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第2章 同棲生活
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唯は千歳の秘書になって二年以上が経つのに、彼が何を考えているのか分からないことがあった。
もちろん、仕事のことならば分かる。そうでなければ千歳の秘書なんて続けられないからだ。どんなに容姿も頭脳も優れている人の秘書になっても、彼についていくことができないのでは辛いだけである。
千歳の提案を受け入れた唯は、風邪が治ってすぐに決断を早まったかもしれないと反省した。
――千歳のマンションに住むための準備はその日のうちに行われていたのだ。
唯としては必要なものさえ持って行けばいいと思っていたので、千歳が作ってくれたお粥を食べた後、もう一眠りしたら一人で終わらせようと思っていた。
しかし、目を覚ませば荷造りの作業は終わっており、唯は千歳の自室にいた。隣には千歳がいて唯が起きるのを見るなり、嬉しそうに「おはようございます」なんて言ってくる。
不満があるわけではないが、唯は頭が痛くなりそうだった。
何か一言、言いたくなるのを呑み込んで、唯はこれから住む部屋に案内してもらう。住んでいた場所と間取りはそこまで変わらないので、家具から何まで同じように配置されていた。全部そのまま持ってきたらしい。一人暮らしをするまで必要がないものは部屋の隅にまとめておいてあった。元あった場所ごとに段ボールに詰められている。すごくありがたい。
「ここまでしなくていいのに……」
「いつでも解約できるようにと思ったんです。その方がすっきりするでしょう?」
どうせもう、住み続けることはない。不動産とも連絡をとったのか、解約するのに必要な書類を千歳は渡してくれた。
「ありがとうございます」
これではどっちが秘書だか分からなくなる。とりあえず、明日にでも電気や水道を止めて解約の手続きを始めよう。そう決めて、唯は資料を受け取った。
「じゃあ、これからのことを話す前に……食事とお風呂、どちらがいいですか」
まるで新婚の新妻が言うようなお決まりの台詞だった。
真面目に聞かれているのか、からかうつもりもあるのか、千歳は楽しそうである。
「……お風呂にします」
翻弄されそうになる心に、唯はいつものことだと言い聞かせた。
時刻は午後の六時前。お腹も空いていたが、すぐにでもお風呂に入りたかった。
昨晩は入っていないし、その後も入る体力がなかった。現在の服装はパジャマ。こんな状態で今後の話をするのは格好がつかない。頭もすっきりさせたかった。
案内された浴室は、唯が普段使っている浴室の倍、広さがあった。脱衣所は言うまでもなく、バスタブは足を伸ばしても問題ない広さと深さだ。
「バスタオルはここから。服はこの扉の奥にクローゼットがあるので、開けたままにしているところから好きな服を使ってください。他にも女性が必要そうなものは用意しておいたんですけど、足りないものがあれば言ってください」
シャンプーやリンス、ボディーソープももちろんある。
それ以外に、洗顔料や化粧水などが洗面所の隣に並べられていた。中には唯が使っていたものもあるが、それ以外にも様々なスキンケア用品が並んでいる。デパートの地下で見るような、ブランドものばかり。足りないどころか、過分だ。
「こんなに必要ないです」
「使わなかったら、後で俺が使いますよ」
思わず千歳の顔を見る。化粧をしていないのに、毛穴の一つも見えそうにない滑らかな肌。女性なら誰でも羨みそうである。
すでに使う必要がないほど充分なのだが、使うつもりなのか。
見られた千歳は、どうしたのだろうと首を傾げた。無害そうな仕草だが、やっていることはまったく可愛くない。紙幣で猫パンチしている。全然、可愛くない。
「じゃあ、俺のことは気にせずゆっくりしてください」
脱衣所をパタンと閉じて、千歳は去って行った。
「ふ、ふぅ……」
ようやく一人になれた、と唯はその場にしゃがみ込む。
唯が働く会社の社員たちは、千歳のことも社長のことも御曹司だ御曹司だと言っていたが、彼女自身はただのワーカーホリックだろうと思っていた。きちんと家に帰っているのか心配になるほど、会社にいる。お休みかなと思えば、長期出張だったこともある。
だが、こうして人一人の引っ越しを一日で済ませて必要なものが用意されているのを見ると、ちゃんと御曹司だったんだなと納得した。
……納得すると同時に、唯はものすごく緊張した。今さらだ。気にすると胃が痛くなりそうなので、あまり考えないよう意識する。
