33 / 36
落花流水
三十二
しおりを挟む
秋も深まれば、伊豆の山並みは鮮やかな赤や黄に染まります。今朝の空は一段と高く、鱗雲が広がっておりました。人里離れた山奥では、聴こえてくるのは鳥のさえずりぐらいのものでしょう。それでも耳を澄ましていれば、遠くの方から馬の蹄の音が響いてまいります。この山道の行きつくところは、朝倉邸しかございません。目を凝らせば、辻馬車が向かってくる様が見えました。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
馬車から降りてきたのは、お約束を伺っていた松本氏でありました。が、その背後から現れた、もう一人の紳士に、私は目を見張ったのです。伊豆の小さな町では、私も大男だとよく揶揄われたものでしたが、そんな私よりも、一回りは体格が大きいのです。いいえ、それよりも、栗色かかった立派な口髭や、天色の瞳など、私は見たこともありませんでした。
「久しぶりだね」
松本氏は、親しげに私に笑いかけてくださいました。我に返った私は、慌ててお二人を客間へとご案内したのでございます。
「このような遠いところまで、はるばる足を運んでいただき、ありがとうございます」
客人を迎え入れた直之様は、いつになく柔らかく微笑まれておりました。困窮している朝倉家への援助を申し出てくださったのは、こちらの異邦の紳士なのでしょう。直之様は、客人のためにスリーピースのスーツに袖を通し、髪もポマードで整えているのですから。
朝倉邸に帰省されてからというもの、お屋敷にこもりきりの直之様は、下男の私ぐらいしか顔を合わせることもありませんでしたから、畏まった窮屈な洋服を着る機会などありませんでしたし、髪も伸びたままにされていたのです。それが、ほんの数日前に床屋の親父を屋敷に呼び寄せると、髪を短く散髪されたのでした。
中年紳士は、直之様を見るなり大袈裟な感嘆の声をあげると、車椅子の前で膝を折り、その手の甲に接吻をしてみせたのです。直之様は、びくりと肩を震わせました。
「英国式の挨拶だよ」
咄嗟に一歩踏み込めば、松本氏に袖を引かれたのです。直之様の方に視線を向ければ、何事もなかったかのように、紳士と談笑されておりました。尤も、異国語での会話など、私には聞き取ることは敵いませんが。
「ミスター・エバンスは英国の外交官でね。大変な親日家なのだよ。直之くんのことを、贔屓している歌舞伎役者に似ていると誉めているようだね」
松本氏は、のんびりとした口調で翻訳してくださいました。確かに、前髪をあげた直之様のご尊顔は、見違えるような美男子でございました。けれど、よくよく見れば、切れ長の瞳はどこか腫れぼったく、頬は痩けてしまわれたように思います。それに、腫れた足首では革靴を履くことができませんでしたから、代わりに草履を履いておられるのが、どこか痛ましく思えたのです。
客間には穏やかな時間が流れておりました。スーツを着た紳士たちは、ゆったりと椅子に腰かけて煙管をくゆらせております。飛び交う言葉も英国語でありますから、この伊豆のお屋敷が、まるで異国の館にでもなってしまったようで落ち着かぬ思いがいたしました。私にできることといえば、客人に紅茶と洋菓子をお出しすることぐらいのものです。部屋の隅で事の成り行きを見守りながら、お声をかけられるのをお待ちしておりました。
直之様はというと、自身が執筆された原稿用紙をエバンス氏にお見せしているようで、頬を仄かに上気させて熱心にお話されておられました。英国人というのは、皆、あのような大袈裟な仕草をするものなのでしょうか。直之様のお話に耳を傾けながら、大きく頷いておられます。
「弘、書斎まで案内を頼む」
「畏まりました」
どうやらエバンス氏は朝倉邸の書斎をご覧になりたいとおっしゃられたようでした。私は直之様が座る車椅子を押しながら、客人を屋敷の奥の書斎へとお連れいたします。
扉を開いた先には、カーテンを締め切った薄暗い部屋がございます。ランタンに灯を点して、壁一面の本棚を照らせば、英国紳士は興味深そうに部屋の奥まで入られました。口下手な直之様でありましたが、エバンス氏とは随分と親しくなられたようで、お二人で何やら親密にお話されております。
「弘くん、僕と少し話をしないか」
松本氏が、私の肩を優しく叩きました。
「お話なら、ここで伺いますが」
「弘、少し外してくれ」
私の言葉を遮るように、直之様はきっぱりとおっしゃいました。そんな私たちのやり取りを、松本氏は可笑しそうに笑いました。直之様のご意向とあれば、私は頭を下げるしかありません。
「ご用がありましたら、お申し付けください」
朝倉家の唯一の下男として、足の悪い主人と大切な客人を残して退室するのは、どことなく気がかりでございました。それに、扉が閉まるほんの一瞬、直之様の瞳が昏く沈んだように見えたのです。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
馬車から降りてきたのは、お約束を伺っていた松本氏でありました。が、その背後から現れた、もう一人の紳士に、私は目を見張ったのです。伊豆の小さな町では、私も大男だとよく揶揄われたものでしたが、そんな私よりも、一回りは体格が大きいのです。いいえ、それよりも、栗色かかった立派な口髭や、天色の瞳など、私は見たこともありませんでした。
「久しぶりだね」
松本氏は、親しげに私に笑いかけてくださいました。我に返った私は、慌ててお二人を客間へとご案内したのでございます。
「このような遠いところまで、はるばる足を運んでいただき、ありがとうございます」
客人を迎え入れた直之様は、いつになく柔らかく微笑まれておりました。困窮している朝倉家への援助を申し出てくださったのは、こちらの異邦の紳士なのでしょう。直之様は、客人のためにスリーピースのスーツに袖を通し、髪もポマードで整えているのですから。
朝倉邸に帰省されてからというもの、お屋敷にこもりきりの直之様は、下男の私ぐらいしか顔を合わせることもありませんでしたから、畏まった窮屈な洋服を着る機会などありませんでしたし、髪も伸びたままにされていたのです。それが、ほんの数日前に床屋の親父を屋敷に呼び寄せると、髪を短く散髪されたのでした。
中年紳士は、直之様を見るなり大袈裟な感嘆の声をあげると、車椅子の前で膝を折り、その手の甲に接吻をしてみせたのです。直之様は、びくりと肩を震わせました。
「英国式の挨拶だよ」
咄嗟に一歩踏み込めば、松本氏に袖を引かれたのです。直之様の方に視線を向ければ、何事もなかったかのように、紳士と談笑されておりました。尤も、異国語での会話など、私には聞き取ることは敵いませんが。
「ミスター・エバンスは英国の外交官でね。大変な親日家なのだよ。直之くんのことを、贔屓している歌舞伎役者に似ていると誉めているようだね」
松本氏は、のんびりとした口調で翻訳してくださいました。確かに、前髪をあげた直之様のご尊顔は、見違えるような美男子でございました。けれど、よくよく見れば、切れ長の瞳はどこか腫れぼったく、頬は痩けてしまわれたように思います。それに、腫れた足首では革靴を履くことができませんでしたから、代わりに草履を履いておられるのが、どこか痛ましく思えたのです。
客間には穏やかな時間が流れておりました。スーツを着た紳士たちは、ゆったりと椅子に腰かけて煙管をくゆらせております。飛び交う言葉も英国語でありますから、この伊豆のお屋敷が、まるで異国の館にでもなってしまったようで落ち着かぬ思いがいたしました。私にできることといえば、客人に紅茶と洋菓子をお出しすることぐらいのものです。部屋の隅で事の成り行きを見守りながら、お声をかけられるのをお待ちしておりました。
直之様はというと、自身が執筆された原稿用紙をエバンス氏にお見せしているようで、頬を仄かに上気させて熱心にお話されておられました。英国人というのは、皆、あのような大袈裟な仕草をするものなのでしょうか。直之様のお話に耳を傾けながら、大きく頷いておられます。
「弘、書斎まで案内を頼む」
「畏まりました」
どうやらエバンス氏は朝倉邸の書斎をご覧になりたいとおっしゃられたようでした。私は直之様が座る車椅子を押しながら、客人を屋敷の奥の書斎へとお連れいたします。
扉を開いた先には、カーテンを締め切った薄暗い部屋がございます。ランタンに灯を点して、壁一面の本棚を照らせば、英国紳士は興味深そうに部屋の奥まで入られました。口下手な直之様でありましたが、エバンス氏とは随分と親しくなられたようで、お二人で何やら親密にお話されております。
「弘くん、僕と少し話をしないか」
松本氏が、私の肩を優しく叩きました。
「お話なら、ここで伺いますが」
「弘、少し外してくれ」
私の言葉を遮るように、直之様はきっぱりとおっしゃいました。そんな私たちのやり取りを、松本氏は可笑しそうに笑いました。直之様のご意向とあれば、私は頭を下げるしかありません。
「ご用がありましたら、お申し付けください」
朝倉家の唯一の下男として、足の悪い主人と大切な客人を残して退室するのは、どことなく気がかりでございました。それに、扉が閉まるほんの一瞬、直之様の瞳が昏く沈んだように見えたのです。
0
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
キャラ文芸
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる