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第29話 王宮の中立地帯
しおりを挟む王宮は、全部が王のものじゃない。
そう思ったのは、女王になってからだ。
玉座に座れば、廊下も扉も人も、全部こちらの命令で動く気がしていた。
でも実際は逆だった。
命令が届く場所と、届かない場所がある。
届かない場所は、誰かのものでもない。
だからこそ、誰かが隠れる。
朝。
執務室に集めたのは最小の顔ぶれだった。
ルーナ。
王付き侍従のロラン。
王室補佐官アレクシス。
そして監査官代理マルセル。
机の上には、昨夜の報告の写しと、港湾組合から届いた「安全協議」要請。 その紙束の上に、私は指で線を引くように言った。
「物資管理局が同席したいって、言ったね」
ロランが頷く。
「はい。港湾管理組合のバルドより、正式な書面で。会議室は旧北棟の“第三会議室”を希望しております」
旧北棟。
そこは、王宮の中でも少し変わった場所だ。
現役の部署が少なく、通路が複雑で、倉庫と書庫と記録室が混ざっている。
つまり——中立地帯。
アレクシスが静かに言った。
「第三会議室は、管轄が曖昧です。会議の記録が“保管だけ”になりやすい」
「保管だけ?」
ルーナが眉をひそめる。
「議事録が作られない、ってことですか」
「作られても、行き先が薄くなる」
アレクシスは淡々と続けた。
「誰の机にも届かない。誰も承認しない。誰も否定しない。……そういう場所です」
沈黙が落ちる。
私はその沈黙を切った。
「だからそこを指定した。逃げ道が多いから」
マルセルが乾いた声で言う。
「陛下、では会議を別の場所に——」
「しない」
私は即答した。
「相手が選んだ土俵に、こちらも立つ。立って、土俵ごと図面にする」
ロランが一礼する。
「承知しました。記録官を同席させましょうか」
「同席させる。でも“記録官だけ”じゃ足りない」
私はルーナを見る。
「ルーナ、あなたも来て。筆記じゃなく、匂いを覚えて」
ルーナは少し怯えた顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい」
アレクシスが小さく息を吐いた。
「陛下、もう一点」
「なに」
「物資管理局が動くなら——王宮内の倉庫群も動きます。港と王宮をつなぐ線は、必ず“搬入口”に来る」
私は頷いた。
「会議の後、そのまま旧北棟を見たい」
マルセルの肩がわずかに揺れた。
見られたくない場所がある人間の反応だ。
「陛下、それは……安全上——」
「安全は、見えないから危ない」
私は淡々と言った。
「見えるようにする」
*
第三会議室は、空気が古かった。
窓が小さく、石の壁が湿り気を吸っている。
灯りは明るいのに、影が残る部屋だ。
机と椅子は立派だが、どこかよそよそしい。誰の部屋でもない家具の顔。
先に来ていたのは、港湾管理組合のバルド。
そして、物資管理局の局次長を名乗る男——セヴァン。
セヴァンは笑顔が薄い。
薄い笑顔は、感情を出さない訓練の結果だ。
「女王陛下。お忙しいところ、恐れ入ります」
「始めましょう」
私は座り、アレクシスが隣に立つ。 ロランが後ろに控え、ルーナが筆記具を準備する。
記録官は部屋の端で、既に紙を広げていた。
バルドが咳払いをして口を開く。
「昨夜、港湾にて不穏な動きがありました。警備増員に伴い、一部の商人が混乱を——」
「混乱を、誰が作った?」
私が遮ると、バルドの笑みが一瞬止まる。
「……陛下、混乱は自然発生するものです」
「自然発生するのは咳とか風邪だよ。混乱は、だいたい人が作る」
セヴァンが静かに口を挟む。
「陛下、港は民間の生活の場です。王宮が強く介入すれば——」
「介入してない」
私は淡々と言った。
「監査枠を増やしただけ。警備を足しただけ。合法の範囲しか触ってない」
セヴァンの目がわずかに細くなる。 合法の範囲、と言われるのが嫌いな人間の目だ。
合法の範囲を嫌う人間は、合法を都合よく使ってきた。
アレクシスが口を開く。
「本題に入ります。昨夜、第七埠頭第三倉庫で帳簿に載らない荷が動きました。港湾の“夜間清掃契約”の時間帯と一致しています」