驚くような出来事が連続して起きているのだ。一つ一つのことに驚いている場合ではない。まだ心臓がバクバクしているが、気を取り直して立ち上がる。
(そうだ。着替えも用意しておいてくれたんだっけ……)
驚かないぞ、と気合いを入れて脱衣所から入れるランドリールームを見る。
唯はランドリールームがあるなんてすごいと思うのではなく、ちゃんと自分で洗濯している同じ人間だと安心していた。家事代行サービスを頼んでいる可能性は考えていない。
部屋の中にはクローゼットが幾つかあり、一つだけ開いているクローゼットがある。そこに唯の服が入っているのだろう。
「私の服……私の、服?」
女性物の服は入っている。しかし、唯が普段着ている服とは別に女性物の服が幾つも入っていた。
唯は千歳のマンションでお風呂に入るだけで、初めて都会に訪れた日のことを思い出した。ものが多い。情報量が多い。選択肢が多く、どちらを選べばいいのかと一つの動作に時間がかかってしまう。もうそんな体験をすることはないと思っていたのに、お風呂に入るだけで苦戦していた。
へとへとになった状態で、唯は脱衣所から出る。
体はすっきりしたのに、精神がぐったりしていた。
広々としたリビングに入ると、千歳がソファーに座ってパソコンを触っていた。パチパチとキーボードを叩く手を止めて、唯を見ると目尻を下げる。
「ゆっくりできました?」
「……はい」
表情を繕わずに唯が頷くと、千歳は苦笑いを浮かべた。
そして、座ってくださいと隣をぽんぽんと軽く叩いた。
目の前にもソファーがあるのに、と思いつつも唯は彼の隣に座る。
服はいつもの仕事服だ。可愛らしい部屋着が幾つかあったけれど、着なかったことへの不満を言われることはなかった。
まずは、共同生活をする上で必要なことを話し合わなくてはならない。基本的には唯の自由にしていいらしかった。人を招きたい時は事前に教えて欲しいこと。それは当然だと思うが、唯は誰かを千歳の家に呼ぶつもりはない。
「それで、恋人としてすることも話しましょうか」
「……本当にするんです、ね?」
もしかすると、気が変わっていたりするかもしれないと思っていたが、そんなことはなかった。
「まずは名前で呼び合いましょう」
「久我さん?」
「それは苗字です。それとも、俺に唯って呼ばれるのは抵抗がありますか」
「そういうわけじゃなくて、副社長なので……!」
「じゃあ、仕事中はいつも通りに。それ以外は千歳って呼んで」
甘さを孕んだ低い声。これが副社長とその秘書という関係でなければ、唯は自分が特別なのだと勘違いしていただろう。そばにいたからこそ、分かる。そんなつもりは決してない。女性社員からバレンタインのチョコをもらった時だって、勇気を出してチョコを渡してくれたのだからとサービスしていた。これでどうして、彼女を作ろうとしないのか謎なのだが。
「千歳、さん」
敬称なしで呼ぶのは抵抗があった。
すると、よくできましたと言わんばかりに花がほころぶような笑みが向けられる。
「唯」
元恋人に言われた時とはまるで違う。たった二文字の音をこれでもかというほど、優しく、丁寧に口にする。
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の内側が満たされていく。
初めて千歳に仕事を認められた時とはまるで違う高揚感。
「唯はどこまでなら、俺に触られても大丈夫ですか?」
「どこ……」
「体。ここは触って欲しくない、とか」
「……千歳さんの好きにどうぞ」
期間限定とはいえ、恋人になるのにどうしてそんなことを聞くのだろう。丁寧すぎて、唯は羞恥心を煽られ続けていた。
「本当に?」
「痛くしないでくれれば……。絶対に痛くしないでとは言いません、けど」
言いかけてそれは無理だろうと気づいた。処女なのだから、最終的には痛いことをしなければならない。千歳は痛まないように頑張るつもりらしいが、まったく痛みがないようにするのは難しいだろう。
「分かりました。じゃあ、俺の好きにしますね」
そうしてください、と唯はこわばっていた表情を緩める。すこし不安になる言い方だったが、悪いようにはしないだろう。
千歳は唯の手を取る。
これからよろしくの挨拶かな。そう思った唯は、すこしだけ握ってみた。
なのに千歳は握り返すことはせず、手の位置を上げていく。
不思議なものを見る目で唯がその光景を見ていると、手の甲に彼の唇が触れていた。
「これからよろしくお願いします、唯」
その姿勢のまま、伏せられていた瞳が懇願するように唯へ向けられる。
