完璧からはほど遠い

橘しづき

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ひっくり返る

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 私はさらに尋ねた。

「じゃあ、ご飯作ってもらったわけじゃないんですか!? だって、カレーの香りが」

「え? ああ」

「成瀬さんの好物、リクエストしたのかな、って」

「違う違う、たまたまだよ。今日家に帰ったらドアノブに掛けてあった。鉢合わせなくてよかったよ」

 そう言って成瀬さんは一度立ち上がる。キッチンの方へ向かったと思うと、冷蔵庫を開けて何かを取り出す。小さな紙袋のようだった。それを持ってきて私の正面に立ち、差し出す。受け取り覗き込んでみると、なるほど確かにカレーらしきものがあった。

 蓋を開けてみる。私の作る、ルーを溶かすだけの物とは違い、スパイスなどを使った本格的なもののようだった。なるほど、料理が得意というのはあながち嘘ではないらしい。だがそこであ、と小さく声を漏らした。カレーはどう見てもほとんど口が付けられていなかったのだ。

 成瀬さんは私の手からカレーを手に取り再度袋にしまいながら言った。

「正直迷惑なんだけど、食べ物を無駄にするってことが気になって頑張って食べようと思ったんだよ。でも、駄目だった。一口も食べられずギブアップ」

 苦笑いしながら袋を床に置く。そしてそのまま、私の正面にしゃがみ込んだ。

 成瀬さんが見上げる形で私を見てくる。ドキリと胸が鳴った。真剣なその眼差しに吸い込まれそうな錯覚に陥った。心臓の音がうるさくてうるさくて、成瀬さんの言葉を聞き逃してしまわないか心配になった。

「俺は佐伯さんが作ったものしか食べられないみたい」

「…………」

「思えば不思議ではあったんだよ。佐伯さんの作る物だけに対しては最初から全然抵抗がなかった。前も言ったように、関わったことはなくても君の働く姿を見ていたから信頼していた。でもそれは思っていたよりずっと特別なものだったのかも。
 いつも丁寧に仕事をして、ミスをしたときは泣きそうになりながらも必死に前を向いて頭を下げていた。プライベートでは優しくて世話焼きで、俺の本性も仕事中の姿も区別せずに接してくれる」

「成瀬、さん」

「佐伯さんじゃなかったら外出もあんなに楽しくないし、そもそも鍵だって渡してない。全部は佐伯さんだから。君は特別なんだよ。
 でも俺こんなんだし……だらしなくていつも佐伯さんに叱られてるしさ。異性として見られてないのは自覚してたんだよ。平気で部屋に呼ぶしさ」

 やや拗ねたように口を尖らせた彼を見て、私は慌てて反論した。

「それはこっちのセリフです! テーブルは私の部屋を見て決めるって言ったの成瀬さんですし!」

「俺家に行くなんて一言も言ってないよ。写真とか撮ってきてもらって見せてもらおうと思ってただけ」

 確かに、と得してしまった。思えば彼は一度も直接私の部屋を見る、なんて言ってはいない。私が勝手に早とちりして呼んでしまっただけなのか。

 いや、私が彼を家に呼んだ理由はそれだけじゃない。もっと一番大きな、そして大切な理由があったんだ。

 膝の上に置いた手をぎゅっと握って拳を作った。

「……いえ、違います。テーブルを選んでもらう、なんて口実です。成瀬さんと出かけたのが楽しくて、あのまま解散したくなかっただけなんです」

 蚊の鳴くような声だけれど必死に伝えた。瞬時に、成瀬さんの目が真ん丸に開かれる。

「私こそ、部屋に誘ったけど成瀬さん凄く寛いでるし全然意識されてないし、異性として見られていないんだって落ち込んでたんです。で昨日は告白してすっきりしてやろう、と思ってました。高橋さんの存在で心がくじけてしまいましたが」

 私がそこまで言った瞬間、突然成瀬さんは後ろに倒れ込んだ。ごちんと頭部が床にぶつかった痛そうな音がする。何が起こったか分からなかった、地震でも起きたのかと思ってしまった。だが違う、単に成瀬さんが一人でひっくり返ったのだ。

 急なことに私は驚き、慌てて彼の横にしゃがみ込んだ。

「な、成瀬さん!?」

 彼は未だ目を見開いたまま天井を呆然と眺めていた。そして人形のように表情を変えずに言った。

「ちょ、待っ、状況、追いついてない」

「あの」

「俺はてっきり、佐伯さんが結婚するんだ、って思って今日、臨んだというのに、こんな展開、受け入れきれない」

「こっちのセリフですよ!」

 悲痛な声を上げつつも、こんな時だというのについぷっと吹き出してしまった。だって人が驚きでひっくり返るの初めて見た。さすが成瀬さんだな。

 彼は笑う私を恨めしそうにみた後、大きくため息をついた。少し間があって、決意したようにのそりと起き上がった。そして振り返り、私を正面から見つめる。ガラス玉みたいな目に自分の顔が映っていた。何かを期待するような、恐れているような、不思議な表情をした私だった。
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