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第32話 王配のいない椅子
しおりを挟む議会の椅子は、喋る。
座る人間の尻より先に、家の都合が座る。
背もたれに寄りかかるのは背骨じゃない。利権だ。
そして今日は、その利権がひとつの空席に向けて牙を剥いた。
半円の議場。
石の壁に並ぶ紋章は、相変わらず綺麗だ。
綺麗なものほど、汚れを隠す。
私は演壇ではなく、女王席に座っていた。
玉座ほど高くない。けれど議場の中心に置かれた椅子。
その横に、もう一つ椅子がある。
空席。
最初から、空席として作った椅子だ。 誰かのためではない。
“誰も座らないため”の椅子。
議長が杖を鳴らす。
「静粛に。本日の議題、王権補佐機構の運用確認。ならびに……女王単独統治制度の暫定評価」
“暫定評価”。
評価という言葉の形を借りた、揺さぶりだ。
ざわめきの中、アレクシスが私の数歩後ろに立っていた。
王室補佐官としての席。
見える場所。けれど、座れない場所。
議長が続ける。
「まず、意見のある者」
すぐに手が上がった。
古い家門の当主。白い髭を整えた男。
声は大きいのに、目が笑っていない。
「女王陛下。制度の整備は結構。だが、国には“象徴”が必要だ」
象徴。
便利な言葉だ。
中身のない箱に、好きなものを詰められる。
「女王を補佐する存在が曖昧だ。責任の所在が見えにくい。王配の役割が空白では、国が不安に揺れる」
ざわめきが広がる。
不安。国。責任。
全部、正しそうに聞こえる。
だから厄介だ。
別の貴族が乗る。
「女王陛下が倒れた時はどうする。王配がいれば政務は継続できる。今の制度は、女王の体調ひとつで国家が止まる」
止まる。
止まらないように、監査も契約も期限も作った。
でも彼らは、そこを見ない。
見ないのではなく、見たくない。
さらに若い貴族が、上品な笑みで言う。
「制度は素晴らしい。しかし……女王単独統治は、孤立を生みます。孤立は暴走を生む。王配という“受け皿”がないのは危険では?」
受け皿。
受け皿と言いながら、彼らが欲しいのは受け皿の底にある権限だ。
私は息を吸って、吐いた。
怒鳴らない。
怒鳴れば、彼らの望む“激情”になる。
私は静かに口を開いた。
「質問に見せた要望が混ざってる」
議場が少し静かになる。
言葉の温度を下げると、空気が冷える。
「まず、“女王を補佐する存在が曖昧”と言ったね。曖昧にしているのは制度ではなく、あなたたちの期待です」
ざわめき。
期待、という言葉が刺さる。
「補佐機構は明確です。王室補佐官、各省の長、独立監査機構。手続きと責任の線は、条文に引いた」
私は机上の書類を軽く持ち上げた。
紙の音が議場に響く。
その音は、小さいのに強い。
「“責任の所在が見えにくい”と言った。なら見せる。決裁権は私。執行権は各省。監査権は独立機構。議会は予算と立法。……王配の権限は、そもそも存在しない」
古い家門の当主が鼻で笑う。
「だから不安なのだ。国は“血と家”で支えられてきた。女王に夫がいないなど、前例が——」
「前例は、未来を縛る鎖」
私は遮った。
声は低いまま。
「そしてその鎖が、宰相府に握られてきた。あなたたちはそれを忘れたの?」
議場がざわつく。
宰相の名は、まだ匂いを持つ。
議長が杖を鳴らし、沈黙を促す。
しかし、沈黙は完全には戻らない。
怖いからだ。
“夫の椅子”が空いていることが。
私は視線を、横の空席へ移した。
誰も座っていない椅子。
座らせれば、争いが始まる椅子。
私はその椅子に向かって言うように、言葉を落とした。
「空席は欠陥じゃない」
空気が止まる。
「権力を置かないための設計です」
ざわめきが弾けた。
怒りと恐怖が混じった音。
“置かない”という否定は、彼らの手を空にする。
若い貴族が声を上げる。
「陛下、それは極端です! 王配が権力を持たないなら、ただの飾り——」
「飾りでいい」
私は淡々と言った。
「家族としての形は否定しない。私は人だから。けれど権力の椅子は別。椅子に座った瞬間、飾りは刃になる」
古い当主が目を細める。
「では、女王陛下の隣は誰が埋める?」
「埋めない」
私は即答した。
埋めない、という言葉は強い。
強い言葉ほど、慎重に使うべきだ。
でもここは使う。
「埋めれば、誰かが“女王の半分”を名乗る。半分を名乗れば、女王は半分になる。半分になった王は、宰相の影に負ける」
議場の一角で、紙をめくる音がした。 反対派の何人かが目を合わせる。
彼らは理解する。
これは感情論じゃない。
構造の話だ。
その時、議長が視線をアレクシスへ向けた。
「王室補佐官アレクシス殿。あなたの意見を求める声もある。——女王陛下の補佐とは、具体的に何を担うのか」
ざわめきが、別の形に変わる。
突きつけられた。
お前は何だ、と。
アレクシスは一瞬だけ息を飲んだ。 そして、ゆっくり前へ出た。
歩幅が以前と違う。
穏便に逃げる足ではない。
立つ足だ。
「私は……王配ではありません」
その言葉だけで、議場がざわつく。 彼が自分の立場を言語化すること自体、珍しい。
彼はいつも“空気”で済ませてきた。
「そして、王太子でもない」
今度は、ざわめきに棘が混じる。 “王から降りた男”の名札は、議場にとって扱いづらい。
アレクシスは続けた。
声は震えていない。
震えを飲み込んだ声だ。
「私は、命令を出す立場ではない。指揮を執る立場でもない。だからこそ、橋を架ける役に徹する」
「橋?」
誰かが嘲るように言った。
アレクシスは視線を逸らさなかった。
「省庁と議会、監査機構と現場、王宮と港。各々の利害は違う。その違いが穴になる。穴に影が入る。……私はその穴を埋めるために動く」
古い当主が笑う。
「穴を埋める? 補佐官が? そんな曖昧な役職で?」
アレクシスが、少しだけ顔を上げた。
「曖昧にしているのは、あなた方です。役職の権限は明文化されています。私の決裁権は、女王陛下の代理ではない。調整権です。情報の流れと、手続きの順序を整える権限」
言い切った。
言い切ると、空気が変わる。
“曖昧”は言葉にされた瞬間、曖昧でいられなくなる。
私は、アレクシスの横顔を見た。 あの人は、やっと自分の役目を自分の言葉で言った。
王になれないとか、王になるとか、そんな話じゃない。
“王を支える骨”になるかどうかの話だ。
議場の別の席から、鋭い声。
「だが、それでも責任の所在は女王陛下に集中する! 危険だ! 独裁だ!」
独裁。
この言葉は、彼らが最後に投げる石だ。
大きな音がするから、群れが寄る。
私は静かに頷いた。
「責任は集中する」
ざわめき。
認めたことに驚く音。
「集中するのは危険。だから私は、権力を分散させる。責任は私に残し、権力は仕組みに渡す。監査を独立させ、期限を作り、承認の手続きを自動化する」
私は一枚の紙を取り上げた。
議会欠席と決裁遅延の一覧。
署名付き。
「そして、あなたたちの沈黙も記録する。誰が“何もしない”ことで止めたか。責任の所在は、見えるようになる」
反対派の顔色が変わる。
彼らは、沈黙が武器である限り強い。
沈黙に名が付いた瞬間、弱くなる。
私は空席の椅子に視線を戻した。
「この椅子が怖い?」
議場のざわめきが、揺れる。
「怖いなら、怖いままでいい」
私は言った。
怖さを否定しない。
否定すると、彼らは別の嘘を作る。
「でも、怖さの名前を履き違えないで。怖いのは女王単独じゃない。怖いのは、あなたたちが今まで“寄りかかれる場所”を持っていたこと」
古い当主が低く言った。
「……女王陛下は、男たちを排除するのか」
排除。
また便利な言葉だ。
私は首を振らなかった。
首を振ると、弱く見える。
私は代わりに、言葉を置いた。
「排除しない。配置を変えるだけ」
議場が静かになる。
配置。役割。責任。
これは感情じゃない。
設計だ。
「権力の椅子に座る人間を減らす。座らない場所を増やす。——そうしないと、また同じ穴ができる」
議長が杖を鳴らした。
「本議題は、女王陛下の答弁により整理された。続いて、補佐機構の運用確認に移る」
しかし、空気はまだざわついている。
整理されたのは議題だけだ。
心は整理されない。
椅子が空いていることは、誰にとっても不安だから。
議会が一区切りついた後、控室へ戻る回廊。
石畳を打つ足音が少ない。
静かな反対派の空気は、ここにもある。
ロランが追いついてきた。
「女王陛下。儀礼局から……また文書が」
「どんな?」
「来月の“女王祝賀行事”の増設案です。現場視察の予定と、重ねてきています」
私は息を吐いた。
堰を閉じる動きだ。
祝賀で囲い、城内で消費させる。
アレクシスが小声で言う。
「今日の答弁で、反対派は次の手に出ます。——“空席を埋める”別の方法を探す」
「例えば?」
アレクシスは言いにくそうに言った。
「王配ではなく、“摂政委員会”の名目。あるいは、“女王顧問会議”。……肩書きは何でもいい。要は、隣に座れる席を作る」
私は歩みを止めずに言った。
「作らせない」
「どうやって?」
「席を増やさない。仕事を増やす」
アレクシスが目を細める。
「……仕事を?」
「責任が見える形で。署名が必要な形で。期限が切れる形で。——座りたい人ほど、尻が痛くなる椅子にする」
ルーナが遅れて追いつき、小さく言った。
「セレス様……今日、怖かったです」
「うん」
「でも……空席を欠陥じゃないって言った時、少しだけ……息ができました」
私はルーナを見る。
「息ができる場所を作りたい。権力の椅子じゃなくて」
ルーナが頷いた。
「はい」
回廊の窓から、王都が見える。
遠くの屋根の並び。
その下に、人の生活がある。
椅子の上じゃない場所に。
私は思う。
“誰も座れない椅子”は、誰にとっても不安だ。
でも不安は、悪いものじゃない。
不安は、寄りかかりをやめる合図にもなる。
その夜、執務室に戻ると、窓枠に小さな石が当たった。
カツン。
私は窓を少し開ける。
冷たい風と一緒に、紙片が滑り込んだ。
『議会、空席で揉めたな。港も動いた。——“椅子を埋める話”が裏で回ってる。名前、もう少しで出る』
私は紙片を握りしめた。
きゅ、と紙が鳴る。
それは怒りではない。
次の手を受け止める準備の音だ。
空席は欠陥じゃない。
でも空席を埋めようとする手は、必ず伸びる。
伸びる手を、切り落とすんじゃない。
伸びた手が触れられない距離に、椅子を置き直す。
私はペンを取った。
——王権補佐機構:権限の再定義(公開)
——儀礼局:公務裁量の拘束条項(期限付き)
——議会:沈黙の責任可視化(署名必須)
そして最後に、短く書き足す。
——“隣の席”を増やさない。
女王の椅子の横は、今日も空いている。
その空白が、不安を生む。
でも同時に、影が入り込む余地を減らす。
私は目を閉じずに、空席を見た。
空いているからこそ、守れるものがある。
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