仁義と血縁、その先に小雨〜黒龍の息子と白龍の娘、因縁を乗り越え平和を掴むまで〜

桐生刻

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本編

第11話 最終決戦、そして希望の夜明け

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 冷たく湿った空気が漂う掩体壕の一室で、小雨はゆっくりと意識を取り戻した。まどろみの中で感じたのは、硬い床の感触ではなく、自分を包み込む確かな温もりと、規則正しく刻まれる鼓動の音だった。
 目を開けると、すぐ近くに勇の寝顔があり、自分が彼に抱きしめられたまま眠っていたのだと気づく。羞恥心が一気に込み上げ、同時に昨夜の惨劇がフラッシュバックして、反射的に身を引こうとした。
「……っ」
 小雨が動いた気配に敏感に反応し、勇の腕が彼女を逃がさないように強く引き寄せた。彼の目はすでに覚めており、その瞳には小雨の体中に刻まれた無数の傷跡を見て、自分の無力さを呪うような深い悲痛が滲んでいた。
「動かないで、小雨さん。傷が……痛むだろう」
 勇の声は低く、震えていた。彼は小雨の無残な姿を直視することに耐えられないかのように一度目を伏せ、それでも彼女から目を逸らすまいと、再びその瞳を見据えた。
「ごめん……俺がもっと強ければ、君にこんな思いをさせずに済んだのに……君の心も体も、こんなに傷つけてしまって……」
「バカ……私はただの弱い女の子じゃないから、そんな顔しないで」
 小雨は勇の頬に手を添え、自分を責める彼の言葉を遮るように唇を重ねた。ただ触れ合うだけの淡い口づけだったが、そこには彼女の精一杯の愛情と、彼を安心させたいという強い意志が込められていた。
 唇を離すと、小雨は潤んだ瞳で勇を見上げ、胸の奥に巣食っていた最大の棘を、震える声で吐露し始めた。
「勇さん、私と……こんなこと、してほしい?私がもう……あなたにあげられる処女《はじめて》がないけど、ごめんね……」
 誠という男に、勇の父親に純潔を散らされたという事実は、小雨の心に消えない烙印となっていた。どれほど気丈に振る舞おうとも、愛する人の父親に汚されたという事実は、あまりにも深く鋭いナイフとなって彼女の自尊心を切り刻んでいたのだ。
 しかし、勇の表情に軽蔑の色は微塵もなく、ただ今まで以上に深い愛情と悲しみが浮かんでいた。
「俺はずっと、そんなこと気にしてないよ。たとえ小雨さんの傷としてそんな事実があったとしても、俺の小雨への愛は一ミリだって変わらない」
 勇は小雨の手を取り、自分の胸に押し当てた。
「それに……俺も望んでない形でされたから、お互い様だろう? ただ、自分の初めてが小雨さんじゃなかったこと、君を守れなかったことの方が、俺はずっとショックを受けてるんだ」
 勇の目が曇り、悔しさに唇を噛み締めるのを見て、小雨の胸に温かいものが広がっていった。自分だけが汚れているわけではない、彼もまた同じ痛みを背負っているのだと知り、二人の魂がより深く共鳴するのを感じた。
 小雨は再び身を乗り出し、今度は勇の頬に優しくキスをした。
「じゃあ、私たち、過去を上書きしましょう」
 小雨の言葉は、祈りのようでもあり、決意の表明でもあった。
「うん、上書きしましょう。これから、お互いはお互いのものになろう」
 二人は互いの体に纏わりついていた、汚れと痛みと汗の染み込んだ衣服を脱ぎ捨てていった。
 採掘場の薄暗い明かりの下、小雨の白い肌が露わになる。そこにはレイラの拷問による傷跡や痣が痛々しく残っていたが、それでも勇には、彼女がこの世で最も美しい存在に見えた。
「綺麗……」
 思わず漏れた勇の呟きに、小雨は頬を赤らめ、自分の体を隠そうと腕を回した。
「大袈裟だよ。こんな傷だらけの体、勇さんに見られて、恥ずかしい……」
「隠さないで」
 勇は優しく、しかし力強く小雨の手首を掴み、遮るものを排除した。彼の瞳は、まるで美術品を鑑定するかのように、小雨の傷の一つ一つ、肌の質感、そして彼女の存在そのものを網膜に焼き付けようとしていた。
「小雨さんだから、小雨のすべてが綺麗なんだ……俺こそ、こんなに傷つくまで君を守れなくて、小雨さんに相応しい男になれなくて……」
「ううん……勇さんはカッコよくて、頼もしくて、私の王子様……ううん、王子様よりすごくかっこいい」
 小雨は勇の逞しい大胸筋に指先を這わせ、その下にある硬質な筋肉の感触に鼓動を早めた。自分を守るために鍛え抜かれた男の体、その熱と硬さが、彼女に生きる実感と、女としての喜びを与えてくれる。
「だから、勇さん、私を……もっと私を抱いて……」
 勇は敷かれた服の上に小雨をゆっくりと寝かせ、壊れ物を扱うように覆い被さった。小雨の太腿に触れる勇の昂りは、彼女を求める熱情の証として、すでに限界まで硬く脈打っていた。
「勇さんはすごい、もうこんなに硬くて……私は嬉しい……勇さんが私を求めている証拠だ……」
 小雨はおずおずと手を伸ばし、勇の熱く猛る部分に触れ、愛おしむように優しく撫でた。
「うっ……小雨さんの手が……気持ちいい……」
 小さくても柔らかく、温かい小雨の手のひらの感触に、勇は理性があっけなく崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。彼の中で渦巻くのは欲望だけではない。目の前の愛しい少女を癒やしたい、一体になりたいという切実な渇望だった。
