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第17話 怖かった、と言えた夜
しおりを挟む王城の夜は、いつもより静かだった。
昼間に傾いた空気は、夜になると重さだけを残す。
ざわめきは影に沈み、笑い声は消え、廊下の足音だけがやけに響く。
嵐の後の海みたいに、表面だけが不気味に凪いでいる。
その凪の下で、誰かが溺れている。
第二王女ミレイアは、宰相府の執務室の前で立ち尽くしていた。
扉の木目が、まるで獣の牙みたいに見える。
ここに入れば、もう戻れない気がする。
でも戻る場所なんて、最初からなかった。
「ミレイア様。お入りください」
侍従の声は丁寧で、温度がない。
温度がないのに、ミレイアの背中に冷たい汗が流れる。
扉が開く。
宰相グラディオは、いつもの穏やかな微笑みで迎えた。
「お越しくださりありがとうございます、ミレイア様」
その声は甘い。
甘くて、懐かしい。
幼い頃、母の部屋の前で、震える自分の頭を撫でた手の温度と同じ。
――守ってあげる。
――いい子だね。
――選んであげる。
言葉の形は違っても、温度が同じだ。
だから怖い。
怖いのに、離れられない。
ミレイアは椅子に座った。
膝の上で指を絡め、爪が皮膚に食い込むのを感じた。
痛い。
痛いから、まだ自分は生きている。
グラディオは、机の上の書類をそっと閉じた。
その仕草が、あまりに丁寧で、逆に恐ろしい。
「……大変な一日でしたね」
優しい言葉。
労う言葉。
でもそれは、嵐の中心で囁く声だ。
逃げられなくする声。
ミレイアは笑おうとした。
可憐に。柔らかく。
でも唇が震えて、笑顔の形にならない。
「お姉さまが……」
その名前を言っただけで、胸がきゅっと縮む。
姉の影が、今までより大きい。
怖い。
怖いのに、目を逸らせない。
グラディオは微笑みを崩さずに頷いた。
「ええ。第一王女殿下は……厄介です」
厄介。
その言葉が、ミレイアの胃を冷たくした。
厄介と言われた瞬間、姉は“排除すべきもの”になる。
「……でも、お姉さまは……」
ミレイアは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
お姉さまは正しいかもしれない。
そう言った瞬間、自分の首に縄がかかる気がした。
グラディオは静かに言った。
「ミレイア様。あなたは王国の希望です」
またその言葉。
希望。
甘い鎖。
「希望には、役目があります」
役目。
鎖が太くなる。
ミレイアの喉が乾く。
「……役目、って」
グラディオは椅子から立ち上がり、ミレイアの横へ回った。
距離が近い。
近いと息が苦しい。
でも近いと、拒絶できない。
彼はミレイアの肩に手を置き、囁いた。
「姉を切りなさい」
その一言で、世界が凍った。
切る。
姉を。
それは、婚約を奪うことでも、王位を譲らせることでもない。
もっと直接的な――心の切断。
「……む、むり……」
ミレイアの声が掠れる。
喉が震える。
涙が滲む。
グラディオの声は優しいままだった。
優しいのに、逃げ道がない。
「王国のために」
王国のため。
その言葉は魔法だ。
個人の罪を、国の大義に溶かす魔法。
「あなたが動けば、国は穏やかになります」
穏やか。
またそれ。
穏やかとは、血が見えないこと。
叫びが聞こえないこと。
「あなたが姉を止めなければ、国が割れます。割れた国は……弱くなる」
弱くなる、という言葉が、ミレイアの心に刺さった。
弱いのは怖い。
弱いと守られない。
守られないと、捨てられる。
グラディオは微笑んだ。
「大丈夫。あなたは一人ではありません。私が守ってあげる」
守ってあげる。
その温度。
幼い頃と同じ。
だから、ミレイアは震える。
彼女の中で、二つの声が喧嘩を始める。
――姉が悪い。姉が変わった。姉が怖い。
――違う。姉は、ただ真実を見ようとしている。
――でも真実は怖い。真実が出たら、私の世界が壊れる。
――壊れていい。壊れた方が、楽になるかもしれない。
――でも私は、選ばれたい。守られたい。
――選ばれるために、姉を切る?
