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第2章 同棲生活
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唯はお見合い相手の東城亜由美について調べ終え、眉を寄せた。
できる限り客観的な事実を書こうとすればするほど、客観的ではなくなっていくのだ。この人とは絶対に婚約するべきではないと言っているかのような資料になりそうだった。千歳にそう思われたら嫌だなあと思うが、亜由美へのいい印象がまったくない。調べているうちに、何という地雷令嬢だと嘆きたくなっていた。
【東城亜由美】
二十四歳。
国内アパレル業界でも大手の東城商事の社長令嬢。
東城商事のキッズブランドモデルとしてデビューし、その後もモデルとして活動を続ける。
現在は女性ファッション誌の表紙を飾るなど活躍。
ここまでならいい。しかし彼女の評判に関しては、あまりいい声を聞かなかった。
――社長令嬢だからって、オーディションにも参加せず無理矢理キッズブランドモデルになった。
――ファッション誌の表紙を飾る女性は元から決まっていたのだが、事故に遭ってちょうど現場にいる亜由美を使った。
――事故だけでなく、モデルが撮影日当日に辞退すると亜由美を使うことが多い。
――モデル二人で撮影する場合でも、亜由美と撮るはずだったモデルが来ないことがある。
他にも亜由美がマネージャーに怪我をさせただとか、写真が気に入らない場合はカメラが壊されかけた人もいるだとか。
果たしてこれは、偶然なのか。
かわりのモデルを探すことになったとしても、きちんと実力がなければ雑誌の表紙なんて任されないはずだ。他の誰かを害したという話も、誇張や尾ひれがついている場合は充分ある。
唯はモデルに関して素人だが、亜由美は手足は長いし顔立ちも良く、写真からは悪いところなど見つけられなかった。
それなのに不穏な噂が幾つも流れているのは、誰かが故意に流したのか、それとも本当にあったことだからなのか。
後者ならば、彼女と関わりを持つこと自体、避けた方がいい気がしてしまう。
二日前、一矢に薬を奪われて一日休むことにならなければ、唯は亜由美と関わったことがある人物から話を聞くことができたはずだ。
(そういう懸念があるってことだけ書いておけばいいのかな)
書いたところで、千歳がお見合いを中断することはしないだろう。
ふと、キーボードを打つ手が止まる。
……もし、黒い噂が故意に流されたものだとすれば、千歳は亜由美を選ぶだろうか。選んだ場合、結婚を考えている女性として接するのだから、噂の元を絶つに違いない。
その時、唯は秘書として千歳が望むことをすることになる。強制ではない。けれど、お願いされたら拒めるはずもなかった。
(もやもやする……)
どうしてこんな気持ちになるのか具体的には分からない。
単に、亜由美自身をあまり好きになれそうにないからだろうか。
お似合いではあるが、やはり千歳と同じように柔らかい雰囲気の女性とお付き合いして欲しい。彼がすることを尊重し、見守ってくれる人だったらいいなと唯は思っている。
……とはいえ、千歳の好みが唯の願望と一致しているのかどうかは不明であった。
眉間を揉んで、デスクに置いていた冷め切ったコーヒーを飲む。
(だめだ、私は副社長の姑か)
半年以上前、唯は千歳に女性の好みを聞いたことがあった。あまりにもお見合いが連続していたので、誰ならいいのか聞きたかったのだ。
『俺のそばにずっといてくれる女性がいいです。……無理そうなら、独身でもいいですね』
何故か力なく笑う千歳には、理想とする具体的な相手がいるようだった。仕事に関しては一切妥協をしないし、躊躇もない。そんな彼が見せた諦観にも似た言葉は、聞いただけで胸を抉られたような気持ちにさせた。
だから、踏み込んで聞くことはできなかった。
唯が顔を上げると、千歳はそろそろ銀行に向かう時間だった。その後は取引先との商談がある。
部屋を出て行く千歳を見送った後、唯は秘書本来の業務に戻った。
一日休んだにも関わらず、唯が思っていたより仕事はなかった。
そろそろ帰ろう、と唯は副社長室の戸締まりをする。千歳は外出先からそのまま帰宅の予定だ。先に帰っているかもしれない。
会社のロビーを歩いていると、スマホから着信音が鳴る。自分のスマホからだと気づいた唯は、千歳からだろうかとその場でスマホを手に取った。
「うわ」
思わず声が出る。
千歳からではなかった。
元恋人の一矢からだ。連絡先をブロックしていなかったし、削除もしていなかった。
さて、どうするべきか。
お互い話し合って別れたのであれば、どうかしたのと話くらいは聞いたかもしれない。だが、最後にあった一矢のことを思い出すと、自ら切ることすら躊躇ってしまう。
考えている間も、着信音は鳴り止まなかった。