「ごめん……勇さん、来て、私を……愛して……」
 小雨の懇願に応え、勇はゆっくりと、時間をかけて結合を果たした。痛みを与えぬよう、けれど確実に奥深くまで、愛おしさを込めて突き進む。
 肉体の繋がりを通して、言葉以上の想いが奔流となって小雨の体内へと注ぎ込まれていく。
「いさ……むさん……あん……気持ち……いい……ふぅ……私……気持ち……よくて……夢見てない……よね……」
 これまで味わった屈辱的な痛みや恐怖とは全く違う、甘く痺れるような感覚が全身を駆け巡る。これが愛のあるセックスなのだと、小雨は涙が滲むほどの幸福感に包まれながら実感した。
「夢じゃないよ……くっ……小雨はこんなにかわいいから、小雨を愛さない男なんていないよ……」
 小雨の未熟な肉体に強く締め付けられ、強烈な快感が勇の背筋を駆け上がるが、彼は自分だけの快楽に溺れることはしなかった。
 一度も愛を知らぬまま傷つけられた小雨に、自分が持てるすべての愛情を注ぎ込み、彼女の記憶を幸せだけで満たしたかった。
「やだ……ん……私は……勇……ん……だけに愛して……ほしい……うぅ……他の男なんて……いらない……」
 小雨は勇の逞しい腰に手を回し、自分を突き上げるたびに伝わる彼のリズム、熱、重みを全身全霊で感じ取ろうとした。激しくも優しい愛の波が、彼女の中にある暗い記憶を一つずつ洗い流していく。
「小雨……愛している……これからも、俺がお前を守って、愛して、二度と悲しいこと、苦しいことをさせない……」
 勇のピッチが速まり、二人の呼吸が一つに重なる。絶頂へ向かう高揚感の中で、互いの名前を呼び合い、魂の深い部分で結びついていく。
「うん……勇……私も……はん……勇を幸せにして……あげたい……やだ……私……もう、イきそう……」
 かつて一晩中続いた暴力にはただ耐えることしかできなかった小雨だったが、愛する人との交わりは彼女の感覚を鋭敏にし、あっという間に精神と肉体を絶頂へと導いた。勇の腰に小雨の白い足が強く絡みつき、彼女は背中を反らせて甘い声を上げた。
「俺も……小雨……好き……っ!」
「勇さん……私に……ん~~……出して……過去を……上書きして……!」
 その一言が引き金となり、勇は小雨の最も深い場所に己を押し当て、溢れ出る熱い情動をすべて解き放った。二人は互いにしがみつき、溶け合うような感覚の中でしばらく震えていた。
 荒い呼吸が落ち着きを取り戻し、二人は余韻に浸りながら互いの肌を愛おしそうに撫で続けた。衣服も纏わずに寄り添い合うその姿は、世界の残酷さから切り離された、二人だけの小さな楽園のようだった。
 その部屋の外、冷たい通路の壁に背を預けて、白龍刃は静かに立っていた。
 中から漏れ聞こえる娘の幸せそうな喘ぎ声、そして勇の誠実な言葉。それを耳にするたび、強面で知られる組長の目からとめどなく涙が溢れ落ちた。
 娘が真の愛を知り、心からの幸せを感じていることへの安堵と、敵の息子でありながら娘をここまで大切に想ってくれる勇という少年の頼もしさに、彼の胸は熱く震えていた。刃は音を立てぬよう、そっと目尻を拭い、二人の静寂を守る門番として、その場に仁王立ちを続けた。

 金属鉱の分厚い鉄扉が軋みを上げて開かれると、通路に充満していた火薬と鉄錆の匂いが一気に雪崩れ込んできた。
 薄暗い照明の中、衣服の乱れを整えながら出てきた勇と小雨を出迎えたのは、気まずそうな沈黙と、それを必死に飲み込もうとする大人たちの視線だった。
 小雨の頬はまだ桃色の余韻を残しており、勇の首筋には隠しきれない情事の痕跡が薄っすらと浮かんでいる。それは、地獄のような拷問と死線を潜り抜けた二人が、魂の底で結びついた動かぬ証拠であった。
「……お疲れさん」
 龍平がどこかバツが悪そうに視線を逸らし、剛は無言のまま腕を組んで仁王立ちをしている。その中央で、白龍刃は娘の艶めいた表情を凝視し、その双眸を潤ませていた。
 本来ならば、愛娘を傷物にされた怒りで憤死してもおかしくない場面だが、今の彼を支配していたのは、娘が生きて自分の足で立っているという安堵と、彼女がようやく手に入れた本物の幸福への感傷だった。
(ああ……なんという顔だ。あんなに泣き虫だった小雨が、こんなにも美しい女の顔をするようになるなんて)
 刃の脳裏には、遠い未来の幻影が浮かぶ。平和な縁側で、勇と小雨に似た小さな子供たちが走り回り、自分を「おじいちゃん」と呼ぶ光景――。
「……ぐふっ」
 思わず頬が緩みかけ、鼻の下が伸びそうになった瞬間、刃は両の手のひらで自らの頬を「パァン!」と勢いよく叩いた。
「いかんいかん! 今ここで腑抜けてどうする! あの子たちが産んでくれる孫の顔を見るまでは、何があっても死ねんのだ! ここでくたばったら子も元もなくなるわ!」
「なにを一人で騒いでいる」
 呆れたように吐き捨てたのは黒龍誠だ。
 彼は息子と小雨の姿を一瞥し、僅かに眉を動かしただけで多くを語ろうとはしなかったが、その瞳の奥にある鋭い光は、かつての冷徹なそれとは明らかに異なっていた。息子が男としての責任を果たし、小雨を守り抜いた事実を、無言のうちに認めているのだ。
「……行くぞ。敵の掃討はまだ終わっていない」
 誠が踵を返し、全員が戦闘態勢を取り直そうとした、まさにその時だった。
 ズズズズ……ッ!
