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プロローグ

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「琴子ちゃん、好きだよ」
「――え」

 持っていた勉強道具が手から滑り落ちる。耳が痛いくらいに熱くなるのを感じながら、落ちてしまった教科書とノートを拾う。

 唐突にとんでもない発言をした樹くんは、にこにこ笑ったまましゃがんでバラバラになったシャーペンや消しゴムを拾ってくれた。

 しゃがんだ状態で見る樹くんは、いつもより顔が近くて言葉がまるで出てこない。

 夢かな。

 ひっそりと恋心を抱いている相手から「好き」だなんて言われたら驚いてしまう。

 まず本当に私が思っている「好き」なのか確認しなければ。それは私が高校生で、相手が二十六歳の大人だからだ。

「好きだよ」

 駄目押しのようにもう一度言われて、今度は尻餅をついた。

 心臓がドクドクと音を立てる。

 口をはくはくと動かす私は、まるで金魚にでもなった気分だった。

「大丈夫?」

 聞かれて、こくこくと首を縦に振る。

「また明日のお昼、会おうか」
「……うん」

 私は何とか返事をした。

 今日はもう帰る時間だ。二月は五時を過ぎるとあっという間に日が沈む。家が隣にあるとはいえ、人様の家に長居し過ぎている気分になるのだ。

 いつものようにアパートの前まで見送られて別れる。

 樹くんは返事を催促しなかった。

 そして私の背中を押すように明日はバレンタインデーである。

 本当は今すぐにでも私も好きですと返事をするべきだろう。けれど、小学生の頃に会って一目惚れをしてからの恋はなかなかに重い。即答できるほどの重さではなく、好きだという言葉を自分の頭で処理することに時間がかかった。

 まだ心臓が爆発してしまいそうなくらいにうるさい。

 だって、告白されるなんて夢にも思わなかったのだから。

 私の計画では高校を卒業した時、樹くんに彼女がいなかったら告白するつもりだったのだ。こんな不意打ち、計画にはない。

 私はなかなか落ち着かなかった。

 それでも明日のバレンタインの為にチョコの材料は揃えている。何度も何度も心の中で、明日がバレンタインデーであることに感謝しながらハート型のチョコを作った。それだけでなく、固めたチョコにデコレーションまで加える。

 完全に浮かれていた。

 人生で一番浮かれていたかもしれない。

 翌日、そわそわしながら約束のお昼に樹くんの家に向かう。

 樹くんの家は少し広い日本家屋だ。塀があり、門もある。

 その門の前に見慣れない女性がいた。

 女性は茶髪に赤いピアスをしており、目鼻が整っている。華やかな顔をして、大人の女性だった。高校生の私には手の届かない色気に逃げ帰りたくなる。

 けれど彼女の手には紙袋があった。

 何となく中身を察して、嫌だなと思いつつも譲りたくなくて女性を無視して家に入ることにする。

「あれ、あなた誰?」

 なのに女性は私に話しかけて来た。むしろ私の方が言いたいくらいなのに。

 聞こえなかったふりをしたいのに、私の足はぴたりと止まってしまう。振り返ると、女性は首を傾げてからすぐに納得したという顔をした。

「あっもしかして十塚くんが大切にしてるっていうコトコチャン。え、何もしかしてチョコ渡しに来たの?」
「そうですけど……」

 肯定すると、女性は鼻で笑う。

 ねっとりとした視線が私が手元に注がれた。

「そのラッピングだと本命っぽいから止めた方がいいよ。妹みたいに可愛がってもらってるんだからさ」

 昨日とは違う熱が頭の上まで突き抜ける。

 どうしてそんなことを知らない相手に言われなくてはならないのだろう。それに私の恋まで嗤われた。足下が崩れ落ちてしまうような感覚に襲われ、僅かな勇気を振り絞って声を出す。

