立った黒龍誠は、かつてないほどの衝撃を受けていた。
ライトに照らされた息子の顔は、かつての幼さなど微塵もなく、一人の男としての凄味すら帯びている。そして、その腕の中で安心して眠る小雨の表情は、親である自分たちですら見ることのできなかった、全幅の信頼を寄せた「女」の顔だった。
誠の胸の奥底から、焼け付くような悔恨が込み上げてくる。
かつて自分が野心のために踏みにじり、引き裂こうとした未来が、こうして瓦礫の中で美しく結実しようとしている。もし自分が道を誤らなければ、こんな薄暗い地下ではなく、陽の当たる場所で二人は笑い合えていたのかもしれない。
「……誠様」
いつの間にか背後に控えていた蓮司が、静かに声をかけた。
誠は無言で頷き、じっと二人を見つめ続けた。
自分はなんと小さな男だったのだろう。過去の因縁や組織の面子に固執し、未来ある若者たちを犠牲にしようとしていた。小雨という少女が、自分の息子を含めた全ての因果を受け入れ、それでも尚、共に生きようとする強さを見せつけているというのに。
(償わなければならん……この命を賭しても)
誠の中で、迷いは消え去った。自分が積み上げた罪の精算は、自分でつけるしかない。この若く美しい魂たちが、これ以上大人の汚い都合で傷つくことがないように。
「……行くぞ、刃。子供たちの邪魔をするのは野暮だ」
誠は短く告げ、踵を返した。その背中は以前よりも一回り小さく見えたが、纏う空気は鋼鉄のように硬質で、かつてないほどの決意に満ちていた。
坑道の闇の中、赤い回転灯の光が点滅し、勇と小雨の姿を交互に浮かび上がらせている。
勇は眠る小雨の手をそっと握り直し、その温もりを確かめた。二人の手と手は、泥と血で汚れてはいたが、決して解けることのない固い絆で結ばれている。
外の世界がどれほど理不尽で、残酷な運命が待ち受けていようとも、この手の温もりがある限り、彼らは何度でも立ち上がり、夜明けを目指して歩き出すだろう。
静寂を取り戻しつつある地下空間で、若き二人の寝息だけが、確かな希望の鼓動として響いていた。
黒龍勇は、ぬかるんだ地面を踏みしめ、迷宮のように入り組んだ坑道の入口に立った。鼻腔を刺すのは、金属が腐食した独特の酸っぱい臭いと、地下特有の冷たい澱んだ空気だった。坑道の奥からは、時折微かな人の気配と、重機が動くような鈍い音が反響してくる。
「……待っててくれ、小雨さん」
勇はポケットの中にある小鮫のヘアピンを、指先が白くなるほど強く握りしめた。その冷たく硬い感触だけが、焦燥感で焼き切れそうな彼の理性を辛うじて繋ぎ止めている。
彼は息を潜め、影に溶け込むようにして足を踏み入れた。
内部は、敵対組織「真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》」によって完全に陣地化されていた。朽ちかけた支柱には真新しい投光器が括り付けられ、埃っぽい光の筋が闇を切り裂いて交差している。勇は遮蔽物から遮蔽物へと滑るように移動し、見回りの兵士たちの死角を縫って進んだ。
狭い坑道と、採掘跡の広い空洞が不規則に連なる複雑な地形。勇は幼い頃から父・誠に叩き込まれた戦場の感覚を総動員し、足音一つ立てずに奥へと進んでいく。だが、彼の背中には常に冷たい視線が張り付いているような、得体の知れない違和感が拭えなかった。
そして、かつての中継基地であったと思しき、巨大なドーム状の空間に出た時だった。
「ようこそ、勇敢なる騎士様」
頭上から降り注いだ声と共に、空気を裂く鋭い風切り音が響いた。
勇が反応するよりも早く、天井の暗闇から無数の銀色の鎖が蛇のような軌道を描いて落下してきた。それはただの鎖ではない。先端に重りをつけた特殊な拘束具であり、勇の手足を瞬時に、そして正確に絡め取った。