 地響きと共に、坑道全体の空気が歪んだ。警告する間もなく、通路の四方八方に埋め込まれていた術式が一斉に起動し、空間そのものを分断する結界が展開される。
「離れろッ! 罠だ!」
 剛の怒号が響くよりも早く、床が爆ぜ、天井が崩落した。物理的な破壊と魔術的な転送が同時に襲いかかり、一行は散り散りになる。
「小雨!」
 勇は反射的に小雨の手を掴み、崩れ落ちる瓦礫の隙間へと飛び込んだ。もう一方では、剛と龍平が爆風に煽られて別の横穴へと吹き飛ばされ、後衛にいた国清と数名の部下たちも、分断工作によって視界から消えた。
 砂煙が舞い、視界が遮られる中、かつての中央採掘坑と思われる広大な空間に残されたのは、奇しくも二人の「父親」だけだった。
「……チッ、古臭い手使いやがって」
 刃は土埃を払いながら悪態をつき、懐から愛用のドスを引き抜いた。その背後に、背中合わせになるようにして誠が立つ。
「孤立させ、各個撃破を狙うか。ヴォーン・レイラにしては芸のない策だ」
 誠は冷静に周囲を見回し、指先で魔力を練り上げながら呟いた。彼らを取り囲むように、暗闇から無数の赤い眼光が浮かび上がり、真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》の精鋭部隊が姿を現す。機械化された四肢を持つ改造兵士や、不気味な呪具を構えた魔術師たちが、二人を完全に包囲していた。
「おい誠、背中ががら空きだぞ。俺に刺されるのが怖くねえのか?」
 刃は軽口を叩きながらも、その筋肉を鋼のように硬直させ、殺気を全身から放つ。その言葉に対し、誠はフンと鼻を鳴らした。
「貴様ごときに後れを取るほど耄碌はしていない。それに……今ここで貴様に死なれては、小雨嬢が悲しむ」
「はん、随分と殊勝なことを言うじゃねえか」
 二人の間に、若き日のように火花が散る。
 かつて同じ街で覇を競い、血で血を洗う抗争を繰り広げた宿敵同士。だが今、彼らの背中には、守るべき子供たちの未来という共通の重荷が乗っていた。
 敵兵の一人が号令もなく飛びかかってきた。
 刃は振り返りもせず、最小限の動きでドスを一閃させる。銀色の軌跡が闇を切り裂き、敵兵は悲鳴を上げる間もなく喉を押さえて崩れ落ちた。
 同時に、誠の方へ放たれた魔力弾を、彼は片手で展開した防壁で弾き返し、瞬時に組み上げた反撃の術式で術者を黒焦げにする。
「見事なもんだな、相変わらず」
「貴様こそ、腕は鈍っていないようだな」
 背中合わせのまま、二人は次々と襲い来る敵を屠っていく。言葉とは裏腹に、その連携は長年連れ添った相棒のように阿吽の呼吸で噛み合っていた。右から敵が来れば刃が斬り、左の隙を誠が魔術で埋める。
「誠、一つだけ言っておく」
 刃は次なる敵を睨み据えながら、低い声で言った。
「俺は死んでもお前が許せねえ。お前が過去にやったこと、俺たちから奪ったもの……その罪は消えねえ。だが、今は小雨のためだ。あの子をこれ以上悲しませないために、お前への仇(カタ)は一旦封印する」
 刃のドスが回転し、突っ込んできた改造兵の腕を切り落とす。
「だがな、もしお前がまた俺の娘を悲しませるような真似をしてみろ。その時は……今度こそ、俺の手でぶっ殺す」
 その言葉には、冗談めいた響きは一切ない。父親としての、男としての本気の殺気が込められていた。
 誠は一瞬だけ目を伏せ、自嘲するように口元を歪めた。
「ああ……分かっている。俺はもうこれ以上、お前にも、あの『お嬢ちゃん』にも悪いことをするつもりはない」
 誠の手から放たれた衝撃波が、三人の敵をまとめて壁に叩きつける。
「俺は誓ったんだ。もしもの時は、俺の命ですべてを購うとな。それに……」
 誠は僅かに顔を後ろに向け、皮肉な笑みを浮かべた。
「勇の嫁――つまり、俺の娘にもなった以上、誰があの子を悲しませるような真似をしたら、俺もあいつをバラバラにするほど分からせてやる」
 その瞬間、刃のこめかみに青筋が浮かんだ。
「誰がお前の娘だァッ!! 勝手に親戚ヅラしてんじゃねえぞ、このクソ野郎が!」
 刃の怒号が坑道に響き渡り、それと同時に彼は地面を蹴って敵の群れへ突っ込んだ。誠もまた、「フッ」と鼻で笑い、黒いロングコートを翻して反対側の敵陣へと躍り出る。
「往生際の悪い男だ。事実は事実として受け入れろ」
「うるせえ! 孫の顔を見るまでは絶対認めん!」
 二人は罵り合いながらも、その顔にはどこか晴れやかな笑みが浮かんでいた。ドスと魔法、物理と異能。全く異なるスタイルの暴力が螺旋を描き、真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》の部隊を次々と肉塊に変えていく。
