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先生
六
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その夏は、私にとって特別な夏でありました。
朝倉邸に滞在されることになった松本氏は、二日に一度は、坊っちゃんの部屋で「先生」をしてくだすったのです。若い男先生は、私たちの授業の時間は、白いシャツを腕捲りし、サスペンダーで吊るしたスラックスというラフな格好でしたけれど、それが返って小粋な格好良さを感じさせました。
「Twinkle twinkle little star,
How I wonder what you are.
Up above the world so high,
Like a diamond in the sky.
Twinkle twinkle little star,
How I wonder what you are.」
──きらきら光る小さな星よ
あなたは一体何者なのかしら
地上よりも遥か高く
まるでお空にあるダイヤモンドのよう
きらきら光る小さな星よ
あなたは一体何者なのかしら──
「……はい、そこまで。大変よろしい。直之くんには、少し簡単すぎたかな?」
坊っちゃんが英語の詩を丁寧に読みあげますと、男先生は、にこやかな顔でパチパチと拍手を贈られました。直之様は、澄ましたお顔で、椅子に腰を下ろします。坊っちゃんは意地が悪いところがありますが、やはり本質は、勤勉で賢い少年なのだと打ちのめされる思いがいたしました。
「では、弘くん、この雑誌の記事を読めるだけ音読して見給え」
今度は私の方が椅子から立ちあがると、知っている文字とカタカナの部分を声に出します。漢字ばかりの文字の羅列は難しく、何が書いてあるのかも、ほとんど理解できません。先生は、私と同じ記事を目に落としながら、神妙なお顔で何やら印をつけていらっしゃいました。奉公を免除していただいている分、私も懸命に勉学に勤しもうといたしますが、思うように理解が進まず、どうにも先生の見込み違いだったのではないかと不安になったものです。
坊っちゃんはというと、私が読みあげる珍妙な文章が、えらく面白いらしく、クックッと両手で口を押さえて笑っていらっしゃいます。それがどうにも気恥ずかしく、私の声は、次第に小さく、どもっていってしまいます。
「そのように、他人のことを笑うものではありませんよ」
「……ッ……申し訳ありません」
松本先生が低い声で叱責されますと、坊っちゃんはびくりと肩を震わせ、顔を青ざめさせます。
思えば、坊っちゃんは屋敷では、随分と可愛がられており、要領も良いため、滅多に叱られることはありませんでした。
けれど、松本先生は、上司のご子息であっても、ぴしゃりと間違いを正されます。それが返って坊っちゃんの心を惹き付けていったのかもしれません。
授業が終わり、自らの不甲斐なさに落ち込んでおりますと、ポンポンと頭を撫でられました。
「今日は、町を散策しようと思うのだけど、鞄持ちを頼めるかな?」
「はい」
顔をあげると、松本先生が微笑まれておりました。この夏、私の奉公は、朝倉邸の客人の身の回りのお世話でありました。せめて、先生の休暇を快適なものにしなければ、と私は秘かに心に決めていたのです。
「あの、ぼくもご一緒してよろしいですか? 弘よりも、伊豆の町をよく存じていますから、ご案内をさせてください」
内気な坊っちゃんが、顔を赤らめて声をあげました。松本氏は、少し驚いた顔をされましたが、優しく微笑まれます。
「そうだな。お父様が良いとおっしゃるならお願いしようかな。それに、本屋にも寄りたいと思っていたので、君たちの教材を探すのもいいかもしれないね」
顎を擦りながら、青年紳士は何かご予定を考えておられるようでした。坊っちゃんは、緊張した面持ちで、先生を見あげます。
「あの、先生、……その、お兄さんとお呼びしてもよろしいですか?」
不安そうに首を傾げる坊っちゃんに、松本先生は、ぽんと頭を撫でながら、その場で屈み込みました。
「構わないよ。こんなに可愛い弟ができるなんて、僕は幸せ者だな」
同じ目線で微笑まれる先生と、くすぐったそうに笑う坊っちゃん。私も直之様に「お兄さん」と呼ばれておりましたが、同じ音の響きが、こうも違って聞こえるものでしょうか。
教養も高く美しいお二人は、本当のご兄弟のように見えました。それに、直之様の瞳がキラキラと星を散りばめたように輝いているのです。それが、どうにも、私の胸をざわめかせてしまうのでした。
************************************************
引用詞 "Twinkle, twinkle, little star"
1914年(大正3年)に共益商社書店から発行された『英語唱歌教科書 巻一』にて掲載。
原詞と原曲、および、テイラー(1824年没)の英語詞は、著作権の保護期間が終了しパブリックドメインである。
朝倉邸に滞在されることになった松本氏は、二日に一度は、坊っちゃんの部屋で「先生」をしてくだすったのです。若い男先生は、私たちの授業の時間は、白いシャツを腕捲りし、サスペンダーで吊るしたスラックスというラフな格好でしたけれど、それが返って小粋な格好良さを感じさせました。
「Twinkle twinkle little star,
How I wonder what you are.
