初めてを失うまでの契約恋愛

佐倉響

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第1章 副社長と契約恋愛

03

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「どうかしましたか?」
「薬を家に置いてきてしまったみたいで……」
「元々、予定をしていなかったので気にしないでください。ちょうどいい時間なので、帰りましょうか」

 まさかこんなことになるとは思わなかった。
 唯は頭の中でお店から家までどれくらい時間がかかるか計算する。走れば余裕で間にあうはずだ。
 しかし、せっかくご飯を誘ってくれた千歳に対し、別れ際にせかせかと立ち去るのはどうだろう。

 千歳が会計を済ませた後、唯は緊張した。ほろ酔い気分はすっかり抜けて、つい先ほどまでお酒を飲んでいた体で走っても大丈夫だろうかと冷静に考えた。足下を見ると、ヒールのある靴をはいているのが見える。たぶん、こける。

(副社長と別れたら、できる限り早歩きしよう)

 よし、と気合いを入れる唯の姿を千歳はきょとんとした顔で見ていた。

「良かったら、一緒にタクシーに乗りますか」
「へ」
「帰りはタクシーを呼んでいたんです。……良かった、ちょうど来たみたいです」

 千歳がお店のドアを開けると、すぐそばにタクシーが止まった。

「そこまでお世話になるわけには」
「どんな薬かは聞きませんけど、種類によってはきちんと時間を守らないといけないものもありますよね。遠慮しないでください」

 迷っている暇はなかった。電車で帰るよりも、今、タクシーに乗って送ってもらった方が確実に時間内に薬を飲むことができるだろう。

「……ありがとうございます」

 唯は頭を下げて、先にタクシーの後部座席に座る。その隣に、千歳も座った。
 千歳は唯が住んでいるマンションの最寄り駅までしか知らないので、唯が場所を指定する。
 タクシーに乗って十分ほどして、マンションの前に辿り着く。電車であれば、こうはいかなかっただろう。
 しかし唯は、すべてを順調に進めることは難しいことを悟った。

「今日はありがとうございました」
「……一人で大丈夫ですか?」

 タクシーはすでにマンションの前だ。わざわざ、一人で大丈夫かなどと聞くような距離ではない。

「ここまで来れば大丈夫ですよ」
「それなら、いいんですけど」

 唯はにこりと笑って、タクシーを出る。
 これ以上、千歳に頼るわけにはいかなかった。もしかすると厄介なことに巻き込まれてしまうかもしれない。
 千歳を乗せたタクシーが移動を始めて、唯はすこしだけ心細くなった。

「唯、こんな時間までどこに行っていたんだ」

 マンションの前には一矢が立っていた。唯を見つけるなり、駆けつけてくる。こんなことは初めてだった。
 近くまできた一矢は唯の腕を掴むと、力を込める。

「最近は連絡を取ってもそっけないし、浮気でもしてるんじゃないかって心配になったんだ」

(それは一矢くんでしょう)

 喉まで出かかった言葉を飲み込む。
 まだ別れ話を切り出すタイミングではなかった。引っ越しをしてからが最適だと考えていたのだ。
 けれどもう、誤魔化せないところまできている。
 いくらだらしない一矢でも、唯のマンション前まで来たのだ。鞄の中に入っているはずの合い鍵がなくなっていることには気づいているだろう。だから唯を待ち伏せしていたのだ。

「さっきの男、誰?」
「会社の上司。今、急いでいるから……話は後でもいい? 今度ちゃんと会おう?」

 ここで倒れるわけにはいかなかった。浮気をするような男の前で、一番の弱味を知られたくはない。
 しかし一矢も譲らなかった。

「家の中に入ってもないと思うよ」
「……何、言ってるの?」

 一矢の悪意にまみれた笑みに、唯は胸騒ぎがした。

「これ」

 そう言って、見せてきたのは唯が処方してもらっている薬だった。数ヶ月分が入った袋と、ポーチの中に入っていたはずの小さなピルケースも持っている。

「何でそれ、持ってるの?」

 いつ盗られたのだろうか。少なくとも、浮気現場に遭遇した時は薬を持っていた。その後は、一矢と会ったことはない。

「何かあった時のために、唯から鍵をもらったその日にスペアキーを作ってたんだ。昨日の深夜、家に入ったんだけど気づかなかった?」
「薬、返して」

 飲まないといけない時間になっている。唯は手を伸ばして、薬を返してもらおうとするが男女の身長差と力の差を前にすれば無力だった。

「先に盗ったのは唯だろ」
「何言ってるの」
「通帳を返してくれたら、渡すよ」
「それ、私のだから」
「結婚したら、俺が管理するんだしさ。今から預かっておいて当然だろう」
「私、一矢くんとは結婚しません」
「酷いな、もう会社だって退職したのに! 結婚詐欺か?」
「退職したのはプロポーズ前でしょう。私のせいにしないで」

