献身

nao@そのエラー完結

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落花流水

三十二

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 秋も深まれば、伊豆の山並みは鮮やかな赤や黄に染まります。今朝の空は一段と高く、鱗雲が広がっておりました。人里離れた山奥では、聴こえてくるのは鳥のさえずりぐらいのものでしょう。それでも耳を澄ましていれば、遠くの方から馬の蹄の音が響いてまいります。この山道の行きつくところは、朝倉邸しかございません。目を凝らせば、辻馬車が向かってくる様が見えました。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 馬車から降りてきたのは、お約束を伺っていた松本氏でありました。が、その背後から現れた、もう一人の紳士に、私は目を見張ったのです。伊豆の小さな町では、私も大男だとよく揶揄われたものでしたが、そんな私よりも、一回りは体格が大きいのです。いいえ、それよりも、栗色かかった立派な口髭や、天色の瞳など、私は見たこともありませんでした。

「久しぶりだね」

 松本氏は、親しげに私に笑いかけてくださいました。我に返った私は、慌ててお二人を客間へとご案内したのでございます。


「このような遠いところまで、はるばる足を運んでいただき、ありがとうございます」

 客人を迎え入れた直之様は、いつになく柔らかく微笑まれておりました。困窮している朝倉家への援助を申し出てくださったのは、こちらの異邦の紳士なのでしょう。直之様は、客人のためにスリーピースのスーツに袖を通し、髪もポマードで整えているのですから。
 朝倉邸に帰省されてからというもの、お屋敷にこもりきりの直之様は、下男の私ぐらいしか顔を合わせることもありませんでしたから、畏まった窮屈な洋服を着る機会などありませんでしたし、髪も伸びたままにされていたのです。それが、ほんの数日前に床屋の親父を屋敷に呼び寄せると、髪を短く散髪されたのでした。

 中年紳士は、直之様を見るなり大袈裟な感嘆の声をあげると、車椅子の前で膝を折り、その手の甲に接吻をしてみせたのです。直之様は、びくりと肩を震わせました。

「英国式の挨拶だよ」
 
 咄嗟に一歩踏み込めば、松本氏に袖を引かれたのです。直之様の方に視線を向ければ、何事もなかったかのように、紳士と談笑されておりました。尤も、異国語での会話など、私には聞き取ることは敵いませんが。

「ミスター・エバンスは英国の外交官でね。大変な親日家なのだよ。直之くんのことを、贔屓している歌舞伎役者に似ていると誉めているようだね」

 松本氏は、のんびりとした口調で翻訳してくださいました。確かに、前髪をあげた直之様のご尊顔は、見違えるような美男子でございました。けれど、よくよく見れば、切れ長の瞳はどこか腫れぼったく、頬は痩けてしまわれたように思います。それに、腫れた足首では革靴を履くことができませんでしたから、代わりに草履を履いておられるのが、どこか痛ましく思えたのです。

 客間には穏やかな時間が流れておりました。スーツを着た紳士たちは、ゆったりと椅子に腰かけて煙管をくゆらせております。飛び交う言葉も英国語でありますから、この伊豆のお屋敷が、まるで異国の館にでもなってしまったようで落ち着かぬ思いがいたしました。私にできることといえば、客人に紅茶と洋菓子をお出しすることぐらいのものです。部屋の隅で事の成り行きを見守りながら、お声をかけられるのをお待ちしておりました。
 直之様はというと、自身が執筆された原稿用紙をエバンス氏にお見せしているようで、頬を仄かに上気させて熱心にお話されておられました。英国人というのは、皆、あのような大袈裟な仕草をするものなのでしょうか。直之様のお話に耳を傾けながら、大きく頷いておられます。
 
「弘、書斎まで案内を頼む」
「畏まりました」

 どうやらエバンス氏は朝倉邸の書斎をご覧になりたいとおっしゃられたようでした。私は直之様が座る車椅子を押しながら、客人を屋敷の奥の書斎へとお連れいたします。
 扉を開いた先には、カーテンを締め切った薄暗い部屋がございます。ランタンに灯を点して、壁一面の本棚を照らせば、英国紳士は興味深そうに部屋の奥まで入られました。口下手な直之様でありましたが、エバンス氏とは随分と親しくなられたようで、お二人で何やら親密にお話されております。

「弘くん、僕と少し話をしないか」

 松本氏が、私の肩を優しく叩きました。

「お話なら、ここで伺いますが」
「弘、少し外してくれ」

 私の言葉を遮るように、直之様はきっぱりとおっしゃいました。そんな私たちのやり取りを、松本氏は可笑しそうに笑いました。直之様のご意向とあれば、私は頭を下げるしかありません。

「ご用がありましたら、お申し付けください」

 朝倉家の唯一の下男として、足の悪い主人と大切な客人を残して退室するのは、どことなく気がかりでございました。それに、扉が閉まるほんの一瞬、直之様の瞳が昏く沈んだように見えたのです。

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