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落花流水
三十三
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客間で松本氏と向かい合っておりますと、どうにも体が萎縮してしまいます。それは、彼が私の先生であり、私は彼の出来の悪い教え子であったからでしょうか。松本氏は、私が淹れ直した紅茶を口にすると、満足そうに息を吐きました。
「それにしても、この屋敷もさみしくなったものだね」
松本氏は辺りを見回しながら、独り言のようにおっしゃいました。かつては、何人もの女中や下男が出入りしていた屋敷でしたが、今は人の気配がございませんでしたし、飾っていた絵画や置物なども、まとまった金を工面するのに、いくつか手放してしまいました。初めて松本氏が伊豆にいらした頃と比べると、随分とさみしい屋敷に見えたことでしょう。
「どうして、朝倉家に手を貸そうなどと思われたのですか」
「君はどうも僕のことを利己的な人間だと思っているようだけどね。僕だって直之くんを不憫に思っているのだよ」
松本氏は、私の心の内を汲み取るように、肩をすくめてみせました。私は未だに、松本という男がわからないのです。幼い直之様に先生らしく聖人君子の顔ををなさっていたのは、旦那様の息子であったからなのでしょう。その裏には野心家で軽薄な本性があるのです。ですから、旦那様から見放されてしまった直之様に、今さら情をかける道理などないではありませんか。
「ここだけの話、あの馬車の事故は事故ではなかったようでね」
「そんな、まさか」
私は、無意識に立ち上がっておりました。松本氏との間にテーブルがなければ、掴みかかっていたかもしれません。直之様の足を潰して、すべてを奪い去ってしまった事故。それが事故でなかったのであれば、直之様の命を狙ったものに他ならないのです。
「警察は動いているのですか」
「財閥の妾の子、というのも大変なものなのだね」
嗚呼、なんということでしょう。直之様の命を狙った鬼畜は身内にいるのです。帝都大学を卒業後には、旦那様の経営する財閥企業への就労を条件に、援助を受けていた直之様です。それを疎ましく思う輩がいたのです。本妻のご婦人か。与太者のご子息か。それとも他の妾の子か。旦那様の身内の仕業であれば、警察にも融通が利くのやもしれません。あのような大事故を起こした馬車の御者や自動車の運転手が見つからぬのは、その証のようにも思えました。
「それで、結局、君はこの屋敷に骨を埋めるつもりでいたのかい?」
顔を覆って項垂れる私に、松本氏は無情にも追い討ちをかけるのです。
「私は、この屋敷しかいくところがございませんから」
「まったく、その忠誠心には感服するよ。しかし、今回の援助の話がまとまれば、君もこの屋敷から解放されるというわけだ。満州に渡る決心がついているなら、遠慮はいらない。僕に頼りたまえ」
「どういうことですか」
「おや、直之くんから聞いていないのかい」
松本氏の勿体ぶった口ぶりは、やはり好かないものです。それでも、私は辛抱して松本氏と向き合っておりました。
「世界情勢というのは不安定なものでね。大英帝国と大日帝国の外交関係は、今は雲行きがあやしいのだよ。外交官のミスター・エバンスも、近々本国に戻ることにしたそうだ。そこで、土産に大日帝国の男子を一人連れて帰ろうというわけさ。直之くんは英国語も堪能で通訳にも使えるし、足が悪いといっても大変に見目が良いからね。まさにお誂え向きというわけさ」
「難しいお話はわかりかねます。エバンス様が援助してくださる条件は、直之様が大英帝国へ留学することなのですか」
「彼は大変な親日家でね。特に女形の歌舞伎役者のような男子が好みなのだそうだ」
私は厭な予感がいたしました。
「当初は直之くんも渋っていたんだがね。背に腹は代えられないのだろうよ。さすがに母親が妾だと、物分かりも良いものだね」
私は、考えるより先に駆け出しておりました。やはりお二人を残して書斎から離れてはいけなかったのです。
直之様が、私などを寝台に誘ったのは、私に対して少なからず心があったからでも、奥様との密事を咎めようとしたわけでもないのです。ただ、ご自身が奥様のように振る舞えるのかを確めようとされたのでしょう。
あの切れ長の瞳は、奥様と似ていたやもしれません。けれど、私が少し肌に触れただけで全身を震わせていた直之様に、そのような真似ができようはずもございません。それは、私が一番よくわかっていたのです。
「それにしても、この屋敷もさみしくなったものだね」
松本氏は辺りを見回しながら、独り言のようにおっしゃいました。かつては、何人もの女中や下男が出入りしていた屋敷でしたが、今は人の気配がございませんでしたし、飾っていた絵画や置物なども、まとまった金を工面するのに、いくつか手放してしまいました。初めて松本氏が伊豆にいらした頃と比べると、随分とさみしい屋敷に見えたことでしょう。
「どうして、朝倉家に手を貸そうなどと思われたのですか」
「君はどうも僕のことを利己的な人間だと思っているようだけどね。僕だって直之くんを不憫に思っているのだよ」
松本氏は、私の心の内を汲み取るように、肩をすくめてみせました。私は未だに、松本という男がわからないのです。幼い直之様に先生らしく聖人君子の顔ををなさっていたのは、旦那様の息子であったからなのでしょう。その裏には野心家で軽薄な本性があるのです。ですから、旦那様から見放されてしまった直之様に、今さら情をかける道理などないではありませんか。
「ここだけの話、あの馬車の事故は事故ではなかったようでね」
「そんな、まさか」
私は、無意識に立ち上がっておりました。松本氏との間にテーブルがなければ、掴みかかっていたかもしれません。直之様の足を潰して、すべてを奪い去ってしまった事故。それが事故でなかったのであれば、直之様の命を狙ったものに他ならないのです。
「警察は動いているのですか」
「財閥の妾の子、というのも大変なものなのだね」
嗚呼、なんということでしょう。直之様の命を狙った鬼畜は身内にいるのです。帝都大学を卒業後には、旦那様の経営する財閥企業への就労を条件に、援助を受けていた直之様です。それを疎ましく思う輩がいたのです。本妻のご婦人か。与太者のご子息か。それとも他の妾の子か。旦那様の身内の仕業であれば、警察にも融通が利くのやもしれません。あのような大事故を起こした馬車の御者や自動車の運転手が見つからぬのは、その証のようにも思えました。
「それで、結局、君はこの屋敷に骨を埋めるつもりでいたのかい?」
顔を覆って項垂れる私に、松本氏は無情にも追い討ちをかけるのです。
「私は、この屋敷しかいくところがございませんから」
「まったく、その忠誠心には感服するよ。しかし、今回の援助の話がまとまれば、君もこの屋敷から解放されるというわけだ。満州に渡る決心がついているなら、遠慮はいらない。僕に頼りたまえ」
「どういうことですか」
「おや、直之くんから聞いていないのかい」
松本氏の勿体ぶった口ぶりは、やはり好かないものです。それでも、私は辛抱して松本氏と向き合っておりました。
「世界情勢というのは不安定なものでね。大英帝国と大日帝国の外交関係は、今は雲行きがあやしいのだよ。外交官のミスター・エバンスも、近々本国に戻ることにしたそうだ。そこで、土産に大日帝国の男子を一人連れて帰ろうというわけさ。直之くんは英国語も堪能で通訳にも使えるし、足が悪いといっても大変に見目が良いからね。まさにお誂え向きというわけさ」
「難しいお話はわかりかねます。エバンス様が援助してくださる条件は、直之様が大英帝国へ留学することなのですか」
「彼は大変な親日家でね。特に女形の歌舞伎役者のような男子が好みなのだそうだ」
私は厭な予感がいたしました。
「当初は直之くんも渋っていたんだがね。背に腹は代えられないのだろうよ。さすがに母親が妾だと、物分かりも良いものだね」
私は、考えるより先に駆け出しておりました。やはりお二人を残して書斎から離れてはいけなかったのです。
直之様が、私などを寝台に誘ったのは、私に対して少なからず心があったからでも、奥様との密事を咎めようとしたわけでもないのです。ただ、ご自身が奥様のように振る舞えるのかを確めようとされたのでしょう。
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