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第6話 甘い声の棘
しおりを挟む王城の噂は、風より速い。
窓を開ければ春の匂いが入る。だけど、王城に入るのは匂いだけじゃない。
誰かの言葉、誰かの顔色、誰かの“都合”。
それが薄い布みたいに廊下を漂って、いつの間にか誰かの耳にまとわりついていく。
私は机で帳面を開いていた。
孤児院の在庫、必要な物資、補助金の額。
数字を並べると、世界の嘘が輪郭を持ち始める。
ルーナが持ってきた茶の湯気が、ゆらゆら揺れる。
「姫殿下、今日も……お忙しいのですね」
「忙しい方がいい。考えなくて済むから」
「考えることも大切です」
ルーナは真面目に言う。
その真面目さが、今はありがたい。
死んだあの夜から、私の頭はずっと回り続けている。止めたら、喉の奥の痛みが戻ってきそうで怖い。
机の上には、カイが渡した“名簿”の写しも置いてある。
薬草商の名。祝宴の担当。宰相の周りの動線。
私はその中の一つの名前に赤線を引いた。
――セドリック。
あの案内役。笑顔の文官。
彼の署名がある帳簿が必ず出る。出るはずだ。
「姫殿下」
ルーナが声を潜める。
「……第二王女殿下が、こちらへ」
その言葉を聞いた瞬間、空気の温度が二度くらい下がった気がした。
別に、妹が来るだけだ。普通なら嬉しいはずだ。姉妹の交流。王城が好む美談。
でも私は知っている。
妹の微笑みは、贈り物じゃない。
贈り物みたいな形をした、奪い取りの手だ。
扉がノックされる。
軽い音。礼儀正しい音。
その礼儀が逆に怖い。
「お姉さま、入ってもいい?」
甘い声。
砂糖を溶かしたみたいに柔らかい声。
だけどその奥に、爪先で床を叩くような焦りが混じっている。
「どうぞ」
私は机の上の書類を閉じた。
見せるわけにはいかない。
妹は賢くないふりをしているけれど、馬鹿じゃない。見せたら、宰相に流れる。
扉が開き、ミレイアが入ってきた。
第二王女ミレイア・アルヴァリア。
淡い桃色のドレス。髪は緩く巻かれ、光を受けて蜂蜜みたいに艶めいている。頬は血色よく、唇は小さく、目は大きい。
“守りたくなる姫”の完成形。
彼女が一歩入っただけで、部屋が明るくなるような錯覚がある。
そして、その明るさに人は弱い。光に寄ってくる。
前世の私は、その光に焼かれた。
「お姉さま」
ミレイアは胸の前で手を組み、ちょこんと首を傾げた。
「最近、忙しそう。……疲れていませんか?」
来た。
前世と同じ台詞。
同じ角度。
同じ甘さ。
私は、思わず心の中で笑った。
脚本が完璧すぎて、笑うしかない。
「ありがとう。大丈夫よ」
返事は淡々と。
優しくしすぎれば絡み取られる。冷たすぎれば噂になる。
私はその間の、ちょうど痛いところを狙った。
ミレイアの目が、ほんの少しだけ細くなる。
笑顔は崩れない。崩れないからこそ、違和感が際立つ。
「最近ね、侍女たちがね……噂してるの」
「噂?」
「うん。お姉さまが孤児院に行ったって。何度も行く予定だって。民の前に立つって……」
言葉が柔らかいまま、爪が見える。
彼女は“噂”という形で探りを入れている。
何をしているの? 誰と繋がってるの? どこまで本気?
