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第31話 静かな反対派
しおりを挟む嵐は、終わったように見えた。
港の夜は目立って静かになり、施薬院の棚から薬が消えることも減った。孤児院に届く粉袋の重さが、帳簿の数字と一致するようになった。
王都は、表向き平和だ。
——表向きは。
女王の机の上に積まれた紙は、減らない。
むしろ、増えている。
紙が増えるのは、悪い兆候だ。
問題が増えたからじゃない。
問題が「止まった」からだ。
朝の執務室。
窓を開けても空気が重い。
香木の甘さの奥に、乾いた紙の匂いが混じる。
ルーナが書類束を抱えて入ってきた。 目の下に薄い影がある。けれど目は逸らさない。
「セレス様……本日の決裁分です」
「置いて。ありがとう」
机に置かれた束は、整いすぎていた。
整いすぎているものは、疑わしい。
私は一枚目に目を通して、眉をひそめる。
「……これ、先週も同じだった」
「はい」
ルーナが小さく頷く。
「港湾許認可の更新。書類は揃っています。印も正しい。形式上は問題ありません。でも……」
「動かない」
私が言うと、ルーナは唇を噛んだ。
「はい。担当部署が“確認中”のまま、戻してきます。毎回、同じ文言で」
確認中。
便利な言葉だ。
誰も責任を取らないための言葉。
扉がノックされる。
ロランが入ってきた。王付き侍従、ロラン・ヴァーレン。
所作がいつもより硬い。
「女王陛下。議会からの報告です。本日の出席者、前回よりさらに減っております」
「何人?」
「定足数は満たしております。しかし……重要案件に限って欠席が目立ちます」
欠席。
それもまた便利な抵抗だ。
反対しない。賛成もしない。
ただ、いない。
私は椅子に深く腰を落とし、指で机を軽く叩いた。
カツン、という乾いた音。
「……静かだね」
ルーナが小声で言う。
「静か、なのに……怖いです」
「うん」
私は頷いた。
「静けさは、味方にも敵にもなる」
その時、扉が再びノックされた。
「女王陛下。王室補佐官アレクシス殿が、お時間を」
「通して」
扉が開き、アレクシスが入ってきた。 王太子ではない。王室補佐官としての彼は、服装も所作も少しだけ違う。 派手さが消えた分、目の奥が落ち着いている。
彼は一礼し、机の上の紙の山を見て苦く笑った。
「……紙が増えましたね」
「増えた。しかも、動かない紙」
私が言うと、アレクシスは頷いた。
「見えない抵抗が始まっています」
ルーナが息を呑む。
「抵抗……?」
アレクシスは椅子に座らず、机の端に手を置いた。
「貴族と商会の一部が、“損をした側”として固まり始めた。彼らは声を上げません。嘆願もしない。陳情もしない」
「じゃあ、何をするの?」
ルーナが訊ねると、アレクシスは淡々と答えた。
「何もしない」
その言葉が、部屋の温度を下げた。
「何もしない……?」
ルーナが呟く。
私は、喉の奥がひりつくのを感じた。
毒の記憶じゃない。
前世の、沈黙の記憶だ。
アレクシスが続ける。
「議会の出席率が落ちる。委員会が開かれない。決裁が遅延する。書類が、形式上は完璧なまま止まる。……陛下が怒鳴れば、“独裁だ”と騒げる。陛下が妥協すれば、“戻った”と笑える」
私は目を伏せずに言った。
「反対派は怒ってない?」
アレクシスは首を振る。
「怒っていません。様子を見ている」
様子を見る。
つまり、待っている。
こちらが焦れて、穴を開ける瞬間を。
私は静かに息を吸い、吐いた。
「嵐じゃない。干ばつだ」
アレクシスが眉を上げた。
「干ばつ?」
「水がない。流れが止まる。音もなく、じわじわと枯れる。気づいた時には手遅れになる」
ルーナが震える声で言う。
「じゃあ……どうすれば……」
私はルーナを見る。
「水路を作る」
「水路……」
「止められたら、別の流れを作る。紙の流れ。人の流れ。責任の流れ」
アレクシスが小さく頷いた。
「陛下は、焦らない」
「焦らない」
私は繰り返した。
「焦ったら負ける。干ばつは、焦りで悪化する」
ロランが控えめに言う。
「陛下、議会が止まれば……法案も予算も」
「議会が止まっても、現場は止めない」
私は即答した。
「配給は続ける。施薬院も動かす。港の契約も進める。……議会が止めるのは“紙の上”だけにさせる」
アレクシスが言った。
「それでも、議会は“王の権限逸脱”を狙ってきます」
「狙わせない」
私は机の上の紙束を指で揃えた。
揃えた紙の角が、指先に痛い。
「一つ、議会に“止まった事実”を残す。誰が欠席し、誰が遅延させたか。形式の裏の責任を、記録にする」
ルーナが頷く。
「欠席名簿を……」
「そう。名簿は嘘をつかない。都合を映す」
ロランがすぐに言う。
「本日から、議会出席と決裁遅延の一覧を日次でまとめます。署名も添えて」
「ありがとう」
私は頷き、次を言った。
「二つ、止められない形にする。議会が止めても、現場が動くように。契約と許認可の条件を“自動で更新される”形に寄せる」
アレクシスが目を細める。
「自動……」
「期限を切る。期限内に拒否理由を文書で提出しないなら、承認とみなす。拒否するなら責任者名を明記させる」
アレクシスが短く息を吐いた。
「……抵抗派は、拒否ではなく沈黙を選ぶ。沈黙を選ぶなら、沈黙が“承認”になる仕組みが効く」
