その最強魔剣士には、いかがわしい噂がある

杏 みん

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 「あ……やっぱり、来ちゃった」

 そう言って、ベッドの上の女性は力なく笑った。

 「すみません……ご迷惑かな、とも思ったんですが」

 壁も、ドアも、テーブルもシーツも……病院のものは全て白い。起きる事も出来ない、女性の顔すらも。

 「ごめんなさい、約束を守れなくて……局長さんは、忙しいのに……」

 「そこは、気にする所じゃありません。それより……こんな時に申し訳ないのですが……それでも、こんな時だからこそ、はっきりさせておかなければならないのですが……被害届、やはり、取り下げるんですか?」

 骨と皮になった手を握りしめながら、局長が問いかける。
 その内容に驚いてしまった。

 「被害届を……取り下げる……?」

 一度取り下げた被害届は、再び出す事が出来ない。
 つまりこの女性は、ルークの罪を訴えるつもりが無いという意味だ。

 「はい……あの時は、びっくりして、感情的になって、警察に駆けこんじゃったんですけど……やっぱり、いいかなって」

 「いいかな、レベルの被害ではない事は、おわかりですよね? あなたの剣……あのフライパンには、野菜の美味しさを何倍にもする力があった。だからこそ、あのお店は人気店になりました。なのに……」

 「その剣を出せない程に魔力が減って、店は閉店の危機……なんとかしようと買春に手を出そうとして、その上今は命の危機……ふふ、バカだな~ってわかっているんですけどね、自分でも……」

 体の横に下ろしている手に、思わず力が入る。
 悲惨……今の女性の状態は、悲惨以外の何物でもないからだ。

 魔力は人生。その量次第で、人生が決まる。狂う。
 俺は今、そんな現実を略奪被害者の側から、見せつけられている。

 こんな状況で被害届を取り下げるなんて……正気の沙汰とは思えない。

 「あなたは……知っていますよね。ルークが生きている事を」

 突然会話に乱入した俺に、女性の瞳はぱちくり。
 彼女は戸惑いがちに、局長の顔を見た。

 「……大丈夫です。彼には、知られてしまったので」

 局長は、悲し気な微笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
 やはり。タクシーの中では、否定も肯定もされなかったけれど……俺の憶測は、正しかった。
 
 その自信はすでにあったけれど、二人の反応を受け、息が止まるような緊張感を、改めて感じる。

 「ルークは生きてる。だったら、逮捕して、所定の手続きを経れば、あなたの魔力は取り返せますっ。ですから、被害届けを……っ」

 「魔力なんて……どうでもいいんですよ」

 力を込めた俺の提案を……消えそうな声で、けれど強い意志を感じる言葉で、彼女は跳ね返した。
 
 「何を……魔力なんてどうでもいいというのは、人生なんてどうでもいいと言っているのと同じですよ? あなたはまだ若い! 仕事も、生活も、恋愛も! 魔力さえ取り戻せば、いくらでもやり直せる! なのに……」

 「彼……言ってたんです。仕方なかったんだって……中級の自分が認められるには……上級のフリをするしかなかったんだって」

 遠い目で、窓の外を見つめる彼女。

 「私も中級です。だから、彼の気持ちがわかる……。普通に美味しい。でもやっぱり上級の味にはかなわないよね。今度ボーナスが出たら、上級シェフがいるお店に行こう。そんなお客様の声が、夢の中まで聞こえて来るんですよ。何度も、何度も……」

 悪魔にうなされているかのように、頭を抱える姿をみて、胸が痛む。
 魔力格差社会において、下級魔法使いの苦悩はフィーチャーされがちだが……いわゆる「フツウ」とされる中級には、優と劣の狭間で身動きの取れない苦痛があるのだ。

 「そんな苦しみを彼は分かってくれた。彼もずっと……そういう傷を、抱えて生きて来たんだと思うんです」

 「そん……でもっ」

 どんな不幸や不遇に飲み込まれていようと、罪を犯していいわけじゃない。
 言いたかった。けれど、言えなかった。

 こけた頬を伝う涙を見て……こんなクソみたいな正論は、彼女には通用しないと気付いたから。

 「だからいいんです。私の魔力で、彼が少しでも幸せになれるなら……魔力なんて、おしくない。おしくないんですよ……」

 なんて愚かな。なのに、なんて美しい言葉。

 思わず、息を呑んだ。

 その喉を通り抜けたその息は、胸いっぱいに広がって……奥底に溜まっていた濁りを、一気に浄化していく。

 俺は、目頭に集まる熱を発散させるように、そっぽを向いた。

 ダメだ。警察職員として、感情的に涙するなんて、未熟過ぎる。
 でもこれは……胸の内に押し寄せる様々なこの感情は、制御しきれないかも……っ。

 全力で自分の太腿をつねりながら、局長の方をチラ見する。
 経験豊富な最強魔剣士は、きっとこの場面でも落ち着き払った微笑みを携えているだろう。そのメンタルに、少しでもあやかりたくて。

 ところが……

 「やだ……局長さんまで泣かないでくださいよ……」

 泣いていた。局長は、普通に泣いていた。

 滑らかな頬を滑り降りる雫は、宝石のような美しさ。

 驚きのあまり、俺の涙腺は一気に引き締まった。
 
 「え……あ、本当ですね。すみません」

 そして、もっと驚いたのは……自分の涙に、局長本人も驚いている様子だった事。

 局長は取り出したハンカチを彼女に差し出し、自分は手の甲で雑に涙を拭ってから……一枚の封筒を、取り出して。

 「この中に、小切手が入ってます。実はお店の為にクラウドファンディングを立ち上げまして……すぐに目標額が集まりましたよ」

 「え……? ちょ、嘘でしょう? こんな大金……?」

 中身を見た彼女と同様に、俺も驚いてしまう。あのクソ忙しい日々で、そんな事までしていたとは。

 「これでしばらくの間は、お店を手放す事も無く、療養に専念できます。……私は絶対に、あなたの前にルークを連れて来ますから……その日まで、持ちこたえてください」

 女性は、泣いた。『ありがとうございます』と繰り返し言って、泣き続けた。
 その薄い背中を、局長は撫で続けた。

 彼女が泣き止むまで、ずっと。……ずっと。

 その優しい手の動きを、じっと見つめる。
 すると……俺の心はじんわりとあたたまり、次第に熱を帯び、静かに燃え上がった。

 それが、自分の中に確かな覚悟が芽生えた証だと……俺ははっきりと感じていた。
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