全部を甘い声で聞いてくる。
私は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。
距離を取る。
机の前に座ったままだと、彼女の空気に巻き込まれる。
「そうね。行ったわ」
「どうして?」
質問が早い。
焦りが表に出た。
可憐な笑顔のまま、必死だ。
「どうして、って……必要だから」
「必要……?」
ミレイアが小さく眉をひそめた。
その表情は、困った妹の顔。
でも私は見逃さない。彼女は“理解できない”のではなく、“理解したくない”。
「お姉さま、そんなことをしなくても……王女としての務めは、城の中でもできるわよ? だって、危ないし……」
危ない。
その言葉を聞くと、喉の奥がひりつく。
そう、危ない。
そして危ないからこそ、私は死んだ。
私は窓の外を見た。
庭園の若葉が風に揺れている。
緑が眩しい。
この眩しさに、私は前世、何もできずに沈んだ。
「危ないから、やらない? それが王女?」
私は静かに言った。
責める声ではなく、確認する声。
でも確認は、相手にとって刃になる。
ミレイアは一瞬、言葉に詰まった。
そして、すぐに笑う。
「責めてるわけじゃないよ。私はただ、お姉さまが心配で……」
心配。
便利な言葉。
その裏に隠せるものが多すぎる。
私は振り返って、ミレイアの目を見た。
目の奥に、薄い影がある。
その影は“嫉妬”だ。
でも嫉妬だけじゃない。
怖さが混じっている。
“姉が変わる怖さ”。
“姉が自分の手から離れる怖さ”。
私は思い出した。
母が亡くなった日のことを、ミレイアがどんな顔で見ていたか。
泣いていた。
泣いていたけれど、私は当時、気づけなかった。
彼女の涙には“喪失”と同時に、“恐怖”が混じっていたことに。
母アウレリアが死んで、王城は変わった。
父は政治に逃げた。
私は“第一王女”という役に押し込められた。
ミレイアは、守られる姫として“可愛い”を求められた。
姉は強くあれ。
妹は愛されろ。
その役割の鎖が、私たちをねじ曲げた。
ミレイアは、奪うことでしか価値を確かめられない。
だって、奪わなければ、彼女には“選ばれる理由”がないと思い込んでいるから。
その根は、母の死から伸びている。
母がいなくなって、姉と比べられる世界がむき出しになったから。
私は、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
憎しみだけでは切れない糸。
切ったら、自分の指まで裂ける糸。
「ミレイア」
私は名前を呼んだ。
妹は嬉しそうに笑う。
でもその笑いは、まだ警戒している。
「なあに、お姉さま」
「あなたは……私が民に近づくのが、嫌?」
ミレイアの目が一瞬だけ大きくなる。
質問が直球すぎて、仮面がずれた。
「え……そんなこと……」
「じゃあ、何が嫌なの?」
沈黙。
ミレイアの唇が、少しだけ震える。
それは演技じゃない。
本物の揺れ。
彼女は目を伏せて、指先でドレスの裾をいじった。
「……みんな、お姉さまの話ばかりするの」
ぽつり。
子どもみたいな声だった。
その一言が、刺さる。
「侍女も、騎士も、外の人も。『第一王女殿下が変わった』『すごい』『優しい』って。……私のこと、見てくれなくなる」
そこにあったのは、嫉妬というより、置いていかれる恐怖だった。
ミレイアは愛されることが自分の武器であり、生存戦略だった。
愛されなければ、彼女は自分の価値がゼロになると信じている。
だから姉が光を浴びると、彼女の世界は暗くなる。
私はゆっくり息を吐いた。
怒りが湧く。
だって彼女は、前世で私から全部奪った。
でも同時に、哀しみも湧く。
彼女もまた、王城の“役割”に殺されかけている。
「ミレイア」
私は少しだけ声を柔らかくした。
優しさを見せると絡まれる。そう分かっている。
でもここで見せないと、彼女はもっと歪む。
「私はあなたを置いていくつもりはない。でも……私は私の役割をやる」
「役割……?」
「第一王女として。国の未来として。……私は逃げない」
ミレイアの目に、涙が浮かんだ。
その涙が本物かどうか、私はまだ判断できない。
でも少なくとも、彼女の心が揺れているのは本当だ。
「お姉さま、そんなふうに言うなら……私は、どうすればいいの……?」