「くっ……!?」
勇は反射的に魔力を練り上げ、衝撃波で鎖を吹き飛ばそうとした。だが、体内の魔力回路が何かに詰まったように熱を持ち、不発に終わる。鎖の節目に埋め込まれた紫色の石が、不気味な脈動を放っていた。
「無駄よ。その鎖には高密度の抗魔石が編み込んであるの」
闇の中から、愉悦を含んだ女の声が響く。
同時に、周囲の岩陰やコンテナの影から、武装した構成員たちが一斉に姿を現した。その数、およそ二十。銃口と刃が一斉に勇へと向けられる。
勇は拘束を強引に振りほどこうともがいたが、動けば動くほど鎖は肉に食い込み、自由を奪っていく。
「卑怯な……!」
「卑怯? これは狩りよ。罠にかかった獣が吠えるなんて、滑稽ね」
数人の男たちが勇に飛びかかり、抵抗する彼を地面に押さえつけた。太い腕が首を締め上げ、腹部に重い蹴りが叩き込まれる。勇は苦悶の声を漏らしながらも、必死に顔を上げ、闇の奥を睨みつけた。
視界が明滅する中、彼の体は引き摺られるようにして、更に奥へと連行されていった。
連れて行かれた先は、かつて選鉱場として使われていた広大なホールだった。天井は高く、中央にはスポットライトのように一本の照明が落とされている。その光の中に浮かび上がっていた光景を目にした瞬間、勇の心臓が早鐘を打った。
「勇さん……!」
光の中央、無骨な木馬に跨らせられ、両腕を鎖で吊り上げられた小雨がいた。
彼女の白い肌には、鮮血が滲む無数のミミズ腫れが刻まれている。着ていたはずの服は見るも無残に引き裂かれ、露わになった肌が冷たい地下の空気に晒されて震えていた。だが、その瞳だけはまだ死んでおらず、連行されてきた勇の姿を認めると、悲痛な叫びを上げた。
「逃げて……勇さん、見ちゃダメ……!」
「小雨さん!」
勇が叫ぼうとしたその時、二人の間に影が落ちた。
豪奢なイブニングドレスを纏ったヴォーン・レイラが、クリスタルのグラスを片手に優雅な足取りで現れたのだ。彼女は小雨の顎を指先で掬い上げ、品定めするように左右に向けさせた後、勇の方を向いて冷ややかな笑みを浮かべた。
「ようやく揃ったわね。敵同士の子女が恋人になる悲劇の気取りも結構だけれど、現実はそう甘くないわよ?」
小雨はレイラの手を振り払い、涙で濡れた瞳で彼女を睨み返した。
「あなたたちの思い通りにはならない。勇さんが、きっと止めてくれるわ」
「あら、そう? その勇さんは今、どんな格好をしているのかしら」
レイラが指を鳴らすと、勇を押さえつけていた男たちが乱暴に彼を立たせた。そして、一人が勇のズボンに手をかけ、一気に引き下ろした。下着ごと剥ぎ取られた勇の下半身が、冷たい外気に晒される。
「なっ、やめろ!」
勇は顔を真っ赤にして抵抗したが、屈強な男たちの力には敵わない。まだ少年特有の柔らかさを残したその秘所が、無慈悲な照明の下に晒された。
「あら、かわいいこと。お嬢ちゃんは毎回これで満足できる?」
レイラは口元を手で覆い、クスクスと笑いながら二人を見比べる。
勇にとって、自分の裸を見られる羞恥心よりも、小雨がこの状況を見せつけられ、尊厳を傷つけられることの方が耐え難かった。
「小雨を侮辱するな! 俺たちは……おめえが思ってるような汚い関係じゃねえ!」
「……汚い関係?」
レイラの目が意地悪く細められる。
「あら、つまり坊やはチェリーボーイってこと? えぇっ、嘘でしょ? ラッキー! お嬢ちゃん、恋人の童貞をもらっていいよね!?」
「勇に触るな!」小雨が悲鳴のように叫んだ。
「あなたの汚い手で、彼に触れないで!」
「あら、生意気な口」
乾いた音がホールに響いた。レイラの手のひらが、小雨の頬を強く張ったのだ。小雨の顔が大きく横を向き、白い肌に赤い指の跡が浮かび上がる。
