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眠れない。

春菜とのテレフォンセックスをしてから数時間が経過している。

現在の時刻午前0時16分。寝付きの良い僕がこんなにも眠れないのは珍しい。それだけ今日の出来事は刺激的だったということだ。今日は寝れそうにないなと思う。

そのときスマホが振動した。電話だ。春菜からではないかと思う。

彼女の寝付けなくて電話をかけてきたのかもしれない。

ニヤニヤしながらスマホを見る。

五条弥生という名前が表示されている。

弥生さん・・・こんな時間にどうしたんだろう?

通話ボタンを押す。

「もしもし」

「・・・健吾くん。苦しいの」
苦しそうな声が聞こえてきた。

「どうしたの?弥生さん」

「胸が苦しいの。健吾くん。助けて」

「由紀夫さんはいないの?」

「いないわ。仕事から帰ってきてないの。私、一人なの。助けて。健吾くん。お願い」

「わかった。今すぐ行くよ」

「うん。待ってる」

電話を切り、部屋を出る。

親父に声をかけていこうか迷う。父は仕事で疲れている。明日も早い。僕の唯一の肉親である父に負担をかけたくない。だから父には何も言わずに家を出ることに決めた。

深夜の住宅地の道を走る。近道の路地を走る。弥生の自宅が見えてきた。荒い呼吸を繰り返しながら門に辿り着く。門の鍵は空いていた。玄関ドアの鍵も空いていた。靴を脱ぎ、上がる。廊下を走り、ドアを開け、リビングに入る。

暗いリビングのソファに弥生は座っていた。

「健吾くん」

「弥生さん。大丈夫?」

「大丈夫じゃないわ。苦しいの」

「どこか苦しいの?」

「心が苦しいの」

「心?」

「そうよ。心よ。心がどうしようもなく苦しいの。死にたいくらいに苦しいの」

「どうして?」

「寂しいの。誰もいなくて寂しいの。さっきまであんなに賑やかだったのに。健吾くんがいて、春菜ちゃんがいて、美雪ちゃんがいて、愛莉ちゃんがいて、すごく賑やかだったのに。すごく楽しかったのに。今はこんなにも寂しい。それがたまらなく苦しいの。死にたいと思うくらい苦しいの」

「・・・」

「ずっと旦那がいなくて寂しくても、その苦しみになんとか耐えられた。でも今はダメなの。さっきのの賑やかさ・楽しさを知ってしまったあとでは耐えられなくなったの。苦しくて死にたくなってしまったの。だから健吾くんを呼んだの。このままでは本当に死んでしまいそうだったから呼んだの」弥生の声は涙声になっていた。

「私には健吾くんしか頼る人がいなかった。だから迷惑だと思ったけど健吾くんを頼ったの」

「由紀夫さんは」

「あの人はダメよ。あの人はもう私を愛してない。子供ばかりを求める私にうんざりしてる」

「・・・」

「あの人ね、浮気してるのよ。気楽にセックスができる女と浮気してるの」

信じられない。あの優しい由紀夫さんが浮気してるなんて。

「信じられないでしょ?あの善良を絵に描いたような旦那が浮気だなんて。でも本当なの。旦那にとって私は気楽にセックスできる相手ではないの。だから旦那は浮気を始めたの。子供のことを考えずに気楽にセックスができる女との浮気をね」

「・・・」

「酷いと思わない?女として子供を求めるのは自然なことでしょ?それを重いと感じて浮気をするなんて。でも旦那は旦那なりに私の願いを叶えようとしてくれた。セックスのときは私をちゃんと愛してくれた。だからなんとか耐えることができた。でももうダメ。そんな中途半端な愛ではもう満足できないの。健吾くんが春菜ちゃんを愛したような愛され方じゃないと満足できないの。今の私はそうなってしまったの。この寂しさを癒やすには健吾くんのような愛し方じゃないとダメなの。でも私にはそんなふうに愛してくれる人はいない」

弥生の声には絶望が含まれているように感じられた。この部屋の闇よりも暗い絶望が。

「ねえ、健吾くん。私はどうしたらいいの?私はもうこの寂しさに耐えられそうにない。このままでは確実に死んでしまうと思う。旦那には頼れない。頼れそうな友達もいない。家族もいない。そんな私はどうしたらいいの?教えて。健吾くん・・・教えて」

弥生が泣いていた。いつも優しい表情を浮かべている弥生が泣いていた。僕の前で涙を見せたことのない弥生が泣いていた。

なんどかしてあげたい。でも何をしてあげたらいいのかわからない。自分の無力さに怒りを感じる。情けなさを感じる。

そのときポケットの中のスマホが振動した。春菜からだった。絶妙なタイミングでの電話。春菜はどこかで僕と弥生のことを見ているのではないかと思うようなタイミングだ。

僕は電話に出る。

「健吾。今、どこにいるの?」

「弥生さんの家」

「そう」春菜の声に変化はない。「弥生さん、苦しんでるのね」

「どうしてわかったの?」

「美雪さんがね、教えてくれたの。弥生さん、おかしくなるかもしれないって」

「そう」

「健吾。弥生さんを愛してあげて」

「・・・」

「弥生さんは今、苦しんでいる。愛が足らなくて苦しんでる。健吾ならその苦しみを癒やしてあげることができる」

「僕にそんな力はないよ」

「あるわ。絶対ある。私にはわかる。健吾と愛し合った私にはそれがわかる。だから弥生さんを愛してあげて」

「春菜は平気なの?」

「平気ではないわ。嫉妬は感じる。でもね、私にとって弥生さんは仲間なの。同じ男を好きなった仲間なの。健吾を好きになった仲間なの。だから弥生さんにも幸せになってほしいの。だから健吾には弥生さんのためになることをしてほしいの」

春菜と弥生は仲間。僕を好きになった仲間。同じ男を好きになった仲間。

「健吾だって弥生さんのためになることしたいでしょ」

「うん」

「私、健吾を縛るつもりないって言ったよね。あの言葉は嘘ではないわ。本当よ。健吾には自由に生きてほしいの。助けたいと思った人がいるなら助けてほしいの。だから弥生さんを助けてあげて。愛してあげて。そうしないと健吾は一生後悔するよ。私、健吾にそんな後悔してほしくない」

もし弥生にもしものことがあったらきっと後悔すると思う。僕にはできることがあったのに、と後悔すると思う。

「私、健吾には幸せになってほしいの。誰よりも幸せになってほしいの。でもそんな後悔があったら絶対幸せになれない。誰よりも不幸になってしまう。だから健吾には後悔しない行動を選んでほしいの。幸せになれる行動を選んでほしいの。それが私の幸せにも繋がるの。だからお願い。弥生さんを愛してあげて。お願い」

お願い、という言葉に切実さが籠もっている気がした。

「わかった。やってみるよ」

「うん。信じてる」

「ありがとう」
僕は電話を切る。
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