 かつて憎しみだけで繋がっていた二つの魂が、今は子供たちの未来を守るという一点において、最強の盾となり矛となっていた。
「さっさと片付けるぞ、誠! 子供たちが待ってる!」
「指図するな。私のペースでやる」
 爆音と閃光の中、二人の背中は以前よりも大きく、そして頼もしく見えた。

「あらあら、もうガス欠? さっきまでの威勢はどこに行っちゃったのかしら」
 坑道の冷たい空気を切り裂くように、ヴォーン・レイラの甲高い嘲笑が響き渡った。
 瓦礫の山の上に優雅に腰を下ろした彼女は、指先で弄ぶように小さな氷の礫を空中に生成し、まるでゴミでも弾くような手つきで、それを眼下の二人へと放ち続けている。
「くっ……!」
 勇は手元に残った僅かな魔力で障壁を展開したが、その輝きは蛍火のように頼りない。氷礫が直撃するたびに障壁は不協和音を立てて軋み、その衝撃が勇の体に直接響いて、彼の膝を震わせた。
「勇さん……!」
 小雨が横から飛び出し、風の刃で氷を打ち払おうとする。だが、その切っ先はレイラに届くどころか、数メートル手前でふわりと霧散してしまった。
 連日の拘束による極度の消耗、そして先程の結界破壊で強引に使い果たした気力。今の彼女には、立っていることすら奇跡に近い。
「無駄よ、お嬢ちゃん。あぁ、そういえば……あなたの大切な勇ちゃん、とってもいい声で鳴いてたわよね? 私の下で」
 レイラは口元を扇子のように手で覆い、わざとらしく小雨を見下ろした。その瞳には、他人の尊厳を踏みにじることへの悦びだけが浮かんでいる。
「最初は嫌がってたのに、お薬が効いてきたら、自分から腰振っちゃって……『もっとくれ』ってね。あんなに素直な男の子、久しぶりだったわ」
「やめろ……!」
 勇が悲鳴のような声を上げた。その顔は羞恥と屈辱で朱に染まり、握りしめた拳からは血が滲んでいる。レイラの言葉は、物理的な攻撃以上に二人の精神を削り取っていく鋭利な針だった。
「ほら、小雨ちゃんも思い返したでしょう? あなたの知らない女の胎内で、彼がだらしなく果てる姿を。……あははっ、ごめんねぇ、取っちゃって!」
「……っ」
 小雨の足がふらつく。勇の汚された記憶、そして自分自身の無力さ。それらが複雑に絡み合い、彼女の思考を真っ白な絶望へと塗り替えていく。
 戦う術はない。逃げる体力も残されていない。
 圧倒的な戦力差と、精神的な蹂躙。二人は文字通り、断崖絶壁の淵に立たされていた。
「……ごめん、勇さん」
 小雨の声が、震えながらも静寂に落ちた。
「私が……もっと冷静だったら……」
「違う、謝るのは俺だ。俺が……不甲斐ないばかりに……」
 二人は互いに視線を絡ませた。そこにはもう、焦燥や恐怖の色はない。あるのは、深く静かな諦念と、それを受け入れた者だけが持つ透明な哀しみだった。
「たぶん、ここで終わりだ」――誰も口にはしなかったが、その思いは痛いほどに通じ合っていた。
 瓦礫に隠れるようにして身を寄せ合い、二人の手が自然と重なる。
 泥と血にまみれた指を絡ませ、強く、痛いほどに握りしめ合う「恋人繋ぎ」。互いの体温だけが、この凍てつく世界で唯一の確かな現実だった。
 小雨はゆっくりと顔を上げ、勇の唇を見つめた。
「……勇さん」
 彼女は背伸びをし、そっと唇を重ねた。
 それは情欲の欠片もない、魂の契約のようなキスだった。震える唇の感触を通して、「ずっと一緒だから」「怖くないよ」という言葉にならない意思が流れ込んでくる。
 勇の目から涙が溢れ、彼は小雨の背中に腕を回してきつく抱きしめた。彼女の鼓動が、自分の肋骨を叩くように伝わってくる。もし地獄に落ちるとしても、この温もりがあるなら耐えられる。そう思えた。
 二人は瞳を閉じ、迫りくる終わりの時を静かに待った。
「あら、お涙頂戴の三文芝居はおしまい?」
 レイラはつまらなそうに鼻を鳴らすと、懐から無骨な鉄塊を取り出した。安全ピンを引き抜くと、カチリという乾いた音が死刑宣告のように響く。
「じゃあね、仲良くミンチにおなり」
 彼女の手から放たれた手榴弾が、放物線を描いて二人の頭上へと迫る。
 死の影が落ちる。

 その時だった。
 パァンッ!
 鋭い破裂音が虚空を叩いた。
 空中で何かが手榴弾を直撃し、軌道を大きく歪ませる。直後、銀色の閃光が闇を走り、空中の爆発物を真っ二つに斬り裂いた。
「なっ!?」
 ドォォォォンッ!!