「勇を触るな!この……ビッチ!」
小雨の口から、勇も今まで一度も聞いたことのない罵倒が飛び出した。激情に突き動かされ、ただ勇を守るために、思いつく限りの汚い言葉を投げつけるしかなかった。勇の心が痛む。自分の情けなさに、好きな子が自分を守るために、口にすることがなかった汚い言葉を吐き出した。
「あら、ひっどい。お嬢ちゃん、そんな言葉は痛くないよ?」
レイラは心外そうに肩をすくめ、再び小雨の頬を撫でた。その仕草は爬虫類が獲物を愛でるようで、小雨は屈辱に唇を噛み締めながらも、毅然とレイラを睨み続けた。
「小雨を殴らないでくれ……頼む」
勇の声が震えた。武力も魔力も封じられ、今の彼には懇願することしか残されていない。その無力感に、奥歯が砕けそうなほど食いしばる。
「いいわ。じゃあ……私としたら、この子を解放してあげようか?」
レイラは唐突に提案し、妖艶な笑みを深めた。
「えっ?」
勇は耳を疑った。
「レイラとセックスしたら、小雨ちゃんを解放するって言ってるの。淑女にこんなはしたない言葉、言わせちゃ~、メっだぞ?」
彼女は人差し指を唇に当て、子供をあやすような口調で言った。その提案の悪魔的な響きに、勇の思考が凍りつく。
「さあ、どうする? 坊やの操一つで、大事なお姫様が助かるのよ?」
勇が迷う暇もなく、背後の男が彼の顎を掴み、口を無理やりこじ開けた。別の男が小瓶に入ったピンク色の液体を流し込む。
「がっ、ごほっ……!」
強烈な甘い香りと共に、喉を焼くような熱さが食道を通って胃に落ちた。数秒もしないうちに、視界が歪み、全身の血液が沸騰したかのような感覚に襲われる。そして、意に反して血液が下半身へと集中し、さっきまで萎縮していた自身が、嘘のように硬く脈打ち始めた。
「わお、薬の効き目もあるけど、素質あるんじゃない?長さも気になる~」
レイラは興味深そうに近づき、部下にメジャーを持ってこさせた。勇の意思とは関係なく鎌首をもたげたそれを、彼女は躊躇なく冷たい手で握り、メジャーを這わせる。
「……すっごい~、16センチもあるじゃない。お嬢ちゃん幸せ~、こんなデカいの、私に譲ってくれる?」
「や、やめ……」
勇は未知の快感と薬による火照りで朦朧とする意識を必死に保ちながら、小雨の方を見た。
「するから……俺が何でもするから、だから小雨をいじめないでくれ……!」
それは、プライドをかなぐり捨てた、魂からの叫びだった。
「勇さん……ダメよ! 私のためにこんな女としちゃダメぇ!」
小雨は木馬の上で身をよじり、鎖が食い込む痛みも忘れて絶叫した。
「お願い、やめて! 勇さんは……勇さんはまだ誰とも……! 私なんかどうなってもいい、だから逃げて! そんなことしないで!」
彼女にとって、勇は汚れてはならない聖域だった。自分がどれだけ傷つこうとも、彼だけは綺麗なままで、いつか愛する人と結ばれるべきだと信じていた。それが自分であればと願った日もあったが、今この瞬間、彼女が望むのは勇の尊厳を守ることだけだった。
「泣ける~勇ちゃん、こんな素敵な彼女持って、私ヤキモチ妬いちゃうわ」
レイラはわざとらしく溜息をつき、ゆっくりと自分のドレスを引き上げた。黒いレースの下着をずらし、濡れた秘所を露わにする。
「見ててね、お嬢ちゃん。彼が初めて『男』になる瞬間を」
レイラは勇の腰に跨り、彼の熱り立つ先端を、自身の濡れた肉へと導いた。
「くっ……うぅ……!」
勇は歯を食いしばり、目を閉じようとしたが、レイラの両手が彼の顔を挟み込み、強制的に目を開かせた。
「こっちを見なさい。そして、あの子に見せつけてあげて」
ぬぷり、という水音と共に、勇の純潔がレイラの中に飲み込まれていく。
その光景を目にした瞬間、小雨の中で何かが決定的に砕け散る音がした。