普段の清廉な雰囲気はどこにいったのか。肉欲の欠片もなさそうだった顔は、この状況を楽しむように蠱惑的な微笑を浮かべた。
もちろん、仕事のことならば分かる。そうでなければ千歳の秘書なんて続けられないからだ。どんなに容姿も頭脳も優れている人の秘書になっても、彼についていくことができないのでは辛いだけである。
千歳の提案を受け入れた唯は、風邪が治ってすぐに決断を早まったかもしれないと反省した。
――千歳のマンションに住むための準備はその日のうちに行われていたのだ。
唯としては必要なものさえ持って行けばいいと思っていたので、千歳が作ってくれたお粥を食べた後、もう一眠りしたら一人で終わらせようと思っていた。
しかし、目を覚ませば荷造りの作業は終わっており、唯は千歳の自室にいた。隣には千歳がいて唯が起きるのを見るなり、嬉しそうに「おはようございます」なんて言ってくる。
不満があるわけではないが、唯は頭が痛くなりそうだった。
何か一言、言いたくなるのを呑み込んで、唯はこれから住む部屋に案内してもらう。住んでいた場所と間取りはそこまで変わらないので、家具から何まで同じように配置されていた。全部そのまま持ってきたらしい。一人暮らしをするまで必要がないものは部屋の隅にまとめておいてあった。元あった場所ごとに段ボールに詰められている。すごくありがたい。
「ここまでしなくていいのに……」
「いつでも解約できるようにと思ったんです。その方がすっきりするでしょう?」
どうせもう、住み続けることはない。不動産とも連絡をとったのか、解約するのに必要な書類を千歳は渡してくれた。
「ありがとうございます」
これではどっちが秘書だか分からなくなる。とりあえず、明日にでも電気や水道を止めて解約の手続きを始めよう。そう決めて、唯は資料を受け取った。
「じゃあ、これからのことを話す前に……食事とお風呂、どちらがいいですか」
まるで新婚の新妻が言うようなお決まりの台詞だった。
真面目に聞かれているのか、からかうつもりもあるのか、千歳は楽しそうである。
「……お風呂にします」
翻弄されそうになる心に、唯はいつものことだと言い聞かせた。
時刻は午後の六時前。お腹も空いていたが、すぐにでもお風呂に入りたかった。
昨晩は入っていないし、その後も入る体力がなかった。現在の服装はパジャマ。こんな状態で今後の話をするのは格好がつかない。頭もすっきりさせたかった。
案内された浴室は、唯が普段使っている浴室の倍、広さがあった。脱衣所は言うまでもなく、バスタブは足を伸ばしても問題ない広さと深さだ。
「バスタオルはここから。服はこの扉の奥にクローゼットがあるので、開けたままにしているところから好きな服を使ってください。他にも女性が必要そうなものは用意しておいたんですけど、足りないものがあれば言ってください」
シャンプーやリンス、ボディーソープももちろんある。
それ以外に、洗顔料や化粧水などが洗面所の隣に並べられていた。中には唯が使っていたものもあるが、それ以外にも様々なスキンケア用品が並んでいる。デパートの地下で見るような、ブランドものばかり。足りないどころか、過分だ。
「こんなに必要ないです」
「使わなかったら、後で俺が使いますよ」
思わず千歳の顔を見る。化粧をしていないのに、毛穴の一つも見えそうにない滑らかな肌。女性なら誰でも羨みそうである。
すでに使う必要がないほど充分なのだが、使うつもりなのか。
見られた千歳は、どうしたのだろうと首を傾げた。無害そうな仕草だが、やっていることはまったく可愛くない。紙幣で猫パンチしている。全然、可愛くない。
「じゃあ、俺のことは気にせずゆっくりしてください」
脱衣所をパタンと閉じて、千歳は去って行った。
「ふ、ふぅ……」
ようやく一人になれた、と唯はその場にしゃがみ込む。
唯が働く会社の社員たちは、千歳のことも社長のことも御曹司だ御曹司だと言っていたが、彼女自身はただのワーカーホリックだろうと思っていた。きちんと家に帰っているのか心配になるほど、会社にいる。お休みかなと思えば、長期出張だったこともある。
だが、こうして人一人の引っ越しを一日で済ませて必要なものが用意されているのを見ると、ちゃんと御曹司だったんだなと納得した。
……納得すると同時に、唯はものすごく緊張した。今さらだ。気にすると胃が痛くなりそうなので、あまり考えないよう意識する。
驚くような出来事が連続して起きているのだ。一つ一つのことに驚いている場合ではない。まだ心臓がバクバクしているが、気を取り直して立ち上がる。
(そうだ。着替えも用意しておいてくれたんだっけ……)