――そう。
――それって、本当に私の選び?
ミレイアの瞳が揺れる。
“選ぶ”という言葉が、急に汚れて見えた。
姉を奪ったのは、自分が選ばれたかったから。
王太子の視線を。貴族の微笑みを。父の肯定を。
全部、欲しかった。
欲しいと言えないから、奪った。
でもその“奪い”は、誰かの手のひらの上だったのかもしれない。
宰相の手。
優しい手。
檻を作る手。
「……私……」
ミレイアは唇を噛んだ。
血が滲みそうだった。
「私、どうすれば……」
グラディオは囁く。
「いつも通りでいいのです。可憐に、柔らかく。……姉の足元を崩す言葉を、そっと置くだけ」
足元を崩す言葉。
噂。
涙。
“お姉さまは危険よ”という囁き。
ミレイアは、頷きそうになった。
頷けば守られる。
頷けば希望でいられる。
頷けば、怖くない。
でも――頭の奥に、昼の謁見の光景が蘇った。
姉が、泣かなかった。
怒鳴らなかった。
ただ証拠を並べた。
その背中が、遠かった。
遠いのに、強かった。
ミレイアは、初めて思った。
――お姉さまは、私を捨てるんじゃない。
――私が、お姉さまを捨てようとしていたのかもしれない。
その気づきが、喉を締め付けた。
ミレイアは、震える声で言った。
「……わかりました」
言ってしまった。
言った瞬間、肩の上の手が少しだけ重くなる。
鎖が締まる感覚。
グラディオは満足そうに微笑んだ。
「良い子です」
その言葉が、今夜は甘くない。
砂糖じゃない。
冷たい飴だ。舐めたら舌が裂ける飴。
*
その夜。
ミレイアは自室に戻った。
鏡の中の自分は、いつも通り可憐に見える。
でも目の奥が違う。
怯えた子どもの目だ。
彼女はドレスを脱がせる侍女を追い払い、一人になった。
一人になると、息ができる。
でも一人になると、恐怖が濃くなる。
窓の外には月。
王城の庭は静か。
静かすぎて、耳鳴りがする。
――お姉さまに会いたい。
――でも会ったら、壊れてしまう。
――壊れるのは、どっち?
――私? 姉?
――それとも、作り物の世界?
ミレイアは、足が勝手に動くのを感じた。
自分で決めたのか分からない。
でも、動いた。
廊下を抜け、第一王女の区画へ向かった。
夜の王城は、見張りがいるはずなのに、妙に通れた。
まるで、誰かが通路を開けているみたいに。
それが怖い。
でも止まれない。
第一王女の扉の前。
ミレイアは手を上げ、震える指でノックした。
――コン、コン。
返事はすぐだった。
「どうぞ」
姉の声は、落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、怖い。
でも、その落ち着きが救いでもある。
扉を開けると、セレスは机に向かっていた。
書類の山。ペン。封印の写し。
机の上は戦場みたいで、でも整っている。
姉は戦っている。
泣きながらじゃない。叫びながらじゃない。
ただ、積み重ねて。
セレスは顔を上げ、ミレイアを見た。
驚きはない。
ただ、静かな警戒。
「こんな時間に、どうしたの」
ミレイアは喉が詰まって、すぐに言葉が出なかった。
姉の目が、自分を貫く。
怒りではない。
逃げない目。
その目の前で、嘘が言えない。
「……お姉さま」
呼んだ声が、子どもの声になった。
恥ずかしくて、涙が滲む。
「……ねえ、私……」
言葉が切れる。
何を言いたいのか分からない。
謝りたい。助けてほしい。怒ってほしい。
全部が喉の奥で絡まる。
セレスは椅子から立ち上がり、ミレイアに近づいた。
近づく距離が、絶妙だった。
抱きしめない。
でも突き放さない。
逃げ道のある距離。
「座って」
セレスが言った。
命令じゃない。
でも拒めない強さがある。
ミレイアは椅子に座った。
膝が震えて、椅子が小さく鳴る。
セレスが水を差し出した。
ミレイアは震える手で受け取り、口をつけた。