(あ……あぁ……)
自分は、汚れてしまった。
体についた傷ではない。魂が、存在そのものが、罪悪感という泥に塗れていくのを感じた。
記憶すら曖昧な祖父母は、幼い自分を守るために死んだ。
母は、自分を逃がすための囮となって命を落とした。
そして今、一番大切に想っていた勇さえも、自分を助けるために、その身を、その心を、汚されている。
(私が生きている限り……私を愛してくれる人は、みんな不幸になる)
小雨の瞳から光が消え、暗い虚無が広がっていく。
レイラが腰を動かすたびに響く水音と、勇が漏らす苦悶の喘ぎ声が、小雨の精神を削り取る鋭利な刃となって突き刺さる。
「ふふっ、すごい……初めてなのに、こんなに……っ!」
レイラは恍惚の表情を浮かべ、勇の胸板に爪を立てながら腰を振った。勇のアレが彼女の最奥を突くたび、彼女は快感に身を震わせ、わざとらしく高い声を上げる。
「見て、小雨ちゃん! 勇くん、すっごく硬くなってる! 身体は正直ねぇ!」
勇は必死に声を殺そうとしたが、薬の効果で増幅された感覚は、彼の理性を容赦なく蹂躙していく。小雨を救うためだ、と言い聞かせても、生理的な快感が波のように押し寄せ、罪悪感と共に彼を責め立てた。
「う、あぁ……っ!」
限界が近づいていた。レイラの肉の締め付けと、高まる熱量が臨界点を超える。
「出しなさい……私の中に、全部!」
レイラの命令と共に、勇の身体が大きく弓なりになった。
「ぐっ……うぁぁぁッ!」
獣のような咆哮と共に、勇はレイラの胎内へ、白い生命の奔流を叩きつけた。ドクドクと脈打つ感覚が静まるまで、レイラは彼を放そうとはしなかった。
長い余韻の後、レイラは満足げな表情で勇から離れ、ゆっくりと衣服を整えた。床にへたり込んだ勇は、荒い息を吐きながら、虚ろな目で天井を見つめていた。
「ふぅ……ご馳走様。勇ちゃんは素敵だったわ」
レイラはハンカチで口元を拭い、勝ち誇った声で宣言した
「お姉ちゃんはイかされたよ、小雨ちゃん」
その言葉は、小雨に残されていた最後の理性の糸を断ち切った。
小雨は木馬の上でぐらりと身体を揺らし、焦点の合わない瞳で虚空を見つめた。涙すら枯れ果て、ただ乾いた絶望だけが彼女を支配していた。
(死にたい……)
もし自分の死が、勇をこの地獄から解放する鍵になるのなら、今すぐにでもこの首を刎ねてほしい。そう願わずにはいられなかった。
勇は震える手でズボンを引き上げ、ふらつく足取りで小雨の元へ這い寄った。
彼の心もまた、ズタズタに引き裂かれていた。自分の無力さが、浅はかな行動が、最愛の人をここまで追い詰めてしまったのだ。
だが、彼にはまだ守らなければならないものがあった。泥だらけの手で彼を掴み、涙ながらに訴えた大樹との約束。
『絶対に、姉ちゃんを連れて帰ってくる』
その言葉だけが、崩れそうになる勇の精神をギリギリで支えていた。
勇は震える指先で小雨の冷え切った足首にそっと触れ、必死に唇の形を歪めて笑顔を作ろうとしていた。
「……見た、通りだ。俺は……まだ、大丈夫だから」
その声は枯れ、力なく掠れていた。
無理に作ったその笑顔は、まるでひび割れた仮面のように脆く、今にも崩れ落ちそうだったが、それでも彼は、小雨を安心させるためにその言葉を紡ぐことしかできなかった。その表情は、ひび割れた陶器を無理やり繋ぎ合わせたようにいびつで、見る者の胸を抉るような痛々しさを湛えていたが、彼方にあるのは疑いようのない献身だった。
自分が最も傷つき、尊厳を踏みにじられ、魂まで汚されたというのに、それでも尚、彼は小雨のことだけを案じている。
その事実は、小雨の凍りついた心臓に熱湯を浴びせかけるような衝撃を与えた。
(どうして……どうしてなの、勇さん)
