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卯月
第十二話
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森岡と別れると、見慣れた夜道を一人で歩いた。酒のためか、じんわりと身体は火照り、心地好い疲労感に口元が緩んだ。川沿いの桜並木は、散り始めた桜が道沿いを白く染める。一本裏路地に入れば、「だんや」の暖簾は下ろされている。それでも、引き戸の隙間からは、ぼんやりとした明かりが漏れていた。
「ただいま」
引き戸を開ければ、カウンターの向こう側の大将が顔を上げた。
「おかえりー」
カウンターの客席から野太い声が飛ぶ。赤ら顔に、とろんと酔った瞳で笑っているのは、マルさんだった。どうやら、他の常連の呑兵衛たちは既に捌けて、ダラダラと呑んだくれているらしい。既に、貴俊が酔い冷ましの冷水を出している。
「スーツ着てると別人みたいだなー」
「そうですか?」
マジマジと足元から髪の先まで見つめられる。
「なんていうか、サラリーマンって感じがするな」
「……ヤだな。これでも、サラリーマンですよ」
上機嫌の酔っ払いはクックッと笑ってみせた。ふっと肩の力が抜ける。苦笑いを溢して、マルさんの隣の席にビジネスバッグを置く。マルさんの来店はいつも遅い。そういえば、会社帰りに鉢合わせたことは、片手で数えるほどかもしれない。
「今日は遅かったんだな、」
カウンターの向こうから、独り言のような言葉が降ってきた。大将に視線を投げるが、こちらに目を合わせようとはせずに、黙々とグラスを拭いている。
「……うん、新人歓迎会の後に同僚に捕まって、少し呑んできたんだ、」
貴俊は、僅かに溜め息を溢した。どことなく不穏な緊張感が漂い、すぅと心地好い酔いも引いていく。
「…………ハルくんは?」
咄嗟にバイトの青年に助けを求めた。
「そうそう、ハルのヤツは潰れちゃってね。大変だったんだよ」
「え、酒を呑ませたんですか?」
「二十歳になったっていうもんだからさ、」
あはは、と笑っている丸い顔のマルさんに頭を掻いた。ハルくんがどれだけ呑んだか、酒にどれだけ呑まれたか、そんな今夜の醜態を愉しげに語るマルさんに、思わず新米バイトに同情してしまう。
「ハルは居間に転がしているから、」
「……そうか、」
貴俊の不機嫌そうな声色に息を吐いた。週末の夜は書き入れ時で慌ただしい。加えて、戦力のはずの店員が酔い潰れて、介抱までしたとなれば、大変だったろうことは想像に難くなかった。俺が早く帰ってくれば、少しは手伝えたかもしれない。
「マコトの顔も見れたし、そろそろ……」
マルさんが指でバッテンを作った。大将が伝票を差し出すと、長居の客は財布から千円札を何枚か取り出した。
「ありがとうございました」
にこりと大将が微笑んで、お代を頂く。マルさんが、「どっこいしょ」なんて親父丸出しで席を立つ。少しよろめいたのを見かねて、肩を貸した。
「すまんな、次は一緒に呑もう」
「そうですね」
ふらつく中年男を店の外まで見送る。千鳥足のマルさんに、少し不安になるが、毎度のことと言えば毎度のことなので、自分でなんとか帰れるだろうと見送った。漸く最後の客を帰して、「だんや」は店じまいとなった。
ふっと息を吐く。
「片付け、手伝おうか?」
気まずさを取り繕うように、貴俊に声をかける。
「いや、いいよ」
「…………でもハルくんもいないんだろ?」
「真人も疲れているんだから、店のことは気にするなよ」
「……そうか、」
大将は、やんわりと微笑んだ。優しい拒絶に、気づかない振りで、微笑み返した。
廃れた神社のしだれ桜の下で、彼の申し出を曖昧に濁してから、二人の間に流れる空気は変わってしまったのだと思う。
喧嘩をしているわけではない。
けれど、元通りになるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
「ただいま」
引き戸を開ければ、カウンターの向こう側の大将が顔を上げた。
「おかえりー」
カウンターの客席から野太い声が飛ぶ。赤ら顔に、とろんと酔った瞳で笑っているのは、マルさんだった。どうやら、他の常連の呑兵衛たちは既に捌けて、ダラダラと呑んだくれているらしい。既に、貴俊が酔い冷ましの冷水を出している。
「スーツ着てると別人みたいだなー」
「そうですか?」
マジマジと足元から髪の先まで見つめられる。
「なんていうか、サラリーマンって感じがするな」
「……ヤだな。これでも、サラリーマンですよ」
上機嫌の酔っ払いはクックッと笑ってみせた。ふっと肩の力が抜ける。苦笑いを溢して、マルさんの隣の席にビジネスバッグを置く。マルさんの来店はいつも遅い。そういえば、会社帰りに鉢合わせたことは、片手で数えるほどかもしれない。
「今日は遅かったんだな、」
カウンターの向こうから、独り言のような言葉が降ってきた。大将に視線を投げるが、こちらに目を合わせようとはせずに、黙々とグラスを拭いている。
「……うん、新人歓迎会の後に同僚に捕まって、少し呑んできたんだ、」
貴俊は、僅かに溜め息を溢した。どことなく不穏な緊張感が漂い、すぅと心地好い酔いも引いていく。
「…………ハルくんは?」
咄嗟にバイトの青年に助けを求めた。
「そうそう、ハルのヤツは潰れちゃってね。大変だったんだよ」
「え、酒を呑ませたんですか?」
「二十歳になったっていうもんだからさ、」
あはは、と笑っている丸い顔のマルさんに頭を掻いた。ハルくんがどれだけ呑んだか、酒にどれだけ呑まれたか、そんな今夜の醜態を愉しげに語るマルさんに、思わず新米バイトに同情してしまう。
「ハルは居間に転がしているから、」
「……そうか、」
貴俊の不機嫌そうな声色に息を吐いた。週末の夜は書き入れ時で慌ただしい。加えて、戦力のはずの店員が酔い潰れて、介抱までしたとなれば、大変だったろうことは想像に難くなかった。俺が早く帰ってくれば、少しは手伝えたかもしれない。
「マコトの顔も見れたし、そろそろ……」
マルさんが指でバッテンを作った。大将が伝票を差し出すと、長居の客は財布から千円札を何枚か取り出した。
「ありがとうございました」
にこりと大将が微笑んで、お代を頂く。マルさんが、「どっこいしょ」なんて親父丸出しで席を立つ。少しよろめいたのを見かねて、肩を貸した。
「すまんな、次は一緒に呑もう」
「そうですね」
ふらつく中年男を店の外まで見送る。千鳥足のマルさんに、少し不安になるが、毎度のことと言えば毎度のことなので、自分でなんとか帰れるだろうと見送った。漸く最後の客を帰して、「だんや」は店じまいとなった。
ふっと息を吐く。
「片付け、手伝おうか?」
気まずさを取り繕うように、貴俊に声をかける。
「いや、いいよ」
「…………でもハルくんもいないんだろ?」
「真人も疲れているんだから、店のことは気にするなよ」
「……そうか、」
大将は、やんわりと微笑んだ。優しい拒絶に、気づかない振りで、微笑み返した。
廃れた神社のしだれ桜の下で、彼の申し出を曖昧に濁してから、二人の間に流れる空気は変わってしまったのだと思う。
喧嘩をしているわけではない。
けれど、元通りになるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
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