 手榴弾は二人の頭上ではなく、遥か彼方の壁面で爆発し、熱風と爆炎が坑道を揺らした。
「誰だッ!?」
 レイラの金切り声が、硝煙の中に吸い込まれていく。
 煙の向こうから、重厚な足音と共に複数の人影が現れた。
「……ったく。若いモンがデートしてるってのに、野暮な真似しやがって」
 白龍刃が、湯気の立つ拳銃を構えながら仁王立ちしていた。その隣には、抜き身の日本刀を真一文字に構えた黒龍誠が、氷のような殺気を纏って立っている。
「刃、軽口は後にしろ。……勇、小雨君、怪我はないか」
「親父……! 刃さん……!」
 その後ろから、三宅龍平と熊谷剛が率いる白龍組の精鋭たち、そして防護服に身を包んだ国清率いる県警特殊部隊が、雪崩を打って突入してきた。
「確保ォォッ! 一人も逃がすな!」
 国清の号令と共に、特殊部隊のライフルが一斉に火を噴く。
「おらぁッ! ウチのお嬢とお婿さんに何晒しとんじゃボケェッ!」
「潰せッ! 黒龍の怖さを骨の髄まで教えてやれ!」
 白龍と黒龍、そして警察。かつて反目し合っていた三つの勢力が、今この瞬間、共通の敵を討つために一つの巨大な牙となって真理歩兵に襲いかかった。
「ふざけないでよ、ドブネズミどもが! 全員まとめて消し飛びなさい!」
 レイラがヒステリックに叫び、両手から猛烈な吹雪を放つ。だが、それはもう一方的な蹂躙ではなかった。
「剛、右だ!」
「応よ!」
 刃の指示で剛が巨大な岩塊を盾にして突進し、吹雪を真正面から受け止める。その影から龍平が飛び出し、呪符をばら撒いて敵の魔術戦列を撹乱する。
 戦場は一瞬にしてカオスと化した。銃弾が飛び交い、魔術の閃光が闇を焼き、怒号と悲鳴が交錯する。
 その混乱の最中、レイラの青い瞳がギラリと光った。
 彼女の視線の先には、勇に支えられながら避難しようとする小雨の背中があった。
「……また、あの小娘か」
 計画を狂わせた元凶。自分のプライドを傷つけた生意気なガキ。憎悪がレイラの理性を焼き切った。
「小娘の分際で……毎回毎回、我々の邪魔ばかりしやがってぇッ!」
 レイラは隠し持っていた大口径の拳銃を抜き、震える手で狙いを定めた。
 その殺気に、真っ先に気づいたのは二人の父親だった。
「小雨ッ!」
「させんッ!」
 刃も自分の銃を向けようとしたが、乱戦の人混みに阻まれて射線が通らない。
「死ねぇッ!」
 レイラの指が引き金を引く。
 乾いた発砲音と共に、凶弾が放たれた。
 時間はゴムのように引き伸ばされ、小雨が振り返る動作がスローモーションのように見えた。彼女の瞳に映ったのは、自分に向かって直進してくる死の鉛玉――
 ドスッ。
 鈍く、肉を穿つ音が響いた。
「……!?」
 小雨の身体に衝撃はなかった。
 代わりに、彼女の目の前で、黒いコートを着た大きな背中がぐらりと揺らいだ。
「……まこと……さん……?」
 黒龍誠が、両手を広げて小雨を覆い隠すように立っていた。
 彼の胸の中央、心臓に近い位置から、どす黒い血が奔流となって溢れ出し、純白のワイシャツを赤く染め上げていく。
「ぐ……っ」
 誠は膝から崩れ落ちそうになったが、小雨に体重をかけまいと、最後の意志で足を踏ん張り、ゆっくりと、まるで祈るようにその場に崩れた。
「親父ッ!?」
 勇の絶叫が戦場を切り裂く。
 小雨は硬直したまま、目の前に倒れ伏した誠を見下ろしていた。理解が追いつかない。かつて自分を誘拐し、汚し、勇との仲を引き裂こうとした憎むべき男が、なぜ。
 なぜ、自分を庇ったのか。
「……まこと……さん……嫌だ、嘘……どうして……」
 小雨は震える手で誠の肩を揺すった。誠は薄く目を開け、焦点の合わない瞳で、泣きじゃくる娘のような、あるいは天使のような少女の顔を見上げた。
 視界が急速に暗くなっていく中で、誠は微かに口角を上げた。
(ああ……やはり、似ているな)
 かつて愛し、自らの野心のために手放してしまった女性の面影が、小雨の中にあった。もし自分があの時、違う道を選んでいれば。もし刃と手を取り合い、この子たちの成長を見守っていれば。
 そんな叶わぬ「もしも」が、走馬灯のように駆け巡る。
 だが、後悔はない。
 最後の最後に、自分はこの街の未来を、息子の愛する人を、守ることができたのだから。
 誠の視線が、小雨の隣で泣き崩れる勇へと向けられた。
『……頼んだぞ、勇』
 声にはならなかった。だが、その眼差しは雄弁に語っていた。
 この子を守れ。この街を守れ。俺が果たせなかった夢を、お前たちが継ぐんだ。
 誠の瞳から光が消え、重い瞼が静かに降りた。
「誠さん! 誠さぁぁぁんッ!」
 小雨の悲痛な叫び声が、湿った坑道に反響する。
 その慟哭が、戦場の空気を凍りつかせた。
「……はっ、馬鹿な男。自分のガキでもない小娘を庇って死ぬなんて」
 レイラは呆れたように吐き捨て、再び銃口を小雨に向けようとした。
「次は外さないわよ。あの世で仲良く――」
 バァンッ!!