自分は守られるばかりで、泣いてばかりで、彼の献身をただ貪るだけの寄生虫のような存在ではなかったか。彼が自分のために汚泥を啜り、見知らぬ女に跨られ、獣のように扱われるのを、ただ傍観していただけの共犯者ではなかったか。
レイラはそんな二人を見下ろし、愉悦に満ちた瞳で赤ワインのグラスを掲げた。
「さて、素晴らしいショーの第一幕は終了ね」
彼女がグラスを傾け、赤い液体が煌めく中、部下たちが再び動き出した。
「次は、もっと楽しい『教育』の時間にしましょうか」
「あ……あっ……」
小雨の喉の奥から、嗚咽とも咆哮ともつかない空気が漏れた。
勇の瞳から光が消えていない。あの真っ直ぐで、少し不器用な優しさは、泥にまみれても決して損なわれていない。
それを守らなくてどうする。
彼が命を賭して守ろうとした「白龍小雨」という人間が、ここで心を折って死を選べば、勇の犠牲は無駄になる。彼が飲まされた屈辱は、ただの徒労へと成り下がる。
(そんなこと、絶対にさせない)
消えかけていた瞳の奥底に、どす黒い熾火のような激情が灯った。それは恐怖や絶望を瞬時に焼き尽くし、純粋な怒りという燃料を得て爆発的なエネルギーへと変換されていく。
「……あら、まだお喋りする気力が残っているの? 健気ねぇ」
レイラがグラスのワインを飲み干し、気だるげに手を振ったのと同時だった。
バヂィッ!
鋭い放電音が響き、小雨を拘束していた鎖の表面に幾何学的な光の紋様が走った。
「なっ、何!?」
部下の一人が叫ぶ間もなく、小雨の手首を締め付けていた抗魔石入りの手錠が、内側からの圧力に耐えきれず悲鳴を上げ始めた。小雨は痛みに顔を歪めることもなく、ただ自身の体内に眠る「気」の回路を強引にこじ開け、奔流となって溢れ出るエネルギーを手首の一点へと集中させたのだ。
皮膚が裂け、鮮血が噴き出す。肉が削れる激痛が脳髄を走るが、そんなものは勇が味わった苦痛に比べれば、蚊に刺された程度のものでしかなかった。
「あなたたちには……これ以上、勇を汚させない!」
裂帛の気合いと共に、金属の破断音が轟いた。
鋼鉄の拘束具が飴細工のように弾け飛び、破片が床に散らばる。自身の手首から滴る血が、彼女の白い肌に鮮烈な赤の軌跡を描いていたが、小雨はその痛みすらも武器に変えるかのように、血に濡れた両手を構えた。
「殺せ! 撃ち殺せ!」
レイラが顔色を変えて叫ぶ。
傭兵たちが一斉に引き金を引こうとした瞬間、小雨は既に動いていた。彼女が空中に指先を疾らせると、目に見えない軌跡が青白く発光し、複雑な術式が一瞬にして虚空に刻まれる。
それは呪文の詠唱などという悠長なものではない。彼女の意志が物理法則を書き換えるためのプログラムコードとなり、世界に直接干渉する暴力的な演算だ。
「穿て、烈風!」
小雨が両掌を突き出すと、坑道内の停滞した空気が一気に収束し、目に見えない巨大な槌となって傭兵たちを襲った。
「ぐわぁっ!」
数人の大男たちが、まるで枯れ葉のように吹き飛ばされ、コンクリートの壁に叩きつけられる。銃弾が明後日の方向へ乱射され、火花が散る中で、小雨は畳み掛けるように次の術式を展開した。
地下水脈から滲み出していた汚水が、彼女の意志に呼応して地を這う蛇のように鎌首をもたげる。
「消え失せろ!」
彼女が腕を薙ぎ払うと、汚水の塊は高圧のウォーターカッターのごとき奔流となり、残りの敵を薙ぎ倒した。水圧に足を掬われた男たちが悲鳴を上げて転倒し、武器を取り落とす。
「馬鹿な……抗魔石の結界内で、これだけの出力を!?」
レイラは信じられないものを見る目で小雨を凝視し、一歩後ずさった。単なる箱入り娘だと思っていた少女が、まさかこれほど高純度の魔力適性を持っているとは予想外だったのだ。