まだ会社の中だ。いつまでも音を鳴らすわけにもいかず、唯はさっさと会社から出る。それでも電話は鳴り続けていた。ひとまずマナーモードに設定して鞄の中に入れる。
人の薬を盗んで、それを使って脅すような男が今さら何を言うのか。聞いてみたい気はする。それに千歳がどんなお願いをしたのかも、唯は知らないのでその辺りが聞けるかもしれなかった。
けれど、唯は好奇心よりも不快感の方が強い。声も聞きたくなかった。
最寄りの駅まで入って、ようやく鞄の中に入れたスマホのバイブレーションが止まる。
唯は一矢に襲われかけたことを気にしている自覚はなかった。それは千歳がそばにいてくれたからだろう。彼のマイペースな行動に振り回されていたら、怖いことなんて考える余裕もない。でも今、そばに千歳はいない。唯は初めて、自分の指先が震えているのを見た。
不意に、唯の肩がトンと叩かれる。
「ひゃっ」
小さな悲鳴が漏れ、肩がビクリと跳ねた。そして恐怖が背筋を駆け巡り、唯は大きく後ろに下がって振り返る。鞄を抱きしめ、思い浮かんだ男の顔を探した。けれど警戒した相手は視界のどこにも見当たらない。
「あ……」
困惑の声が出たのはどちらだっただろう。
唯は相手が一矢ではないことを知って、泣きたくなった。
彼女の肩を叩いたのは千歳だったのだ。
「すみません!」
勢いよく、頭を下げる。
よりにもよって、千歳相手に拒絶するような反応を見せてしまった。知らなかったとはいえ、いくら何でも酷すぎる。さっきの反応は、すこしびっくりしただけには見えないだろう。
「いえ、俺が驚かせてしまったんです。突然後ろから肩を叩いてしまって」
しかし、千歳は気にした素振りはなかった。むしろこちらが悪いと謝ってくる。
「さっき電話をしたんですけど出ないな、と思ったら唯を見つけて、つい」
「え、電話」
鞄からスマホを取り出す。着信履歴が幾つかあるが、最後の方は千歳からだった。
「マナーモードにしていて、気づかなかったみたいです」
唯は笑いながら、スマホをすぐにしまった。千歳には一矢からの着信履歴を見せたくない。
元恋人から電話があったというだけだ。そのうち、諦めるかもしれない。
伝えるのは、千歳自身に迷惑が降りかかると判断した時でいいだろう。
そうなるとやはり、あまり千歳との恋人関係を長引かせることはできない。
「良かったら、一緒に帰りませんか」
「そうですね」
帰る場所は同じだ。
二人を知る人間が一緒にいる姿を見たとしても、まさか同棲しているとは思わないだろう。
唯も自分がそういう目で見られることがないと、よく知っていた。
それくらい千歳は天上の人なのだ――
できる限り客観的な事実を書こうとすればするほど、客観的ではなくなっていくのだ。この人とは絶対に婚約するべきではないと言っているかのような資料になりそうだった。千歳にそう思われたら嫌だなあと思うが、亜由美へのいい印象がまったくない。調べているうちに、何という地雷令嬢だと嘆きたくなっていた。
【東城亜由美】
二十四歳。
国内アパレル業界でも大手の東城商事の社長令嬢。
東城商事のキッズブランドモデルとしてデビューし、その後もモデルとして活動を続ける。
現在は女性ファッション誌の表紙を飾るなど活躍。
ここまでならいい。しかし彼女の評判に関しては、あまりいい声を聞かなかった。
――社長令嬢だからって、オーディションにも参加せず無理矢理キッズブランドモデルになった。
――ファッション誌の表紙を飾る女性は元から決まっていたのだが、事故に遭ってちょうど現場にいる亜由美を使った。
――事故だけでなく、モデルが撮影日当日に辞退すると亜由美を使うことが多い。
――モデル二人で撮影する場合でも、亜由美と撮るはずだったモデルが来ないことがある。
他にも亜由美がマネージャーに怪我をさせただとか、写真が気に入らない場合はカメラが壊されかけた人もいるだとか。
果たしてこれは、偶然なのか。
かわりのモデルを探すことになったとしても、きちんと実力がなければ雑誌の表紙なんて任されないはずだ。他の誰かを害したという話も、誇張や尾ひれがついている場合は充分ある。
唯はモデルに関して素人だが、亜由美は手足は長いし顔立ちも良く、写真からは悪いところなど見つけられなかった。
それなのに不穏な噂が幾つも流れているのは、誰かが故意に流したのか、それとも本当にあったことだからなのか。
後者ならば、彼女と関わりを持つこと自体、避けた方がいい気がしてしまう。
二日前、一矢に薬を奪われて一日休むことにならなければ、唯は亜由美と関わったことがある人物から話を聞くことができたはずだ。
(そういう懸念があるってことだけ書いておけばいいのかな)
書いたところで、千歳がお見合いを中断することはしないだろう。
ふと、キーボードを打つ手が止まる。
……もし、黒い噂が故意に流されたものだとすれば、千歳は亜由美を選ぶだろうか。選んだ場合、結婚を考えている女性として接するのだから、噂の元を絶つに違いない。