Up above the world so high,
Like a diamond in the sky.
Twinkle twinkle little star,
How I wonder what you are.」
──きらきら光る小さな星よ
あなたは一体何者なのかしら
地上よりも遥か高く
まるでお空にあるダイヤモンドのよう
きらきら光る小さな星よ
あなたは一体何者なのかしら──
「……はい、そこまで。大変よろしい。直之くんには、少し簡単すぎたかな?」
坊っちゃんが英語の詩を丁寧に読みあげますと、男先生は、にこやかな顔でパチパチと拍手を贈られました。直之様は、澄ましたお顔で、椅子に腰を下ろします。坊っちゃんは意地が悪いところがありますが、やはり本質は、勤勉で賢い少年なのだと打ちのめされる思いがいたしました。
「では、弘くん、この雑誌の記事を読めるだけ音読して見給え」
今度は私の方が椅子から立ちあがると、知っている文字とカタカナの部分を声に出します。漢字ばかりの文字の羅列は難しく、何が書いてあるのかも、ほとんど理解できません。先生は、私と同じ記事を目に落としながら、神妙なお顔で何やら印をつけていらっしゃいました。奉公を免除していただいている分、私も懸命に勉学に勤しもうといたしますが、思うように理解が進まず、どうにも先生の見込み違いだったのではないかと不安になったものです。
坊っちゃんはというと、私が読みあげる珍妙な文章が、えらく面白いらしく、クックッと両手で口を押さえて笑っていらっしゃいます。それがどうにも気恥ずかしく、私の声は、次第に小さく、どもっていってしまいます。
「そのように、他人のことを笑うものではありませんよ」
「……ッ……申し訳ありません」
松本先生が低い声で叱責されますと、坊っちゃんはびくりと肩を震わせ、顔を青ざめさせます。
思えば、坊っちゃんは屋敷では、随分と可愛がられており、要領も良いため、滅多に叱られることはありませんでした。
けれど、松本先生は、上司のご子息であっても、ぴしゃりと間違いを正されます。それが返って坊っちゃんの心を惹き付けていったのかもしれません。
授業が終わり、自らの不甲斐なさに落ち込んでおりますと、ポンポンと頭を撫でられました。
「今日は、町を散策しようと思うのだけど、鞄持ちを頼めるかな?」
「はい」
顔をあげると、松本先生が微笑まれておりました。この夏、私の奉公は、朝倉邸の客人の身の回りのお世話でありました。せめて、先生の休暇を快適なものにしなければ、と私は秘かに心に決めていたのです。
「あの、ぼくもご一緒してよろしいですか? 弘よりも、伊豆の町をよく存じていますから、ご案内をさせてください」
内気な坊っちゃんが、顔を赤らめて声をあげました。松本氏は、少し驚いた顔をされましたが、優しく微笑まれます。
「そうだな。お父様が良いとおっしゃるならお願いしようかな。それに、本屋にも寄りたいと思っていたので、君たちの教材を探すのもいいかもしれないね」
顎を擦りながら、青年紳士は何かご予定を考えておられるようでした。坊っちゃんは、緊張した面持ちで、先生を見あげます。
「あの、先生、……その、お兄さんとお呼びしてもよろしいですか?」
不安そうに首を傾げる坊っちゃんに、松本先生は、ぽんと頭を撫でながら、その場で屈み込みました。
「構わないよ。こんなに可愛い弟ができるなんて、僕は幸せ者だな」
同じ目線で微笑まれる先生と、くすぐったそうに笑う坊っちゃん。私も直之様に「お兄さん」と呼ばれておりましたが、同じ音の響きが、こうも違って聞こえるものでしょうか。
教養も高く美しいお二人は、本当のご兄弟のように見えました。それに、直之様の瞳がキラキラと星を散りばめたように輝いているのです。それが、どうにも、私の胸をざわめかせてしまうのでした。
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引用詞 "Twinkle, twinkle, little star"
1914年(大正3年)に共益商社書店から発行された『英語唱歌教科書 巻一』にて掲載。
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