小雨はその隙を見逃さず、床にヘタリ込んでいた勇の元へ駆け寄った。
「勇さん! 立てますか!?」
「こ、小雨さん……その手……」
勇は小雨の手を取り、見るも無残に裂けた手首の傷を見て息を呑んだ。白く華奢な手首には、拘束を引きちぎった際についた深い裂傷が刻まれ、血がとめどなく滴り落ちている。
「こんなの、どうでもいい! ……早く、ここから出ないと」
小雨は自分の傷になど目もくれず、勇の腕を肩に回して強引に立たせた。勇の体は薬の影響で熱く、足元はおぼつかない。それでも、小雨の小さな体のどこにそんな力が残っているのか、彼女は勇の体重を支えながら出口の方角へと視線を走らせた。
「逃がすわけないでしょ、クソアマが!」
我に返ったレイラが、優雅さをかなぐり捨てて金切り声を上げた。彼女もまた一流の魔術師だ。ドレスの裾を翻すと、その周囲の空間が蜃気楼のように歪み、無数の氷柱が生成される。
「串刺しにしてあげるわ!」
氷の槍が弾丸のような速度で射出される。
小雨は勇を庇うようにして振り返り、咄嗟に防御の術式を構築しようとしたが、連戦と手首の傷による失血が彼女の反応を鈍らせていた。
「くっ……!」
展開された風の障壁が氷柱の雨を受け止めきれず、数本の氷片が障壁を貫通して小雨の肩や頬を掠める。鮮血が舞い散り、衝撃で二人は後方へとたたらを踏んだ。
「はぁ、はぁ……」
小雨は苦しげに息をつき、左手で右肩の傷を押さえた。さすがに幹部クラスの魔術師相手に、正面からの撃ち合いは分が悪すぎる。それに、勇を連れたままでは、これ以上の戦闘継続は自殺行為に等しい。
「所詮は素人のデタラメな力押しね。基礎がなってないのよ、お嬢ちゃん」
レイラは冷酷な笑みを浮かべ、掌に新たな魔力を収束させながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。背後からは、体勢を立て直した傭兵たちが再び銃口を向けていた。
絶体絶命の包囲網。
だが、小雨の瞳から闘志が消えることはなかった。彼女は周囲の地形を瞬時に観察し、天井付近の脆くなった岩盤と、そこに張り巡らされた錆びついた配管に目をつける。
(あそこなら……!)
「勇さん、耳を塞いで!」
小雨は最後の魔力を振り絞り、攻撃の術式ではなく、より単純で原始的な衝撃波を練り上げた。狙うのは敵ではない。この空間そのものの構造的弱点だ。
「砕けろぉッ!」
彼女が放った衝撃波は、レイラたちを飛び越え、天井の巨大な鉄骨と岩盤の接合部を直撃した。
ズヂジジジッ……!
嫌な音が響いた直後、轟音と共に天井の一部が崩落した。
「なっ、気でも狂ったの!?」
レイラが悲鳴を上げて後退する。大量の瓦礫と粉塵が滝のように降り注ぎ、坑道内は一瞬にして白濁した視界不良の闇に包まれた。巻き上がった土煙が視界を奪い、敵の怒号と咳き込む声が錯綜する。
「今よ!」
小雨はこのカオスこそが唯一の勝機だと確信していた。彼女は勇の体を抱き寄せ、粉塵の幕を隠れ蓑にして、迷うことなく闇の奥へと駆け出した。
「ゴホッ、ゴホッ……待ちなさい! 撃て! 音のする方へ撃ちまくりなさい!」
レイラのヒステリックな命令が響き、闇雲に放たれた銃弾がコンクリートの壁を削り、火花を散らす。
小雨は頭を低くし、勇を引きずるようにして走り続けた。手首の傷口から痛みが脈打ち、肺が焼けつくように熱かったが、勇の体温を感じている限り、足が止まることはなかった。
地下の冷たい風が頬を撫でる。カビと錆の臭いが充満する迷路のような通路を、二つの影はただひたすらに、出口を求めて疾走していった。
坑道の奥から届いていた崩落の轟音は既に遠く、今はただ、天井の染みから落ちる雫の音だけが、二人の荒い呼吸の合間を縫って時を刻んでいた。
