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先生
八
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避暑地とはいえ、夏も半ばの太陽は、容赦なく照りつけて、額や脇、股まで汗を滲ませておりました。ジリジリと蝉の鳴き声が一層、暑苦しさを際立たせるようで、着物の袖で額の汗を拭います。
「あすこの温泉旅館は、江戸時代から創業している老舗なのですよ」
直之様が、得意そうに指差します。
古本屋を出てしばらく歩くと、朝倉家が懇意にされている立派な門構えの温泉宿がございました。
頬を上気させている先生は、扇子でパタパタと扇ぎながら「それなら一風呂浴びて帰ろうか」とおっしゃったのでございます。
風呂場で冷水を被り、広々とした露天風呂に肩まで浸かりますと、すぅと身体から力が抜けるような気がいたします。真昼の風呂場は、他には人の気配がなく、まるで私たちの貸し切りのようでした。
「足を伸ばして入る風呂はいいな」
松本先生は、濡れた髪をかきあげて、さっぱりした顔で伸びをしました。
先生は柔和で知的な顔つきのためか、細身の印象を持っておりましたが、意外にも胸板は厚く、二の腕や脹ら脛にも雄々しい筋肉がついておられます。そのような「大人の男」の身体を目の当たりにしてしまえば、思わず自身の貧相な身体と見比べて、気落ちしてしまうのでした。
海原を一望できる風呂場には潮風が吹き抜けます。異国の地では、風呂はあまり入ることはなく、湯を被って終わることがほとんどであったのだと、先生は懐かしそうにおっしゃります。下男の私も、水を被って終わることがほとんどでしたので、温かい湯に浸かるのは久しいことでした。
ばしゃりと水音と共に、直之様が立ち上がり、浴槽の岩場に腰かけました。足を湯に沈めながらも、僅かな涼を求めるように、首元を手の平で扇ぎます。珠のような雫が赤く火照った肌を滑っていきました。
「直之くんは、やはり男だったんだなぁ」
先生は、喉の奥でくすりと笑いました。
「どういう意味ですか?」
直之様は整った眉を歪めます。
「なあ、弘くんは知ってたかい? 直之くんには、ちゃあんとアレがついてるらしいぞ?」
「それは存じませんでした」
先生がからかうように笑うものですから、私も釣られて笑ってしまいます。朝倉直之様を初めてお目にしたとき、少女のようだと思ったことが呼び起こされます。そして、それは、松本先生も同じだったのだと思うと妙な安堵を覚えたのでございました。
身体を動かすことを嫌う直之様の肌は、日に焼けることもなく傷ひとつない白さでありました。体つきも、ほっそりと華奢でありますが、それでも幼さを残した丸みが、不均等で男でも女でもないように見えました。そうして、股間には、とってつけたような控えめな男根が垂れ下がっているのです。
「そ、……そのように、他人のことを笑うものではありませんよ」
直之様は、赤い顔を一層赤くし、ふいっとそっぽを向いてしまいます。松本先生は、笑いを堪えるようにして、咳払いをすると、神妙なお顔でおっしゃいます。
「これは失敬。君も立派な男だよ」
ますます気分を害された直之様は、こちらを睨みつけると、湯に沈めた足先で、ぱしゃぱしゃと湯を蹴り、先生と私に湯を浴びせます。
「この温泉宿の向かいには、有名な甘味処があるんです。そこの白玉あんみつは頬がとろけるほど甘いんですよ」
「参ったな」
苦笑いを浮かべる先生に、直之様は唇をすぼめて、小さく肩を竦めました。
風呂上がりには、温泉宿のご厚意で、揃いの浴衣をお借りいたしました。私のボロの着物よりも、ずっと良い生地でございます。服を脱いで丸裸になり、垢を落として、同じ浴衣を身につけておりますと、私も先生や直之様と肩を並べられるような、そんな厚かましい思いがしたのでございました。
「可愛らしいご兄弟でございますね」
「ありがとう。この子たちは、弘と直之というんですよ」
甘味処の若い女給に声をかけられて、先生は、穏やかに笑われました。そのような先生の罪のない嘘に、私と坊っちゃんは顔を見合わせてしまいました。直之様は眉を曇らせましたが、私は口元が緩むのをどうしても抑えることができませんでした。
先生は珈琲を、私たちは白玉あんみつに舌鼓を打っている間に、先生は馬車を呼ばれたようでございます。馬車に乗り込んでしまえば、この些細な小旅行の終わりを告げるようでございました。
一日中、気分を高揚されていた直之様は、大変にお疲れのようで、馬車の心地好い揺れも相まったのか、眠気眼で私の肩にもたれかかってこられます。私は、そんな坊っちゃんの体温に、妙に緊張してしまい、馬車の外の町並みに視線を向けました。
「あちらには何があるのかな?」
「あすこは、駄目です」
私の視線に合わせるように、先生が問いかけました。けれど、私が答える前に、直之様がきっぱりと言い捨ててしまいます。
「お母様に、あすこに行くのは禁じられております。治安も悪く、如何わしいところだそうで」
直之様は「如何わしいとはどういうことでしょうか?」と、独り言のように呟きました。握りしめた拳に、ぎゅっと力が入ります。その如何わしい町で、私は生まれたのでございます。
「ああ、そうか、うん」
大人の男である松本先生も、大方の察しがついたらしく、一人で納得しておりました。
「お兄さん、また、お出かけに連れて行って下さいね。弘も」
