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先生
四
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雪解け水が屋根から滴り、白銀の大地からは草花が芽吹き始めれば、春の足音が聴こえてくるような気がいたします。
それでも直之様の怪我の具合には快方の兆しが見られません。病室のベッドから起き上がることすらままならず、自らの両足を、まるで足枷の重りのようだ、などと嘯いて、眉間の皺を深くしていく一方でございました。
事故当初は警察官が何度か訪ねてきたものですが、事故を起こした当人たちは姿をくらませてしまったらしく、目立った進展もないままにいつしか顔を見せることもなくなっておりました。他者と馴れ合うことを好まない直之様には、見舞い客もございません。
ストーブの上に置かれたやかんから、しゅーしゅーと蒸気が吹き上がる音と、時折、カーテンの向こう側から紙が擦れる音だけが室内に響いております。
もとより愛読家であった直之様は、いっそうと活字の世界へと耽るようになられました。
私はというと、相変わらず病室の椅子に腰かけて、やかんから吹き上がる湯気を眺めながら、直之様から声がかかるのをじいと待っているばかりです。病室には、あまりにも静かな時間が流れているのです。
「弘」
「……はい」
カーテン越しに名を呼ばれて、私は瞼を持ち上げました。いつの間にか船を漕いでいたらしく、慌てて立ち上がると、薄いカーテンを開きます。ベッドには、半身を起こした美男子が私を見上げておりました。
「足をさすってくれ」
直之様は御本を閉じると、ほんの少し身動ぎます。
私は言われるままに、膝までかけられた掛け布団をめくりました。少し乱れた着物から二本の足が伸びており、包帯が幾重にも巻かれているのです。男のものとは思えぬほどに細い足は、不用意に触れれば、更に傷めてしまいそうです。それに、直之様の視線は、いつも私の指先に注がれているものですから、どうにも気が張りつめてしまうのです。
傷に触れぬように、恐る恐る敷き布団と肌の隙間に差し込んで、外ももを擦りますと、僅かに汗ばんだしとやかな肌が手に吸いついてくるのです。陶器のように白いそれは、それでも血の通った肉体の一部でありました。太ももからふくらはぎを擦り、腱の切れていない左足の足首を伸ばし、足の裏を丹念に指で押し込みます。日に何度か、このように動かぬ足の血を巡らせるようにとお医者様より言いつかっているのです。
「膝が痒い」
直之様は内股を擦りあせて、不愉快そうにおっしゃっいました。包帯は蒸れやすいらしく、赤い湿疹が点在しておりました。包帯を緩めて軟骨薬を塗りつけますと、直之様の腰がびくりと震えました。
「痛みますか」
「……くすぐったいだけだ」
直之様は気まずそうに、視線を逸らして唇を軽く噛みました。自ら呼びつけておきながら、私が身の回りの世話をすることに、いつまでも慣れないご様子です。こうして不遇の足を擦ってさしあげたり、排泄の介助をする度に、唇を噛み締めるものですから、薄い唇はふっくらと腫れておりました。
「そんな目で僕を見るな」
私は咄嗟に目を伏せました。どのような目付きで直之様を見つめていたというのでしょう。それは私にはわかりかねます。けれど、私は怖いのです。一人で立ちあがることもままならぬ非力な青年の機嫌を損ねることが恐ろしいのです。
「失礼する」
知らない声に、私は顔をあげました。直之様の乱れた着物の裾を閉じ、掛け布団を整えてから、カーテンを少しばかり開きます。
「どちらさまでしょうか?」
「松本と申します。朝倉直之くんのお見舞いに参りました」
そこに立っているのは、華やかな紳士でありました。西洋の洒落たスーツに薔薇の花束まで抱えているものですから、銀幕の俳優と見まごうばかりです。けれど、私は、その青年紳士を存じておりました。
「松本先生ですか?」
私よりも早く、直之様が名を呼びました。
「覚えていてくれたのかい?」
紳士は嬉しそうに微笑まれました。直之様は頬を染めて、照れ臭そうに頷きました。
「これは、驚いた。直之くんは色男になったものだな」
「そんな。このようなみっともない姿でお恥ずかしいです」
直之様は少し伸びた髪を撫でつけながらも、はにかんでおられます。
「それにしても大災難だった。さぞ心細かっただろうね」
「ええ、まさか松本先生が来てくださるなんて」
直之様と会話を続けながら、青年紳士は私に花束を押し付けました。けれど、すぐに私の顔を見上げて、不可解そうに小首を傾げてみせるのです。
「君は、どこかで?」
「弘ですよ。うちの下男の。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、君は弘くんか。これはまた随分と大きくなったものだね」
私が口を開く前に、嬉々として口添えする直之様に、青年紳士は大きく頷き、下男の私にも柔和な笑顔を向けてくださいます。私はなんとか口角を持ち上げてみせました。けれど、上手く笑っているように見えているかは定かではありません。