濡れた岩肌に背を預けた勇の身体は、薬の効果で煮えたぎるような熱を持て余しており、その内側から食い破ろうとする獣のような衝動を、理性という鎖だけで辛うじて繋ぎ止めながら、腕の中に横たわる小雨の安否を確かめるように視線を落とした。
「……はぁ、はぁ。小雨さん、大丈夫か」
暗闇に目が慣れるにつれ、小雨の白い肌に刻まれた惨状が、勇の網膜に焼き付いて離れない。泥と埃に塗れた頬、引き裂かれた服の隙間から覗く鬱血した痣、そして何より、あの鎖を引きちぎる際に生じた手首の深い裂傷が、どす黒い赤色を絶えず滲ませている様は、勇の胸を鋭利な刃物で抉るような痛みを伴っていた。
(まただ……また、俺のせいだ)
勇は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、血の気の引いた拳を濡れた地面に叩きつけた。彼女を守ると誓ったはずの自分が、あろうことか彼女を人質に取られ、あのような恥辱を受けさせ、挙句の果てに彼女自身の身を削って助けられるなど、男としての矜持も何もかもが泥に塗れた気分だった。
「すまない……俺がもっと強ければ、こんな傷なんて……」
勇の声は湿った空気の中で震え、自責の念に押し潰されそうになっていたが、その時、冷え切った指先がそっと勇の頬に触れ、その熱を確かめるように包み込んだ。
「……馬鹿なことを言わないで」
小雨の声は弱々しく掠れていたが、そこには勇が未だかつて聞いたことのないような、芯の通った強さが宿っていた。彼女は痛む身体を無理やり起こし、勇の正面に座り込むと、その潤んだ瞳で勇の揺れる瞳を射抜くように見つめた。
「私が怪我をしたのが、勇さんのせいだっていうの? じゃあ、勇さんがあんな酷いことをされて、傷ついたのは誰のせいなの?」
「それは……俺が未熟だから……」
「違うッ!」
小雨の鋭い叱咤が、坑道の静寂を切り裂いた。彼女は血の滲む手で勇のシャツの胸元を掴み、力任せに引き寄せる。
「私たちは二人で一つでしょう? あなたが傷つけば私も痛いし、私が傷つけばあなたも痛い。……守られるだけの悲劇のヒロインなんて、私はもう御免よ」
かつて箱入り娘として籠の中にいた頃の、儚げで壊れそうな少女の面影はそこにはなく、泥と血に塗れながらも、自らの足で地獄を歩く覚悟を決めた一人の女性の顔がそこにあった。
「勇さんが戦うなら、私も戦う。勇さんが地獄に行くなら、私もそこまでついて行く。……これが、私の決意よ!」
その言葉はただの慰めではなく、魂の契約にも似た重みを持って勇の胸に響き、心臓にこびりついていた罪悪感という名の澱を洗い流していった。
彼女は守るべき対象であると同時に、背中を預けるべき対等な共犯者なのだと、勇は痛烈に理解させられた。
「……ああ。分かった」
勇の瞳から迷いが消え、代わりに静かで熱い炎が灯る。彼は自分の胸元を掴む小雨の手を取り、その甲に誓いの口づけを落とすようにして額を押し当てた。
「一緒に行こう、小雨さん。……最後まで」
小雨は張り詰めていた糸が切れたようにふわりと微笑むと、そのまま吸い寄せられるように勇の胸へと身を預けた。連日の拷問に近い拘束と、魔力を使い果たした反動が、彼女の意識を急速に深い眠りの底へと引きずり込んでいく。
「……うん。勇さんの匂い……安心……する……」
最後の言葉は寝息へと溶け、彼女の身体から完全に力が抜けた。
その無防備な重みと柔らかさが勇の腕の中に沈み込むと同時に、彼の中で抑え込んでいた別の「熱」が鎌首をもたげた。レイラによって盛られた薬は未だ体内で猛威を振るっており、小雨の甘い体臭と柔らかな感触は、理性の防波堤を決壊させかねないほどの暴力的な刺激となって脳髄を揺さぶる。
(くっ……鎮まれ、頼む……!)