驚かないぞ、と気合いを入れて脱衣所から入れるランドリールームを見る。
唯はランドリールームがあるなんてすごいと思うのではなく、ちゃんと自分で洗濯している同じ人間だと安心していた。家事代行サービスを頼んでいる可能性は考えていない。
部屋の中にはクローゼットが幾つかあり、一つだけ開いているクローゼットがある。そこに唯の服が入っているのだろう。
「私の服……私の、服?」
女性物の服は入っている。しかし、唯が普段着ている服とは別に女性物の服が幾つも入っていた。
唯は千歳のマンションでお風呂に入るだけで、初めて都会に訪れた日のことを思い出した。ものが多い。情報量が多い。選択肢が多く、どちらを選べばいいのかと一つの動作に時間がかかってしまう。もうそんな体験をすることはないと思っていたのに、お風呂に入るだけで苦戦していた。
へとへとになった状態で、唯は脱衣所から出る。
体はすっきりしたのに、精神がぐったりしていた。
広々としたリビングに入ると、千歳がソファーに座ってパソコンを触っていた。パチパチとキーボードを叩く手を止めて、唯を見ると目尻を下げる。
「ゆっくりできました?」
「……はい」
表情を繕わずに唯が頷くと、千歳は苦笑いを浮かべた。
そして、座ってくださいと隣をぽんぽんと軽く叩いた。
目の前にもソファーがあるのに、と思いつつも唯は彼の隣に座る。
服はいつもの仕事服だ。可愛らしい部屋着が幾つかあったけれど、着なかったことへの不満を言われることはなかった。
まずは、共同生活をする上で必要なことを話し合わなくてはならない。基本的には唯の自由にしていいらしかった。人を招きたい時は事前に教えて欲しいこと。それは当然だと思うが、唯は誰かを千歳の家に呼ぶつもりはない。
「それで、恋人としてすることも話しましょうか」
「……本当にするんです、ね?」
もしかすると、気が変わっていたりするかもしれないと思っていたが、そんなことはなかった。
「まずは名前で呼び合いましょう」
「久我さん?」
「それは苗字です。それとも、俺に唯って呼ばれるのは抵抗がありますか」
「そういうわけじゃなくて、副社長なので……!」
「じゃあ、仕事中はいつも通りに。それ以外は千歳って呼んで」
甘さを孕んだ低い声。これが副社長とその秘書という関係でなければ、唯は自分が特別なのだと勘違いしていただろう。そばにいたからこそ、分かる。そんなつもりは決してない。女性社員からバレンタインのチョコをもらった時だって、勇気を出してチョコを渡してくれたのだからとサービスしていた。これでどうして、彼女を作ろうとしないのか謎なのだが。
「千歳、さん」
敬称なしで呼ぶのは抵抗があった。
すると、よくできましたと言わんばかりに花がほころぶような笑みが向けられる。
「唯」
元恋人に言われた時とはまるで違う。たった二文字の音をこれでもかというほど、優しく、丁寧に口にする。
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の内側が満たされていく。
初めて千歳に仕事を認められた時とはまるで違う高揚感。
「唯はどこまでなら、俺に触られても大丈夫ですか?」
「どこ……」
「体。ここは触って欲しくない、とか」
「……千歳さんの好きにどうぞ」
期間限定とはいえ、恋人になるのにどうしてそんなことを聞くのだろう。丁寧すぎて、唯は羞恥心を煽られ続けていた。
「本当に?」
「痛くしないでくれれば……。絶対に痛くしないでとは言いません、けど」
言いかけてそれは無理だろうと気づいた。処女なのだから、最終的には痛いことをしなければならない。千歳は痛まないように頑張るつもりらしいが、まったく痛みがないようにするのは難しいだろう。
「分かりました。じゃあ、俺の好きにしますね」
そうしてください、と唯はこわばっていた表情を緩める。すこし不安になる言い方だったが、悪いようにはしないだろう。
千歳は唯の手を取る。
これからよろしくの挨拶かな。そう思った唯は、すこしだけ握ってみた。
なのに千歳は握り返すことはせず、手の位置を上げていく。
不思議なものを見る目で唯がその光景を見ていると、手の甲に彼の唇が触れていた。
「これからよろしくお願いします、唯」
その姿勢のまま、伏せられていた瞳が懇願するように唯へ向けられる。
普段の清廉な雰囲気はどこにいったのか。肉欲の欠片もなさそうだった顔は、この状況を楽しむように蠱惑的な微笑を浮かべた。
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