R18BL短編集

鳫葉あん

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寄る辺の貴方へ

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偶然知った女装コスプレイヤーを応援しているうちにファン以上の感情を持ってしまった男が、自分の気持ちに見切りをつけるためにコスプレイヤーのオフ会へ参加する話です。
攻めの女装要素はありますがエロには活かせられませんでした。申し訳ない。

※他のサイトにも投稿します
※支援サイトにて攻め視点短編更新予定です
※攻めの女装・攻めの受けフェラ・ストーカー要素などが含まれます


***


 吉海春馬(よしうみ はるま)は商社で働く会社員である。染めたことのない髪は理髪店で小まめに切り揃え、奥二重の目は学生時代に視力を落として以来眼鏡を手離せない。特別整っても崩れてもいない顔立ち、日本人男性の平均身長そのままの背格好は、人混みに入ると保護色のように溶け込み、判別が鈍る。
 今や日本の文化となった漫画やアニメ、ゲームを趣味としているが、社会人になって一年が過ぎると私生活が忙しくなり、なかなか趣味に割ける時間がない。
 家庭用ゲーム機やパソコンを起動させるより、手軽なソーシャルゲームをプレイするようになり。漫画は紙から電子に移行し。アニメもリアルタイムで見れずとも動画配信サービスで視聴する。これら全てが手元のスマホで完結してしまう。
 利便性から依存が高まり、現代人の必需品となったスマホには人々を繋ぎ合わせるコミュニティがある。
 ソーシャル・ネットワーキング・サービス。SNSである。
 SNSにも様々なプラットホームがあるが、春馬が主に活用しているのはツイッターという短文やイラストを投稿し、リプライと呼ばれる返信を送ったり、他者へ共有するリツイート、投稿を気に入ったことを伝えるいいね機能などがあるシンプルな交流サイトだ。一般人から芸能人まで幅広い人が世代を越えて利用している。
 春馬はスマホを持ち始めた高校生の頃からツイッターを利用し始め、そのおかげでインターネットの利便性は勿論、危険性も充分学べた。似たような趣味の人々と繋がり、日々のニュースはツイッターで知り、毎日が過ぎていく。睡眠と仕事以外の時間のほとんどを注ぎ込まれるツイッターには春馬の情報が、人生の多くが詰まっている。
「……あ。投稿されてる」
 スマホの画面にはタイムラインが表示されている。ゲーム関連のツイートが多い中、一際目を引く画像があった。ピンク色のツインテールに青い瞳、フリルのあしらわれた改造制服姿のよく似合う、アニメキャラの格好をした女性がカメラ目線で微笑む実写の画像――コスプレ写真だった。
 キャラクターは最近流行りのソシャゲに出てくるヒロインで、彼女のコスプレ写真がタイムラインによく流れてくるが、今表示されているコスプレイヤーが一番綺麗だと春馬は思った。フィルターが掛かっているのは自覚しているが、それでも『彼』が一番だ。 
 画面越しに微笑むヒロイン――の格好をしたコスプレイヤーは男性である。性別を超越した美しさを補う化粧は手慣れているが、しっかり見てみれば節々に男らしさの垣間見える絞られた体つきをしていた。
 ツイートの下側には様々な機能マークがある。リプ、リツイート、いいね。春馬は彼を知ってから、毎回欠かさずリツイートといいねを押してきた。今日も勝手に指が動きそうになるのを、遠慮がちな理性が止める。
「……」
 春馬が彼を知ったのは三年前になる。春馬と同世代の彼は大学生の頃にコスプレを始めて、ツイッターのアカウントを作成した。春馬はその初投稿からずっと、彼のファンだった。
「……」
 指が動く。他のツイートを見るべく画面を下へスライドさせていく指は、彼のツイートに反応を示さなかった。


***


 三年前、当時の春馬は大学二年生で、講義とバイトとゼミでスケジュールがほぼ埋まっている平凡な大学生活を送っていた。
 この頃から既にツイッターに依存しており、暇があるとツイッターを見ていた。数日前のタイムラインで、昔見ていた『スターライト』というファンタジーアニメの復刻版ブルーレイが発売決定したというニュースを見つけて、それ以来何となく暇があるとスターライトに関するツイートを検索していた。好きだったとかよく見ていたとか、ブルーレイ予約しましただとか。そういった一言が表示される中、検索結果を話題のツイートから最新のツイートへ切り換える。
「……え」
 画像が一枚表示された。長い黒髪を頭上で結い上げた、赤紫色の瞳の女性と目が合う。露出の抑えられた衣装を着た女性は、そのスターライトの主人公である少女・リカのコスプレをしていた。
『初コスプレです』
 短いコメントが添えられたコスプレ写真の投稿は数分前で、まだ誰の反応もない。春樹の指は気付くとリツイートしていいねを押し、さらにはリプライまで送っている。
『すごい! 本物のリカみたいですね』
 普段なら見ず知らずの、フォロワー外のアカウントに話し掛けることのない春馬だが、思わずそうリプしてから相手をフォローした。0だった数字が1に変わる。
 数時間後にリフォローされ、リプに対しても『ありがとうございます』と返信され、それにいいねだけ付けた春馬は嬉しくなった。
 コスプレイヤーはネオと名乗っていた。普段は何気ない日常をツイートし、週に何度かコスプレ写真を投稿する。誰のコスプレをしてもよく似合うのは、整った顔立ちの特権だろうか。春馬は毎回リツイートといいねをして、たまに応援リプを送った。面白いことや気のきいたことが書けないので似合ってるだの綺麗だの、そんなリプしか送れない春馬にネオは律儀にお礼の言葉を返してくれた。
 反応したら反応で返してくれる。交流においては当然のことなのだが、そんなことが嬉しかった。
 半年が経つとネオのフォロワーもかなり増え、コスプレへの反応も増えた。そうすると必然的におかしな人もやって来る。
『先日、このようなDMが送られてきました』
 短いツイートと共に、名前などは隠されたDMのスクリーンショットが添付される。タップして拡大した春馬は思わず顔を顰めた。
『ネオちゃんかわいいね。リカもアリサもよく似合ってるよ。ネオちゃん見てたら俺のこんなになっちゃった』
 絵文字を散りばめたメッセージの後に送り付けられた画像は、モザイク加工されているが勃起した男性器だとわかるものだった。傍観者であり男の春馬でも嫌悪感があるのだ、送り付けられた張本人のネオの不快はいかほどのものか。
 ツイートにはネオのリプが付き、ツリーになっていた。このDMに対して追記しているのだろうと見てみた春馬は、目を見開いて驚いた。
『ちなみにですが当方は男性です』
 吉海春馬(よしうみ はるま)は商社で働く会社員である。染めたことのない髪は理髪店で小まめに切り揃え、奥二重の目は学生時代に視力を落として以来眼鏡を手離せない。特別整っても崩れてもいない顔立ち、日本人男性の平均身長そのままの背格好は、人混みに入ると保護色のように溶け込み、判別が鈍る。
 今や日本の文化となった漫画やアニメ、ゲームを趣味としているが、社会人になって一年が過ぎると私生活が忙しくなり、なかなか趣味に割ける時間がない。
 家庭用ゲーム機やパソコンを起動させるより、手軽なソーシャルゲームをプレイするようになり。漫画は紙から電子に移行し。アニメもリアルタイムで見れずとも動画配信サービスで視聴する。これら全てが手元のスマホで完結してしまう。
 利便性から依存が高まり、現代人の必需品となったスマホには人々を繋ぎ合わせるコミュニティがある。
 ソーシャル・ネットワーキング・サービス。SNSである。
 SNSにも様々なプラットホームがあるが、春馬が主に活用しているのはツイッターという短文やイラストを投稿し、リプライと呼ばれる返信を送ったり、他者へ共有するリツイート、投稿を気に入ったことを伝えるいいね機能などがあるシンプルな交流サイトだ。一般人から芸能人まで幅広い人が世代を越えて利用している。
 春馬はスマホを持ち始めた高校生の頃からツイッターを利用し始め、そのおかげでインターネットの利便性は勿論、危険性も充分学べた。似たような趣味の人々と繋がり、日々のニュースはツイッターで知り、毎日が過ぎていく。睡眠と仕事以外の時間のほとんどを注ぎ込まれるツイッターには春馬の情報が、人生の多くが詰まっている。
「……あ。投稿されてる」
 スマホの画面にはタイムラインが表示されている。ゲーム関連のツイートが多い中、一際目を引く画像があった。ピンク色のツインテールに青い瞳、フリルのあしらわれた改造制服姿のよく似合う、アニメキャラの格好をした女性がカメラ目線で微笑む実写の画像――コスプレ写真だった。
 キャラクターは最近流行りのソシャゲに出てくるヒロインで、彼女のコスプレ写真がタイムラインによく流れてくるが、今表示されているコスプレイヤーが一番綺麗だと春馬は思った。フィルターが掛かっているのは自覚しているが、それでも『彼』が一番だ。 
 画面越しに微笑むヒロイン――の格好をしたコスプレイヤーは男性である。性別を超越した美しさを補う化粧は手慣れているが、しっかり見てみれば節々に男らしさの垣間見える絞られた体つきをしていた。
 ツイートの下側には様々な機能マークがある。リプ、リツイート、いいね。春馬は彼を知ってから、毎回欠かさずリツイートといいねを押してきた。今日も勝手に指が動きそうになるのを、遠慮がちな理性が止める。
「……」
 春馬が彼を知ったのは三年前になる。春馬と同世代の彼は大学生の頃にコスプレを始めて、ツイッターのアカウントを作成した。春馬はその初投稿からずっと、彼のファンだった。
「……」
 指が動く。他のツイートを見るべく画面を下へスライドさせていく指は、彼のツイートに反応を示さなかった。


***


 三年前、当時の春馬は大学二年生で、講義とバイトとゼミでスケジュールがほぼ埋まっている平凡な大学生活を送っていた。
 この頃から既にツイッターに依存しており、暇があるとツイッターを見ていた。数日前のタイムラインで、昔見ていた『スターライト』というファンタジーアニメの復刻版ブルーレイが発売決定したというニュースを見つけて、それ以来何となく暇があるとスターライトに関するツイートを検索していた。好きだったとかよく見ていたとか、ブルーレイ予約しましただとか。そういった一言が表示される中、検索結果を話題のツイートから最新のツイートへ切り換える。
「……え」
 画像が一枚表示された。長い黒髪を頭上で結い上げた、赤紫色の瞳の女性と目が合う。露出の抑えられた衣装を着た女性は、そのスターライトの主人公である少女・リカのコスプレをしていた。
『初コスプレです』
 短いコメントが添えられたコスプレ写真の投稿は数分前で、まだ誰の反応もない。春樹の指は気付くとリツイートしていいねを押し、さらにはリプライまで送っている。
『すごい! 本物のリカみたいですね』
 普段なら見ず知らずの、フォロワー外のアカウントに話し掛けることのない春馬だが、思わずそうリプしてから相手をフォローした。0だった数字が1に変わる。
 数時間後にリフォローされ、リプに対しても『ありがとうございます』と返信され、それにいいねだけ付けた春馬は嬉しくなった。
 コスプレイヤーはネオと名乗っていた。普段は何気ない日常をツイートし、週に何度かコスプレ写真を投稿する。誰のコスプレをしてもよく似合うのは、整った顔立ちの特権だろうか。春馬は毎回リツイートといいねをして、たまに応援リプを送った。面白いことや気のきいたことが書けないので似合ってるだの綺麗だの、そんなリプしか送れない春馬にネオは律儀にお礼の言葉を返してくれた。
 反応したら反応で返してくれる。交流においては当然のことなのだが、そんなことが嬉しかった。
 半年が経つとネオのフォロワーもかなり増え、コスプレへの反応も増えた。そうすると必然的におかしな人もやって来る。
『先日、このようなDMが送られてきました』
 短いツイートと共に、名前などは隠されたDMのスクリーンショットが添付される。タップして拡大した春馬は思わず顔を顰めた。
『ネオちゃんかわいいね。リカもアリサもよく似合ってるよ。ネオちゃん見てたら俺のこんなになっちゃった』
 絵文字を散りばめたメッセージの後に送り付けられた画像は、モザイク加工されているが勃起した男性器だとわかるものだった。傍観者であり男の春馬でも嫌悪感があるのだ、送り付けられた張本人のネオの不快はいかほどのものか。
 ツイートにはネオのリプが付き、ツリーになっていた。このDMに対して追記しているのだろうと見てみた春馬は、目を見開いて驚いた。
『ちなみにですが当方は男性です』
 ネオは女性ではなく、女装コスプレイヤーだった。