 レイラの言葉を遮るように、一発の銃声が轟いた。
「ぎゃあっ!?」
 レイラの右手首が弾け飛び、握っていた銃が血飛沫と共に宙を舞った。
「……貴様ァッ!!」
 刃が、鬼神の形相で硝煙の向こうに立っていた。その目からは血のような涙が流れているが、構えた拳銃は微動だにしない。
「よくも……よくも誠を……俺の友を……ッ!」
 刃の咆哮と共に、怒り狂った龍平と剛、そして警察部隊がレイラへと殺到した。
「ひっ……!」
 武器を失い、手首を粉砕されたレイラは、初めて恐怖に顔を歪めて後ずさった。彼女の背後に、もう逃げ場はなかった。
 瓦礫の上で事切れた父の亡骸を抱き、勇は天を仰いで声を枯らして泣いた。人間としての理性をすべて焼き尽くすような絶叫が迸った。それは言語になになどなり得ない、ただの魂の裂ける音だった。
 視界が歪む。涙で滲んでいるのか、それとも怒りの熱量で空気が揺らぎ始めたのか判然としないが、目の前の景色が赤黒く変色していくのだけは分かった。
「――殺す」
 短く吐き捨てられたその言葉は、隣に立つ小雨の唇から漏れていた。小雨は誠の冷たくなっていく手を両手で包み込み、ただひたすらに、止めどなく涙を流し続けていた。彼女の長い黒髪が、坑道に吹き込む風に煽られて狂ったように舞う。普段の穏やかな女神のような面影は微塵もなく、その瞳には修羅だけが宿っていた。
 形勢は逆転していた。
 誠が命と引き換えに穿った風穴は、三江支部という巨大な堅牢を内側から瓦解させる決定打となっていた。
 指揮系統を失い、最強の盾を失った敵兵たちは、雪崩を打って後退を始めていたが、勇たちの視界にそんな雑兵どもの姿など映っていなかった。ただ一点、薄暗い通路の奥へと身を翻した銀色の髪、ヴォーン・レイラの背中だけが焼き付いている。
「待てッ!!」
 勇が地を蹴った。コンクリートの床が踏み込みの衝撃でひび割れ、爆発的な加速が彼を前へと押し出す。
 小雨もまた、軽やかながらも殺意に満ちた足取りでそれに続く。彼女の手には、父から譲り受けた短刀が握りしめられ、薄暗闇の中で氷のような冷たい光を放っていた。

 追われるレイラの息遣いは荒かった。
 かつての余裕、あの上品で慇懃無礼な笑みは剥がれ落ち、代わりに張り付いているのは焦燥と恐怖だ。
 彼女のハイヒールが瓦礫を踏み砕き、バランスを崩しかけながらも、よろめくように奥へと逃げる。計算外だ。あんな旧式の極道ごときが、自らの命を爆弾にしてここまで戦況をひっくり返すなど、彼女の完璧なシナリオには一行たりとも書かれていなかった。
「しつこい……ッ! 野蛮な猿共が!」
 レイラは走りながら振り返りざまに指を弾く。空中に展開された幾何学模様の魔術回路から青白い閃光が迸るが、勇はそれを避けることすらせず、素手で殴り散らした。
 肉が焦げる臭いが鼻をつくが、痛みなど感じない。今の彼を動かしているのは、血管を沸騰させるほどの純粋な殺意だけだ。
 追い詰められた。
 鉱山の最深部、かつて弾薬庫として使われていた巨大な空洞に行き着いたレイラは、背後に迫る断崖――建設途中で放棄され、地下水脈へと繋がる深淵――を背にして立ち止まらざるを得なかった。逃げ場はない。
「終わりだ、レイラ」
 小雨の声は静かだったが、そこに含まれた絶対零度の憎悪が、あたりの空気を凍り付かせるようだった。
 レイラは肩で息をしながら、乱れた銀髪を神経質に掻き上げた。その青い瞳が、獲物を前にした蛇のように細められ、歪んだ笑みを形作る。窮鼠猫を噛む、というよりは、最後に毒を吐き散らそうとする悪意の塊だ。
「……ふふ、終わり? いいえ、終わったのはお前たちの父親よ」
「黙れ!!」
 勇が怒声を張り上げる。
「可哀想な小雨ちゃんに教えてあげるわ」
 レイラは両手を広げ、まるで舞台女優のように大げさに振る舞った。
「お前たちが神格化しているあの九年前の惨劇……あれはね、単なる『白龍組への抗争』なんかじゃなかったのよ」
 勇の足がピクリと止まる。
「標的は最初から三人だった。お前の母親、そしてお前と、お前の弟を皆殺しするつもりだったのよ……白龍の血を引くものすべてを根絶やしにするためのオーダーだったの。あの日、お前が生きていたのはただの『処理漏れ』。母親が命がけで守った?馬鹿ね、あいつらは無能だったから、お前らが運がよく生き延びたのよ!」
 その言葉は、小雨の心臓を直接鷲掴みにするような衝撃だった。母だけでなく、自分自身も、そして大樹も、最初から全て殺される予定だったというのか。
「貴様ァッ!!」
 自分の愛する女に、こんな残酷な事実をバラすなんて、勇は許せなかった。絶叫と共に、抑制の外れた魔力が黒い奔流となって溢れ出した。彼の拳に纏わりついたのは、もはや気功などという生易しいものではなく、どす黒い殺意の塊だ。
 同時に小雨が動いた。彼女は何も叫ばなかった。ただ無言のまま、風のような速さで間合いを詰め、レイラの喉元へと短刀を突き出す。
「死ね」
「きゃあっ!?」
 レイラは悲鳴を上げながらも、反射的に防御障壁を展開する。だが、小雨の一撃は物理的な刃物以上の鋭さを持っていた。障壁がガラスのように砕け散り、レイラの頬に一筋の赤い線が走る。
 勇が飛び込む。彼の拳がレイラの脇腹へと深々と突き刺さった。
「ぐっ……がぁッ!」
 骨の砕ける感触と、肺から空気が強制的に押し出される不快な音が響く。レイラの体がくの字に折れ、よろよろと後退る。その顔には、もはや侮蔑の笑みはなく、死への根源的な恐怖だけが張り付いていた。
「嫌……嫌よ……私は選ばれた人間なの……こんな泥臭い場所で、こんなガキ共に……!」
 彼女は半狂乱で叫びながら、さらに後ろへ下がろうとした。視線は勇たちに釘付けになり、足元の注意がおろそかになる。
 そこは、先ほどの爆発と戦闘の余波で、すでに床板が崩れかけている場所だった。
 ガラリ、と乾いた音がした。
 レイラが踏み込んだ瓦礫が、重みに耐えかねて崩落したのだ。
「え?」
 間の抜けた声が漏れた。次の瞬間、彼女の体は重力に従って宙に投げ出されていた。魔術による浮遊も、防御も、何もかもが間に合わない。ただ、彼女は足元の虚無に気づかず、自らそこへ飛び込んだ形になったのだ。
「いやぁぁぁあッ!!」
 絶叫が尾を引いて遠ざかっていく。暗い深淵へと吸い込まれていく銀色の髪と、必死に何かを掴もうと虚空を掻く細い腕。それら全てが、大量のコンクリート片と鉄骨と共に、奈落の底へと消えていった。
 ドオォォーン……。
 遥か下方から、重い着水音とも衝撃音ともつかない鈍い音が響き、そして静寂が訪れた。
 勇と小雨は、崩れた床の縁に立ち尽くし、レイラが落ちていった暗闇を見下ろしていた。
 勝ったのか?終わったのか?
 そんな達成感など微塵もなかった。残ったのは、やり場のない怒りが燻る胸の痛みと、あまりにも唐突で後味の悪い幕切れによる虚脱感だけだ。
 勇は拳を握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返す。小雨の母を殺し、小雨自身もひどい目に遭い、自分の父を奪って…そして今、その元凶の一つが、自分たちの手で裁かれることさえなく、ただの事故のように消え去った。
「……勇」
 小雨がそっと勇の腕に触れた。彼女の手は震えていた。勇はゆっくりと顔を上げ、小雨を見る。その目からは涙が溢れていたが、それは悲しみというよりは、もっと深い、魂の慟哭の発露だった。
 二人は無言のまま、暗い穴の底を見つめ続ける。そこにはもう、レイラの気配も、彼女が誇示した歪んだ真実の残機も、何も残ってはいなかった。ただ冷たい風が、空洞の下から吹き上げてくるだけだった。
 耳をつんざく轟音が竪坑の底へと遠ざかり、やがて重苦しい静寂が埃っぽい地下空間を満たした。硝煙と鉄錆の臭いが鼻腔の奥にまでへばりついて離れないが、もはや敵意の気配はどこにもない。

 ヴォーン・レイラという悪意の象徴が嚥下された奈落を離れ、追撃したみんなは誠のところに戻り、勇は膝をつき、眼下に横たわる父の姿を見下ろしていた。
 父の体から溢れ出る赫い液体は、着ていたワイシャツだけでなく、冷たいコンクリートの床へと広がり、まるで彼自身の生命そのものが形を変えて流れ出していくかのようだった。
「親父……おい……しっかりしろよ……ッ」
 勇の喉から絞り出された声は、もはや言葉としての体を成していなかった。震える手で父の厚い胸板を押さえようとするが、指の間からぬるりと温かいものが溢れ出し、止血など無意味であることを残酷に告げている。
 隣で膝をつく小雨もまた、その現実を前にして、ただ呆然と真っ赤に染まった自身の手を見つめることしかできなかった。
 かつて自分を監禁し、あろうことかその純潔さえも汚させた憎むべき男、祖父母の命も奪った張本人。本来ならば、地獄の底で業火に焼かれるべき仇敵であるはずの男が、今、自分の命を盾にして、たった一発の凶弾から自分を守り抜いて果てようとしている。
 その矛盾した事実に、小雨の心は千々に乱れていた。憎しみと感謝、過去の絶望と現在の救済が入り混じり、感情の制御が効かなくなっているのだ。
「……馬鹿野郎ッ! 目を開けろ、誠!」
 ドカドカと荒い足音が近づき、白龍刃が二人の間に割って入った。彼は硝煙で煤けた顔を歪め、誠の胸倉を掴んで強引に揺さぶる。
「ここで死ぬんじゃねえぞ!てめぇ、俺にまだ何の詫びも入れてねえだろうが!これだけでチャラにしようなんて虫が良すぎるんだよ!」
 刃の怒声には、明らかに焦燥と恐怖が混じっていた。長年対立し、殺し合ってきた宿敵でありながら、心のどこかで互いの力量を認め合い、奇妙な連帯感さえ抱いていた友の死を、彼自身が誰よりも受け入れられずにいた。
「……誠さん……死なないで、お願い……」
 小雨の声は、まるで幼子が迷子になったときのような細さで震えていた。彼女は躊躇いながらも、血に濡れることを厭わずに誠の冷え始めた手を両手で包み込んだ。
 その瞬間、彼女の中で煮えたぎっていた復讐心は霧散し、ただ目の前の温もりが失われることへの根源的な恐怖だけが残った。