彼女の声が小さくなる。
助けを求める声。
でもその助けは、同時に罠にもなる。
彼女は無意識に、姉の肩に乗ろうとする。
“私は弱いから守って”と。
私は一度、目を閉じた。
そして、開いた。
「ミレイア。あなたは“奪う”以外のやり方を覚えた方がいい」
ミレイアが息を呑む。
「奪う……?」
「あなたは可愛い。愛される。そこは否定しない。でも、それだけに頼ると……いつか空っぽになる」
言葉が厳しすぎたかもしれない。
でも優しく言えば、伝わらない。
ミレイアは“甘い言葉”に慣れすぎている。甘い言葉は彼女を溺れさせる。
ミレイアの目が揺れ、すぐに笑顔が貼りつく。
その貼りつけ方が速い。
癖になってる。
泣きそうな顔を一瞬で“可憐”に戻す。
それが彼女の生き方。
「……お姉さま、私、そんなつもりじゃ……」
「つもりじゃなくても、そうなる」
私は冷たく言った。
冷たくするのは、彼女を守るためでもある。
彼女が私の温度に依存しないために。
ミレイアは小さく頷いた。
頷きはする。
でも理解していない。
理解したくない。
だから、次の一手に出る。
「お姉さま」
彼女は一歩近づいて、私の手を取った。
柔らかい手。
前世、毒の夜に私の手を握った手。
私は反射で指先が冷える。
「ねえ、今夜……お茶しない? 二人きりで。久しぶりに、姉妹で……」
甘い誘い。
そして、その誘いは――危険な匂いがする。
前世も、こういう誘いがあった。
“姉妹で過ごす時間”を口実に、私の警戒を落とし、私の心を緩める。
そして宰相側の脚本へ滑らせる。
私は微笑んだ。
王女の微笑み。
でもその裏で、心は鋼を握っている。
「いいわ。でも場所は私が決める」
ミレイアが瞬きをする。
「え……?」
「あなたの部屋じゃなくて、私の部屋。侍女も、私の側の人間を置く。……それでいい?」
ミレイアの笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。
“支配できない”と感じたのだ。
「……うん。もちろん」
嘘。
彼女の声が少し高くなる。
可愛い声を強めて誤魔化す癖。
私はそれを見ながら、胸の糸がさらに絡まるのを感じた。
憎い。
でも、哀れでもある。
そして――怖い。
この妹は、どこまで行くのか。
奪うこと以外の生き方を、彼女は選べるのか。
それとも、選べないように誰かに仕向けられているのか。
ミレイアは手を離し、可憐に一礼した。
「じゃあ、今夜。お姉さま。……無理しないでね?」
最後の一言が、棘だった。
優しさの形をした棘。
“無理してるのは分かってるよ”
“だから、元に戻って”
そう言っている。
私は頷いた。
「ありがとう。あなたもね」
ミレイアは笑って去っていく。
ドレスの裾が、花びらみたいに揺れる。
その揺れが、私の心臓を不規則にした。
扉が閉まった瞬間、ルーナが小さく息を吐いた。
「……姫殿下。第二王女殿下は、何か……」
「うん」
私は短く答えた。
ルーナは言葉を続けられない。
王女同士のことは、侍女が口を出してはいけない。
でも彼女の目は、私を心配している。
私は机に戻り、帳面を開いた。
数字の世界へ戻る。
戻らないと、胸の糸に絡め取られる。
それでも、心のどこかで思う。
ミレイアは敵だ。
でも敵である前に、妹だ。
その事実が、私を弱くする。
弱くなることが怖い。
でも、弱さを捨てたら人間じゃなくなる。
私はペンを握り、赤線を引いた名前の横に、小さくメモを書いた。
『ミレイア:焦り。噂を恐れる。姉を失う恐怖。誘いに注意』
そして、その下にもう一行。
『憎しみだけでは切れない』
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
言葉にすると、糸の絡まりが見える。
見えれば、ほどける可能性が生まれる。
私は窓の外を見た。
春の光が、王城の庭を照らしている。
あの光の中で、私はまた妹と向き合う。
今夜。お茶。
甘い声の棘を、どう抜くか。
私は静かに息を整えた。
そして、心の中で繰り返す。
――譲らない。
――死なない。
――それでも、壊さない。
その矛盾を抱えたまま、私は次の一手を考え始めた。
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