献身

nao@そのエラー完結

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先生

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 それは、私が朝倉邸に奉公にあがって、三度目の夏の初めのことでした。
 旦那様がお帰りになる日は、屋敷中がどこか色めき立つようでございました。というのも、旦那様は名のある貿易商社を営んでおり、国内外とお忙しく往き来しているため、朝倉邸に顔を出されるのは二ヶ月も三ヶ月も間が空くのです。それでも、遥々と伊豆の国までいらっしゃる時には、必ず両手一杯の土産をお持ちになるのでございました。



「旦那様、おかえりなさいませ」

 屋敷の扉が開きますと、立派な髭を生やした恰幅の良い和装の紳士がにこやかな顔で立っておりました。女中たちは、頭を垂れて、ご挨拶いたします。

「変わりないか」
「ええ、みんな元気でやっていますよ」

 奥様は、口元に手を添えて、穏やかに微笑まれました。満足そうに頷く旦那様の背後には、見知らぬ洋装姿の紳士が立っておりました。洒落た芥子色のベストと共布のスラックス。そして、頭にはカンカン帽子。モダンで華やかな異国の空気を纏った青年紳士は、帽子を取って軽く髪をかきあげますと、お上品に頭を下げます。

「はじめまして、松本と申します」

 人好きのする笑顔を造る色男に、女中たちが頬を赤らめて顔を見合わせているのに気がつきました。

「こいつは儂の新しい秘書でね。伊豆には来たことがないと云うので、休暇も兼ねてしばらく滞在させることにした。私の客人として面倒を見てやってくれ」

 旦那様は、そのようにおっしゃると、青年の背中をバンバンと無遠慮に叩いたのでありました。



 客間では、女中や下男が集められ、お土産の披露がされました。奥様には西洋のドレスや宝石などの装飾品の数々。珍しい洋菓子などは、私たちのような下男や女中の口にも入ります。キャラメルやチョコレイト。苦いようで甘いようで、なんとも不思議な美味しさに驚いたものです。

「直之、お前が欲しがっていた本だ」
「ありがとうございます」

 旦那様は坊っちゃんに、分厚い御本を差し上げました。滅多にお会いしないお父様との談話。坊っちゃんは、いつも緊張した面持ちでいらっしゃいます。それでも、大事そうに御本を胸に抱きました。坊っちゃんは、西洋の文化に大変ご執心で、洋装を着ては姿見鏡の前で、御本に出てくる紳士を真似た台詞を口にして、ひとりで悦になっているのを、私は知っておりました。

「直之くんは、大変お勉強ができるそうだね」

 旦那様の隣の椅子に腰かけている松本氏が、にこりと笑いかけるも、人見知りの坊っちゃんは、もじもじと口ごもります。

「松本は英国語と独国語が堪能でね。この機会に教えてもらいなさい」
「宿賃というわけですね」

 旦那様が、にんまりと口角を持ち上げて葉巻をふかせる様に、松本氏は肩をすくめて満更でもなさそうに笑われました。坊っちゃんは喜びを噛み締めるように、はにかんでおられます。

「弘、こっちに来なさい」

 名を呼ばれて、驚きました。私のような下男の名前を旦那様が覚えてくだすっているとは思いませんでしたから。私が直之様の隣に立ちますと、長細い木の箱を差し出されました。

「お前には、これをやろう」

 旦那様から頂いた箱を開きますと、中には鮮やかな色をしたブリキの汽車がありました。

「よろしいんですか?」

 私は目をしばたたかせて、旦那様を見上げます。あまりのことに身体が震えて、頬が火照るのを感じました。旦那様は、満足そうに微笑まれると、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でました。私は父を知りません。ですから、もしかしたら、これが父親というものなのかしらん。と、都合の良い夢想に、胸がいっぱいになったのでございます。

「あまり下男を甘やかすものではありませんよ」
「固いことをいうな」

 女中頭の婆さんにチクリと釘を刺されても、旦那様は鼻で軽く笑い飛ばしてくださいました。

「弘くんは、いくつなのかな?」

 青年紳士は、長い足を組みかえながら、私にも声をかけてくださいました。私は指を折りながら、自分の年を数えます。

「十歳になりました」
「では、五年生だね」
「……いえ」

 微笑む男に、私はどう答えていいやらと、目を伏せます。

「この子は孤児で、戸籍もありませんので」

 私の代わりに応えたのは、婆さんでした。松本氏は、目を丸くして、旦那様に目配せいたします。

「それはいけません。これからの帝国を担う子供たちには、最低限の教養が必要です」

 旦那様は眉を曇らせますが、松本氏は気にもとめずに、言葉を続けます。

「そうですね。直之くんに語学を教えるついでに、弘くんにも簡単な読み書きを教えても構いませんか?」
「…………下男にか?」
「彼は、なかなかに賢そうな顔つきをしているじゃありませんか。教養を身につけさせて、見込みがあれば、我々の会社で稼いでもらった方が有益では?」
 
 ざわざわと女中や下男たちが沸き立ちます。奥様と婆さんは、顔を見合わせて、不可解そうに首を傾げておられました。

「まったく、お前の酔狂には敵わんな。好きにしなさい」

 旦那様は紫煙をくゆらせると、生意気な青年紳士に笑いかけました。

「ウメ、松本の滞在中は、弘の仕事を減らしてやりなさい」
「わかりました」

 旦那様に言いつけられれば、鬼の婆さんも頭を垂れて従うしかありません。私は唐突に与えられた待遇に言葉もありませんでした。けれど、隣に佇む直之様に視線を向ければ、その瞳は恨めしそうに私の顔を見上げて、唇を小さく噛んでいたのです。


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