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妻の処女をもらったら、離婚を切り出されたんだが。

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「こんな方だなんて思いませんでした。あなたと添いとげる自信がありません。どうか離婚してくださいまし」

 初夜ののち高熱を出して寝込んでしまった妻が、快復後に私の顔を見て開口一番そう言った。私は抱きしめようと広げた腕のまま固まった。
 時はソートス歴五年、新緑の初夏、午さがり。私は二十八歳。妻は二十三歳。

 掌中の珠のように育てられた女性なのは知っていた。アビントン子爵家息女ロザリンド。まっすぐな飴色の髪と晴れあがった春の空を思わせる美しい瞳。少しだけ幼い表情の、かわいらしい女性。
 准男爵家という、貴族ではないうえに平民としては格式のある中途半端な家の、これはまた中途半端な次男に生まれた私、リーヴァイ・フロスト。平々凡々な砂色の髪にくすんだ緑の瞳。銀縁の眼鏡をかけてはいるが、それが容姿を補ってくれるわけではない。どこにでもいるような男だ。なのでソートス歴二年の秋、街路工事の職人と意見の食い違いで怒鳴り合っていたところを、たまたま気分転換で馬車に乗って街を巡回していたロザリーに見初められたことも、その年のうちに婚約の打診が来たことも、周囲が自分を担ごうとしているに違いないと思ったものだった。

 思い返せば、ソートス歴元年。長き戦争とその処理が終わり、いくつもの国境線の変更ののちに私たちの戴く王が代わって、以前のナスク歴からソートス歴へと変遷してまもないころの話。
 多くの権力の移動があった。アビントン子爵家はそれには関わりがなかった。それとともに、新しい王へとアビントン子爵が願い求めたのは、ただ領民の安寧だったとのことだ。そしてそれは近隣領地を付け加えられるという形で実った。新王は、アビントンを敵対する者とは考えなかったようだ。
 それどころか、その二年ほど前に婚約者が戦死してしまったロザリーを、側妃に迎えようとの申し出まであった。

「はばかりながら申し上げます。お断りいたします」

 アビントン子爵は、それに首肯しなかった。頑として聞き入れなかった。伝えられたその言葉は流行語にすらなったほどだ。思いを通わせていた婚約者を亡くし傷ついた娘の悲しみに寄り添い、彼女が望んだときに、望んだ者と結婚させると啖呵を切ったとのこと。まさしく掌中の珠のような扱いだ。王はその言を良しとし、アビントンにはさらに領地が加えられた。

 アビントン子爵領において、ロザリーは偶像化された存在だった。柔和で愛されている領主夫妻に生まれた二人目の子どもは、私のひとつ年下である嫡子メルヴィンのときと同じように熱狂的に受け入れられた。その年生まれた女の子は、のきなみローザやリンダという名前がつけられたそうだ。私の後輩にメルという名の男性が多いのと同じ現象だ。
 この領においてロザリンドという存在は、ただ領主の娘であるだけでなく、すべての領民の娘であり、傷心のかわいそうな「うちのお姫様」なのだ。

 なので、わかっていただけるだろうか。
 私が。よりによって貴族ではなく見目も良くはない、財産もほぼない私が。ロザリーの想い人となるのが、どういうことか。

 ――カミソリレターがまじで存在するとはね。このソートスの時代に。

 紆余曲折を経た。いろいろなことがあった。思い出したくない忘れたい。胃痛も殺害予告も乗り越えて、無事に結婚式を終えられたのは奇跡ではないだろうか。おかげさまでアビントン子爵家からの手厚い保護を受けられたし、祝いとしてソートス王から一代限りの男爵位も授けられた。『領地もいるか?』というひとことだけの手紙には、夜を徹して考えた辞退の言葉を返した。ロザリーの出身を考えれば、それは受けるべきだったのかもしれない。けれど二人で話し合って出した結論だった。私たちは、互い以外になにもいらない、と。

 きっかけは、ロザリーが私を見つけてくれたこと。
 けれど、今はきっと、私の方がずっと彼女に惚れている。

 子爵家に育ったとはいえ、戦乱の世で十代を過ごしたロザリーは、想定以上に現実的な考え方をしている女性だった。平民である私を婚約者にすることの影響を冷静に見据えていたし、隠していた脅迫文を見つけられたときには説教までされた。置かれているすべての状況が変わって戸惑う私の気持ちを、誰よりも察してくれたのもロザリーだ。私は彼女を妻にすることを夢に見た。けれど、いつも、どうして私なのかとの気持ちがつきまとう。
 だから、尋ねた。なぜ、私なのか、と。
 たくさんはぐらかされて、逃げられて。私が、やはりこの婚約は白紙に戻した方がいいのではないかと落ち込み、アビントン子爵へとそう打診したときに。あわててやってきた彼女は、真っ赤な顔で言った。

