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先生
九
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それは、夏も終わりに近づいた闇の深い夜のことでした。草木も眠る丑三つ時に、不意に目が覚めたので便所で用を足し、自分の寝床に返ろうと朝倉邸の廊下を音を立てぬように歩いておりました。
そうすると薄暗い屋敷の中、ある部屋の隙間から、やんわりと灯りが漏れていることに気がついたのでございます。不思議に思っていると、静かに扉が開き、のっそりと人影が現れます。けれど、すぐに扉の奥から細い腕が伸び、人影の背中に触れました。そうして、振り返る男の影は、甘える女の影と唇を重ねたのでございます。それは、情欲が籠った熱い口づけでございました。
私は、夢でも見ているのではないかと、呆然と見上げることしかできません。
長い髪を乱した若い女は、うっとりと男を見つめるも、名残惜しげに厚い胸板を押し退けて、扉を閉めてしまいました。着物姿の男は口元を押さえて満足そうに笑うと、まるで、こそ泥のように足を忍ばせて、玄関先の階段を上っていきます。
「先生」
男は、肩をびくりと震わせて、こちらに振り返ります。
「なんだ、弘くんか」
安堵の息を溢した松本先生は、乱れた髪によれた着物姿でありました。それは、幼い頃に見た卑しい男客たちの姿を彷彿とさせ、私は首を振ってその残像を払い除けました。
「キヨさんと交際なすってるんですか」
「見てたのかい」
松本先生は賢くて、優しくて、凛とした紳士であるはずでした。
「このことは、黙っててもらえるかな」
けれど今宵、私に向けられる先生の笑みは、卑屈な色をしておりました。
先生が少しお話をしたいとおっしゃるので、私たちは、玄関先の階段に腰を下ろしておりました。
「僕は、秋の終わりに結婚するんだ。相手は取引先の社長令嬢でね。世話をしてくだすったのが、社長なのだよ」
「それでは、キヨさんは妾にでもなさるんですか」
「僕にはそんな甲斐性はないよ」
男は困ったように笑います。それは、つまり、この夏だけの秘密の恋人ということなのでしょう。
「女というのはそんなにいいもんですか」
「いずれ、君にもわかるよ」
頭を撫でようとしてきた手を、思わず、払い除けてしまいました。
「わかりたくありません」
私のような子供でも、わかることはございます。松本先生は、女であれば誰でも惚れてしまうような美青年でございます。朝倉家の若い女中は三人おりますが、もっと別嬪で愛嬌のある女中が、先生に色目を使っていたことも、先生が紳士的に断っていたことも存じておりました。けれど、先生も「男」であったのです。相手にされたのは、朝倉邸の女中で最も大人しく、気弱なキヨさんだったのでございます。女中たちの仕事を押し付けられても、文句の一つも言えぬキヨさんは、どこか姉さんたちを思い起こさせます。
そんなキヨさんは「秘密にしてほしい」と先生に囁かれれば、控えめに微笑んで、頑なに口を噤むことでしょう。
それは、女を買うよりも、もっと、もっと、矮小で、小賢しく思えて、それが、尊敬する松本先生であることが、私には哀しくて、悔しくて、仕方がありません。
「僕は田舎の小さな商家の生まれなんだ」
先生は立ち上がると階段下まで降りて、僕に振り返りました。
「兄たちよりもよほど優秀だと自負しているのだよ。けれど、僕は三男でね。生まれた順番が三番目というだけで、何も持たせてもらえなかったんだ。勇んで上京しても、下働きの仕事しか見つからなくてね。それでも、少しばかり英語ができたものだから、運良く社長に拾っていただけたんだ。僕はね。もっと、もっと、のし上がって、必ず兄たちを見返すのだと心に決めているのだよ」
「何のお話ですか」
一人で演説していた男は、いつもの清廉君主のお顔で微笑まれました。
「弘くんも、もう少し大きくなったら、この屋敷を出て、帝都で職を見つけるといい。そのためにも、よく勉強をするんだよ」
「この屋敷を出る?」
「世界は広いんだ。目まぐるしく変化している。これから、帝国も更に大きくなっていくだろう。だから、こんな小さな世界でくすぶっているのは勿体ない」
先生は僕の方に腕を伸ばします。けれど、先生の立派なお言葉は、私の心には何も響かず、その手を掴むことなど、できようもございません。