 ネオのカミングアウト後、彼のフォロワー数は目に見えて減少していた。男性だと宣言したツイートに対して『詐欺』『変態カマ野郎』『だと思った。女にしてはブスすぎる』『アリサちゃんを汚すな』と心ないリプを送っていく者もいた。
 春馬も驚きはしたが、騙されたとは思わなかった。そもそもネオのプロフィールには年齢とコスプレイヤーであることしか書かれておらず、女性を名乗っていない。彼のコスプレを見て女性だと思い、疑ってすらいなかった。
 うーん、と考えて、迷いつつ春馬もリプを送った。性別には驚いたけれどコスプレは似合ってる、と書き込んで送信する。
 もう一度ネオのコスプレ写真を見直してみる。綺麗に化粧された顔は凛とした顔立ちで、言われてみれば男性的というか中性的かもしれない。体格は女性にしてはがっしりしているが、男性だと思ってみると細身でしなやかだ。
「……やっぱ、好きだなぁ」
 二次元キャラをしっかり表現している彼の姿を見つめていると、彼が男性だということに残念な気持ちが僅かもないとは言えないが、アンチコメントを送っているような人々の気持ちには至れない。
 他の写真も見返しているとスマホの上部にポップアップメッセージが表示された。ネオが先程のリプにいいねしたという通知だった。
 少しは元気を出してもらえるといいな、と思っていた春馬は数秒後、再び表示されたポップアップメッセージに驚くことになる。
『@*neo*cos*からDMにメッセージが届きました』
 表示されたアカウントはネオのものだった。えっ、と驚きつつ、画面下のレターアイコンを見ると確かに通知バッジが付いている。
『リプありがとうございます。結構叩かれてるから嬉しかったです』
 DMを開き、表示された短い文面に春馬の指は返信していた。
 男性だとわからないくらい、コスプレはよく似合ってること。アンチコメなんて気にしてほしくないこと。後は何かと考えて、頭に浮かんだのは初めて彼を見た、あの瞬間のことだった。
『俺はリカのことが大好きだったから、ネオさんのコスプレを見た時、リカのことが好きなんだなって衣装の再現や表情から伝わってきました。他のコスプレも、知らないキャラのものでもかっこよかったり可愛かったり、どれもそのキャラの良さが伝わってきます』
 長々とメッセージを書き上げながら気付いたことは単純明快、シンプルなたった一言だ。
『俺は貴方のファンです』
 熱量の空回りしている気のするメッセージを送信して何だか恥ずかしくなるが、彼にわかってほしかった。彼の活動を応援する人だって残っていることを。フォロワー全ての心が離れたわけではないのだと。
 失望の声で殴り付けてくる人々に負けず、彼のやりたいことを続けてほしい。
『ありがとうございます』
 少し時間を置いて送られてきた返事は短い。客観的に考えたら同性と思われる相手から送られてきたメッセージとしては気味が悪かったかもしれない。慣れないことなんてするものではないと自戒するが、そもそもDMを送ることなんてもうないだろう。
「ブロックされなかったらいいや」
 呟いて、ツイッターを閉じる。
 彼を知ってまだ一月だが、活動初日からフォローし始めた春馬は彼のことがすっかり好きになっていた。
 彼のコスプレが好きで、応援していたい。この時は純粋に、ただそれだけだった。

 ネオとのDMから数日後、普段は静かなツイッターからの通知が届いていた。ネオからまたDMが送られており、何かあったのだろうかとアプリを開く。
 メッセージの内容は先日のやり取りの礼から始まった。アンチコメントに気を病んでいた所に、春馬のコメントは励みになったと書かれている。嬉しかった。
『自分もリカが好きで、好きすぎてリカになろうと思ってコスプレを始めたのでぬーさんのメッセージはとても嬉しかったです』
 ぬーというのは春馬のアカウント名である。送信を後悔したメッセージだったが、ネオは好意的に受け取ってくれたらしい。安堵の息をつきながら、春馬はネオがコスプレを始めた理由を知れて嬉しかった。
 スターライトの復刻版ブルーレイの話を振ってみるとネオも購入したらしい。ずっと心待ちにしていて、届いたその日に一気見したらしい。
 何話のあのシーンがいいとかこのシーンの表現が好きだとか、スターライトの話が続いた。春馬はネオに親近感を抱き、ゲームだったなら好感度が上がっているのが可視化されただろう。
 けれど春馬が生きているのは現実で、SNS上では気軽にやり取りが出来るし、気軽に断ち切られもする。心の距離が縮まったように思えても、結局は見知らぬ他人でしかない。
 それがわからない程、春馬は愚鈍にも身勝手にも、物知らずにもなれなかった。


***


 ネオは変わらずにコスプレイヤーとしての活動を続けた。変わったのはプロフィールと固定ツイートに女装コスプレをしている男性であることを明記するようになった程度だ。
 春馬も変わらずに彼をフォローし続け、日常ツイートにいいねしたり、コスプレ写真は毎回リツイートといいねをする。たまにリプするとネオから少し砕けた口調で礼を言ってもらえるようになり、時にはDMでもっと話題の深掘りをされた。
 カミングアウト時は減少したフォロワーも、二年が経つと桁が増えていた。春馬のように彼の性別を気にしないファンもいれば、女装だからこそいいと思うファンや、ネオのコスプレ技術を単純に称賛するファンもいる。だが、彼のフォロワー増加に大きく貢献したのはネットニュースだろう。
 ネオの活動開始から半年が経った頃、彼はアニメ系の話題を取り扱うニュースサイトから取材を受けたらしく『美しすぎる女装コスプレイヤー』として記事になった。
 記事を読むとツイッター上で公開しているネオのコスプレ写真を添えた活動の紹介から始まり、ネオがコスプレを始めた理由が書かれていた。春馬に教えてくれた通り、スターライトのリカに好意を抱き、憧れ、彼女になりたくて女装を始めたのだと書かれていた。
『アニメやゲームの可愛らしい女の子達に変身した自分を、似合っていると言ってくれる人達がいる。それが何より嬉しくて楽しいです』
 記事の最後に締め括られたネオの言葉を見て、春馬も嬉しかった。けれど寂しかった。そう気付いて首を傾げる。何も寂しいことなどないだろうに。
 小さなネットニュースは想像以上に拡散され、ネオは多くの人の目に留まった。ニュースを見た全ての人がネオに好感を抱いたわけではないが、コスプレイヤー界隈で知名度のある人の目に入ったのは大きかったのだろう。ネオはコスプレイヤー界隈で『併せ』と呼ばれる、他者とのコラボレーションを行うようになっていった。
 ネオが併せを行う相手はかなり限定されているというか、ほとんど一人しかいない。その相手はルルギという男性コスプレイヤーで、ルルギがコスプレするのは男性キャラクターのみになる。
 初めて二人の併せを見たのは『スターライト』のコスプレだった。主人公であるリカに扮したネオの隣に、リカと協力して旅をして、彼女と絆を深めていくヒーロー役のアオトがいた。
「……」
 二人とも背丈が同じくらいで、一人で撮っている時には誤魔化せていたネオの体格の良さが見えてしまっているが、顔立ちの美しさはどちらも引けを取らない。目を何度も瞬かせてスマホに映る写真を見つめた春馬は『お似合いだ』という心の声を聞いた。
 投稿された併せ写真は複数枚あり、並び立つ二人も肩を抱き合って笑う二人も見つめ合う二人も、どれもリカとアオトそのものに見えた。
 それがとても楽しげで、綺麗で、寂しかった。

 ルルギとネオの併せにもリツイートといいねをして、リプや引用ではなくリツイート宛てとわかるようなツイートをする。すごく似合ってる、と一言だけだと味気ないので笑顔の絵文字も付けた。
 それ以上ツイッターを触る気分になれず、ホーム画面に戻ると最近始めたソシャゲを起動する。出先ではミュート状態でプレイしているが、今は自宅なので音量を上げるとヒロイン役の声優が運営会社名を読み上げた。
 暗転後、ヒロインをメインに登場キャラが集結したタイトル画面が表示され、ゲームタイトルが読み上げられる。今時のソシャゲらしく露出度の高い衣装に可愛い容姿の女性キャラばかりが登場し、春馬もゲームを気に入っているのに今日は何だか気分が乗らない。
 デイリーミッションだけでもこなしてしまおうと無言でタップを続ける。最初は楽しさや新鮮味を感じるゲームシステムも、続ければ作業になっていく。
 デイリーミッションを終え、報酬の受け取りをしているとスマホが軽快な音を立てた。ゲームの効果音とは違うそれは、ツイッターからの通知をポップアップと共に報せている。
「……」
 通知内容はネオからのDMだった。彼との交流はファンが増加し、二年経った今でも続いている。
 春馬から声を掛けるなんて恐れ多くて出来ないが、ネオは週に数回他愛のない話題を振ってくれる。アニメやコスプレ以外の話題も多く、聞き上手なネオによって春馬が大学四年生なことも、どの県に住んでいるのかも、大まかな私生活を知られている。その際にネオは春馬より一つ年上の社会人で、仕事はフリーランスなことや、同じ県に引っ越す予定があることを教えてくれた。
 DMという秘匿性の高いツールで互いの情報を教え合っているという状況は、春馬に特別意識を植え付ける。ネオにとって春馬はただのファンではなく、友達と認識されているのではないかと思ってしまう。そんな春馬を現実に引き戻してくれるのは、春馬とネオを結び付けるツイッターだった。
 いつだったかタイムラインに流れてきたYouTuberやVTuber達に入れ込み、勘違いするファンをまとめた記事を見つけ、何となく目を通すとYouTuber達のファンサービスについて書かれていた。
 身近に感じ応援してもらう為にDMを解放してファンとやり取りしたり、投げ銭をすれば配信中に名指しでリアクションをしたり。何気なく思える交流は全て、活動基盤を整え発展させる為のビジネスサービスなのだが、好きな相手から反応を貰えると頭のネジが壊れて距離感がわからなくなってしまう人もいる。
 自分に良くしてくれるのは自分のことが好きだから。時間や金銭を投げ払っているという対価を忘れ、勝手に思い込んで燃え上がる。相手にとって自分は特別なのだと。
 淡々と綴られた記事を読んで、春馬は我が身を振り返った。
 ネオは写真の発売や配信などの営利目的の活動は行っていない。作品への愛好からツイッター上にコスプレを投稿し、同志であるファンと交流している程度だ。
 ネオをただ性的に捉えているだけでは相手にされないが、同じ作品を愛していたりネオを純粋に美しいと感じている相手には言葉を返してくれる。
 ネオがリプライに返事をくれるのは春馬だけではないのだ。恐らく他のファンとも気軽にDMを送り合っているのだろう。
 自分でも馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのに嫉妬する。ネオが目を向けるのが自分だけではないことも。ネオに見つめられ、言葉を掛けてもらえる有象無象の輩にも。
 ネオの唯一至上のファンでありたい。そんな、醜い思考と感情に囚われる自分が何よりも嫌だった。
 ネオから離れることも考えたが踏ん切りがつかない。ネオを見ない為にツイッターに触れずにいる時に限ってDMが送られてきては、今流行っている漫画の話で盛り上がるのだ。
 ネオとDMで話をしている時はいい。醜い嫉妬は姿を隠し、彼とのやり取りを楽しむ。彼の返信が遅いと返答に困る内容だったのかと悩み、もしかしたら他の相手ともDMをしているのではないかと疑う。ようやく届いた返答に手洗いや家事を済ませていたと綴り謝られれば心の底から安堵した。
 嫌だった。
 ネオの特別ではないことも。特別になりたいと分不相応な願いを抱くことも。彼を初めて見た時のように素朴で純粋な応援が出来ない自分も。
 思考の渦に飲まれていた春馬は、頭を振り払いツイッターの通知を見る。メールマークの通知バッジはDMの報せで、春馬にDMを送るような相手は限られている。
『ぬーさん、良かったらオフ会しない?』
 唐突な誘いは気安い。何でもないただのファンには親近感が生まれ、距離感の認識を誤らせる。これくらいがいいのだ。
 ネオとの交流が始まった頃、彼は事務的な対応だった。趣味や好きなものの話をするようになり、共有する情報が増えると口調が柔らかくなっていく。彼に気を許された自分はただのファンではないと自惚れられる。
『行きたいけど色々忙しくて。参加できそうにないです』
 謝罪の言葉もプラスして、春馬はオフ会の誘いを断った。唇を噛む。本当は参加したかった。ネオに直接会って話をしてみたい。きっと春馬はネオがどんな人間であっても、失望することはないだろう。
 だからこそ会えなかった。会ってしまえば箍が外れ、醜い嫉妬と独占欲に支配され、彼に何を言うかわかったものではない。
 何より、ネット上ではなく目の前で――現実世界でファンに囲まれ、彼らに言葉を掛けるネオを見て、春馬の心が耐えられるとも思えなかった。想像するだけでも腸が煮え繰り返る。
 DMの返事はすぐに来た。残念だと嘆き、いつ頃なら予定が空けられそうかと尋ねられるが、春馬はまだわからないと嘘をついた。
 大学生らしく朝から晩まで講義とゼミが入っているが、就職活動は終わらせているので焦りはない。休日はほどほどにバイトを入れ、空いた時間はゲームや漫画に費やす。ネオのオフ会に行きたければ調整は容易だ。
 けれど春馬は行かなかった。大学を卒業するまで。就職し働き始めても。私生活が忙しい、落ち着かない、空いている日は既に予定が入っている。そう言って逃げ続けた。