「違います。私はちゃんと樹くんに好きって言ってもらいました」

 なのに女性は面白がるような顔を崩さない。むしろ一層、おかしいことでも聞いたかのように嘲る声が耳に届く。

「好きって、そりゃあ家族みたいに可愛いから好きって意味でしょう。可哀想だから教えてあげる。私が十塚くんの彼女なんだよ」
「――」

 私よりも堂々と、女性は言う。

 愛されているという自信が滲み出ていた。

 私にはない。男女の空気になったことなんて、一度たりともなかったからだ。

「これから私も十塚くんの家に行くの。私のことを紹介しようと思っているのね。でも、コトコチャンがそのチョコを渡したら恥ずかしいことになるんじゃない?」

 わざわざトドメを刺されに行くの? とでも言うように女性はニヤニヤした顔を止めなかった。

 こんな人が樹くんの彼女なわけがないと否定したい。しかしもしも本当に彼女だったら私は恥ずかしくて二度と樹くんの前に出られなくなるだろう。想像したら居たたまれない。

 第三者に言われるだけで揺らぐほど、彼女の言い分には心当たりがあった。むしろ、ただ好きだと言われただけでここまで暴走してしまう自分が恥ずかしい。痛々しい。真っ赤になって、舞い上がって喜んでいた。

 樹くんに妹みたいに好きだと言われたら、私はもう二度と樹くんに恋心を伝えることはできない。妹のような存在としか思っていない相手に告白されたら、樹くんは気を遣うだろう。良いことは何もない。

 手作りのチョコが入った袋を強く握り、私は自分の家に走って戻る。

 涙が零れる所をあの女性に見られたくなった。

 走って階段を上り、自分の部屋に戻るとぐちゃぐちゃになった顔を枕に埋める。

 くぐもった声が漏れ出た。

 喉が焼けて千切れてしまうんじゃないかってくらい痛くて、上手く息が吸えなくなる。

 ようやく落ち着いて夕方になっても、樹くんが私の家を訪ねてくることはなかった。その事実にまた、涙が零れる。

 良かった、渡さなくて。

 良かった、家に行かなくて。

 良かった、私も好きだなんて言わなくて。

 ぼろぼろと涙を流しながら、作ったチョコを食べる。捨てて誰かに見られるのが嫌だった。証拠隠滅だ。デコレーションの好きという文字を口内で溶かして飲み込む。すると何だか身体の血液や唾液が鉛みたいに重たくなっていく感じがした。どろりとしたチョコの感触に吐き出したくなる。味なんて分からなかった。食感だけが生々しくて、気持ち悪くなる。

 なんて馬鹿な私。

 十歳も離れた高校生を、一体誰が女として見てくれるのだろう。

 樹くんが私のことを女性として見てくれる訳ないのに。

 次の日の夕方。樹くんと一緒に彼女だと言った女性が歩いて帰ってくるのが、部屋の窓から見えた。

 喉の奥が苦しい。チョコのどろりとした食感がまだ口内に残っているような錯覚に襲われる。

 そうか、私は失恋したのだ。

 受け入れざるを得ない。

 知らぬ間に涙が溢れた。止めようという気にもなれず流し続ける。その内、涙は枯れた。

 底知れぬ喪失感に何もかもが怖くなる。

 私はカーテンの隙間から覗いた彼らから目を背けた。

 これからは樹くんの自由な時間は、私ではなく彼女である女性に注がれるのだろう。間に入るなんて無理だ。けれど樹くんに頼まれたら私は断れない。

 だから私は樹くんを避けるようにした。

 声をかけず、家の前を通る時は走って通り過ぎる。

 でも突然、樹くんとの時間がなくなった私にはすることなんてなくて……結局、一人で黙々と勉強することしかない。おかげで大学に入ってもいい評価をもらえたし、会社だって希望に近い企業に勤めることができた。

 ある意味では幸せだ。

 なのに彼氏は作れなかった。

 告白を受けても「好き」の言葉を聞くと頭が真っ白になって逃げ出したくなる。とても頷くことなんてできなかった。

 友人や知り合いの結婚式にも何度か参加した。幸せな二人を見て、私も結婚したいと言う未婚の友人に曖昧に笑うことしかできない。

 本当に、身体に穴が空いてしまったみたいだ。

 樹くんに「好き」と言われてから、私はその言葉を聞くと逃げ出したくなる。

 トラウマだ。

 友人に「好き」と言われると「私も好き」と言うことすら出来なくて曖昧に笑う。



 いつの間にか私の中で「好き」という言葉は、別れの言葉になっていた。



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