「うん」
私は頷いた。
「沈黙を武器にさせない」
ルーナが小さく笑う。
疲れた笑いだけど、少しだけ光がある。
「セレス様……意地悪です」
「意地悪でいい。意地悪は、守るために使える」
アレクシスが、少し真剣な顔で言った。
「陛下。反対派の中心は二つです。穀物商会連合と、古い家門の連携。彼らは港で利益を失った。薬草流通でも抜け道を塞がれた。……取り返すなら、次は“議会”です」
「議会が止まれば、制度が止まる」
私が言うと、アレクシスは頷いた。
「そして制度が止まれば、“女王は机上の理想家だ”と言える」
ルーナが悔しそうに言う。
「そんなの……現場を見てない……」
「見てないから言える」
私は淡々と答えた。
「だから見せる。叫ばずに、見せる」
アレクシスが問う。
「どうやって?」
私は机の引き出しから、施薬院の現場欄付きの新しい報告書を取り出した。 数字の表の横に、短い手書きが並ぶ。
『咳き込みが増えた』
『薬が足りず、順番争いが起きた』 『女王が来た日、列が静かになった』
そこに、ルーナが昨日書き足した一行。
『声が残ると、噂が減る』
私はそれを机の中央に置いた。
「議会に、これを提出する」
アレクシスが目を見開く。
「現場の声を……議会に?」
「数字だけじゃ、彼らは動かない。感情だけでも動かない。だから両方出す。数字と声。形式の中に、現実を混ぜる」
ロランが静かに言う。
「反対派は、“政治の場に生活を持ち込むな”と言うでしょう」
「言わせる」
私は頷いた。
「言った瞬間に、彼らは自分の穴を見せる。政治は生活だ。生活から切り離した政治は、利権の箱になる」
アレクシスが苦く笑った。
「……陛下は、本当に議会の空気を変える気ですね」
「変えるよ」
私は淡々と答えた。
「干ばつは、待ってても雨が降らない。水路を掘るしかない」
ルーナが、少しだけ背筋を伸ばした。
「セレス様……私、議会に出す“声”を集めます。施薬院も、孤児院も、配給所も」
「ありがとう。無理はしないで」
「無理じゃないです」
ルーナの声が、少し強い。
「無理だったら、今までと同じになっちゃう」
その言葉が胸に落ちた。
ルーナも、もう戻れない場所に立っている。
私が作った制度の中で、彼女も変わっている。
アレクシスが真顔で言った。
「陛下。もう一つ、気になる動きがあります」
「何?」
彼は声を落とした。
「反対派は“何もしない”だけじゃない。何もしないことで、誰かに“動かせる”余白を作っている。……王宮内の一部署が、その余白を使い始めた」
私の指先が冷たくなる。
「どこ?」
「儀礼局です」
儀礼局。
王宮の顔を作る部署。
式典、儀式、慣例。
それは、紙より柔らかく見えて、紙より強い鎖になることがある。
「儀礼局が何を?」
アレクシスが言いにくそうに答える。
「“女王の公務”を、慣例を理由に削ろうとしています。現場視察を減らし、城内行事を増やす案が出ている」
ルーナが怒りを滲ませる。
「……閉じ込める気ですか」
「閉じ込めるというより、見せ方を変える。女王を“飾り”に戻したい」
アレクシスの声は低い。
彼もかつて、その飾りの中心にいたから分かる。
私は机の上の紙を見た。
港の契約。施薬院の声。議会の欠席名簿。
全部が、静かな抵抗の形だ。
私は静かに言った。
「干ばつは二種類ある」
皆が私を見る。
「水がない干ばつと、水があるのに、堰を閉じられる干ばつ」
私は顔を上げた。
「堰を握ってるのは誰?」
アレクシスが答える。
「慣例です。……そして、それを扱う人間です」
私は頷いた。
「なら、慣例を紙にする」
ルーナが首をかしげる。
「慣例を……紙に?」
「慣例は曖昧だから鎖になる。曖昧な鎖は、誰でも引ける。だから定義する。何が義務で、何が任意で、誰が決めるか」
ロランがすぐに理解した顔になる。
「儀礼局の裁量を、職務分掌に落とすのですね」
「そう」
私は頷いた。
「裁量の穴を塞ぐ。沈黙の穴を塞ぐ。……水路を作る」
アレクシスが、少しだけ笑った。
「陛下は、相変わらず壊さない」
「壊さないよ」
私は淡々と返した。
「壊したら、また私が“激情の女王”にされる。私は、紙で戦う」
窓の外で、遠く鐘が鳴った。
時間を告げる鐘。
でも今日は、別の音に聞こえた。
干ばつの音。
水が引いていく音。
私はペンを取った。
議会への提出書類の一番上に、短く書く。
——欠席一覧(署名付き)
——決裁遅延一覧(理由明記)
——施薬院・孤児院・配給所:現場の声(添付)
そして最後に、もう一行。
——儀礼局:公務裁量の定義案
ルーナが小さく息を吐いた。
「静かな戦いですね」
「静かな戦いが、一番怖い」
私は言った。
「でも怖いなら、怖いままでいい。怖いまま、動かす」
アレクシスが、窓の外を見ながら呟いた。
「反対派は、怒っていない。様子を見ている。……だから陛下も、様子を見せない」
「見せない」
私は頷いた。
「私が焦らない限り、干ばつは彼らの喉を先に乾かす」
動かない敵。
声を上げない敵。
沈黙で国を枯らす敵。
それは剣より厄介だ。
でも剣より、紙が効く。
私は紙の上に線を引いた。
静かな反対派。
静かな干ばつ。
——その静けさに、責任の名前をつける。
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