 オフに参加する気がないのだろうと見限られそうなものだが、ネオは根気強く春馬を誘い続けてくれた。日頃の会話にもトゲのようなものはない。それを彼の優しさと捉えるか、営業の才能と見るか、はたまた春馬にそこまで関心がないのか。鬱々とした心は悪い方向に舵を取る。
 先の見えない暗礁を進み続けた結果、春馬は決心した。憤り、嘆き悲しみ、狂いそうになりながらも狂人にはなりきれない中途半端な春馬は、船を降りることにした。船旅をしなければ座礁や沈没を恐れることはなくなる。
 ネオを知り、応援し始めてから三年。彼へ歪んだ恋愛感情を抱いたのはいつだったのか。思い出が走馬灯のように脳内を駆け回っていく。
 叶うのなら彼を知ったばかりの春馬のまま、彼を見続けていたかった。あの頃の春馬に戻れないとわかっているから、せめて最後は彼にとって善きファンでありたい。


 ネオを知るきっかけとなったアニメ、スターライトは三年前の復刻版ブルーレイ発売を機に、近年のレトロブームも相俟って再注目されるようになった。
 当時のファンが懐かしみ、思い出を語るツイートが何度かバズり、新規の目に留まり興味を持たれる。ブルーレイ発売からしばらくすると動画サイトのサブスクリプションプランに追加され、感想が増えていった。
 話題になっているうちに製作元がコラボグッズの発売を発表し始め、ヒロインの持ち物をアレンジした文具や人気の高いキャラクター達のアクリルキーホルダーなどがタイムラインに流れていく。
 売上がいいのか数ヵ月に一度のペースでスターライトのグッズが発表されていき、春馬もリカとアオトのフィギュアを買った。他にも気になるものがあったら買おうと思っていた春馬の目にそれが飛び込んできたのは、社会人として働き始めて一年が経とうとしている時だった。
 スターライトは復刻版ブルーレイの発表時にツイッターアカウントも作られていた。投稿はグッズの発表だけのストイックなアカウントを春馬もネオもフォローしている。
『スターライトファン必見! アオトからリカに贈られた約束の指輪が再現されました! 詳細は購入サイトをご覧下さい』
 コメントと共に添付されているのは白金色に輝く、紅い石のはめ込まれた指輪だ。投稿の言葉通り、アニメの終盤でアオトから贈られた指輪が細かく再現されている。
 購入サイトを見てみるとファッションに疎い春馬でも名前を知っているジュエリーメーカーとのコラボレーショングッズで、石は小さいながらも本物のルビーが使われている。販売数はかなり絞られ、購入には抽選を行い、価格も通常のアニメグッズと桁が違う。
 コラボリングの発表の数時間後、ネオは購入申請をしたとツイートしていた。抽選結果は半月後に発表され、商品の発送はさらに半月後を予定されている。結果を待っていたネオは半月後、コラボリングの抽選に外れたとツイートしていた。
 ネオにむけて慰めのリプが付き始めている。以前の春馬なら彼らに混じって短いリプを飛ばしていたが、今はすっかり使い慣れたメールアイコンをタップした。
 『こんばんは。コラボリング残念でしたね』
 春馬からネオに自発的にDMを送ったのは、彼の応援を始めた三年目にして初めてのことだった。時間に合った挨拶を文頭に、ネオが先程ツイートしていた内容に触れる。しばらく他のツイートを見ていると、スマホ画面上部にポップアップメッセージが出てきた。DMに戻るとネオからの返信が届いている。
『ほんとに残念……コラボリング着けてリカコスしたかったのにー』
『見たかったなぁ。あの、ネオさんに聞きたいことがあって』
『なーに?』
『来月以降にオフ会の予定ってありますか?』
 リズミカルに進んでいたメッセージのやり取りが、オフ会の話を振ると急に止まってしまった。返信の早いネオらしくなく、何かあったのだろうか。たっぷり五分程待ってから、ネオは『あるよ』と返事をしてくれた。
『どの辺りの予定ですか?』
『月だけであんまり詳しくは決めてないから。都合のいい日が決まってるなら先に教えてくれる?』
 だったら、と考えて春馬は来月末の土日を希望した。ネオは了承し、日取りが決まったらまた連絡が貰えることになった。
『ぬーさん全然オフ会来てくれないからすげー嬉しい』
 文面だけでも彼の喜びが伝わってくる。自分はそれ程彼にとって大切なファンになれたのだろうかと喜び自惚れる心を、社交辞令でしかないだろうと冷めた声が戒めた。
『俺も楽しみです』
 返した言葉に嘘はなかった。どんな光景を目にするとしても、彼に会えるのは本当に、心から楽しみだった。

 オフ会の日取りはすぐに決まり、春馬にはDMで伝えられた。オフ会告知のツイートなどはなく、思い返してみればネオからオフ会に誘われることは何度もあったがそれは全てDMからで、ネオは全体的に掲示出来るツイートではオフ会に触れたことがなかった。
(参加者を厳選してるのか)
 三年間の活動で増えたのはファンだけではなく、アンチも増えた。女装レイヤーを毛嫌いして嫌がらせをしてくる者や、ネオが交流を持つルルギのファンが敵意を剥き出しにしてきたりする。誰でも参加出来るオフ会を開いたらアンチも参加し、危害を加えてくるかもしれない。
 善良なファンであるように、そう見られるように振る舞ってきた春馬はオフ会に参加を許される程度の信頼は勝ち得ていたのだろう。良かったじゃないかと自分を励ます。
 タイムラインを眺めていると数時間前に投稿されたネオのコスプレ写真が目に入る。流行りのソシャゲのヒロインの姿で微笑む彼は相変わらず美しい。
 性別を越えて人々を魅了する彼は手の届く筈のない人なのだと、彼を見る度に思い知る。以前はそれでも彼の目に留まり続けたいと身勝手に抱いていた願望は、決意と共に諦めがついた。完全に消えてなくなったわけではないけれど、暴れ出しそうな歪んだ情熱は抑え込まれている。
 美しい彼を、いつもの春馬ならリツイートといいねで応援した。今の春馬はそうせず、静かにスクロールを続ける。
 どうせ何も変わらない。リツイートといいねが一つなくなった程度のこと、気付かれる筈もないのだ。
 春馬は少しずつ変化し、進み始めていった。


***


 オフ会は春馬の住む県で開かれることになった。以前、ネオが偶然にも同じ県に引っ越す予定があると聞いていたが、無事に引っ越しが完了したらしい。
 交通機関の集中するターミナル駅が待ち合わせの場所となり、駅へ向かう電車内で考えるのはネオのことばかりだった。彼を知って彼を見続けてきた三年間を思い返しているうちに、降車駅へ着いてしまう。
 十一時に駅前で待ち合わせている。腕時計を確認すると十五分前だった。改札を出て、邪魔にならない場所で待っていようと彷徨わせた春馬の視線は、動物を模したモニュメント前に立つ人物に釘付けになった。
 落ち着いた色合いのシャツとスラックスにジャケット、ラフカジュアルな姿の美青年がスマホを見つめて立っている。化粧もウィッグもないが、彼がネオだと一目でわかった。
 近付いていく春馬の気配に気が付いたのか、ネオは手元のスマホから顔を上げて春馬を見た。途端に瞬きが一度、そして表情に笑みが差す。
「ぬーさん」
「え?」
 形の良い唇から出された、少し低めの声が春馬を呼ぶ。一目で当てられて、春馬は驚いた。春馬はネオに顔を見せたことはなく、全くの初対面である。何故自分がぬーだとわかるのだろうか。
 疑問を言葉にするとネオは「俺に近付いてくる男はぬーさんしかいないから」と笑って答えた。まだ意味のわからない春馬に、ネオはもっとわかりやすく教える。
「オフ会、ぬーさんと俺だけだもん」
「……えっ」
 再び驚く春馬に、ネオは悪戯の成功した子供のような笑顔を浮かべた。
「何処か店入ろう。ぬーさん何食べたい?」
 自然な動作で肩を叩かれ、歩き出すネオの後を追い掛ける。ターミナル駅の周囲には飲食店が数多く建ち並び、二人が入ったのは海鮮をメインとした居酒屋だった。
 半個室の座敷へ通され、机を挟んで向かい合うと春馬は視線を泳がせた。憧れ続けた人を目の前に、一対一で話をする心の準備なんて全く出来ていない。
「ぬーさん何にする? 酒飲む?」
「いや、昼間からは……えぇと、海鮮焼きそば……美味そうだな……」
 ネオが開いてくれたメニュー表には商品の写真も掲載されており、海老や帆立、イカのトッピングされた焼きそばに目を奪われた。
「それにする? あと唐揚げとか適当に頼もうか」
「はい」
 ネオがさくさくと決めているうちに水とおしぼりを持った店員がやって来る。そのまま注文を済ませると、再び二人だけになってしまった。
「ぬーさ……うーん。ぬーさん、本名聞いたりしても大丈夫? 可愛いネットネームだけど現実で呼ぶのはちょっと変かも。俺もネオって呼ばれるよりは千秋って呼んでほしいな」
「え? ええ。俺は吉海です」
「吉海って名字? 名前は?」
「……春馬です」
「春馬さん。春馬くん。うん、春馬くんだな」
 ネオの声で何度も呼ばれると、何だか自分の名前ではない気がしてしまう。奇妙な擽ったさを覚えていると千秋は新たな話題を振ってくれた。スターライトの話だった。
 スターライトについてはDMで何度も語り合ったことはあるが、実際に対面して、相手の顔を見ながら好きなことを話す時間はとても楽しかった。会話を続けながらの食事は美味で、気付けば随分と長居をしてしまっていたようで、何となく目に入った腕時計を見て春馬は驚いてしまった。
「えっ。もうそんな時間……ほんとだぁ」
 千秋もスマホで時間を見たらしく、春馬と同じように驚いている。机の隅に置かれた伝票を春馬が取ると、千秋の長い指が奪い取っていった。
「主催が払うものだから」
「でも、オフ会参加したいって言い出したのはこっちですよ。自分の分くらい払います」
「春馬くんに会えて本当に嬉しかったから払わせて。ね」
 春馬の大好きな顔で微笑み、頼み込むような台詞を吐かれれば頷くしかない。
 席を立ち、会計を済ませて外に出ると千秋はこの後も何処かへ行かないか誘ってくれた。二つ返事で頷きたい所だが、理性の勝った春馬は頭を振って断る。
「この後は予定があるので」
「……そう。残念だな。帰るなら駅まで見送るよ」
 隣に並び歩く千秋は春馬より拳一つ分背が高い。初めて聞いた声は想像より低いが、明るく爽やかな彼にはよく合っているように思える。彼の素顔は化粧が施されていなくとも、彫刻芸術のように美しい。
 ツイッターに投稿された写真だけではわからないことが、今日の数時間でたくさん見聞き出来た。
「千秋さん」
 教えられた彼の名前を、初めは緊張して口に出せなかった。口ごもる春馬の心境も知らず「千秋って呼んでね」「千秋」「千秋って呼ばないと返事しないから」と言い聞かせてきた千秋のおかげで、別れ際に名前を呼ぶ声は改札前の雑踏の中でもはっきりと聞こえた。
「うん? やっぱもう少しどっか行く?」
「いえ。今日はこれ渡したかったんです」
 春馬が肩掛け鞄の中から取り出したのは茶色い無地の紙袋だった。掌に収まるほどの大きさで軽いそれを千秋に手渡し、早速中身を確認しようとする彼を制止する。
「家に帰ってから見てほしくて」
「わかったよ。ありがとう春馬くん」
 春馬が改札を通ると千秋に呼び止められ「ありがとう、またね」と手を振ってくれる。それに春馬を手を振って返し、聞こえるかわからない声量で告げた。
「さようなら、ネオさん」
 名残惜しい気持ちを抑えながら、春馬は千秋に背を向け歩き出した。
 人の少ないホームでしばらく待っていると電車が到着し、座席に座れた春馬はスマホを取り出すとツイッターを開いた。タイムラインにはネオのツイートが並び、それはオフ会とは書かれていないが誰かと会っていること、それがとても楽しいことを感じさせる投稿だった。添えられた料理の写真と投稿時間を見ると、居酒屋で過ごしている合間に投稿していたのだろう。
 タイムラインに新たなツイートが通知され、更新すると数秒前にネオが新しいツイートをしていた。
『プレゼント貰っちゃった! はやく帰ろ!』
 たったそれだけの言葉で、春馬は報われた気がした。きっと中を見たネオは驚くだろうが、喜んでくれる筈だ。
 春馬の指はツイッターの設定画面を開く。項目を選ぶ指に迷いはなく、画面には確認ダイアログが表示された。
『アカウントを削除しますか?』
 春馬の指が止まる。いつから使い始めたか覚えていない程、春馬の暮らしが詰め込まれていたアカウントだった。
 ツイッターを通じて知り合った人もいたし、ゲーム系のイベントに参加したりもした。思い出深いアカウントだが、残しておけば未練になる。
 ダイアログに表示された『削除する』をタップする。それだけで『ぬー』のアカウントは消え去り、春馬はそのままツイッターアプリもアンインストールした。
 ツイッターアカウントが突然削除されるなんて、広いインターネットの海の中では毎日何処かで起きていることで、何も珍しくはない。交流のあった人は驚くだろうが、何かあったのだろうと推察して流していく。
 信仰が一つ消えた程度で、神は何も変わらない。それを嫌だと思う自分が嫌だった。


