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先生
七
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松本先生と直之様とのお出かけは、夢のような一時でした。
馬車に揺られて、温泉街で降り立ちますと、直之様の案内で伊豆の町を散策いたします。有名な神社や仏閣、海岸添えの温泉街などの見慣れた町も、こうして歩いてみれば少し違って見えました。
従者である私は、お二人より、一歩後ろに下がって黙って背中についておりましたが、先生に「迷子になってしまうよ」と背を押され、前を歩かされてしまいます。
松本先生は、初めてお会いした時のように、芥子色のベストとスラックス。カンカン帽子を被り、洒落たステッキをお持ちです。直之様は、白いシャツに黒いリボンのネクタイ。サスベンダーで止めた膝上丈のズボンを履いておられました。
それに比べて、私はというと、持っている着物は二着しかなく、それも着古したボロでございます。ですから、そんなみすぼらしい姿で、直之様と並んで歩くのは、居心地が悪い気もしましたが、坊っちゃんは、いつになく上機嫌で、鼻歌まで飛び出しており、私にも笑顔を向けてくださいました。いつもの張り詰めたご様子もなく、陰湿な笑みでもなく、子供らしい無垢な笑顔に、私の口元も緩みます。
「なかなかの品揃えだな」
古本屋に立ち寄りますと、松本先生は、感心したように頷き、何やら分厚い御本を手にとられました。
「何を読んでいらっしゃるんですか?」
「これはニーチェの散文詩だな。独国語の原作は読んだのだけれど、どのように和訳されているのか気になってね」
直之様は、微笑んだまま硬直いたしました。先生は、頬を軽くかくと言葉を足されます。
「フィロソフィー(哲学)は、知を探求する学問だから、直之くんも、その内、興味を持つかもしれないね」
私には松本先生のおっしゃることは難しく、とても理解には及びませんが、直之様は首を傾げながらも一定の理解を示されておられるようでした。それから、先生は、直之様のために英国語の児童書をいくつか身繕い、お二人で談笑しながら選んでいらっしゃいます。
私はというと、本屋の店先に並べられた雑誌の絵表紙を眺めておりました。そうしていると、朱色の表紙に描かれている少年に目が留まります。学生帽を被った少年は、切れ長の瞳に、小さな唇は赤く、澄ましたお顔で本を開いておりました。その姿は、どことなく直之様に雰囲気が似ておられるような気がしたのです。
「それが気になるかい?」
背後から覗き込まれて、びくりと肩を震わせます。
「そんなことは、」
私が動揺している間に、松本先生は、私が眺めていた「少年倶楽部」と文字が踊る雑誌を手に取りますと、パラパラと中身を確かめました。冒険や歌、絵物語などが載っている楽しい雑誌でありました。
「よろしい。これを教科書にしようか」
先生は微笑んで、パタンと雑誌を閉じました。
古本屋で、先生が購入された御本は六冊にもなりました。風呂敷に包まれた重い荷物を持ち上げると、隣から腕が伸び、先生に奪われてしまいます。
「あの、お荷物をお持ちしますので」
「これは僕が持つから」
「でも、それでは、」
私の仕事がなくなってしまいます。
先生は苦笑いを浮かべて、頭をポンポンと撫でられます。そのときになって、ようやく、このお出かけに私を連れて来てくださったのは、鞄持ちなどではなく、気落ちしている私を慰めるためのお出かけなのだと気がついたのでございました。
馬車に揺られて、温泉街で降り立ちますと、直之様の案内で伊豆の町を散策いたします。有名な神社や仏閣、海岸添えの温泉街などの見慣れた町も、こうして歩いてみれば少し違って見えました。
従者である私は、お二人より、一歩後ろに下がって黙って背中についておりましたが、先生に「迷子になってしまうよ」と背を押され、前を歩かされてしまいます。
松本先生は、初めてお会いした時のように、芥子色のベストとスラックス。カンカン帽子を被り、洒落たステッキをお持ちです。直之様は、白いシャツに黒いリボンのネクタイ。サスベンダーで止めた膝上丈のズボンを履いておられました。
それに比べて、私はというと、持っている着物は二着しかなく、それも着古したボロでございます。ですから、そんなみすぼらしい姿で、直之様と並んで歩くのは、居心地が悪い気もしましたが、坊っちゃんは、いつになく上機嫌で、鼻歌まで飛び出しており、私にも笑顔を向けてくださいました。いつもの張り詰めたご様子もなく、陰湿な笑みでもなく、子供らしい無垢な笑顔に、私の口元も緩みます。
「なかなかの品揃えだな」
古本屋に立ち寄りますと、松本先生は、感心したように頷き、何やら分厚い御本を手にとられました。
「何を読んでいらっしゃるんですか?」
「これはニーチェの散文詩だな。独国語の原作は読んだのだけれど、どのように和訳されているのか気になってね」
直之様は、微笑んだまま硬直いたしました。先生は、頬を軽くかくと言葉を足されます。
「フィロソフィー(哲学)は、知を探求する学問だから、直之くんも、その内、興味を持つかもしれないね」
私には松本先生のおっしゃることは難しく、とても理解には及びませんが、直之様は首を傾げながらも一定の理解を示されておられるようでした。それから、先生は、直之様のために英国語の児童書をいくつか身繕い、お二人で談笑しながら選んでいらっしゃいます。
私はというと、本屋の店先に並べられた雑誌の絵表紙を眺めておりました。そうしていると、朱色の表紙に描かれている少年に目が留まります。学生帽を被った少年は、切れ長の瞳に、小さな唇は赤く、澄ましたお顔で本を開いておりました。その姿は、どことなく直之様に雰囲気が似ておられるような気がしたのです。
「それが気になるかい?」
背後から覗き込まれて、びくりと肩を震わせます。
「そんなことは、」
私が動揺している間に、松本先生は、私が眺めていた「少年倶楽部」と文字が踊る雑誌を手に取りますと、パラパラと中身を確かめました。冒険や歌、絵物語などが載っている楽しい雑誌でありました。
「よろしい。これを教科書にしようか」
先生は微笑んで、パタンと雑誌を閉じました。
古本屋で、先生が購入された御本は六冊にもなりました。風呂敷に包まれた重い荷物を持ち上げると、隣から腕が伸び、先生に奪われてしまいます。
「あの、お荷物をお持ちしますので」
「これは僕が持つから」
「でも、それでは、」
私の仕事がなくなってしまいます。
先生は苦笑いを浮かべて、頭をポンポンと撫でられます。そのときになって、ようやく、このお出かけに私を連れて来てくださったのは、鞄持ちなどではなく、気落ちしている私を慰めるためのお出かけなのだと気がついたのでございました。
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