バルドが肩をすくめる。
「夜間清掃は衛生のため。荷の動きは、商会が——」
「商会の名前」
私が言うと、バルドの口が一瞬だけ止まった。
「……いくつもあります」
「いくつもあるなら、なおさら言える。言って」
セヴァンが柔らかく笑う。
「陛下、責めるための会議ではなく、安全のための——」
「安全のためなら、名前を出せる」
私は視線を動かさない。
「名前を出せない安全は、危険の隠語」
部屋の空気が一段冷えた。
バルドがやっと、ひとつの名前を吐く。
「……ノルド商会」
アレクシスが手元の紙をめくり、淡々と言う。
「ノルド商会は、今月、施薬院への薬草納入の下請けに入っています。孤児院の物資搬入にも関与。港の倉庫番号とも一致します」
点が線になる音がした。
私はセヴァンを見る。
「物資管理局は、ノルド商会と取引してる?」
セヴァンは笑ったまま言う。
「民間取引の詳細は、通常——」
「通常じゃない」
私は言い切った。
「王宮内の部署が港の“安全会議”に同席するのは通常じゃない」
セヴァンの笑顔が、ほんの僅かに薄くなる。
その瞬間、ロランが一歩進み、淡々と告げた。
「女王陛下。議事録の扱いについて、確認いたします。今会議は正式な王室記録として保存されます。保管先は王室書庫、監査機構、記録室、三箇所に写しを回します」
セヴァンの目が、わずかに動いた。 写しが三つ。逃げ道が減る。
「……丁寧ですね」
セヴァンの声は褒めているようで、嫌味だった。
私は頷いた。
「丁寧にやる。丁寧にやらないと、死ぬ人が出るから」
バルドが声を低くする。
「陛下、脅しのようなお言葉は——」
「脅しじゃない。予測」
私は淡々と言った。
「私が予測できることを、あなたが知らないはずがない」
沈黙。
セヴァンが仕切り直すように手を動かした。
「陛下、港の警備強化は評価します。ただし、過度な介入は経済を——」
「経済は、人の胃袋の上にしか乗らない」
私は一息で言った。
「胃袋を削って作る経済は、ただの搾取」
セヴァンの目が冷たく光る。
でも彼は微笑みを崩さない。
微笑みの中で、次の手を探している。
その時、ルーナの筆が止まった。 止まって、紙の端を指で押さえる。
気づいた。
この部屋、誰の部屋でもないのに、紙の匂いがする。
新しい紙の匂いじゃない。
古い紙の匂い。
保管され、忘れられ、でも誰かにだけ触られてきた紙の匂い。
私は立ち上がった。
「ここまで。会議は終わり」
バルドが慌てる。
「陛下、まだ結論が——」
「結論は、手続きで出す」
私は冷たく言った。
「今日の会議の結論は“名前が出た”こと。それで十分」
セヴァンが目を細めた。
「陛下、どちらへ」
「見に行く」
私は短く答えた。
「この会議室の裏側を」
*
旧北棟は、足音が吸われる。
廊下が長い。
扉が多い。
そして扉の札が、どれも古い。
書庫。
記録室。
倉庫。
旧物資台帳保管室。
役目を終えたはずの札が、まだここにある。
札があるということは、扉が生きているということだ。
ロランが鍵束を持ち、先導する。
「こちらです、陛下。第三会議室の裏に通じる通路は——」
「案内できるんだ」
私が言うと、ロランは一瞬だけ困った顔をした。
「……王付き侍従として、旧棟の鍵も預かっておりますので」
アレクシスが小さく言う。
「中立地帯の鍵は、誰のものでもないから“侍従が持つ”」
その言い方は、皮肉というより現実だった。
扉を開けると、冷気が流れ込む。 中は小さな部屋。棚。箱。封印跡。 そして——母の名が書かれた箱があった。
アウレリア。
私の呼吸が一瞬だけ浅くなる。
ルーナが小さく声を漏らした。
「……王妃様の——」
私は箱に触れないまま、目で封印跡を追った。
封印は剥がされた跡がある。
剥がして、また貼り直した跡。
止められた制度の匂いがした。
箱の隣に、薄い冊子があった。
古い紙。母の筆跡の写しに似た文字。
でも途中で、筆が変わっている。
書き手が変わっている。
私はページをめくった。
「監査機構の独立化——第一段階:薬草流通の監査を分離」
「第二段階:港湾管理から物資台帳を切り離す」
「第三段階:王室書庫に写しを——」
第三段階が、途中で切れていた。