***


 長年使用していたツイッターアカウントを削除した春馬の日々は平淡で彩りのないものに変わっていった。削除する前はツイッター断ちが続かずに転生アカウントを作るものだろうと思っていたが、そんな気も起きない。
 だらだらと続けていたソシャゲはログインを忘れる日が増え、暇な時間はポータルサイトのニュース一覧を眺めて終わる。仕事以外の時間が酷く無為なものに思えて、これではいけないと危機感を持つ。何か趣味でも作らなければと考えて浮かぶのは、社会人になってからすっかり離れていた家庭用ゲームだった。
(今は昔のゲームがアーカイブでプレイ出来るんだったな)
 業界のトップに君臨するゲーム会社の開発した、携帯型としても操作可能なゲームハードではオンライン会員に入ると過去ハードのゲームがプレイ出来る。子供の頃に夢中になって遊んだ作品がすっかりレトロゲームの括りに入れられていることに時間の流れを感じながら、プレイ可能なラインナップをスマホで調べて眺めていると、遊びたくてたまらなくなってくる。
 今日の仕事終わりに買って帰ろうと決める。何か目を向けていられるものを作ってしまいたかった。


 思い付きから行動に出た春馬は、会社帰りに寄った家電量販店でゲームハードとプリペイドカードを買った。明日は土曜日で休日出勤とは縁遠い会社で働いている為、ゲームを楽しむ時間は充分ある。アーカイブのラインナップを思い浮かべて何から遊ぼうかと考えながら帰路を進み、部屋を借りているマンションが見えてきた所で春馬の足が止まった。
 空はすっかり夕闇に染まり、街灯がなければ先が見えないが、マンションは植え込みに設けられたライトやエントランスの照明により明るさを保持されている。
 エントランスの扉は二重になっており、常に解放されている大きな両開きの扉の先には施錠された自動ドアが待っている。出入りを許された者しか中に入れないので、彼はそこで待っていた。
「なんで」
 ぽそりと呟かれた声は小さかったのに、彼にはきちんと届いたらしい。植え込みの段差に腰掛けていた千秋は長い足を伸ばして立ち上がると、春馬の元へ歩み寄ってきた。
「個人情報、バラまきすぎだと思うよ」
 ニコッと微笑む彼の顔は相変わらず綺麗で、現状の異常さを忘れさせてしまう。
「何買ったの?」
 当然のように肩を抱かれる。力強い腕は春馬の逃亡を許そうとしない。量販店の紙袋に入ったゲーム機の箱を見て、千秋は納得したようだ。
「春馬くん、ゲーム好きだもんね。俺のオフ会には来ないくせに、ゲーム配信者のオフには参加してたよね」
「え?」
 心当たりのある春馬は驚き、千秋を見る。表情を消した彼に促されるまま春馬はマンションの中へ入り、自動ドアを解錠する。ロビーに設けられたエレベーターに乗り込むと、習慣から手が勝手に動いて自室のある三階のボタンを押していた。
「ツイッターにさ」
 春馬の肩に千秋が顎を乗せる。至近距離から囁かれ、恐怖を覚えるべき場面なのに春馬の心は高揚していた。
「最寄駅の近くに何があるとか。散歩した公園で桜が綺麗に咲いてたとか。写真もほいほい上げたりしたらダメだよ。もうアカウントなくなっちゃったけど」
 言われてもすぐに思い付かなかった。エレベーターが止まり、扉が開いてから「……高校の頃の」と思い出して声にする。共用廊下を進み、部屋の扉の鍵を回しながら思い出を語る。
 春馬はツイッターを三年以上前から使い始めており、その頃は今程ネットリテラシーに詳しくもうるさくもなかったので何気ない日常を平然と晒していた気がする。
 ゲーム配信者のオフ会は大学に入りたての頃に参加した。レトロゲームを扱っている実況者で、昔プレイしたゲームを取り扱われてから見るようになった人だった。配信者のツイッターをフォローし、動画でコメントを残して応援していたら名前を覚えてもらえ、オフ会に誘われたのだ。
 動画の性質上、オフ会参加者の年齢は高めだったが配信者は二十代後半の普通の人だった。皆でゲームの話をして盛り上がった、楽しいオフ会だったと記憶している。
「ふーん」
 当時を懐かしみ、素直に話す春馬に千秋は気のない相槌を打ち、後ろ手に部屋の鍵を閉めた。声質よりも表情の方が感情を物語るが、春馬には見えなかった。
「春馬くんは俺よりその配信者の方が好きなんだ」
「はぁ?!」
 ふてくされた子供のような言葉に、春馬は眉を吊り上げる。諦めて捨てようとした信仰であっても。それがたとえ信心を捧げた本人であっても。決して貶されてはならないものだった。
 肩に乗った顔を押し退け、その端正な顔と向き合う。少し驚いた表情の千秋に、春馬は眉尻を上げたまま怒鳴った。
「そんなわけないだろ!」
 ツイッター上でのやり取りを重ねるうちに千秋は親しげに砕けた言葉を投げるようになった。一方、春馬は自惚れない為の自制から礼節を守り、距離を取っていた。暴言なんてもっての他、ありえないことだ。
「俺がどれだけ貴方を好きかも知らないくせにっ……!」
「……オフに誘ってもなしのつぶて。雑談したくてDM送ってもすぐに切り上げて逃げてくじゃないか」
「そんなの当たり前でしょう!」
「何でだよ!」
 神に人の心はわからない。それも嫉妬に狂った背信者の考えなど、彼が知る筈もない。唇を噛む春馬は惨めな心を素直に吐露した。
「貴方に近付いて、自惚れて……勘違いしたくなかった。貴方にとっては数いるファンの一人でしかないのに、俺は……俺には貴方しかいないのに……」
 それ以上言葉にならず、俯く。千秋の顔を見ていられなかった。
「ルルギさんとの併せ写真なんて見たくない。他のファンにお礼を言ってるのすら嫌だ。でも、そんなふうに思う自分が一番醜くて嫌いだから……貴方から離れたんです」
 さらけ出すつもりのなかった本心を知れば、千秋も幻滅して帰ってくれるだろう。罵倒を覚悟していた春馬の手が、温かいものに包まれる。ほっそりとしているのに力強いそれは、千秋の手だった。
「春馬くん」
 ゆっくりとした動きで、春馬の手が持ち上げられていく。顔を上げると、左手の薬指に赤い石の輝く指輪が見えた。
「あ」
「……うん。オフ会でくれたよね。コラボリング。キャンセル分の再抽選も、俺は当たらなかったよ」
 最初で最後だと決めて参加したオフ会の別れ際、春馬が渡した紙袋の中身だった。
 コラボリング発売のツイートを見てすぐに春馬も購入申請したのだが、当選するとは思っていなかった。その後千秋の落選ツイートを見て、彼に渡そうと思い付いたのだ――が、申請情報の必須項目であった指輪のサイズは、いつかツイッターで披露していた千秋のサイズを入力していた。初めから無意識に、そのつもりだったのかもしれない。
 ツイッターを辞める決心をしていた春馬が目にすることはないだろうが、指輪を着けた彼がリカのコスプレをして喜んでくれたらそれでいい。最後の献身のつもりだった。
 指輪に奪われていた目を千秋に向ける。彼の表情に侮蔑はなく、恍惚としていた。
「家でプレゼント確認して、嬉しくて、ツイッター開いたあの日の俺の気持ちがわかるか?」
 語気と表情が合っていない。言葉からは明確な苛立ちが感じ取れるのに、千秋はうっとりと春馬を見つめてくる。
「え……」
 神の心など信者にわかる筈がない。狼狽える春馬から目を離さず、千秋は言葉を続けた。
「嬉しかった。嬉しくて仕方なくて今すぐもう一度会いたかった。何て言えばきみは会ってくれるか考えながらツイッター開いて……愕然としたよ。消えてるんだから」
 だから会いに来たのだと語る男に、普通なら恐怖を抱かなければならない。けれど春馬の顔に恐れはなかった。むしろ高揚していた。まるで。
 春馬を包み込んでいた手が離れるが、すぐに包まれる。今度は春馬の体を、千秋の両腕が抱き締めた。肩口から顔を出す春馬の顔は繕いを要とせず、紅潮する。
「春馬くん」
 千秋の声が聞こえる。耳に触れるような近さは、ただの囲いを越えていた。
 そろそろと、春馬の腕が動く。自分を抱き込む男の体へ触れ、その背へ回し抱き返
す。
 言葉は要らなかった。互いの心なんてわからない筈なのに、千秋は春馬の受容を察し、春馬は千秋を受け入れた。
「好きだよ。ずっと。ずっと前から。会いたかった」
 自分もだと頷かずとも、千秋は春馬の心を汲むように体を離し、穏やかな顔が近付いてくる。そうなることが当然のように唇が重なり、春馬の思考は彼で埋め尽くされる。
 彼はやはり神様なのだろう。


