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第一章 (仮)
第五話 招待
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どうしようかと思ったまま、また数日が経過していた。
エリッツの上衣の内ポケットには例のぬれて判読不能になってしまった封書が入ったままだ。
封書は乾いた後でもう一度よく確認したがやはり宛名も差出人も判読不能、中までしっかりとぬれていたので開封したところで絶望的な状況であることは容易に想像できた。そして中には何か固いものが同封されているのだが、それもなんだかよくわからない。コインか何かのリングか。
シェイルもマリルも何かがなくなっているという話はしていないので急を要する要件でもなかったのだろう。しかし、モノがモノである。あのような上等な紙を使った封書がどうでもよいものであるはずがなかった。
今日言おう、今日言おうと毎日思いながら日々は過ぎ去ってゆく。時間が経てば経つほど言い出しにくい。
そしてもう一つ、エリッツは自らにわきおこる抑えがたい衝動に困惑していた。
どこからかダウレの盤と駒を手に入れたらしいシェイルは時間があればエリッツとゲームをしてくれるようになった。とはいえ、何かと忙しそうにしているのでまだ片手で数えられるくらいの回数だ。
しかしその度にあの兄を思わせる大きな手に目が吸い寄せられてしまう。
あの手になでられたい。
兄はいつもなでてくれた。「いい子だね」「よくできたね」――。
ここに来て兄に会えないことが重くのしかかってくる。もしかしたらもう二度と兄には会えないかもしれない。留守番を放り出して街に探しに行ってしまおうか。何度となくそんな誘惑にかられた。
足元から猫の声がする。
ここに来るということは猫は空腹なのだ。玄関口から一番近い比較的広めのこの部屋は簡素なテーブルと椅子が四脚置いてあり食堂のように使われている。猫はここに食べ物があることをよく知っていた。
エリッツは部屋にしつらえてある棚を探って小麦粉を練って焼き固めただけの食べ物を猫に与えた。食べ物にほとんど興味がないエリッツにはそれがなんなのかよくわからない。猫は食べるのに少し苦戦しているようだった。
「そんな固いもの、大きいままあげちゃだめですよ」
いつの間にかシェイルが自室から出てきていた。少し疲れているように見える。今日はずっと部屋にこもって何か書き物をしている様子であった。
猫のかたわらでその小麦粉を焼き固めた食べ物を小さく割っている。
手。
手が気になる。
食べ物を割る瞬間に一瞬浮きだす筋、血管。
「これはスープに浸して食べるものです」
エリッツに言っているのだろう。しかしエリッツは上の空だった。
「たぶん今日マリルが来ると思うので渡しておいてほしい書類があるんですが、いいですか。今からちょっとだけ寝たいんですけど」
シェイルは猫をなでながら言った。大きな手で猫の小さな頭を包み込むようになでている。エリッツはもう目が釘付けになっていた。猫ばかりずるい。
「エリッツ、エリッツ、何やってるんですか」
自分でも気がつかないうちに猫の隣で両手をついていた。
「……なでてください」
絞りだすようなエリッツの声に一瞬の間があり案外あっさりと「いいですよ」と返される。猫同様に大きな手で包み込まれるように頭をなでられ、エリッツは心地よさに目を細めた。もう片方の手でなでられている猫もグルグルと喉を鳴らしている。
「何やってるの」
玄関口からマリルが訝しげにのぞき込んでいた。
「何の遊びかわかんないけど、私も」
マリルはエリッツの隣に駆け寄ると同じように両手をついた。
「はいはい」
シェイルは猫をなでていた手をとめてマリルの頭をなではじめた。猫の方はすかさず割ってもらったものを食べはじめる。
「ねえ、これ何。君、これ楽しいの?」
マリルはなでられながら心底不思議そうにエリッツをのぞき見る。エリッツはふいと目をそらした。邪魔をしないで欲しい。
そのとき玄関がノックされる音が響いた。
どういうわけか誰も動こうとしない。
「あのぉ……」
しびれを切らした客人は細くドアを開け意味不明の光景を見るはめになった。二人の人間が四つん這いになり男に頭をなでられている。そのかたわらでは牛柄の猫がガリガリと何かをむさぼっていた。
「あの、お迎えにあがったのですが、それは……何をなさっているのですか」
シェイルは二人の頭をぽんぽんと軽く叩いでから立ち上がる。
「あなた、確かデルゴヴァ卿の」
「はい、秘書官のクリフです」
「今日は……何でしたっけ」
「先日、招待状をお出ししたのですが。当主の誕生日の祝賀会です」
シェイルは顎に手を当てて一瞬固まったが、すぐににこやかに「ああ、そうでしたね」と、応えると客人に椅子をすすめた。
いつの間にかマリルは姿を消している。エリッツは思わずその場で上衣のポケットに手を突っ込んだ。そこにある封書。これに違いない。
一人で青くなっていると背後からシェイルに羽交い絞めにされそのままポケットに手を突っ込まれる。あの手で上衣の内ポケットをまさぐられつい深い息が漏れた。
「変なため息をつかないでください」
シェイルは封書に気づいたはずだがそれを取り出すことはせずエリッツをあっさり解放する。紙の感触から一度ぬれてしまったことまで気づいたかもしれない。
「ああ、当主がお弟子さんにお会いできるのを楽しみにしていましたよ」
クリフは人のよさそうな声でエリッツの同行が自明のことであると強調してくる。なぜこの人は弟子の存在を知っているのだろう。
シェイルは客人に断ると自室に中座する。エリッツがことの展開についていけずぼんやりと立ちすくんでいると、一度自室に下がったシェイルが忘れものでも取りに来たように出てきてエリッツを猫の子のようにひっぱり自室に連れこんだ。