直之様は、私の肩にもたれかかったまま、向かいに座っておられる先生の浴衣の袖を、ぎゅっと握って微笑んでおられます。
「そうだね」
先生は、いつもの優しい顔で微笑まれました。けれど、その約束は果たされることはありませんでした。私たち、三人でのお出かけは、それが最初で最後となったのでございます。
「あすこの温泉旅館は、江戸時代から創業している老舗なのですよ」
直之様が、得意そうに指差します。
古本屋を出てしばらく歩くと、朝倉家が懇意にされている立派な門構えの温泉宿がございました。
頬を上気させている先生は、扇子でパタパタと扇ぎながら「それなら一風呂浴びて帰ろうか」とおっしゃったのでございます。
風呂場で冷水を被り、広々とした露天風呂に肩まで浸かりますと、すぅと身体から力が抜けるような気がいたします。真昼の風呂場は、他には人の気配がなく、まるで私たちの貸し切りのようでした。
「足を伸ばして入る風呂はいいな」
松本先生は、濡れた髪をかきあげて、さっぱりした顔で伸びをしました。
先生は柔和で知的な顔つきのためか、細身の印象を持っておりましたが、意外にも胸板は厚く、二の腕や脹ら脛にも雄々しい筋肉がついておられます。そのような「大人の男」の身体を目の当たりにしてしまえば、思わず自身の貧相な身体と見比べて、気落ちしてしまうのでした。
海原を一望できる風呂場には潮風が吹き抜けます。異国の地では、風呂はあまり入ることはなく、湯を被って終わることがほとんどであったのだと、先生は懐かしそうにおっしゃります。下男の私も、水を被って終わることがほとんどでしたので、温かい湯に浸かるのは久しいことでした。
ばしゃりと水音と共に、直之様が立ち上がり、浴槽の岩場に腰かけました。足を湯に沈めながらも、僅かな涼を求めるように、首元を手の平で扇ぎます。珠のような雫が赤く火照った肌を滑っていきました。
「直之くんは、やはり男だったんだなぁ」
先生は、喉の奥でくすりと笑いました。
「どういう意味ですか?」
直之様は整った眉を歪めます。
「なあ、弘くんは知ってたかい? 直之くんには、ちゃあんとアレがついてるらしいぞ?」
「それは存じませんでした」
先生がからかうように笑うものですから、私も釣られて笑ってしまいます。朝倉直之様を初めてお目にしたとき、少女のようだと思ったことが呼び起こされます。そして、それは、松本先生も同じだったのだと思うと妙な安堵を覚えたのでございました。
身体を動かすことを嫌う直之様の肌は、日に焼けることもなく傷ひとつない白さでありました。体つきも、ほっそりと華奢でありますが、それでも幼さを残した丸みが、不均等で男でも女でもないように見えました。そうして、股間には、とってつけたような控えめな男根が垂れ下がっているのです。
「そ、……そのように、他人のことを笑うものではありませんよ」
直之様は、赤い顔を一層赤くし、ふいっとそっぽを向いてしまいます。松本先生は、笑いを堪えるようにして、咳払いをすると、神妙なお顔でおっしゃいます。
「これは失敬。君も立派な男だよ」
ますます気分を害された直之様は、こちらを睨みつけると、湯に沈めた足先で、ぱしゃぱしゃと湯を蹴り、先生と私に湯を浴びせます。
「この温泉宿の向かいには、有名な甘味処があるんです。そこの白玉あんみつは頬がとろけるほど甘いんですよ」
「参ったな」
苦笑いを浮かべる先生に、直之様は唇をすぼめて、小さく肩を竦めました。
風呂上がりには、温泉宿のご厚意で、揃いの浴衣をお借りいたしました。私のボロの着物よりも、ずっと良い生地でございます。服を脱いで丸裸になり、垢を落として、同じ浴衣を身につけておりますと、私も先生や直之様と肩を並べられるような、そんな厚かましい思いがしたのでございました。
「可愛らしいご兄弟でございますね」
「ありがとう。この子たちは、弘と直之というんですよ」
甘味処の若い女給に声をかけられて、先生は、穏やかに笑われました。そのような先生の罪のない嘘に、私と坊っちゃんは顔を見合わせてしまいました。直之様は眉を曇らせましたが、私は口元が緩むのをどうしても抑えることができませんでした。
先生は珈琲を、私たちは白玉あんみつに舌鼓を打っている間に、先生は馬車を呼ばれたようでございます。馬車に乗り込んでしまえば、この些細な小旅行の終わりを告げるようでございました。
一日中、気分を高揚されていた直之様は、大変にお疲れのようで、馬車の心地好い揺れも相まったのか、眠気眼で私の肩にもたれかかってこられます。私は、そんな坊っちゃんの体温に、妙に緊張してしまい、馬車の外の町並みに視線を向けました。
「あちらには何があるのかな?」
「あすこは、駄目です」
私の視線に合わせるように、先生が問いかけました。けれど、私が答える前に、直之様がきっぱりと言い捨ててしまいます。
「お母様に、あすこに行くのは禁じられております。治安も悪く、如何わしいところだそうで」
直之様は「如何わしいとはどういうことでしょうか?」と、独り言のように呟きました。握りしめた拳に、ぎゅっと力が入ります。その如何わしい町で、私は生まれたのでございます。
「ああ、そうか、うん」
大人の男である松本先生も、大方の察しがついたらしく、一人で納得しておりました。
「お兄さん、また、お出かけに連れて行って下さいね。弘も」
直之様は、私の肩にもたれかかったまま、向かいに座っておられる先生の浴衣の袖を、ぎゅっと握って微笑んでおられます。
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