「先生と同じで、朝倉家には、拾われたご恩があるんです」
「弘くんは、いい子だね」
私の皮肉めいた言葉に、先生の瞳には憐憫の色が射しました。私は意気地のない奴隷根性が染み付いた下男なのかもしれません。それでも、私は、松本先生のようになりたいとは思えなかったのです。
そうすると薄暗い屋敷の中、ある部屋の隙間から、やんわりと灯りが漏れていることに気がついたのでございます。不思議に思っていると、静かに扉が開き、のっそりと人影が現れます。けれど、すぐに扉の奥から細い腕が伸び、人影の背中に触れました。そうして、振り返る男の影は、甘える女の影と唇を重ねたのでございます。それは、情欲が籠った熱い口づけでございました。
私は、夢でも見ているのではないかと、呆然と見上げることしかできません。
長い髪を乱した若い女は、うっとりと男を見つめるも、名残惜しげに厚い胸板を押し退けて、扉を閉めてしまいました。着物姿の男は口元を押さえて満足そうに笑うと、まるで、こそ泥のように足を忍ばせて、玄関先の階段を上っていきます。
「先生」
男は、肩をびくりと震わせて、こちらに振り返ります。
「なんだ、弘くんか」
安堵の息を溢した松本先生は、乱れた髪によれた着物姿でありました。それは、幼い頃に見た卑しい男客たちの姿を彷彿とさせ、私は首を振ってその残像を払い除けました。
「キヨさんと交際なすってるんですか」
「見てたのかい」
松本先生は賢くて、優しくて、凛とした紳士であるはずでした。
「このことは、黙っててもらえるかな」
けれど今宵、私に向けられる先生の笑みは、卑屈な色をしておりました。
先生が少しお話をしたいとおっしゃるので、私たちは、玄関先の階段に腰を下ろしておりました。
「僕は、秋の終わりに結婚するんだ。相手は取引先の社長令嬢でね。世話をしてくだすったのが、社長なのだよ」
「それでは、キヨさんは妾にでもなさるんですか」
「僕にはそんな甲斐性はないよ」
男は困ったように笑います。それは、つまり、この夏だけの秘密の恋人ということなのでしょう。
「女というのはそんなにいいもんですか」
「いずれ、君にもわかるよ」
頭を撫でようとしてきた手を、思わず、払い除けてしまいました。
「わかりたくありません」
私のような子供でも、わかることはございます。松本先生は、女であれば誰でも惚れてしまうような美青年でございます。朝倉家の若い女中は三人おりますが、もっと別嬪で愛嬌のある女中が、先生に色目を使っていたことも、先生が紳士的に断っていたことも存じておりました。けれど、先生も「男」であったのです。相手にされたのは、朝倉邸の女中で最も大人しく、気弱なキヨさんだったのでございます。女中たちの仕事を押し付けられても、文句の一つも言えぬキヨさんは、どこか姉さんたちを思い起こさせます。
そんなキヨさんは「秘密にしてほしい」と先生に囁かれれば、控えめに微笑んで、頑なに口を噤むことでしょう。
それは、女を買うよりも、もっと、もっと、矮小で、小賢しく思えて、それが、尊敬する松本先生であることが、私には哀しくて、悔しくて、仕方がありません。
「僕は田舎の小さな商家の生まれなんだ」
先生は立ち上がると階段下まで降りて、僕に振り返りました。
「兄たちよりもよほど優秀だと自負しているのだよ。けれど、僕は三男でね。生まれた順番が三番目というだけで、何も持たせてもらえなかったんだ。勇んで上京しても、下働きの仕事しか見つからなくてね。それでも、少しばかり英語ができたものだから、運良く社長に拾っていただけたんだ。僕はね。もっと、もっと、のし上がって、必ず兄たちを見返すのだと心に決めているのだよ」
「何のお話ですか」
一人で演説していた男は、いつもの清廉君主のお顔で微笑まれました。
「弘くんも、もう少し大きくなったら、この屋敷を出て、帝都で職を見つけるといい。そのためにも、よく勉強をするんだよ」
「この屋敷を出る?」
「世界は広いんだ。目まぐるしく変化している。これから、帝国も更に大きくなっていくだろう。だから、こんな小さな世界でくすぶっているのは勿体ない」
先生は僕の方に腕を伸ばします。けれど、先生の立派なお言葉は、私の心には何も響かず、その手を掴むことなど、できようもございません。
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