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一章 異世界慕情
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しおりを挟む転位後に見る3回目の落陽が、静寂を積み重ねながら草原を真っ黒な闇で浸していく。
ゆらゆらと揺れる青い炎に照らされて、俺は光に浮かぶ馬車と2人の男女を見ていた。
俺の傍らに立つメイシアと、俺たちに対面する男ーーガスケット伯爵。
能面のような表情をした伯爵の腰には、長い太刀が鞘に入り吊るされている。
修理を終えた馬車を前にして、伯爵はその薄い唇を自分から開こうとはしなかった。
「約束は果たした。時間までに俺は……俺たちは馬車を直したぞ。確認すればいい」
俺は地面に置いた燃える枝束の中から一本を手にとり、それを掲げて馬車を照らした。
枝はドライオークホワイトウッドの残りで、メイシアが火打ち石のような道具で火を灯したものだ。
「おい。確認しないのか? それとも、自分の負けを認めたということか?」
動こうとしない伯爵に勝敗について水を向ける。
だが伯爵の視線は俺や馬車ではなく、据えた目でメイシアを見ていた。
「お前は誰の妻だ。メイシア」
伯爵が慇懃にそう聞いた。
突然の言葉に、メイシアは戸惑いながら恐る恐る答える。
「私は……あなたの妻、です。エドワード・ガスケット、あなたの」
「そうか。ならばもういらん」
「え……?」
「俺はお前にまで馬車を直せと命じたか? そんなものは賤しい身分の仕事であり貴族のするものではない。俺は下賤の妻を持った覚えはない」
「それは……」
「離縁する。どこにでも行け」
「っ!」
とりつくしまもなく端的に、伯爵はメイシアに向けて言った。
ふらりと体を揺らしたメイシアは、その場に崩れるように座る。
青白く染まった顔は炎のせいではないはずだ。しかし伯爵はその姿さえ興味がないとばかりに表情を変えず、替わって俺へと視線を移した。
怒りと動揺で俺は自分の瞳孔が開いていくのが分かった。
「お前……っ! なんてことを……っ」
「それで貴様は……」
「ああっ!?」
「先程何と言ったか。負けを認めるか、だったか? ああ、確かに、馬車の車輪は元の場に付いているな」
「だから、直っただろうがっ! メイシアさんも苦労した! 彼女が馬車を直すのはお前のためだ。そんな自分の妻をお前は……」
「直った? 笑わせる。それでどう直ったと言えるのだ?」
「はあ? どういうことだよ!」
「直すとは、伯爵である俺が乗れるように直すということだ。そのような継ぎ接ぎだらけの馬車に俺が乗ると思っているのならば、貴様は貴族というものを舐めすぎだ」
「な、なんだよそれは! そんな言い訳が通用するとでも……」
「言い訳などではない。貴族とは高貴を義務とするゆえに貴族なのであり、それを失えばたちまち爵位を追われるものだ。その馬車に俺が乗るということは、爵位を放棄することと同義。下賤の貴様や、没落寸前のえせ貴族家に生まれ育ったその女では、考え及ばぬ話であろうがな」
「そ、そんな……」
貴族の理屈を振りかざされて、真偽を判断できない俺はメイシアへと目を向ける。
彼女は美しい顔を絶望に染め上げて俺を見ていた。
その表情で、伯爵の理不尽な理屈が真実であるらしいことが分かった。
「ふざ、けるなよ、そんなこと……」
そうだとすれば、この勝負は初めから俺の負けが決まっていたことになる。
何もない草原の真ん中で、車軸が折れた馬車を元どおりに戻すことなど出来たはずがないのだから。
「それで貴様は」と伯爵はまた同じ言葉を繰り返す。
端正だが能面のようだった顔立ちに、これまでにない下卑た笑いを浮かべていた。
「何と言っていたかなあ。首をはねる、だったよなあ」
「ううっ……」
「クククク、あはははははは! お前はあ、ここでえ、首を差し出してくれるとお、そう言ったんだよなああああ?」
揺れる炎の陰影で、裂けそうなほどに口角を上げたその顔が、グニャリグニャリと歪んでいるように見えた。
いや、違う。歪んでいるのではなく、俺が震えていたんだ。
愉悦に歪むその顔を見た時、消えていたはずの恐怖が足元から滲み出るように俺にまとわりついて、体が膝頭の合わぬほどに震えだしてしまっていた。
成長したと思っていたのに。
今まで人生の中で、俺が抗うことの出来なかった"理不尽への恐怖"というものに、メイシアを助けたいと思うことで立ち向かえているはずだったのに。
俺は全然だめだった。
初めから失敗していた。
俺がやったことは何にもならなかった。
それどころか俺が余計なことをしたせいで、メイシアは家を追われることになった。
こんなことならば今までどおりに身を縮めて、恐怖が過ぎ去ってくれることをただ祈っていればよかった。
弱い俺が何をしてもどう足掻いても、例え異世界にやって来たって、強く生まれ変われるはずなど、ないのだからーー
「さあ、名も知らない若造よお。首を差し出してくれたまええ」
伯爵が腰の太刀を抜刀する。
かざされた刀身が炎の光を反射して、俺は目を閉じた。
「いい加減にしなさい。エドワード」
メイシアの声が聞こえた。
再び俺は目を開ける。
「賭けはあなたの負けよエドワード。いいえ、私はもう妻ではないのならば、昔のようにミドルネームで呼びましょうか。エドワード・クリス・ガスケット」
弱々しくへたり込んでいたはずのメイシアが、仁王立ちに立っていた。
反射する光の加減で眼鏡の下の瞳が見えない。
伯爵は俺の眼前で上段に太刀を構えたまま動きを止めていた。
「ふん。気でも触れたのか。メイシア」
「私は真実を言ったのよ。クリス。賭けはあなたの負け。あなたはイワティさんに完敗したの。それどころか地に頭を擦り付けて謝罪したあと、泣いて感謝しなければならないわ。あなたが何よりも大切な爵位というプライドを、イワティさんが救ってくれたのだから」
「……お前は何を言っている」
「お姉ちゃんには敬語を使いなさいクリスっ!!」
メイシアの大声で、伯爵の体がビクッと震えた。
ついでに俺の体も。
何が起きているのか分からずに、俺は立ちつくして2人を見る。
「理解できないなら分からせてあげます」
メイシアはそう言って伯爵に向かって歩きながら、かけていた眼鏡を外した。
マジックアイテムが識別できるという、その眼鏡を伯爵に差し出す。
「かけなさい」
「……」
「かけなさいクリス……あなたお姉ちゃんの言うことが聞けないって言うの?」
渋々といったていで、伯爵は受け取った眼鏡を顔にかけた。
何だコイツ。
何か、メイシアをビビってる、のか?
「あれを見なさい」
「こ、これは!?」
メイシアに促され伯爵が眼鏡をかけた顔を馬車に向けると、途端に驚いたような声を上げた。
「見える文字を読み上げなさい」
「重さ無しの、馬車……まさか、そんな、馬車がマジックアイテム化しているだとおおお!?」
驚愕に叫ぶ伯爵に向けて、メイシアは続ける。
「そうよ。世界中を見ても、重さがないマジックアイテムの馬車なんて、どこにも存在しないわ。もしあれば、王族だって大金を払ってでも欲しがるでしょうね。この馬車は、貧乏伯爵家を継がされたあなたには、身分不相応なくらい貴重な馬車なのよ」
そう宣言したのだった。
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