「おっおかおっ、お顔が好きなのですわっ」

 そして、なんどもつかえながら、私の好きなところを列挙してくれた。
 仕事をしている姿がかっこいいところ。はっきりと意見が言えるところ。道を歩くときに虫を踏まないようにしているところ。自分や子どもと話すときに目線を合わせてくれるところ。眼鏡をはずしても素敵なところ。忙しいときに腕まくりをする様子。お顔。深く納得したとき「なるほど?」と語尾が上がるところ。いつもの口調と粗野な言葉の使い分け(とりわけときどき一人称が「俺」になるところ)。数字に強いところ。意外と字がきれいなところ。声を潜めたとき低くてすごくかっこいい。やさしい。でもときどき厳しい。ちょっと物言いが冷たいときもあって悲しくなるけどそこも素敵。あとお顔。

 私は亡くなったかつてのロザリーの婚約者のことを思った。幼少期からロザリーと婚約関係にあり、私もいつぞや遠目に眺めたことがあるが、美男美女でとても似合いだと感じたものだ。彼と私では、容姿があまりにも違うことについて私は述べた。ロザリーは泣きそうな顔をした。

「……不埒ではしたない娘とお思いでしょう。婚約者だったディーとの間には、兄妹のような愛情がございましたの。たとえ燃えるような気持ちはなくとも、互いに支え合って行こうと。平凡な容姿のわたくしに、ディーは釣り合いがとれているようにも思えたのです。穏やかに過ごせるだろうと、ずっと思っていましたわ」

 聞き捨てならぬ言葉があった。尋ねる前に、ロザリーは次の言葉を連ねた。

「……なのに。わたくしったら。ひと目であなたに惹かれてしまって。だって、あなたほどの素敵な殿方、これまでお会いしたことなんてなかったんですもの。こんな、特徴のない容姿のわたくしが、あなたのような方と結ばれることを願うのが大それたことなのは承知しております。……でも、諦めきれなかったのです」

 肩を落として話すその姿に偽りの色はなかった。ためしに彼女へ、私の顔のどんなところが好きなのかを尋ねてみた。両手で真っ赤な顔を覆って、彼女はぽつりぽつりと答えた。重たげなまぶた。小さな瞳。つり上がったまなじり。非対称な眉。ずっしりとした鼻すじと小鼻。薄い唇。基本的に眉間にシワが寄っているところも素敵。しっかりとした顎の線も男らしい。すべてがかっこいい。
 なんということだろう。彼女が述べることはすべて一般的に集まるとあまり好ましくない配合になる要素だが、それらが彼女にとって好ましいのだという。そして、彼女にとって彼女自身は、私の隣に並ぶのがふさわしくないと思える『平凡な』容姿なのだと。
 私は、両親と義両親に感謝した。私をこのように、彼女をこのように、生み育ててくださりありがとう、と。

 そうして迎えた結婚生活だった。早三日。離婚の危機に際して、私は動揺を押し殺しながら尋ねた。

「いったい、どうして離婚をしたいと言うんだい、ロザリー」
「……そっ、そんな素敵なささやき声とお顔で言っても無駄ですわ! 家庭内暴力断固反対です!」

 誓って言おう。私は彼女に手を挙げたことも、声を荒らげたこともない。もちろん職務上、現場責任者となって頭の固い職人たちと渡り合うときにそうなることはある。しかし、それ以外で大きな声を出すことすらない。

「私があなたに暴力を働いたと言うの? それはいつ?」

 ぽろり、と美しい瞳から涙がこぼれた。私は息を呑んでハンカチを取り出したが、彼女はそれを拒否した。

「まあ、なんて白々しい! 初夜の共寝ですわ! あんな、あんな……あんな風に体を引き裂こうとするだなんて!」

 体を折ってロザリーはむせび泣いた。なんのことかわかり、私はあわてる。気をつけてはいたつもりだが、かなり痛がらせてしまった自覚はある。「すまなかった、無理をさせてしまった」と言うと、ロザリーはさらに言い募った。

「――それに、手をつないでくださらなかった! せっかくの初夜の共寝でしたのに!」

 ……そういうものなのだろうか? 貴族のしきたりかなにかだろう。私はロザリーの手を取り、「知らなかったんだ。ごめん。今日からは手をつないで眠ろう?」と言ったが、彼女は「もう遅いですわ!」と私の手を振り払う。