その時、唯は秘書として千歳が望むことをすることになる。強制ではない。けれど、お願いされたら拒めるはずもなかった。
(もやもやする……)
どうしてこんな気持ちになるのか具体的には分からない。
単に、亜由美自身をあまり好きになれそうにないからだろうか。
お似合いではあるが、やはり千歳と同じように柔らかい雰囲気の女性とお付き合いして欲しい。彼がすることを尊重し、見守ってくれる人だったらいいなと唯は思っている。
……とはいえ、千歳の好みが唯の願望と一致しているのかどうかは不明であった。
眉間を揉んで、デスクに置いていた冷め切ったコーヒーを飲む。
(だめだ、私は副社長の姑か)
半年以上前、唯は千歳に女性の好みを聞いたことがあった。あまりにもお見合いが連続していたので、誰ならいいのか聞きたかったのだ。
『俺のそばにずっといてくれる女性がいいです。……無理そうなら、独身でもいいですね』
何故か力なく笑う千歳には、理想とする具体的な相手がいるようだった。仕事に関しては一切妥協をしないし、躊躇もない。そんな彼が見せた諦観にも似た言葉は、聞いただけで胸を抉られたような気持ちにさせた。
だから、踏み込んで聞くことはできなかった。
唯が顔を上げると、千歳はそろそろ銀行に向かう時間だった。その後は取引先との商談がある。
部屋を出て行く千歳を見送った後、唯は秘書本来の業務に戻った。
一日休んだにも関わらず、唯が思っていたより仕事はなかった。
そろそろ帰ろう、と唯は副社長室の戸締まりをする。千歳は外出先からそのまま帰宅の予定だ。先に帰っているかもしれない。
会社のロビーを歩いていると、スマホから着信音が鳴る。自分のスマホからだと気づいた唯は、千歳からだろうかとその場でスマホを手に取った。
「うわ」
思わず声が出る。
千歳からではなかった。
元恋人の一矢からだ。連絡先をブロックしていなかったし、削除もしていなかった。
さて、どうするべきか。
お互い話し合って別れたのであれば、どうかしたのと話くらいは聞いたかもしれない。だが、最後にあった一矢のことを思い出すと、自ら切ることすら躊躇ってしまう。
考えている間も、着信音は鳴り止まなかった。
まだ会社の中だ。いつまでも音を鳴らすわけにもいかず、唯はさっさと会社から出る。それでも電話は鳴り続けていた。ひとまずマナーモードに設定して鞄の中に入れる。
人の薬を盗んで、それを使って脅すような男が今さら何を言うのか。聞いてみたい気はする。それに千歳がどんなお願いをしたのかも、唯は知らないのでその辺りが聞けるかもしれなかった。
けれど、唯は好奇心よりも不快感の方が強い。声も聞きたくなかった。
最寄りの駅まで入って、ようやく鞄の中に入れたスマホのバイブレーションが止まる。
唯は一矢に襲われかけたことを気にしている自覚はなかった。それは千歳がそばにいてくれたからだろう。彼のマイペースな行動に振り回されていたら、怖いことなんて考える余裕もない。でも今、そばに千歳はいない。唯は初めて、自分の指先が震えているのを見た。
不意に、唯の肩がトンと叩かれる。
「ひゃっ」
小さな悲鳴が漏れ、肩がビクリと跳ねた。そして恐怖が背筋を駆け巡り、唯は大きく後ろに下がって振り返る。鞄を抱きしめ、思い浮かんだ男の顔を探した。けれど警戒した相手は視界のどこにも見当たらない。
「あ……」
困惑の声が出たのはどちらだっただろう。
唯は相手が一矢ではないことを知って、泣きたくなった。
彼女の肩を叩いたのは千歳だったのだ。
「すみません!」
勢いよく、頭を下げる。
よりにもよって、千歳相手に拒絶するような反応を見せてしまった。知らなかったとはいえ、いくら何でも酷すぎる。さっきの反応は、すこしびっくりしただけには見えないだろう。
「いえ、俺が驚かせてしまったんです。突然後ろから肩を叩いてしまって」
しかし、千歳は気にした素振りはなかった。むしろこちらが悪いと謝ってくる。
「さっき電話をしたんですけど出ないな、と思ったら唯を見つけて、つい」
「え、電話」
鞄からスマホを取り出す。着信履歴が幾つかあるが、最後の方は千歳からだった。
「マナーモードにしていて、気づかなかったみたいです」
唯は笑いながら、スマホをすぐにしまった。千歳には一矢からの着信履歴を見せたくない。
元恋人から電話があったというだけだ。そのうち、諦めるかもしれない。
伝えるのは、千歳自身に迷惑が降りかかると判断した時でいいだろう。
そうなるとやはり、あまり千歳との恋人関係を長引かせることはできない。
「良かったら、一緒に帰りませんか」
「そうですね」
帰る場所は同じだ。
二人を知る人間が一緒にいる姿を見たとしても、まさか同棲しているとは思わないだろう。
唯も自分がそういう目で見られることがないと、よく知っていた。
それくらい千歳は天上の人なのだ――
応援ありがとうございます!
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