水が喉を通ると、少しだけ言葉が出せる気がした。
「……今日のこと」
ミレイアが言うと、セレスは頷いた。
「うん。大変だったね」
その“ね”が、胸を刺す。
姉は私を責めない。
責めないから、余計に痛い。
「……宰相閣下が」
ミレイアが言いかけた瞬間、セレスの目がほんの少しだけ鋭くなる。
でも声は穏やか。
「何を言った?」
ミレイアは唇を噛んだ。
言ったら、もう戻れない。
でも戻る場所なんて、もうないのかもしれない。
ミレイアの喉から、やっと本音が漏れた。
漏れた、という言い方が一番近い。
言うつもりじゃなく、こぼれた。
「……私だって、怖かったの」
空気が止まった。
セレスの胸が、ぎゅっと締まるのが見えた気がした。
姉は表情を崩さない。
でも瞳が揺れた。
その揺れが、姉が“人”である証拠だった。
「……何が怖かった?」
セレスの声は静かだった。
裁く声ではない。
聞く声。
ミレイアは涙を落とした。
涙は止まらない。
可憐な姫の涙じゃない。
子どもの涙だ。
「お母様が死んで……お父様が、遠くなって……お姉さまは強くなって……私は、置いていかれるのが怖かった」
言葉が溢れる。
溢れてしまう。
止められない。
「お姉さまは、いつも正しい。いつも強い。だから……私、何もないって思ってた。可愛いって言われるだけで……それがなくなったら、私、空っぽになるって……」
ミレイアは嗚咽を噛み殺しながら続けた。
「だから奪った。奪えば、選ばれるって思った。……でも、選ばれてたのは私じゃなくて、宰相閣下の望む“私”だったのかもしれない」
セレスの胸に、別の痛みが刺さる。
憎しみとは違う痛み。
憎しみなら切れる。
でもこの痛みは、切れない糸になる。
妹は加害者だ。
前世で私を殺した側だ。
でも同時に、被害者でもある。
宰相の甘い檻で育てられ、沈黙で縛られ、選ばれることを餌にされてきた。
セレスは、ゆっくり息を吐いた。
怒りはある。
許せないことは山ほどある。
それでも――目の前の妹は、今、初めて“自分の言葉”で泣いている。
「ミレイア」
セレスは妹の名を呼んだ。
声に刃を混ぜない。
混ぜたら、彼女は閉じる。
「怖いなら、怖いままでいい」
その言葉は、エルドへ向けた言葉と同じだった。
守るための言葉。
ミレイアが泣きながら顔を上げる。
「……お姉さま、私……」
「今、あなたがするべきことは一つ」
セレスは静かに言った。
「宰相の命令を、あなたの心の命令だと勘違いしないこと」
ミレイアの目が揺れる。
痛い言葉。
でも正しい言葉。
セレスは続けた。
「あなたが怖いなら、私はその怖さを利用しない。……でも、宰相は利用する」
ミレイアが小さく頷く。
頷きは、同意ではなく理解の兆し。
セレスは机の上の書類に視線を落とした。
証拠は積まれている。
制度も整え始めている。
味方も増えている。
でも最後に必要なのは――
妹が、自分の足で檻の外へ出ることだ。
「ミレイア。あなたは、私の妹だ」
その言葉に、ミレイアの呼吸が止まる。
「だから、あなたが選びたいなら――今度は“あなた自身”を選んで」
ミレイアの涙が、また落ちる。
でもその涙は、少しだけ違った。
罪の涙。
恐怖の涙。
そして、初めての解放の涙。
夜の王城で、姉妹は向かい合っていた。
憎しみだけでは切れない糸。
愛と恐怖が絡まった糸。
その糸の結び目が、今夜、少しだけ緩んだ。
そしてセレスは知っている。
宰相は、ここからもっと強く妹を縛りにくる。
だからこそ、この夜が必要だった。
“怖かった”と言えた夜。
その一言が、ミレイアの檻の鍵になる。
鍵はまだ回っていない。
でも、鍵穴には確かに差し込まれた。
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