***


 初めて彼を、ネオを見た時。疑問の欠片も抱かずに彼を女性コスプレイヤーだと思った。
 少年期から心に残り続けるヒロインの姿を披露したネオに対し、純粋な賛美を贈り好意を持った。異性だからという理由ではなく、リカのコスプレをしてくれた美しいコスプレイヤーを好きになったのだ。
 男性だとわかっても好意は消えなかった。女装技術の高さに関心し、彼の活動を追っていくうちにもっと好きになっていく。
 男だから、女だから、という枠組みを彼だけは越えてしまった。春馬は元々女性が好きで、今も千秋以外の男性を見ても何も思わない。彼だけが特別なのだ。
 家を特定された手段もわからず、待ち伏せされて室内に上がり込まれ、抱き締められて好意の言葉と 吉海春馬(よしうみ はるま)は商社で働く会社員である。染めたことのない髪は理髪店で小まめに切り揃え、奥二重の目は学生時代に視力を落として以来眼鏡を手離せない。特別整っても崩れてもいない顔立ち、日本人男性の平均身長そのままの背格好は、人混みに入ると保護色のように溶け込み、判別が鈍る。
 今や日本の文化となった漫画やアニメ、ゲームを趣味としているが、社会人になって一年が過ぎると私生活が忙しくなり、なかなか趣味に割ける時間がない。
 家庭用ゲーム機やパソコンを起動させるより、手軽なソーシャルゲームをプレイするようになり。漫画は紙から電子に移行し。アニメもリアルタイムで見れずとも動画配信サービスで視聴する。これら全てが手元のスマホで完結してしまう。
 利便性から依存が高まり、現代人の必需品となったスマホには人々を繋ぎ合わせるコミュニティがある。
 ソーシャル・ネットワーキング・サービス。SNSである。
 SNSにも様々なプラットホームがあるが、春馬が主に活用しているのはツイッターという短文やイラストを投稿し、リプライと呼ばれる返信を送ったり、他者へ共有するリツイート、投稿を気に入ったことを伝えるいいね機能などがあるシンプルな交流サイトだ。一般人から芸能人まで幅広い人が世代を越えて利用している。
 春馬はスマホを持ち始めた高校生の頃からツイッターを利用し始め、そのおかげでインターネットの利便性は勿論、危険性も充分学べた。似たような趣味の人々と繋がり、日々のニュースはツイッターで知り、毎日が過ぎていく。睡眠と仕事以外の時間のほとんどを注ぎ込まれるツイッターには春馬の情報が、人生の多くが詰まっている。
「……あ。投稿されてる」
 スマホの画面にはタイムラインが表示されている。ゲーム関連のツイートが多い中、一際目を引く画像があった。ピンク色のツインテールに青い瞳、フリルのあしらわれた改造制服姿のよく似合う、アニメキャラの格好をした女性がカメラ目線で微笑む実写の画像――コスプレ写真だった。
 キャラクターは最近流行りのソシャゲに出てくるヒロインで、彼女のコスプレ写真がタイムラインによく流れてくるが、今表示されているコスプレイヤーが一番綺麗だと春馬は思った。フィルターが掛かっているのは自覚しているが、それでも『彼』が一番だ。 
 画面越しに微笑むヒロイン――の格好をしたコスプレイヤーは男性である。性別を超越した美しさを補う化粧は手慣れているが、しっかり見てみれば節々に男らしさの垣間見える絞られた体つきをしていた。
 ツイートの下側には様々な機能マークがある。リプ、リツイート、いいね。春馬は彼を知ってから、毎回欠かさずリツイートといいねを押してきた。今日も勝手に指が動きそうになるのを、遠慮がちな理性が止める。
「……」
 春馬が彼を知ったのは三年前になる。春馬と同世代の彼は大学生の頃にコスプレを始めて、ツイッターのアカウントを作成した。春馬はその初投稿からずっと、彼のファンだった。
「……」
 指が動く。他のツイートを見るべく画面を下へスライドさせていく指は、彼のツイートに反応を示さなかった。


***


 三年前、当時の春馬は大学二年生で、講義とバイトとゼミでスケジュールがほぼ埋まっている平凡な大学生活を送っていた。
 この頃から既にツイッターに依存しており、暇があるとツイッターを見ていた。数日前のタイムラインで、昔見ていた『スターライト』というファンタジーアニメの復刻版ブルーレイが発売決定したというニュースを見つけて、それ以来何となく暇があるとスターライトに関するツイートを検索していた。好きだったとかよく見ていたとか、ブルーレイ予約しましただとか。そういった一言が表示される中、検索結果を話題のツイートから最新のツイートへ切り換える。
「……え」
 画像が一枚表示された。長い黒髪を頭上で結い上げた、赤紫色の瞳の女性と目が合う。露出の抑えられた衣装を着た女性は、そのスターライトの主人公である少女・リカのコスプレをしていた。
『初コスプレです』
 短いコメントが添えられたコスプレ写真の投稿は数分前で、まだ誰の反応もない。春樹の指は気付くとリツイートしていいねを押し、さらにはリプライまで送っている。
『すごい! 本物のリカみたいですね』
 普段なら見ず知らずの、フォロワー外のアカウントに話し掛けることのない春馬だが、思わずそうリプしてから相手をフォローした。0だった数字が1に変わる。
 数時間後にリフォローされ、リプに対しても『ありがとうございます』と返信され、それにいいねだけ付けた春馬は嬉しくなった。
 コスプレイヤーはネオと名乗っていた。普段は何気ない日常をツイートし、週に何度かコスプレ写真を投稿する。誰のコスプレをしてもよく似合うのは、整った顔立ちの特権だろうか。春馬は毎回リツイートといいねをして、たまに応援リプを送った。面白いことや気のきいたことが書けないので似合ってるだの綺麗だの、そんなリプしか送れない春馬にネオは律儀にお礼の言葉を返してくれた。
 反応したら反応で返してくれる。交流においては当然のことなのだが、そんなことが嬉しかった。
 半年が経つとネオのフォロワーもかなり増え、コスプレへの反応も増えた。そうすると必然的におかしな人もやって来る。
『先日、このようなDMが送られてきました』
 短いツイートと共に、名前などは隠されたDMのスクリーンショットが添付される。タップして拡大した春馬は思わず顔を顰めた。
『ネオちゃんかわいいね。リカもアリサもよく似合ってるよ。ネオちゃん見てたら俺のこんなになっちゃった』
 絵文字を散りばめたメッセージの後に送り付けられた画像は、モザイク加工されているが勃起した男性器だとわかるものだった。傍観者であり男の春馬でも嫌悪感があるのだ、送り付けられた張本人のネオの不快はいかほどのものか。
 ツイートにはネオのリプが付き、ツリーになっていた。このDMに対して追記しているのだろうと見てみた春馬は、目を見開いて驚いた。
『ちなみにですが当方は男性です』
 ネオは女性ではなく、女装コスプレイヤーだった。

 ネオのカミングアウト後、彼のフォロワー数は目に見えて減少していた。男性だと宣言したツイートに対して『詐欺』『変態カマ野郎』『だと思った。女にしてはブスすぎる』『アリサちゃんを汚すな』と心ないリプを送っていく者もいた。
 春馬も驚きはしたが、騙されたとは思わなかった。そもそもネオのプロフィールには年齢とコスプレイヤーであることしか書かれておらず、女性を名乗っていない。彼のコスプレを見て女性だと思い、疑ってすらいなかった。
 うーん、と考えて、迷いつつ春馬もリプを送った。性別には驚いたけれどコスプレは似合ってる、と書き込んで送信する。
 もう一度ネオのコスプレ写真を見直してみる。綺麗に化粧された顔は凛とした顔立ちで、言われてみれば男性的というか中性的かもしれない。体格は女性にしてはがっしりしているが、男性だと思ってみると細身でしなやかだ。
「……やっぱ、好きだなぁ」
 二次元キャラをしっかり表現している彼の姿を見つめていると、彼が男性だということに残念な気持ちが僅かもないとは言えないが、アンチコメントを送っているような人々の気持ちには至れない。
 他の写真も見返しているとスマホの上部にポップアップメッセージが表示された。ネオが先程のリプにいいねしたという通知だった。
 少しは元気を出してもらえるといいな、と思っていた春馬は数秒後、再び表示されたポップアップメッセージに驚くことになる。
『@*neo*cos*からDMにメッセージが届きました』
 表示されたアカウントはネオのものだった。えっ、と驚きつつ、画面下のレターアイコンを見ると確かに通知バッジが付いている。
『リプありがとうございます。結構叩かれてるから嬉しかったです』
 DMを開き、表示された短い文面に春馬の指は返信していた。
 男性だとわからないくらい、コスプレはよく似合ってること。アンチコメなんて気にしてほしくないこと。後は何かと考えて、頭に浮かんだのは初めて彼を見た、あの瞬間のことだった。
『俺はリカのことが大好きだったから、ネオさんのコスプレを見た時、リカのことが好きなんだなって衣装の再現や表情から伝わってきました。他のコスプレも、知らないキャラのものでもかっこよかったり可愛かったり、どれもそのキャラの良さが伝わってきます』
 長々とメッセージを書き上げながら気付いたことは単純明快、シンプルなたった一言だ。
『俺は貴方のファンです』
 熱量の空回りしている気のするメッセージを送信して何だか恥ずかしくなるが、彼にわかってほしかった。彼の活動を応援する人だって残っていることを。フォロワー全ての心が離れたわけではないのだと。
 失望の声で殴り付けてくる人々に負けず、彼のやりたいことを続けてほしい。
『ありがとうございます』
 少し時間を置いて送られてきた返事は短い。客観的に考えたら同性と思われる相手から送られてきたメッセージとしては気味が悪かったかもしれない。慣れないことなんてするものではないと自戒するが、そもそもDMを送ることなんてもうないだろう。
「ブロックされなかったらいいや」
 呟いて、ツイッターを閉じる。
 彼を知ってまだ一月だが、活動初日からフォローし始めた春馬は彼のことがすっかり好きになっていた。
 彼のコスプレが好きで、応援していたい。この時は純粋に、ただそれだけだった。

 ネオとのDMから数日後、普段は静かなツイッターからの通知が届いていた。ネオからまたDMが送られており、何かあったのだろうかとアプリを開く。
 メッセージの内容は先日のやり取りの礼から始まった。アンチコメントに気を病んでいた所に、春馬のコメントは励みになったと書かれている。嬉しかった。
『自分もリカが好きで、好きすぎてリカになろうと思ってコスプレを始めたのでぬーさんのメッセージはとても嬉しかったです』
 ぬーというのは春馬のアカウント名である。送信を後悔したメッセージだったが、ネオは好意的に受け取ってくれたらしい。安堵の息をつきながら、春馬はネオがコスプレを始めた理由を知れて嬉しかった。
 スターライトの復刻版ブルーレイの話を振ってみるとネオも購入したらしい。ずっと心待ちにしていて、届いたその日に一気見したらしい。
 何話のあのシーンがいいとかこのシーンの表現が好きだとか、スターライトの話が続いた。春馬はネオに親近感を抱き、ゲームだったなら好感度が上がっているのが可視化されただろう。
 けれど春馬が生きているのは現実で、SNS上では気軽にやり取りが出来るし、気軽に断ち切られもする。心の距離が縮まったように思えても、結局は見知らぬ他人でしかない。
 それがわからない程、春馬は愚鈍にも身勝手にも、物知らずにもなれなかった。


***


 ネオは変わらずにコスプレイヤーとしての活動を続けた。変わったのはプロフィールと固定ツイートに女装コスプレをしている男性であることを明記するようになった程度だ。
 春馬も変わらずに彼をフォローし続け、日常ツイートにいいねしたり、コスプレ写真は毎回リツイートといいねをする。たまにリプするとネオから少し砕けた口調で礼を言ってもらえるようになり、時にはDMでもっと話題の深掘りをされた。
 カミングアウト時は減少したフォロワーも、二年が経つと桁が増えていた。春馬のように彼の性別を気にしないファンもいれば、女装だからこそいいと思うファンや、ネオのコスプレ技術を単純に称賛するファンもいる。だが、彼のフォロワー増加に大きく貢献したのはネットニュースだろう。
 ネオの活動開始から半年が経った頃、彼はアニメ系の話題を取り扱うニュースサイトから取材を受けたらしく『美しすぎる女装コスプレイヤー』として記事になった。
 記事を読むとツイッター上で公開しているネオのコスプレ写真を添えた活動の紹介から始まり、ネオがコスプレを始めた理由が書かれていた。春馬に教えてくれた通り、スターライトのリカに好意を抱き、憧れ、彼女になりたくて女装を始めたのだと書かれていた。
『アニメやゲームの可愛らしい女の子達に変身した自分を、似合っていると言ってくれる人達がいる。それが何より嬉しくて楽しいです』
 記事の最後に締め括られたネオの言葉を見て、春馬も嬉しかった。けれど寂しかった。そう気付いて首を傾げる。何も寂しいことなどないだろうに。
 小さなネットニュースは想像以上に拡散され、ネオは多くの人の目に留まった。ニュースを見た全ての人がネオに好感を抱いたわけではないが、コスプレイヤー界隈で知名度のある人の目に入ったのは大きかったのだろう。ネオはコスプレイヤー界隈で『併せ』と呼ばれる、他者とのコラボレーションを行うようになっていった。
 ネオが併せを行う相手はかなり限定されているというか、ほとんど一人しかいない。その相手はルルギという男性コスプレイヤーで、ルルギがコスプレするのは男性キャラクターのみになる。
 初めて二人の併せを見たのは『スターライト』のコスプレだった。主人公であるリカに扮したネオの隣に、リカと協力して旅をして、彼女と絆を深めていくヒーロー役のアオトがいた。
「……」
 二人とも背丈が同じくらいで、一人で撮っている時には誤魔化せていたネオの体格の良さが見えてしまっているが、顔立ちの美しさはどちらも引けを取らない。目を何度も瞬かせてスマホに映る写真を見つめた春馬は『お似合いだ』という心の声を聞いた。
 投稿された併せ写真は複数枚あり、並び立つ二人も肩を抱き合って笑う二人も見つめ合う二人も、どれもリカとアオトそのものに見えた。
 それがとても楽しげで、綺麗で、寂しかった。

 ルルギとネオの併せにもリツイートといいねをして、リプや引用ではなくリツイート宛てとわかるようなツイートをする。すごく似合ってる、と一言だけだと味気ないので笑顔の絵文字も付けた。
 それ以上ツイッターを触る気分になれず、ホーム画面に戻ると最近始めたソシャゲを起動する。出先ではミュート状態でプレイしているが、今は自宅なので音量を上げるとヒロイン役の声優が運営会社名を読み上げた。
 暗転後、ヒロインをメインに登場キャラが集結したタイトル画面が表示され、ゲームタイトルが読み上げられる。今時のソシャゲらしく露出度の高い衣装に可愛い容姿の女性キャラばかりが登場し、春馬もゲームを気に入っているのに今日は何だか気分が乗らない。
 デイリーミッションだけでもこなしてしまおうと無言でタップを続ける。最初は楽しさや新鮮味を感じるゲームシステムも、続ければ作業になっていく。
 デイリーミッションを終え、報酬の受け取りをしているとスマホが軽快な音を立てた。ゲームの効果音とは違うそれは、ツイッターからの通知をポップアップと共に報せている。
「……」
 通知内容はネオからのDMだった。彼との交流はファンが増加し、二年経った今でも続いている。
 春馬から声を掛けるなんて恐れ多くて出来ないが、ネオは週に数回他愛のない話題を振ってくれる。アニメやコスプレ以外の話題も多く、聞き上手なネオによって春馬が大学四年生なことも、どの県に住んでいるのかも、大まかな私生活を知られている。その際にネオは春馬より一つ年上の社会人で、仕事はフリーランスなことや、同じ県に引っ越す予定があることを教えてくれた。
 DMという秘匿性の高いツールで互いの情報を教え合っているという状況は、春馬に特別意識を植え付ける。ネオにとって春馬はただのファンではなく、友達と認識されているのではないかと思ってしまう。そんな春馬を現実に引き戻してくれるのは、春馬とネオを結び付けるツイッターだった。
 いつだったかタイムラインに流れてきたYouTuberやVTuber達に入れ込み、勘違いするファンをまとめた記事を見つけ、何となく目を通すとYouTuber達のファンサービスについて書かれていた。
 身近に感じ応援してもらう為にDMを解放してファンとやり取りしたり、投げ銭をすれば配信中に名指しでリアクションをしたり。何気なく思える交流は全て、活動基盤を整え発展させる為のビジネスサービスなのだが、好きな相手から反応を貰えると頭のネジが壊れて距離感がわからなくなってしまう人もいる。
 自分に良くしてくれるのは自分のことが好きだから。時間や金銭を投げ払っているという対価を忘れ、勝手に思い込んで燃え上がる。相手にとって自分は特別なのだと。
 淡々と綴られた記事を読んで、春馬は我が身を振り返った。
 ネオは写真の発売や配信などの営利目的の活動は行っていない。作品への愛好からツイッター上にコスプレを投稿し、同志であるファンと交流している程度だ。
 ネオをただ性的に捉えているだけでは相手にされないが、同じ作品を愛していたりネオを純粋に美しいと感じている相手には言葉を返してくれる。
 ネオがリプライに返事をくれるのは春馬だけではないのだ。恐らく他のファンとも気軽にDMを送り合っているのだろう。
 自分でも馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのに嫉妬する。ネオが目を向けるのが自分だけではないことも。ネオに見つめられ、言葉を掛けてもらえる有象無象の輩にも。
 ネオの唯一至上のファンでありたい。そんな、醜い思考と感情に囚われる自分が何よりも嫌だった。
 ネオから離れることも考えたが踏ん切りがつかない。ネオを見ない為にツイッターに触れずにいる時に限ってDMが送られてきては、今流行っている漫画の話で盛り上がるのだ。
 ネオとDMで話をしている時はいい。醜い嫉妬は姿を隠し、彼とのやり取りを楽しむ。彼の返信が遅いと返答に困る内容だったのかと悩み、もしかしたら他の相手ともDMをしているのではないかと疑う。ようやく届いた返答に手洗いや家事を済ませていたと綴り謝られれば心の底から安堵した。
 嫌だった。
 ネオの特別ではないことも。特別になりたいと分不相応な願いを抱くことも。彼を初めて見た時のように素朴で純粋な応援が出来ない自分も。
 思考の渦に飲まれていた春馬は、頭を振り払いツイッターの通知を見る。メールマークの通知バッジはDMの報せで、春馬にDMを送るような相手は限られている。
『ぬーさん、良かったらオフ会しない?』
 唐突な誘いは気安い。何でもないただのファンには親近感が生まれ、距離感の認識を誤らせる。これくらいがいいのだ。
 ネオとの交流が始まった頃、彼は事務的な対応だった。趣味や好きなものの話をするようになり、共有する情報が増えると口調が柔らかくなっていく。彼に気を許された自分はただのファンではないと自惚れられる。
『行きたいけど色々忙しくて。参加できそうにないです』
 謝罪の言葉もプラスして、春馬はオフ会の誘いを断った。唇を噛む。本当は参加したかった。ネオに直接会って話をしてみたい。きっと春馬はネオがどんな人間であっても、失望することはないだろう。
 だからこそ会えなかった。会ってしまえば箍が外れ、醜い嫉妬と独占欲に支配され、彼に何を言うかわかったものではない。
 何より、ネット上ではなく目の前で――現実世界でファンに囲まれ、彼らに言葉を掛けるネオを見て、春馬の心が耐えられるとも思えなかった。想像するだけでも腸が煮え繰り返る。
 DMの返事はすぐに来た。残念だと嘆き、いつ頃なら予定が空けられそうかと尋ねられるが、春馬はまだわからないと嘘をついた。
 大学生らしく朝から晩まで講義とゼミが入っているが、就職活動は終わらせているので焦りはない。休日はほどほどにバイトを入れ、空いた時間はゲームや漫画に費やす。ネオのオフ会に行きたければ調整は容易だ。
 けれど春馬は行かなかった。大学を卒業するまで。就職し働き始めても。私生活が忙しい、落ち着かない、空いている日は既に予定が入っている。そう言って逃げ続けた。


 オフに参加する気がないのだろうと見限られそうなものだが、ネオは根気強く春馬を誘い続けてくれた。日頃の会話にもトゲのようなものはない。それを彼の優しさと捉えるか、営業の才能と見るか、はたまた春馬にそこまで関心がないのか。鬱々とした心は悪い方向に舵を取る。
 先の見えない暗礁を進み続けた結果、春馬は決心した。憤り、嘆き悲しみ、狂いそうになりながらも狂人にはなりきれない中途半端な春馬は、船を降りることにした。船旅をしなければ座礁や沈没を恐れることはなくなる。
 ネオを知り、応援し始めてから三年。彼へ歪んだ恋愛感情を抱いたのはいつだったのか。思い出が走馬灯のように脳内を駆け回っていく。
 叶うのなら彼を知ったばかりの春馬のまま、彼を見続けていたかった。あの頃の春馬に戻れないとわかっているから、せめて最後は彼にとって善きファンでありたい。


 ネオを知るきっかけとなったアニメ、スターライトは三年前の復刻版ブルーレイ発売を機に、近年のレトロブームも相俟って再注目されるようになった。
 当時のファンが懐かしみ、思い出を語るツイートが何度かバズり、新規の目に留まり興味を持たれる。ブルーレイ発売からしばらくすると動画サイトのサブスクリプションプランに追加され、感想が増えていった。
 話題になっているうちに製作元がコラボグッズの発売を発表し始め、ヒロインの持ち物をアレンジした文具や人気の高いキャラクター達のアクリルキーホルダーなどがタイムラインに流れていく。
 売上がいいのか数ヵ月に一度のペースでスターライトのグッズが発表されていき、春馬もリカとアオトのフィギュアを買った。他にも気になるものがあったら買おうと思っていた春馬の目にそれが飛び込んできたのは、社会人として働き始めて一年が経とうとしている時だった。
 スターライトは復刻版ブルーレイの発表時にツイッターアカウントも作られていた。投稿はグッズの発表だけのストイックなアカウントを春馬もネオもフォローしている。
『スターライトファン必見! アオトからリカに贈られた約束の指輪が再現されました! 詳細は購入サイトをご覧下さい』
 コメントと共に添付されているのは白金色に輝く、紅い石のはめ込まれた指輪だ。投稿の言葉通り、アニメの終盤でアオトから贈られた指輪が細かく再現されている。
 購入サイトを見てみるとファッションに疎い春馬でも名前を知っているジュエリーメーカーとのコラボレーショングッズで、石は小さいながらも本物のルビーが使われている。販売数はかなり絞られ、購入には抽選を行い、価格も通常のアニメグッズと桁が違う。
 コラボリングの発表の数時間後、ネオは購入申請をしたとツイートしていた。抽選結果は半月後に発表され、商品の発送はさらに半月後を予定されている。結果を待っていたネオは半月後、コラボリングの抽選に外れたとツイートしていた。
 ネオにむけて慰めのリプが付き始めている。以前の春馬なら彼らに混じって短いリプを飛ばしていたが、今はすっかり使い慣れたメールアイコンをタップした。
 『こんばんは。コラボリング残念でしたね』
 春馬からネオに自発的にDMを送ったのは、彼の応援を始めた三年目にして初めてのことだった。時間に合った挨拶を文頭に、ネオが先程ツイートしていた内容に触れる。しばらく他のツイートを見ていると、スマホ画面上部にポップアップメッセージが出てきた。DMに戻るとネオからの返信が届いている。
『ほんとに残念……コラボリング着けてリカコスしたかったのにー』
『見たかったなぁ。あの、ネオさんに聞きたいことがあって』
『なーに?』
『来月以降にオフ会の予定ってありますか?』
 リズミカルに進んでいたメッセージのやり取りが、オフ会の話を振ると急に止まってしまった。返信の早いネオらしくなく、何かあったのだろうか。たっぷり五分程待ってから、ネオは『あるよ』と返事をしてくれた。
『どの辺りの予定ですか?』
『月だけであんまり詳しくは決めてないから。都合のいい日が決まってるなら先に教えてくれる?』
 だったら、と考えて春馬は来月末の土日を希望した。ネオは了承し、日取りが決まったらまた連絡が貰えることになった。
『ぬーさん全然オフ会来てくれないからすげー嬉しい』
 文面だけでも彼の喜びが伝わってくる。自分はそれ程彼にとって大切なファンになれたのだろうかと喜び自惚れる心を、社交辞令でしかないだろうと冷めた声が戒めた。
『俺も楽しみです』
 返した言葉に嘘はなかった。どんな光景を目にするとしても、彼に会えるのは本当に、心から楽しみだった。

 オフ会の日取りはすぐに決まり、春馬にはDMで伝えられた。オフ会告知のツイートなどはなく、思い返してみればネオからオフ会に誘われることは何度もあったがそれは全てDMからで、ネオは全体的に掲示出来るツイートではオフ会に触れたことがなかった。
(参加者を厳選してるのか)
 三年間の活動で増えたのはファンだけではなく、アンチも増えた。女装レイヤーを毛嫌いして嫌がらせをしてくる者や、ネオが交流を持つルルギのファンが敵意を剥き出しにしてきたりする。誰でも参加出来るオフ会を開いたらアンチも参加し、危害を加えてくるかもしれない。
 善良なファンであるように、そう見られるように振る舞ってきた春馬はオフ会に参加を許される程度の信頼は勝ち得ていたのだろう。良かったじゃないかと自分を励ます。
 タイムラインを眺めていると数時間前に投稿されたネオのコスプレ写真が目に入る。流行りのソシャゲのヒロインの姿で微笑む彼は相変わらず美しい。
 性別を越えて人々を魅了する彼は手の届く筈のない人なのだと、彼を見る度に思い知る。以前はそれでも彼の目に留まり続けたいと身勝手に抱いていた願望は、決意と共に諦めがついた。完全に消えてなくなったわけではないけれど、暴れ出しそうな歪んだ情熱は抑え込まれている。
 美しい彼を、いつもの春馬ならリツイートといいねで応援した。今の春馬はそうせず、静かにスクロールを続ける。
 どうせ何も変わらない。リツイートといいねが一つなくなった程度のこと、気付かれる筈もないのだ。
 春馬は少しずつ変化し、進み始めていった。


***


 オフ会は春馬の住む県で開かれることになった。以前、ネオが偶然にも同じ県に引っ越す予定があると聞いていたが、無事に引っ越しが完了したらしい。
 交通機関の集中するターミナル駅が待ち合わせの場所となり、駅へ向かう電車内で考えるのはネオのことばかりだった。彼を知って彼を見続けてきた三年間を思い返しているうちに、降車駅へ着いてしまう。
 十一時に駅前で待ち合わせている。腕時計を確認すると十五分前だった。改札を出て、邪魔にならない場所で待っていようと彷徨わせた春馬の視線は、動物を模したモニュメント前に立つ人物に釘付けになった。
 落ち着いた色合いのシャツとスラックスにジャケット、ラフカジュアルな姿の美青年がスマホを見つめて立っている。化粧もウィッグもないが、彼がネオだと一目でわかった。
 近付いていく春馬の気配に気が付いたのか、ネオは手元のスマホから顔を上げて春馬を見た。途端に瞬きが一度、そして表情に笑みが差す。
「ぬーさん」
「え?」
 形の良い唇から出された、少し低めの声が春馬を呼ぶ。一目で当てられて、春馬は驚いた。春馬はネオに顔を見せたことはなく、全くの初対面である。何故自分がぬーだとわかるのだろうか。
 疑問を言葉にするとネオは「俺に近付いてくる男はぬーさんしかいないから」と笑って答えた。まだ意味のわからない春馬に、ネオはもっとわかりやすく教える。
「オフ会、ぬーさんと俺だけだもん」
「……えっ」
 再び驚く春馬に、ネオは悪戯の成功した子供のような笑顔を浮かべた。
「何処か店入ろう。ぬーさん何食べたい?」
 自然な動作で肩を叩かれ、歩き出すネオの後を追い掛ける。ターミナル駅の周囲には飲食店が数多く建ち並び、二人が入ったのは海鮮をメインとした居酒屋だった。
 半個室の座敷へ通され、机を挟んで向かい合うと春馬は視線を泳がせた。憧れ続けた人を目の前に、一対一で話をする心の準備なんて全く出来ていない。
「ぬーさん何にする? 酒飲む?」
「いや、昼間からは……えぇと、海鮮焼きそば……美味そうだな……」
 ネオが開いてくれたメニュー表には商品の写真も掲載されており、海老や帆立、イカのトッピングされた焼きそばに目を奪われた。
「それにする? あと唐揚げとか適当に頼もうか」
「はい」
 ネオがさくさくと決めているうちに水とおしぼりを持った店員がやって来る。そのまま注文を済ませると、再び二人だけになってしまった。
「ぬーさ……うーん。ぬーさん、本名聞いたりしても大丈夫? 可愛いネットネームだけど現実で呼ぶのはちょっと変かも。俺もネオって呼ばれるよりは千秋って呼んでほしいな」
「え? ええ。俺は吉海です」
「吉海って名字? 名前は?」
「……春馬です」
「春馬さん。春馬くん。うん、春馬くんだな」
 ネオの声で何度も呼ばれると、何だか自分の名前ではない気がしてしまう。奇妙な擽ったさを覚えていると千秋は新たな話題を振ってくれた。スターライトの話だった。
 スターライトについてはDMで何度も語り合ったことはあるが、実際に対面して、相手の顔を見ながら好きなことを話す時間はとても楽しかった。会話を続けながらの食事は美味で、気付けば随分と長居をしてしまっていたようで、何となく目に入った腕時計を見て春馬は驚いてしまった。
「えっ。もうそんな時間……ほんとだぁ」
 千秋もスマホで時間を見たらしく、春馬と同じように驚いている。机の隅に置かれた伝票を春馬が取ると、千秋の長い指が奪い取っていった。
「主催が払うものだから」
「でも、オフ会参加したいって言い出したのはこっちですよ。自分の分くらい払います」
「春馬くんに会えて本当に嬉しかったから払わせて。ね」
 春馬の大好きな顔で微笑み、頼み込むような台詞を吐かれれば頷くしかない。
 席を立ち、会計を済ませて外に出ると千秋はこの後も何処かへ行かないか誘ってくれた。二つ返事で頷きたい所だが、理性の勝った春馬は頭を振って断る。
「この後は予定があるので」
「……そう。残念だな。帰るなら駅まで見送るよ」
 隣に並び歩く千秋は春馬より拳一つ分背が高い。初めて聞いた声は想像より低いが、明るく爽やかな彼にはよく合っているように思える。彼の素顔は化粧が施されていなくとも、彫刻芸術のように美しい。
 ツイッターに投稿された写真だけではわからないことが、今日の数時間でたくさん見聞き出来た。
「千秋さん」
 教えられた彼の名前を、初めは緊張して口に出せなかった。口ごもる春馬の心境も知らず「千秋って呼んでね」「千秋」「千秋って呼ばないと返事しないから」と言い聞かせてきた千秋のおかげで、別れ際に名前を呼ぶ声は改札前の雑踏の中でもはっきりと聞こえた。
「うん? やっぱもう少しどっか行く?」
「いえ。今日はこれ渡したかったんです」
 春馬が肩掛け鞄の中から取り出したのは茶色い無地の紙袋だった。掌に収まるほどの大きさで軽いそれを千秋に手渡し、早速中身を確認しようとする彼を制止する。
「家に帰ってから見てほしくて」
「わかったよ。ありがとう春馬くん」
 春馬が改札を通ると千秋に呼び止められ「ありがとう、またね」と手を振ってくれる。それに春馬を手を振って返し、聞こえるかわからない声量で告げた。
「さようなら、ネオさん」
 名残惜しい気持ちを抑えながら、春馬は千秋に背を向け歩き出した。
 人の少ないホームでしばらく待っていると電車が到着し、座席に座れた春馬はスマホを取り出すとツイッターを開いた。タイムラインにはネオのツイートが並び、それはオフ会とは書かれていないが誰かと会っていること、それがとても楽しいことを感じさせる投稿だった。添えられた料理の写真と投稿時間を見ると、居酒屋で過ごしている合間に投稿していたのだろう。
 タイムラインに新たなツイートが通知され、更新すると数秒前にネオが新しいツイートをしていた。
『プレゼント貰っちゃった! はやく帰ろ!』
 たったそれだけの言葉で、春馬は報われた気がした。きっと中を見たネオは驚くだろうが、喜んでくれる筈だ。
 春馬の指はツイッターの設定画面を開く。項目を選ぶ指に迷いはなく、画面には確認ダイアログが表示された。
『アカウントを削除しますか?』
 春馬の指が止まる。いつから使い始めたか覚えていない程、春馬の暮らしが詰め込まれていたアカウントだった。
 ツイッターを通じて知り合った人もいたし、ゲーム系のイベントに参加したりもした。思い出深いアカウントだが、残しておけば未練になる。
 ダイアログに表示された『削除する』をタップする。それだけで『ぬー』のアカウントは消え去り、春馬はそのままツイッターアプリもアンインストールした。
 ツイッターアカウントが突然削除されるなんて、広いインターネットの海の中では毎日何処かで起きていることで、何も珍しくはない。交流のあった人は驚くだろうが、何かあったのだろうと推察して流していく。
 信仰が一つ消えた程度で、神は何も変わらない。それを嫌だと思う自分が嫌だった。


***


 長年使用していたツイッターアカウントを削除した春馬の日々は平淡で彩りのないものに変わっていった。削除する前はツイッター断ちが続かずに転生アカウントを作るものだろうと思っていたが、そんな気も起きない。
 だらだらと続けていたソシャゲはログインを忘れる日が増え、暇な時間はポータルサイトのニュース一覧を眺めて終わる。仕事以外の時間が酷く無為なものに思えて、これではいけないと危機感を持つ。何か趣味でも作らなければと考えて浮かぶのは、社会人になってからすっかり離れていた家庭用ゲームだった。
(今は昔のゲームがアーカイブでプレイ出来るんだったな)
 業界のトップに君臨するゲーム会社の開発した、携帯型としても操作可能なゲームハードではオンライン会員に入ると過去ハードのゲームがプレイ出来る。子供の頃に夢中になって遊んだ作品がすっかりレトロゲームの括りに入れられていることに時間の流れを感じながら、プレイ可能なラインナップをスマホで調べて眺めていると、遊びたくてたまらなくなってくる。
 今日の仕事終わりに買って帰ろうと決める。何か目を向けていられるものを作ってしまいたかった。