勇は荒くなる呼吸を必死に噛み殺し、自らの舌を噛んで意識を覚醒させた。今、この目の前で無防備に眠る彼女を襲ってしまえば、それこそ本当に獣に成り下がってしまう。震える手で小雨の肩を抱き寄せながら、勇は彼女の寝顔を見つめたまま、ただひたすらに自分の中の魔物と戦い続けていた。
その時だった。
遠くから聞こえていた風鳴りが、人工的なサイレンの咆哮へと変わり、坑道の入口付近が一斉に赤いパトランプの光で染め上げられた。
「……いたぞ! 二人とも無事だ!」
複数の足音と共に、三宅龍平の安堵した声が響き渡る。続いて、熊谷剛の巨体がライトの逆光の中に現れ、その後ろから、この街の暗部を統べる二人の「父親」が姿を現した。
刃は、娘が無事であるという事実に安堵の息を漏らしたのも束の間、勇の腕の中で泥のように眠る小雨の姿を見て、その表情を複雑に強張らせた。
仇敵の息子であり、あろうことか娘を危険に晒した張本人。本来であれば、その手から娘を強引に引き剥がし、二度と近づけぬよう壁を作るところだろう。
だが、刃の目は節穴ではない。勇が身体中の血管が浮き出るほど何かに耐えている様子や、小雨の衣服を整え、冷たい地面から彼女を守るように抱いているその手の甲に滲む血を見て、彼がどれだけの覚悟で娘を守り抜いたのかを悟らずにはいられなかった。
「……チッ。生意気な顔をしやがって」
刃は短く毒づいたが、その手から拳銃を下ろし、深く溜息をついた。
一方、その隣に立った黒龍誠は、かつてないほどの衝撃を受けていた。
ライトに照らされた息子の顔は、かつての幼さなど微塵もなく、一人の男としての凄味すら帯びている。そして、その腕の中で安心して眠る小雨の表情は、親である自分たちですら見ることのできなかった、全幅の信頼を寄せた「女」の顔だった。
誠の胸の奥底から、焼け付くような悔恨が込み上げてくる。
かつて自分が野心のために踏みにじり、引き裂こうとした未来が、こうして瓦礫の中で美しく結実しようとしている。もし自分が道を誤らなければ、こんな薄暗い地下ではなく、陽の当たる場所で二人は笑い合えていたのかもしれない。
「……誠様」
いつの間にか背後に控えていた蓮司が、静かに声をかけた。
誠は無言で頷き、じっと二人を見つめ続けた。
自分はなんと小さな男だったのだろう。過去の因縁や組織の面子に固執し、未来ある若者たちを犠牲にしようとしていた。小雨という少女が、自分の息子を含めた全ての因果を受け入れ、それでも尚、共に生きようとする強さを見せつけているというのに。
(償わなければならん……この命を賭しても)
誠の中で、迷いは消え去った。自分が積み上げた罪の精算は、自分でつけるしかない。この若く美しい魂たちが、これ以上大人の汚い都合で傷つくことがないように。
「……行くぞ、刃。子供たちの邪魔をするのは野暮だ」
誠は短く告げ、踵を返した。その背中は以前よりも一回り小さく見えたが、纏う空気は鋼鉄のように硬質で、かつてないほどの決意に満ちていた。
坑道の闇の中、赤い回転灯の光が点滅し、勇と小雨の姿を交互に浮かび上がらせている。
勇は眠る小雨の手をそっと握り直し、その温もりを確かめた。二人の手と手は、泥と血で汚れてはいたが、決して解けることのない固い絆で結ばれている。
外の世界がどれほど理不尽で、残酷な運命が待ち受けていようとも、この手の温もりがある限り、彼らは何度でも立ち上がり、夜明けを目指して歩き出すだろう。
静寂を取り戻しつつある地下空間で、若き二人の寝息だけが、確かな希望の鼓動として響いていた。
0
あなたにおすすめの小説
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
俺様御曹司に飼われました
馬村 はくあ
恋愛
新入社員の心海が、与えられた社宅に行くと先住民が!?
「俺に飼われてみる?」
自分の家だと言い張る先住民に出された条件は、カノジョになること。
しぶしぶ受け入れてみるけど、俺様だけど優しいそんな彼にいつしか惹かれていって……
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる