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第1章
その40 この世界にはまだピンヒールは無かった。
しおりを挟む40
「ふう。おいしかった」
にっこり笑う、黒髪をきっちりと三つ編みにした、十四歳くらいの可愛い少女。
おれのグラスを奪って飲み干したのは、ムーンチャイルドだったのだ。
ああ~……この、小さな花が咲いたみたいな笑顔、たまらない。
なんか、まわりが明るくなって見えてくるんだよな。
ほんと可愛い~。むちゃくちゃ愛おしくて……胸の中があったかくなってくるんだ。
……じゃなくて!
「な、なんで飲んだんだ! おれの飲みかけだぞ! もしおれがグラスに口をつけてたら、大変なことに……」
その先を言うわけにはいかない。
これ、機密事項だから!
再会してこのかた、あまりに嫁が魅力的だから、ついうっかり、やろうとしてしまうのだが、おれは嫁にディープキスをしたり、口移しで水を飲ませたり、なんてことをしては、いけないのである。
……ものすごく残念だけど。
「まだ、ぜんぜん飲んでなかったの、見てたもん。だから平気でしょ?」
くすっと笑う嫁。ムーンチャイルド。可愛いすぎて困る。
「そっ! ……そりゃ、そうだけどさ」
見てたって、いつからだよ。
「うふふふふっ」
蠱惑的に微笑む、幼さの残る美少女。
この黒髪の少女、おれの可愛い嫁であるルナ……本名であるカルナックからとった愛称だ……(だが、エルレーン公国首都シ・イル・リリヤでは諸事情によりムーンチャイルドと名乗っている)は、いろいろと制約がある存在なのである。
たとえば。
カルナックは、幼い頃はレニウス・レギオンと呼ばれていた。
愛称は、レニ。
レギオン王国国教である『聖堂』の教王ガルデル・ロカ・バルケス・レギオンの末子として認知されていた子だった。
それが、ガルデルが起こした事件に巻き込まれたのが原因で、人の世を離れて三十年も精霊の森で過ごしていた。
その間は生物としての時間は止まっていた。
つまり成長していなかったのだ。
5年前、精霊の森を訪れたコマラパと、人間の世界を見聞するために森を出たときには、外見の年齢は、七歳くらいだった。
一目惚れしたおれがしつこく迫って、いろいろあったんだけど、なんとか精霊様の赦しを得て、婚姻の儀を結んだ。
精霊様たちから『精霊の森にある根源の泉』と繋がっている不思議な水晶の水筒を賜ったのは、婚姻したおれもまた人間の身体から、精霊に近くなる必要があったのだ。
意外なことが起きたのは、その後だ。
おれが彼女に口移しで精霊の水を飲ませた。
(理由があってのことだから! キスしたかった口実ってわけじゃないから!)
結果……
急に、一歳ほど育ってしまった。
その少し後、こりないおれが、彼女にディープキスを迫った。
(これは言い訳できない! キスしたかったから!)
その結果。
また、少し育ってしまったのである。
そういう経緯があって、カルナック(ムーンチャイルド)とおれの年齢差は、縮まっていた。おれが十三歳のとき、嫁である彼女は十二歳くらい。
嫁が逃げたときは、おれは十四歳で。彼女も十四歳くらいだった。
年齢差がまた縮まってるって?
ご想像のとおりである。
おれはまた、やらかしたのだ。
ディープキス、しちまったんだよ。
言い訳はしない。
嫁が、愛おしかったから。
それにしても、さっきまでは《呪術師》だったのに。
ということは《呪術師》はどうしたんだろう!?
姿を消したと騒ぎになってはいないか?
食堂を見回せば……《呪術師》がいた。
相変わらず女の子たちに囲まれて。
「お師匠さま~、さっきはどこにいらしたんですか」
「急にいなくなるんですもの」
「ああ、ちょっと急用でね」
クールビューティーな《呪術師》の姿が、そこにあった。
左右にサファイアとルビーを従えている。秘書みたいな感じだな。
こっちは、精霊グラウケーが扮している「替え玉」のほうだ。今では事情を知っているから見分けがつくけど、知らないうちは、おれも気づかなかった。
いつの間に入れ替わったんだ。
本物より、かっこよくないか。大人っぽくて男らしいっていうか。
なんて言ったら、レニは怒るだろうな。
「怒らないよ」
ムーンチャイルドが、おれに抱きついた。耳元に顔を寄せて囁く。何を考えているか、わかったらしい。
けれど、かすかに甘い息が「ふうっ」と耳元にかかるから、困った!
なに考えてんだ!
おれは紳士じゃないっつーの!
あまつさえ!
ムーンチャイルドは、おれの頬に「ちゅっ」と唇をつけたのだ。
とたんに、どっ、とどよめきが、決して狭くはない大広間に設けられた食堂を、押し包んだ。生徒達の歓声である。
「ほんとだったの、あの噂」
「ムーンチャイルドに求婚したバカがいるって」
「コマラパ老師は承認したの?」
「まだじゃない?」
「あいつ田舎から出てきたんだってさ」
悪いな生徒諸君!
もっと尾ひれをつけて噂するといいぞ。
おれが、これからすることを見て。
「ムーンチャイルド。おまえ、ほんとバカだな……」
「どうして? おまえは、おれに求婚した。おれは承諾した。だから」
「そこじゃ、ねえよ」
おれは困惑し混乱したまま、ムーンチャイルドを抱き寄せて。
キスした。
言い訳はしない。したかったから。
「う」
ムーンチャイルドは、じたばたもがいた。
唇を離したら、きっとこう言う。
『何するんだおまえ! わけわかんない!』
昔から、自分の魅力をぜんぜんわかってない。無防備すぎ!
誰かが教えてやらないと。
どかっ!
次の瞬間、腹に衝撃を受け、すごい勢いで宙を飛んでいた。
殴られたのだ! 下腹を。
「どこまでも懲りない男だな、リトルホーク」
駆け寄って、おれを殴るのと同時にムーンチャイルドを、その力強い腕に抱き上げたのは、《呪術師》だった。
どすん!
視界がぐるりと一回転して、背中から床に落とされた。かなり痛い。
「あいたたたた!」
サファイアとルビーが、すかさず、おれの頭と肩を踏みつけて、動けないように抑えた。
「あんたバカでしょ!」
「いっぺん死になさい」
いや、おれ、前世で十代で死んだの覚えてますから。なるべくごめんこうむりたい。
(この世界にハイヒールとかピンヒールとかが無くて助かったよ)
ぐいぐい踏まれながら、おれは性懲りも無いことを考えていた。
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