私は、この松本という男がどうにも好かないのです。
それでも直之様の怪我の具合には快方の兆しが見られません。病室のベッドから起き上がることすらままならず、自らの両足を、まるで足枷の重りのようだ、などと嘯いて、眉間の皺を深くしていく一方でございました。
事故当初は警察官が何度か訪ねてきたものですが、事故を起こした当人たちは姿をくらませてしまったらしく、目立った進展もないままにいつしか顔を見せることもなくなっておりました。他者と馴れ合うことを好まない直之様には、見舞い客もございません。
ストーブの上に置かれたやかんから、しゅーしゅーと蒸気が吹き上がる音と、時折、カーテンの向こう側から紙が擦れる音だけが室内に響いております。
もとより愛読家であった直之様は、いっそうと活字の世界へと耽るようになられました。
私はというと、相変わらず病室の椅子に腰かけて、やかんから吹き上がる湯気を眺めながら、直之様から声がかかるのをじいと待っているばかりです。病室には、あまりにも静かな時間が流れているのです。
「弘」
「……はい」
カーテン越しに名を呼ばれて、私は瞼を持ち上げました。いつの間にか船を漕いでいたらしく、慌てて立ち上がると、薄いカーテンを開きます。ベッドには、半身を起こした美男子が私を見上げておりました。
「足をさすってくれ」
直之様は御本を閉じると、ほんの少し身動ぎます。
私は言われるままに、膝までかけられた掛け布団をめくりました。少し乱れた着物から二本の足が伸びており、包帯が幾重にも巻かれているのです。男のものとは思えぬほどに細い足は、不用意に触れれば、更に傷めてしまいそうです。それに、直之様の視線は、いつも私の指先に注がれているものですから、どうにも気が張りつめてしまうのです。
傷に触れぬように、恐る恐る敷き布団と肌の隙間に差し込んで、外ももを擦りますと、僅かに汗ばんだしとやかな肌が手に吸いついてくるのです。陶器のように白いそれは、それでも血の通った肉体の一部でありました。太ももからふくらはぎを擦り、腱の切れていない左足の足首を伸ばし、足の裏を丹念に指で押し込みます。日に何度か、このように動かぬ足の血を巡らせるようにとお医者様より言いつかっているのです。
「膝が痒い」
直之様は内股を擦りあせて、不愉快そうにおっしゃっいました。包帯は蒸れやすいらしく、赤い湿疹が点在しておりました。包帯を緩めて軟骨薬を塗りつけますと、直之様の腰がびくりと震えました。
「痛みますか」
「……くすぐったいだけだ」
直之様は気まずそうに、視線を逸らして唇を軽く噛みました。自ら呼びつけておきながら、私が身の回りの世話をすることに、いつまでも慣れないご様子です。こうして不遇の足を擦ってさしあげたり、排泄の介助をする度に、唇を噛み締めるものですから、薄い唇はふっくらと腫れておりました。
「そんな目で僕を見るな」
私は咄嗟に目を伏せました。どのような目付きで直之様を見つめていたというのでしょう。それは私にはわかりかねます。けれど、私は怖いのです。一人で立ちあがることもままならぬ非力な青年の機嫌を損ねることが恐ろしいのです。
「失礼する」
知らない声に、私は顔をあげました。直之様の乱れた着物の裾を閉じ、掛け布団を整えてから、カーテンを少しばかり開きます。
「どちらさまでしょうか?」
「松本と申します。朝倉直之くんのお見舞いに参りました」
そこに立っているのは、華やかな紳士でありました。西洋の洒落たスーツに薔薇の花束まで抱えているものですから、銀幕の俳優と見まごうばかりです。けれど、私は、その青年紳士を存じておりました。
「松本先生ですか?」
私よりも早く、直之様が名を呼びました。
「覚えていてくれたのかい?」
紳士は嬉しそうに微笑まれました。直之様は頬を染めて、照れ臭そうに頷きました。
「これは、驚いた。直之くんは色男になったものだな」
「そんな。このようなみっともない姿でお恥ずかしいです」
直之様は少し伸びた髪を撫でつけながらも、はにかんでおられます。
「それにしても大災難だった。さぞ心細かっただろうね」
「ええ、まさか松本先生が来てくださるなんて」
直之様と会話を続けながら、青年紳士は私に花束を押し付けました。けれど、すぐに私の顔を見上げて、不可解そうに小首を傾げてみせるのです。
「君は、どこかで?」
「弘ですよ。うちの下男の。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、君は弘くんか。これはまた随分と大きくなったものだね」
私が口を開く前に、嬉々として口添えする直之様に、青年紳士は大きく頷き、下男の私にも柔和な笑顔を向けてくださいます。私はなんとか口角を持ち上げてみせました。けれど、上手く笑っているように見えているかは定かではありません。
私は、この松本という男がどうにも好かないのです。
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