 思い付きから行動に出た春馬は、会社帰りに寄った家電量販店でゲームハードとプリペイドカードを買った。明日は土曜日で休日出勤とは縁遠い会社で働いている為、ゲームを楽しむ時間は充分ある。アーカイブのラインナップを思い浮かべて何から遊ぼうかと考えながら帰路を進み、部屋を借りているマンションが見えてきた所で春馬の足が止まった。
 空はすっかり夕闇に染まり、街灯がなければ先が見えないが、マンションは植え込みに設けられたライトやエントランスの照明により明るさを保持されている。
 エントランスの扉は二重になっており、常に解放されている大きな両開きの扉の先には施錠された自動ドアが待っている。出入りを許された者しか中に入れないので、彼はそこで待っていた。
「なんで」
 ぽそりと呟かれた声は小さかったのに、彼にはきちんと届いたらしい。植え込みの段差に腰掛けていた千秋は長い足を伸ばして立ち上がると、春馬の元へ歩み寄ってきた。
「個人情報、バラまきすぎだと思うよ」
 ニコッと微笑む彼の顔は相変わらず綺麗で、現状の異常さを忘れさせてしまう。
「何買ったの?」
 当然のように肩を抱かれる。力強い腕は春馬の逃亡を許そうとしない。量販店の紙袋に入ったゲーム機の箱を見て、千秋は納得したようだ。
「春馬くん、ゲーム好きだもんね。俺のオフ会には来ないくせに、ゲーム配信者のオフには参加してたよね」
「え?」
 心当たりのある春馬は驚き、千秋を見る。表情を消した彼に促されるまま春馬はマンションの中へ入り、自動ドアを解錠する。ロビーに設けられたエレベーターに乗り込むと、習慣から手が勝手に動いて自室のある三階のボタンを押していた。
「ツイッターにさ」
 春馬の肩に千秋が顎を乗せる。頬が触れ合う至近距離から囁かれ、恐怖を覚えるべき場面なのに春馬の心は高揚していた。
「最寄駅の近くに何があるとか。散歩した公園で桜が綺麗に咲いてたとか。写真もほいほい上げたりしたらダメだよ。もうアカウントなくなっちゃったけど」
 言われてもすぐに思い付かなかった。エレベーターが止まり、扉が開いてから「……高校の頃の」と思い出して声にする。共用廊下を進み、部屋の扉の鍵を回しながら思い出を語る。
 春馬はツイッターを三年以上前から使い始めており、その頃は今程ネットリテラシーに詳しくもうるさくもなかったので何気ない日常を平然と晒していた気がする。
 ゲーム配信者のオフ会は大学に入りたての頃に参加した。レトロゲームを扱っている実況者で、昔プレイしたゲームを取り扱われてから見るようになった人だった。配信者のツイッターをフォローし、動画でコメントを残して応援していたら名前を覚えてもらえ、オフ会に誘われたのだ。
 動画の性質上、オフ会参加者の年齢は高めだったが配信者は二十代後半の普通の人だった。皆でゲームの話をして盛り上がった、楽しいオフ会だったと記憶している。
「ふーん」
 当時を懐かしみ、素直に話す春馬に千秋は気のない相槌を打ち、後ろ手に部屋の鍵を閉めた。声質よりも表情の方が感情を物語るが、春馬には見えなかった。
「春馬くんは俺よりその配信者の方が好きなんだ」
「はぁ?!」
 ふてくされた子供のような言葉に、春馬は眉を吊り上げる。諦めて捨てようとした信仰であっても。それがたとえ信心を捧げた本人であっても。決して貶されてはならないものだった。
 肩に乗った顔を押し退け、その端正な顔と向き合う。少し驚いた表情の千秋に、春馬は眉尻を上げたまま怒鳴った。
「そんなわけないだろ!」
 ツイッター上でのやり取りを重ねるうちに千秋は親しげに砕けた言葉を投げるようになった。一方、春馬は自惚れない為の自制から礼節を守り、距離を取っていた。暴言なんてもっての他、ありえないことだ。
「俺がどれだけ貴方を好きかも知らないくせにっ……!」
「……オフに誘ってもなしのつぶて。雑談したくてDM送ってもすぐに切り上げて逃げてくじゃないか」
「そんなの当たり前でしょう!」
「何でだよ!」
 神に人の心はわからない。それも嫉妬に狂った背信者の考えなど、彼が知る筈もない。唇を噛む春馬は惨めな心を素直に吐露した。
「貴方に近付いて、自惚れて……勘違いしたくなかった。貴方にとっては数いるファンの一人でしかないのに、俺は……俺には貴方しかいないのに……」
 それ以上言葉にならず、俯く。千秋の顔を見ていられなかった。
「ルルギさんとの併せ写真なんて見たくない。他のファンにお礼を言ってるのすら嫌だ。でも、そんなふうに思う自分が一番醜くて嫌いだから……貴方から離れたんです」
 さらけ出すつもりのなかった本心を知れば、千秋も幻滅して帰ってくれるだろう。罵倒を覚悟していた春馬の手が、温かいものに包まれる。ほっそりとしているのに力強いそれは、千秋の手だった。
「春馬くん」
 ゆっくりとした動きで、春馬の手が持ち上げられていく。顔を上げると、左手の薬指に赤い石の輝く指輪が見えた。
「あ」
「……うん。オフ会でくれたよね。コラボリング。キャンセル分の再抽選も、俺は当たらなかったよ」
 最初で最後だと決めて参加したオフ会の別れ際、春馬が渡した紙袋の中身だった。
 コラボリング発売のツイートを見てすぐに春馬も購入申請したのだが、当選するとは思っていなかった。その後千秋の落選ツイートを見て、彼に渡そうと思い付いたのだ――が、申請情報の必須項目であった指輪のサイズは、いつかツイッターで披露していた千秋のサイズを入力していた。初めから無意識に、そのつもりだったのかもしれない。
 ツイッターを辞める決心をしていた春馬が目にすることはないだろうが、指輪を着けた彼がリカのコスプレをして喜んでくれたらそれでいい。最後の献身のつもりだった。
 指輪に奪われていた目を千秋に向ける。彼の表情に侮蔑はなく、恍惚としていた。
「家でプレゼント確認して、嬉しくて、ツイッター開いたあの日の俺の気持ちがわかるか?」
 語気と表情が合っていない。言葉からは明確な苛立ちが感じ取れるのに、千秋はうっとりと春馬を見つめてくる。
「え……」
 神の心など信者にわかる筈がない。狼狽える春馬から目を離さず、千秋は言葉を続けた。
「嬉しかった。嬉しくて仕方なくて今すぐもう一度会いたかった。何て言えばきみは会ってくれるか考えながらツイッター開いて……愕然としたよ。消えてるんだから」
 だから会いに来たのだと語る男に、普通なら恐怖を抱かなければならない。けれど春馬の顔に恐れはなかった。むしろ高揚していた。まるで。
 春馬を包み込んでいた手が離れるが、すぐに包まれる。今度は春馬の体を、千秋の両腕が抱き締めた。肩口から顔を出す春馬の顔は繕いを要とせず、紅潮する。
「春馬くん」
 千秋の声が聞こえる。耳に触れるような近さは、ただの囲いを越えていた。
 そろそろと、春馬の腕が動く。自分を抱き込む男の体へ触れ、その背へ回し抱き返
す。
 言葉は要らなかった。互いの心なんてわからない筈なのに。実際千秋は春馬を理解していなかったし、春馬も千秋を理解のんて出来ていない。それでも千秋は春馬の受容を察し、春馬は千秋を受け入れた。
「好きだよ。ずっと。ずっと前から。会いたかった」
 自分もだと頷かずとも、千秋は春馬の心を汲むように体を離し、穏やかな顔が近付いてくる。そうなることが当然のように唇が重なり、春馬の思考は彼で埋め尽くされる。
 彼はやはり神様なのだろう。


***


 初めて彼を、ネオを見た時。疑問の欠片も抱かずに彼を女性コスプレイヤーだと思った。
 少年期から心に残り続けるヒロインの姿を披露したネオに対し、純粋な賛美を贈り好意を持った。異性だからという理由ではなく、リカのコスプレをしてくれた美しいコスプレイヤーを好きになったのだ。
 男性だとわかっても好意は消えなかった。女装技術の高さに関心し、彼の活動を追っていくうちにもっと好きになっていく。
 男だから、女だから、という枠組みを彼だけは越えてしまった。春馬は元々女性が好きで、今も千秋以外の男性を見ても何も思わない。彼だけが特別なのだ。
 家を特定された手段もわからず、待ち伏せされて室内に上がり込まれ、抱き締められて好意の言葉と共にキスをされた。これを他人にされたのなら、男女関係なく恐怖し、嫌悪や軽蔑を抱く。というか待ち伏せの時点で警察を呼ぶ。
 冷静な判断力はあるというのに、春馬は千秋の行動を許容していた。それどころか喜んですらいる。
「春馬……」
 千秋に名前を呼ばれる。オフ会の前までは考えられないことだった。自分の股座に千秋が顔を埋め、緊張して縮まる性器を舐めしゃぶっている方が考え付かないことなのだが。
「あっ、あ、ああっ……千秋さん、千秋さぁんっ……」
 大学に進学して一人暮らしを始めてからそのまま住み続けているマンションの自室はすっかり見慣れている。天井や壁に張られたクロスの模様や家具はいつもと何ら変わりない。その中で彼だけが異質だった。
「……んっ。ふふ。気持ちいい? 春馬」
「ひぃっ……」
 ベッドに座らせた春馬の足元へ座り込み、性器をしゃぶっていた千秋はズッ、と音を立てて強く吸い付いた。繊細な亀頭は痛みを訴えるが、春馬の体に走るのはそれだけではなかった。
「気持ちいい?」
「はいっ……きもちいい……千秋さんにされるの、きもちいいっ……」
 答えに満足した千秋は、口紅を塗っていなくても美しい唇から分厚い舌が伸ばす。涎を溢し始めた亀頭を褒めるように舐める。
「あっ……あ、あっ……うっ……」
 千秋は口を大きく開けて春馬を飲み込んでいく。亀頭が喉奥まで迎え入れられ、竿も殆どが千秋の口内に収まった。性器をあたたかく包み込まれる悦びなんて、春馬は知らなかった。
「あ、あっ?! あっ、ちあ、千秋さんっ! ひっ……あっ、あっ、ああっ!」
 惚けていた春馬の性器を含んだまま頬を窄め、春馬の性器を食べる勢いで吸い付きながら、頭を動かし始めた。千秋の口内に吸われ、擦り上げられる刺激に喘ぐ春馬が腰を退かせようとすると、千秋の両腕に腰を抱かれ固定される。
「やっ……あっ……あ、あ、あっあ、あ、あ……」
 千秋の頭へ両手を伸ばし、引き離そうとしても春馬の力では敵わない。千秋は好き勝手に動き、春馬は昇り詰めていく。
「出るっ……いくっ……イクぅっ……!」
 射精の兆しを感じ、思わず声に出す――途端、春馬の腰の拘束は片方だけ解け、自由になった千秋の手は春馬の性器へ伸びた。
「あ!? なんでっ、ちあきさんっ」
「まだダメ」
 親指と人差し指で作られた輪が、春馬竿の根本を戒める。千秋の口からも吐き出され、急に刺激を失った性器は射精から遠退いてしまった。未練たらしく腰を振って続きを促す春馬の素振りは無意識のもので、千秋は笑みを深めた。
「気持ち良くなりたい?」
 飾り気のない問い掛けは付属事項を提示していない。何をするのかされるのか、言葉にしていないというのに春馬は迷わず頷いた。
 信仰者にとって神の言葉が全て、神の決定が全てで、問い返すことなど頭になかった。


「あっああっ……あ、あっ、あ、あ、あ、あ……」
 女よりは低く、けれど野太さとは遠い嬌声が狭い部屋に響いていた。学生も借りられるような単身者向けのマンションの防音性はそれ程高くない。隣室に筒抜けだろうが、声を出している春馬にはそんなこと考えられなかった。
 春馬の頭の中には千秋しかいない。狭いベッドの上で犬のように腹を晒し、喘いでいる春馬を犯す美しい男しか見えていない。
「あぁん……ん、あ、あ、あっ、あ、は、あ、あっ」
 同性に抱かれるなんて考えてもいなかった春馬の体は、千秋をすんなりと受け入れた。交合の要となる尻孔は初めこそ慎ましやかに閉じていたが、彼の指先が触れるだけで大人しく迎え入れ、歓待した。孔をほぐす指は勿論、緩んだ孔を突き進んでいく肉竿にきゅっきゅと抱き着くと千秋は言葉にしてくれる。
「こんなに締め付けて悦んで……春馬は男好きの淫乱なんだね」
 情欲に塗れた笑顔で吐き捨てられ、春馬はふるふると頭を振って否定した。
「ちあきさんだからぁっ……ちあきさんだからうれしい……ほかのおとこなんてしらない……いらないっ!」
 千秋以外の男だなんて、考えにも至らない。女ですら千秋の前では霞んで見えてしまう程、春馬の目は盲いている。
「うん。そうだよね。春馬は俺しかいらないよね。尻の締め付け気持ちいいよ……俺のこと大好きなんだもんね?」
「すきっ……ちあきさんがすぎぃっ?!」
 春馬の偽りない本心を語れば、千秋は応えてくれる。千秋に犯される為の肉壺となった春馬の胎の奥まで、膨れきった雄に一突きされ、春馬の喉から声が吐き出ていく。
「ああっ!! あっ! あっ、あ、ああっ……あ、んっ……あ、ひー……ひっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっあっ……」
 千秋を受け入れる為に肉筒の中へ注がれていた潤滑剤が水音を立てさせる。足首を掴まれ尻肉を打たれ、千秋に犯されて感じ入る春馬は与えられる快楽のままに、柵を忘れて声を上げ、腹の上で揺れる性器は我慢を忘れて精を散らせた。
 千秋に何か問われれば彼の望むままに答え。千秋の思うままに犯され、悦びの声を上げてよがり。もっと、と声にしながら尻を振って誘うと千秋の機嫌が良くなると覚える。
「春馬っ……春馬、春馬っ!」
「あっ……あっ……ちあき、ちあきさんっ……ちあきさぁん……」
 昇り詰める兆しから、千秋が春馬を呼ぶ。名前を呼ばれるだけのことが春馬にはとても嬉しかった。
 目を閉じて低く呻きながら、春馬の胎へ種を蒔く千秋の顔なんて誰しもが見れるわけではない。春馬は千秋にとって特別な存在になれたのだと、そう思えることが嬉しかった。
「あぁ……ぅ、んっ……」
 下腹の奥に広がる生あたたかい感覚に、胸に走るのは不快ではなく悦びだった。春馬の中へ千秋が射精してくれたのだと、頭で理解しているから心も塗り替えられている。
「春馬」
 千秋が体を倒し、春馬の上へ覆い被さってくる。美しい顔が見えなくなる程近付けられ、唇が重なると口内へ舌が入り込む。
「んっんっ、んっ、んんっ」
 舌を絡み合わせて遊んでいたが、しばらくすると千秋が春馬の口内を啜り始める。体液全て、喉のさらに奥までとばかりに吸い付かれても、春馬はただ受け入れた。
 尻孔から抜かれないままだった肉竿が再び膨らみ、腰を揺する動きが再開されても。乳首を強く摘ままれても。力なくくったりと寝そべる性器を揉まれても。耳殻を舐めしゃぶられ、これからの二人の暮らしを熱く囁かれても。
「幸せだよ、春馬くん」
 千秋が満面の笑みを見せてくれるだけで、春馬にとってそれらは抗うことではなく、喜んで受け入れるべきものだった。
「はぃ……はいっ……千秋しゃ、千秋さんと……幸せです……!」
「ふふ。ならキスして誓ってね」
 春馬は幸福に痺れる体を叱咤して腕を伸ばし、目を閉じて春馬を待つその首へ回した。美しい尊顔へ顔を寄せ、春馬から唇を重ねる。信仰の証たる宣誓は甘く、胸に満ちていった。
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