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狸
三
しおりを挟む「確かに、人ならざるものの気配がするけど……、ここ、入って大丈夫なの?」
雪丸が戸惑いながら庄右衛門に聞く。寂れた宿屋ながら、しっかりとした土蔵だ。
庄右衛門が戸を開けようと横に引くが、鍵がかかって動かない。
「まず入れるかどうかだけど……どうする?刀で破る?」
「まあ、待て」
庄右衛門が手で制すると、懐からくの字の細い棒を取り出した。片側には小さな鋸の刃が付いている。
「何それ」
「開器。忍びが鍵を開ける時に使う道具だ」
庄右衛門は開器を細い鍵穴に通すと、ちょちょいといじっただけであっという間に扉を開けてしまった。
雪丸があんぐりと口を開けていると、庄右衛門は質問されないうちに火が灯った蝋燭を渡し、さっさと蔵の中に入っていった。
蔵は小窓がついているので、月明かりが入って中がある程度見える。米、味噌、砂糖に塩、醤油など、さまざまな備蓄品が沢山並んでいた。
「こっちの方が美味いぞ!」
「いいや!おいらは絶対にこっちだ!」
人ならざるものはその奥に二匹いた。かなり大きな体だ。六尺六寸(約2m)はあるだろう。牙を剥き出して何か言い争っているようだ。
(口を利ける種類もいるのか……)
「おい、そこの者!こんなところで何をしているんだ!」
雪丸が庄右衛門の後ろから声を張り上げた。
声をかけられた人ならざるものは飛び上がって驚いた。そして怯えたように縮こまる。まるで空気が抜けたような勢いで小さくなったので、庄右衛門は訝しんだ。
「へ、へえ……おいらたち、ちょいとお酒を分けてもらおうと思いやして……」
一匹が謙った返事をする。
雪丸が蝋燭の灯で照らすと、そこには二匹の狸がいた。怯えたように、大きな黒目を潤ませて見上げてくる。先程と違ってフワフワで非常に可愛らしい姿だ。庄右衛門はますます警戒した。
「酒を……?君たちは人ではない、狸だろう?酒なんて嗜むのか?」
雪丸が問うと、えへへ、と狸が笑う。
「ここの主人が揃える酒は、いつも本当に美味いんでさぁ。そうしてたまぁに、この蔵からちょいと拝借しておりまして」
「呆れたな……人のものを盗んではいけないだろう!」
雪丸が呆れると、すいやせん、すいやせんという狸の弱々しい謝罪。小さな頭をぺこぺこ下げて、ふかふかの尻尾もしょんぼりと萎れている。
「仕方ない、私が飲んだということにしてやるから、今回は見逃してあげよう。でももう二度とここに来てはいけないよ」
雪丸がそう言った時、庄右衛門は慌てて雪丸の肩を叩く。
「正気か?こいつら化け物なんだろうが。退治しないと後でエライ目にあうんじゃないのか?」
「人ならざるものの中には無害な存在ももちろんいるよ。それに、この子たちはどう見ても無害そうじゃないか」
「……見た目が可愛いからか?」
はあ?と雪丸が庄右衛門を見上げると、真剣な目がこちらに刺さる。
「どうも猫を被っているように思える。
今は小さな狸だが、最初に目に入った時はこいつら俺よりもでかい化けもんだったぞ」
「私はその姿見えなかったなあ。庄右衛門の背中が邪魔で。
大きいから退治するの?こんなに弱そうで可哀想なのに」
「あえて弱そうな姿をしているだけだったらどうするんだ?
人間だってな、相手を油断させるために傷を負って非力なフリをするんだ。
こいつらだってそのくらいできるだろう」
「そうかもしれないけど、こんなに素直に謝ってるんだから、たまには見逃しても良いんじゃないかと思うよ?」
雪丸は怒ったような顔をした。その背後で狸たちは瞳を潤ませて身を寄せ合っている。
庄右衛門は面白くなかったが、
「わかった。そいつらについてはお前の方が詳しいから、任せる」
と言って、ふいとあちらを向いてしまった。
「本当に許してくれるんですか!」
「ああ、おいらたちは優しい人間に見つかって運が良いなぁ!」
狸たちがやんややんやと手を取り合っているのを、雪丸はうんうんと頷きながら眺めていた。庄右衛門は鼻を鳴らしてそっぽを向いている。
「これも何かのご縁!せっかくですから一緒に酒飲みましょうや!」
「そうそう!宿屋の主人は朝まで戻りやせんし、一杯だけでも!」
狸たちが酒樽を開けて、升で酒をすくい、雪丸に手渡した。雪丸は良いのかなあと思いつつ、飲みはじめた。
「ささ、そこのでっかいダンナも、一杯どうぞ!」
「いらん」
狸が機嫌よく升を渡しても、庄右衛門は険しい顔で睨み付けた。狸はその怖い顔に縮み上がり、とぼとぼと雪丸の元へ戻った。
雪丸は狸を気の毒がって、庄右衛門に声をかけた。
「庄右衛門、一杯くらい良いじゃないか。もう退治とかしなくても大丈夫だし」
「そういう話じゃない」
庄右衛門が不機嫌そうに唸る。雪丸と狸たちは目配せをして、ヒソヒソ話しはじめた。
そして次の瞬間、雪丸が庄右衛門に飛びかかる。
「うおぉっ⁉︎」
岩のような庄右衛門でも、突然斜め上から人が降ってくれば、そのままひっくり返ってしまう。
「庄右衛門!本当に美味しいから一口だけでも飲みなって!」
雪丸がそう笑いかけると、狸たちが升を持って走ってきた。
「おらたちの酒が飲めねぇのかー!」
「飲め飲めー!」
一匹が、升の中の酒を庄右衛門の顔にぶち撒ける。庄右衛門は雪丸を怒鳴りつけようとしていたため、なす術もなくその口に酒がどばっと入ってしまった。
「~~~‼︎」
庄右衛門が盛大に吹き出し、雪丸に酒がかかる。そしてそのまま上体を起こして座り、激しく咳き込みはじめた。
「ちょっと、思い切りかかったじゃないか!」
雪丸が文句を言うと、いきなり庄右衛門が静かになった。石になってしまったのかと錯覚するほど、ぴくりとも動かない。
「……庄右衛門?」
雪丸がおずおずと肩に触れると、庄右衛門は崩れるように倒れてしまった。
「うわぁ!え?庄右衛門⁈どうしたの⁈」
雪丸が慌てて庄右衛門の体を揺する。庄右衛門の土気色の肌が赤く染まり、意識を失ってぐったりしている。
「これは……」
絶句している雪丸の背後でゲラゲラ笑う声が上がった。狸たちが腹を抱えて爆笑している。
「こいつは驚いた!とんだ下戸だったわけだ!」
「強そうな見た目して、ちょびっとの酒でひっくり返ってらぁ!」
先程と打って変わって悪意すら感じ取れる狸たちの様子に、雪丸は困惑していた。次の瞬間、狸たちの輪郭が波打ち、一気に体が大きくなった。獰猛そうな牙を剥き出して笑う姿に、雪丸は庄右衛門の忠告を聞いておくべきだったと後悔した。
「人ならざるものの間での噂じゃあ、やべえ封印術を使うのはそっちの大男だってなぁ」
「さあ、どうする?お前は俺たちをどうやって封印するつもりなんだぁ?」
ゲタゲタと笑い声を上げて、雪丸に迫る大狸の化け物たち。雪丸はじりじりと後退る。
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