「ウィンビーの祝福を得損なった夫婦だなんて、幸せになれるわけがありません! あなたとはやっていけませんわ! 離婚してください!」

 謎の発言をしてさめざめと泣くロザリーに、その解説を求めることができたのは半刻ほど過ぎてからだった。彼女は言った。

「まあ、ウィンビーをご存じないの? 本当に? だから手をつないで共寝をしてくださらなかったのね?」
「ごめんよ、自分で思っていた以上に習俗には疎いようだ。どうか教えてくれないか」
「……わかりました。ご存じなかったならしかたがありません。ウィンビーとは――」

 曰く。ウィンビーは月の光と花の蜜から生まれた妖精である。
 曰く。ウィンビーは男女の仲を取り持つことができる。
 曰く。ウィンビーは新婚夫婦を祝福し、その生活を実りあるものにすることができる。
 曰く。ウィンビーの祝福を得るには、初夜の共寝のときに手をつないで「ウィンビー、わたしたちのところへ来てください」と唱えて眠らなくてはいけない。
 曰く。その眠りが穏やかなものであれば祝福が与えられた証拠。しかし、そうでなければ、ウィンビーが去ってしまったということ。
 曰く。ウィンビーは祝福を与えた夫婦のところに子どもを連れて来てくれる。祝福をもらえなかったから子どもは連れてきてもらえない。あなたのせいだ。あなたが手をつないでもくれなかったし、いっしょに唱えてもくれなかったし、安らかな眠りも阻害した。ウィンビーはきっと怒って去ってしまった。今もあなたが乱暴をしたところがしくしく痛い。ひどい。こんなさんざんな結婚生活なんて嫌。離婚して。

 私は黙って聞いていた。質問を差し挟まず辛抱強くそこまで聞いた。そしてロザリーが私のハンカチで鼻をかんだところでゆっくりとした口調で尋ねた。

「ロザリー。無知な私に教えてくれないか。ウィンビーが子どもを連れて来るというのは、どういうことだい?」
「いちご畑の真ん中にある子どもの木から、その夫婦にふさわしい子を見つけて運んで来てくれるのです! まあ、それもご存じなかったの?」

 定期的な安らかな眠りはそのために必要なのだそうだ。ウィンビーは夫婦が眠っているときにそっとその間へ赤ん坊を置いていってくれるらしい。

「もしかしたら、わたくしたちの子も選んでくれていたかもしれないのに! きっと連れて帰ってしまったわ!」

 そうして彼女は、思い出したようにまたぽろぽろと泣いた。

 ――私は、ロザリーが掌中の珠のように育てられた女性なのを知っていた。

 激動の時代に少年期を過ごし、不遇をかこつことも多かっただろう。なので貴族女性としてはずっと慎ましやかで、質素であり、現実的な物事の考え方をする女性だと常々思っていた。そしてそれはとても私には魅力的に思える特質だった。今でもそう思っている。しかし。……さすがにこうして、知識が偏っていることは、想像してはいなかったな。性教育が片手落ちというよりは、ほぼされていない状況ではなかろうか。

「ロザリー。ロザリー」

 私はロザリーがかねてから好きだという、抑えた声で彼女の名を呼んだ。その抑揚のまま尋ねる。彼女はそっぽを向いたまま耳を傾けている。

「――ウィンビーは、そんなに薄情なのだろうか。私にはそうは思えない。きっと私の無知を許してくれる。今日から毎晩、私はウィンビーにお願いするよ。どうか私たちの元へ来てくださいと」

 泣くのをこらえるように唇を結んで、ロザリーは私を見た。かわいかった。

「でも、初夜の共寝は失敗しました」
「もう一度すればいい。この前のは練習だったんだ」
「そんなこと、ウィンビーが許してくれるかしら」
「くれるさ。なんたって私は、ウィンビーを今初めて知ったのだから。今日が私の初夜だ」

 私は彼女の手を取ってつないだ。今度は振り払われなかった。アビントン子爵の掌中の珠は、私の妻となった。私もきっと、子爵と同じように彼女を愛するのだと思う。「……ウィンビー、ウィンビー。どうか私たちのところへ来てください」愛さずにいられようか。ロザリーが「……きてください」とつぶやいた。

 泣きやんだ愛らしい妻は、思い出したように小さな批難を口にする。

「それにしても……どうしてわたくしに乱暴をしたの?」

 さて、どう説明しようか。
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