 誠は重い瞼をわずかに持ち上げ、霞む視界の中で、かつての友と、息子、そして娘になるはずだった少女の顔を順に見渡した。
 その口元には、皮肉めいた、しかしどこか憑き物が落ちたような穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……何だよ、騒々しいな……刃……」
 肺から空気が漏れるような、掠れた声だった。
「これは……俺の、自業自得だ……。小雨さんを……こんなになるまで傷つけて、悲しませるようなことばかりしてきたから……こうなっただけの話だ……」
「ふざけんな!自分の罪業が分かったなら、尚更生きて償え!死んで逃げようなんて許さねえぞ!」
 刃は叫び、誠の体を抱き起こそうとした。だが、誠はその動きを制するように首を微かに横に振り、力なく微笑んだ。
「……いいか、刃。……生き恥を晒すのは、俺の柄じゃない……」
 誠の視線が、涙を堪えて顔を歪める勇と、その肩に寄り添う小雨へと向けられた。彼の瞳の中にある光が、急速に弱まっていく。
「小雨さん……過去のことは、今更謝っても許されないとは……分かっているが……ごめんな」
「そん……な……謝らないで……私を助けてくれた……それだけで……っ」
 小雨は言葉にならず、ただ首を振って涙をこぼした。誠の血で汚れた頬に、温かい雫がポタポタと落ちて、赤い染みを薄めていく。
「……この期に及んで、図々しいと分かってはいるんだが……俺の、未熟な愚息を……勇を、よろしく頼むぞ……」
 それは、組織の長としての遺言ではなく、一人の父親としての、最初で最後の願いだった。
「あの馬鹿息子には……お前さんがいないと、駄目なんだ……」
「……はいっ……!約束します……勇さんは、私が一生、守りますから……っ!」
 小雨が泣き濡れた顔で力強く頷くのを見て、誠は安堵したように目を細めた。そして、最後に勇の方へと視線を移し、何かを言いかけたが、その言葉は音にならず、ただ息だけが吐き出された。
(……強くなったな、勇)
 息子への信頼と、未来への希望をその瞳に宿したまま、黒龍誠の手から力が抜け、コンクリートの床へと滑り落ちた。
「親父……ッ!親父!!」
 勇は父の体に縋り付き、喉が張り裂けんばかりの慟哭を上げた。小雨は声を押し殺して泣き、刃は天を仰いで歯を食い縛り、その目元を乱暴に腕で拭った。
 背後で控えていた蓮司は、帽子を脱いで深く一礼し、龍平や剛、そして他の構成員たちもそれに倣って頭を垂れた。坑道に満ちていたのは、絶対的な権力者の死を悼む静寂と、一つの時代の終わりを告げる重苦しい空気だった。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。
 勇は父の亡骸を前にして、もはや涙も枯れ果てたような顔で座り込んでいた。その隣には小雨が寄り添い、何も言わずに勇の肩を抱き締め、自分の体温を彼に分け与え続けていた。
 勇の手は、無意識のうちに小雨の腰に回されており、互いに支え合わなければ崩れ落ちてしまいそうなほど、二人は心身ともに消耗しきっていた。
「……そろそろ、行くぞ」
 刃が静かに声をかけた。その声には、先程までの激情は消え、組長としての落ち着きが戻っていた。
「夜が明ける。……誠を、こんな暗い場所にいつまでも置いておくわけにはいかん」
 勇は無言で頷き、蓮司の手を借りて父の遺体を丁寧に担架へと乗せた。小雨もふらつく足取りで立ち上がり、勇の手を強く握り直した。

 一行が坑道の出口へと辿り着いた時、分厚い雲の隙間から、淡い光の筋が差し込んできた。
 それは、長く続いた抗争と暴力の夜を終わらせる、新しい朝の訪れだった。湿った空気に混じる朝露の匂いが、地下の腐臭を洗い流していくようで、勇は深く息を吸い込んだ。
 金属鉱の崩れた隙間から差し込む陽光は、鮮烈なまでに眩しく、勇と小雨の傷だらけの顔を照らし出した。
「……終わったんだな、本当に」
 勇がポツリと呟く。
「うん……終わったの。そして、これから始まるのよ」
 小雨は朝日を見つめながら、勇の手をさらに強く握りしめた。十数年にも及ぶ二つの組の確執、自分たちを縛り付けていた運命の鎖、そして多くの犠牲。それら全てを背負い、それでも彼らは生きていく。
 勇は小雨の方を向き、その瞳を見つめた。泣き腫らした目は赤く、頬には傷が残っているが、朝日に照らされた彼女の横顔は、かつてないほど美しく、力強く見えた。
 彼女の手の温もりだけが、彼にとっての唯一の真実であり、これからの人生を歩むための道標だった。
「帰ろう、俺たちの家に」
「うん……帰りましょう、勇さん」
 二人は互いに支え合いながら、朝の光の中へと歩き出した。その背中には、もはや家柄や過去のしがらみといった重荷はなく、ただ一対の男女としての、絆だけが確かに結ばれていた。
 その後ろ姿を、刃と蓮司、そして生き残った男たちが、無言の敬意を込めて見送っていた。
 かつて血で血を洗った三江の街に、静かな夜明けが訪れようとしていた。
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