 言い返しながら、唯は情けなくなってきた。どうしてこの人でいいと思ったのだろう。妥協に妥協を重ねても、この男だけは止めておいた方がいいだろうに。
 一矢はもう唯を財布扱いすることを隠さなかった。

「一錠だけで、いい……から……」

 無駄だと分かっていても、唯は何度も手を伸ばした。できる限り、穏便に済ませたい。

「ていうか、この薬ってメネッカに刺された処女が飲む薬だろ? マジで? このまま飲めなかったら、熱出すんだっけ」
「分かっている……なら……」
「でも死ぬわけじゃないなら、反省するまで没収しても大丈夫だよな」

 大丈夫なはずがない。
 一矢は知らないだろうが、唯は三度もメネッカに刺されている。ただの発熱で済むわけがなかった。インフルエンザ並みか、それ以上の症状に悩まされることになるだろう。
 そうなった姿を見せれば、一矢も唯に薬を渡してくれるだろうか。

(どうしよう……)

 こんなにまずい状況になるのなら、タクシーを降りる時に千歳に頼るべきだったのかもしれない。
 けれど、時間を巻き戻しても唯は彼を頼ることができそうになかった。
 千歳は恩人のような人だ。
 彼と出会う前の唯は、会社で頼られれば何でもやっていた。そのせいで唯に頼めば何でもやってもらえると思った人間が『月野さんの仕事』なのだと言い張って大量の雑用を押しつけられていた。そんな時、千歳が唯を見つけて助けてくれたのだ。

 千歳はまだ副社長になる前だったが、「自分の仕事を手伝って欲しいから」と言って唯が押しつけられている仕事を返し、本当のことを教えてくれた。どんなに仕事ができても、世渡りが苦手だった唯にとって千歳は『頼れる先生』のような存在だった。そうして千歳の仕事を手伝い、彼が副社長になることが発表されると同時に唯は秘書になっていた。
 だから私生活……まして、恋愛関係で千歳に助けてもらうわけにはいかない。

(……前に飲み忘れた時は、すこしの間くらいなら大丈夫だったのに)

 唯は熱で頭がぼんやりとしていくのを感じた。体内の温度が急激に上がっている。それなのに貧血のような感覚もあった。

(気持ち悪い……)

 ここで倒れたら、どうなるか分かったものではない。
 熱で視界がぼやけ始め、こうなったら警察か救急車を呼ぶしかないだろう。そう思って鞄の中を探ろうとする。
 だが一矢は嘲笑いながら、唯の腕を掴んで阻んだ。

「やめて……っ」

 その拍子に一矢が持っていた薬が地面に落ちるが、腕を掴まれた状態では拾うことはできなかった。

「こんばんは、落としましたよ」

 ――その時、清涼感のある声がはっきりと聞こえた。

 唯の意識がほんのすこし、すっきりする。熱でぼんやりしていても、千歳の声を聞き間違えるはずがない。
 千歳は地面に落ちた薬を拾った。

「ああ、悪い。拾ってもらって」

 一矢は先ほどの凶暴さを引っ込めて、人懐っこい笑みを浮かべる。
 それに対し、千歳もニコニコ笑っていた。
 けれど、薬を一矢に渡す素振りはない。

「それ、俺のなんだ」
「男の人にも必要なんですか。初めて聞きました」
「あ?」

(副社長、帰ったんじゃ……)

「ほら、薬の説明も入っているでしょう? もしかして、女性でしたか」

(そんなわけないでしょう……!)

 このまま何事もなく終わって欲しい唯の気持ちを知ってか知らずか、千歳はマイペースに話を続ける。会話が成立する相手であれば、千歳が負けるはずがないことを唯は知っていた。
 けれど、今の一矢は会話が成立する相手とは言えない。

「そんなわけないだろう」
「じゃあ、この薬はそちらの女性のものですよね」
「ああだから、俺が受け取るよ」
「どうしてあなたに?」
「こんの……、面倒くせぇな!」

 一矢は耐えられなくなったのか、唯の腕を投げ捨てるように手放すと千歳の方へと掴みかかった。

「月野さん……!」

 だというのに、千歳は唯を心配するように呼びかけた。これでは他人のふりをしていた意味がない。
 しかし、それも仕方のないことだろう。
 唯は熱のせいで、自力で立っているのもやっとの状態だった。
 すこし押されただけで、そのまま体が倒れていく。

(あ……もうだめかも)

 ごつん、と鈍い音が鳴る。
 強い衝撃が訪れたはずだが、唯は痛みを感じることなく意識を失った。
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