そこだけ、破られている。
私は息を吸い、吐いた。
「……途中で止められた」
アレクシスが静かに言う。
「母上の制度は、紙では存在していた。でも運用まで行かなかった。……誰かが止めた」
その言葉は、私の胸に痛いほど真っ直ぐ落ちた。
母は制度を遺した。
でも遺しただけでは足りなかった。
途中で止められると、紙はただの紙になる。
私は冊子を閉じ、ルーナへ視線を移す。
「写しを取って。ここにあったことを残す」
「はい」
ルーナの声が震えている。
震えの中に怒りが混じっている。
怒りは悪くない。
怒りは動く燃料になる。燃やし方さえ間違えなければ。
その時、アレクシスが、ぽつりと言った。
「……俺は、王太子を降りた」
言葉が空気に落ちる。
誰もすぐに返せない言葉だった。
私は振り返らず、ただ聞いた。
「うん」
アレクシスは続ける。
声は小さい。けれど芯がある。
「命令は出せない。正確には、出しても、届かない場所がある。……でも、橋は架けられる」
ロランが目を伏せた。
マルセルが咳払いをした。
ルーナは筆を握ったまま、耳を澄ませている。
アレクシスは、私の背中に向けて言った。
「陛下が踏み込めない場所に、俺が入る。陛下が動くと逃げる相手に、俺が話をする。……それが俺の役目だと思う」
私はゆっくり頷いた。
「役目は、言葉にした瞬間に形になる」
アレクシスが、ほんの少しだけ息を吐いた。
肩の荷を一枚下ろしたみたいに。
その時、ロランが廊下の気配に気づき、振り向いた。
「陛下、使者が——」
走り込んできたのは、港湾の連絡役の男だった。
顔色が青い。汗が光っている。
「女王陛下! 港で……妙な通達が回っています!」
「妙な通達?」
男は震える手で紙を差し出した。
私は受け取り、文字を見る。
——第二王女ミレイアの名。
——港湾管理組合への協力要請。
——物資の優先搬入の許可。
署名は、ミレイア。
印影は、王宮のものに似せている。
でも、似ているだけだ。
似せた紙は、匂いが違う。
ルーナが息を呑む。
「……ミレイア様の名を……」
胸の奥が冷えた。
妹は王城を去った。
去ったのに、名だけが戻ってくる。
名は、便利な道具だ。
本人がいないから、否定できない。
否定しようとすれば、本人を引きずり出せる。
私は紙を握りしめた。
「偽造」
アレクシスが低く言った。
「偽造だが、狙いは二つ。港を動かす。もう一つは——ミレイアを釣る」
私は頷いた。
「影が妹を追ってる。だから名を使う」
ロランが小さく言う。
「陛下……妹君の所在を公にしますか」
「しない」
私は即答した。
「公にした瞬間、守りは薄くなる」
ルーナが震える声で言った。
「では、どうやって……」
「偽の通達を、偽のままにしない」
私は紙を折り、机の代わりに箱の上へ置いた。
「正式な通達を出す。ミレイアの名は使わない。女王として、港の物資優先の手続きを改めて作る。……名を餌にされない仕組みにする」
アレクシスが頷く。
「仕組みで潰す。噂で追いかけない」
私は廊下へ一歩出て、冷たい空気を吸った。
王宮の中立地帯。
誰のものでもない場所。
だからこそ、母の制度は途中で止められた。
だからこそ、今も誰かがここを使っている。
そして——外へ出たはずの妹の名が、ここからまた侵入してくる。
私は息を吐いた。
止めるべきは人じゃない。
人を道具にする穴だ。
私はロランに言った。
「執務室へ戻る。今夜中に通達文を作る。監査機構と港湾管理、両方に写し。記録室にも残す」
「承知しました、女王陛下」
ルーナが私の隣に立ち、紙を抱え直す。
震えはまだある。
でも目は逸らさない。
アレクシスが、私の横で低く言った。
「陛下。中立地帯は、敵の隠れ家にもなる。でも——」
「味方の通路にもなる」
私は続きを言った。
母の制度は途中で止められた。
でも止められた痕跡が残っているなら、再開できる。
中立地帯は、嘘を隠す。
同時に、真実も隠す。
私はその真実を拾って、次の紙に移す。
外から忍び込んだ偽の通達より先に。
名を奪うより先に。
仕組みで奪い返すために。
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