食堂からはクリフが猫に甘い声で話しかけているのが聞こえる。
エリッツの上衣の内ポケットには例のぬれて判読不能になってしまった封書が入ったままだ。
封書は乾いた後でもう一度よく確認したがやはり宛名も差出人も判読不能、中までしっかりとぬれていたので開封したところで絶望的な状況であることは容易に想像できた。そして中には何か固いものが同封されているのだが、それもなんだかよくわからない。コインか何かのリングか。
シェイルもマリルも何かがなくなっているという話はしていないので急を要する要件でもなかったのだろう。しかし、モノがモノである。あのような上等な紙を使った封書がどうでもよいものであるはずがなかった。
今日言おう、今日言おうと毎日思いながら日々は過ぎ去ってゆく。時間が経てば経つほど言い出しにくい。
そしてもう一つ、エリッツは自らにわきおこる抑えがたい衝動に困惑していた。
どこからかダウレの盤と駒を手に入れたらしいシェイルは時間があればエリッツとゲームをしてくれるようになった。とはいえ、何かと忙しそうにしているのでまだ片手で数えられるくらいの回数だ。
しかしその度にあの兄を思わせる大きな手に目が吸い寄せられてしまう。
あの手になでられたい。
兄はいつもなでてくれた。「いい子だね」「よくできたね」――。
ここに来て兄に会えないことが重くのしかかってくる。もしかしたらもう二度と兄には会えないかもしれない。留守番を放り出して街に探しに行ってしまおうか。何度となくそんな誘惑にかられた。
足元から猫の声がする。
ここに来るということは猫は空腹なのだ。玄関口から一番近い比較的広めのこの部屋は簡素なテーブルと椅子が四脚置いてあり食堂のように使われている。猫はここに食べ物があることをよく知っていた。
エリッツは部屋にしつらえてある棚を探って小麦粉を練って焼き固めただけの食べ物を猫に与えた。食べ物にほとんど興味がないエリッツにはそれがなんなのかよくわからない。猫は食べるのに少し苦戦しているようだった。
「そんな固いもの、大きいままあげちゃだめですよ」
いつの間にかシェイルが自室から出てきていた。少し疲れているように見える。今日はずっと部屋にこもって何か書き物をしている様子であった。
猫のかたわらでその小麦粉を焼き固めた食べ物を小さく割っている。
手。
手が気になる。
食べ物を割る瞬間に一瞬浮きだす筋、血管。
「これはスープに浸して食べるものです」
エリッツに言っているのだろう。しかしエリッツは上の空だった。
「たぶん今日マリルが来ると思うので渡しておいてほしい書類があるんですが、いいですか。今からちょっとだけ寝たいんですけど」
シェイルは猫をなでながら言った。大きな手で猫の小さな頭を包み込むようになでている。エリッツはもう目が釘付けになっていた。猫ばかりずるい。
「エリッツ、エリッツ、何やってるんですか」
自分でも気がつかないうちに猫の隣で両手をついていた。
「……なでてください」
絞りだすようなエリッツの声に一瞬の間があり案外あっさりと「いいですよ」と返される。猫同様に大きな手で包み込まれるように頭をなでられ、エリッツは心地よさに目を細めた。もう片方の手でなでられている猫もグルグルと喉を鳴らしている。
「何やってるの」
玄関口からマリルが訝しげにのぞき込んでいた。
「何の遊びかわかんないけど、私も」
マリルはエリッツの隣に駆け寄ると同じように両手をついた。
「はいはい」
シェイルは猫をなでていた手をとめてマリルの頭をなではじめた。猫の方はすかさず割ってもらったものを食べはじめる。
「ねえ、これ何。君、これ楽しいの?」
マリルはなでられながら心底不思議そうにエリッツをのぞき見る。エリッツはふいと目をそらした。邪魔をしないで欲しい。
そのとき玄関がノックされる音が響いた。
どういうわけか誰も動こうとしない。
「あのぉ……」
しびれを切らした客人は細くドアを開け意味不明の光景を見るはめになった。二人の人間が四つん這いになり男に頭をなでられている。そのかたわらでは牛柄の猫がガリガリと何かをむさぼっていた。
「あの、お迎えにあがったのですが、それは……何をなさっているのですか」
シェイルは二人の頭をぽんぽんと軽く叩いでから立ち上がる。
「あなた、確かデルゴヴァ卿の」
「はい、秘書官のクリフです」
「今日は……何でしたっけ」
「先日、招待状をお出ししたのですが。当主の誕生日の祝賀会です」
シェイルは顎に手を当てて一瞬固まったが、すぐににこやかに「ああ、そうでしたね」と、応えると客人に椅子をすすめた。
いつの間にかマリルは姿を消している。エリッツは思わずその場で上衣のポケットに手を突っ込んだ。そこにある封書。これに違いない。
一人で青くなっていると背後からシェイルに羽交い絞めにされそのままポケットに手を突っ込まれる。あの手で上衣の内ポケットをまさぐられつい深い息が漏れた。
「変なため息をつかないでください」
シェイルは封書に気づいたはずだがそれを取り出すことはせずエリッツをあっさり解放する。紙の感触から一度ぬれてしまったことまで気づいたかもしれない。
「ああ、当主がお弟子さんにお会いできるのを楽しみにしていましたよ」
クリフは人のよさそうな声でエリッツの同行が自明のことであると強調してくる。なぜこの人は弟子の存在を知っているのだろう。
シェイルは客人に断ると自室に中座する。エリッツがことの展開についていけずぼんやりと立ちすくんでいると、一度自室に下がったシェイルが忘れものでも取りに来たように出てきてエリッツを猫の子のようにひっぱり自室に連れこんだ。
食堂からはクリフが猫に甘い声で話しかけているのが聞こえる。
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