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第6章 Overture Voice
13.
しおりを挟む「泣くなよ」
早瀬が、頬に零れたあたしの涙を指で拭う。
一切の僻みがない、その純真な瞳を細めて笑う。
「泣かれたら、続けられねぇから」
あたしは唇を引き結び、両手で目をごしごしと擦って言った。
「ごめん。続けて」
あたしの覚悟を見たのか、早瀬は軽く笑った。
「……無性にお前に会いたくてたまらなくて。一度、呼び鈴鳴らしたんだよ、お前の家の」
「え……」
「門前払いさ。その頃の俺、かなり廃れていただろうからな」
そんなの初めて聞いた。
「その後組織が解体されたから、十七の高二の夏に俺と棗はお前の居る高校に入った。地下育ちであるのなら、手立ては幾らでもある」
早瀬はやるせなさそうに笑った。
「だけど、お前は高嶺の花で、眩しすぎて」
眩しそうに目を細めて。
「あたしは……」
「お前が自覚してねぇだけで、お前はモテてたんだ。綺麗で優しくてピアノが出来て、有名人の娘で。……声をかけられなかった」
早瀬はモテているとは聞いていたけれど、早瀬の姿を高校前期で見たことがなかったのは、いなかったからなのか。
どれだけ早瀬のことに興味がなかったんだろう。
「棗は偶然装って、時折お前に声をかけていたけれど、お前の記憶に留まらない程度が精一杯で。俺は……お前に近づきたいのに近づけなかった。だからピアノを必死に覚えた。お前の気を引くために。元々指は器用だったから、組織で聞いたことがあった曲なら、なんとか出来た」
組織であの曲が流れていたというのは凄いけれど。
――クラシック、教えてくれね?
心が九年前に戻る。
あたしを苛み続けた、九年前に――。
「お前とふたりきりになれても、いざとなれば、俺は礼が言えなかった。言ったらお前と世界が違うことを認めることになる。同等でいられなくなる。……これ以上、決定的な差をつけたくなかった」
「……っ」
早瀬は、深呼吸をしてから、あたしの目を見つめながら静かに言った。
「……お前が好きだったんだ、俺」
ああ――。
あたしが、欲しかった言葉だった。
「助けられた時から、ずっと……俺はお前を見ていた。会えば会うほど、欲望が膨れあがって……恋い焦がれて、お前が欲しかった」
ダークブルーの瞳に透明な膜が張られて――、
「荒んだ俺の人生の中で、音楽室でお前と過ごした時間をどれだけ大切に、どれだけ嬉しく思っていたのか」
つつ……と頬に流れ落ちた。
「好きでたまらない女を抱けて、どれだけ幸せだったのか」
早瀬にすべてを捧げた。
早瀬に抱かれて、あたしは嬉しかった。
……幸せだった。
「それなのに、俺は――っ」
あたしの目からも涙が零れる。
彼の心はわかった。
あたしは騙されていたわけではなかった。
……不思議と、素直にそう思えた。
「……教えて欲しい。九年前、なにがあったのか」
あたしは泣きながら訊いた。
早瀬は涙で濡れた目を激しく揺らして、そして苦しそうに細めた。
そこからこぼれ落ちる涙は、強い悔悟の念に満ちていて、見ているだけで胸が突かれる。
強靱な早瀬の姿は儚げに見え、早瀬が消えていかないように……あたしは早瀬を抱きしめ、その広い背中を撫でた。
彼の身体の震えが直に伝わり、あたしも嗚咽を漏らす。
それでも、ここを乗り切らないとあたしは早瀬と前に進めない。
またいつものように、昔に戻ってしまうから。
「話せるだけでいい。早瀬の心があたしを騙していなかったのなら、未来へ、進ませて。あたしも、早瀬も……」
そう言うと、早瀬の大きな手があたしの背中に回った。
「……お前の」
そこで早瀬の言葉が途切れてしまう。
「あたしの?」
「……っ」
「早瀬?」
「……お前の命が、かかっていたんだ」
「え?」
「組織を……甘く見てて。俺と棗が潰したのに。お前に会えるまで、あんなに時間がかかったのに……まだ生き残っていて。学校にも居て」
早瀬の頭があたしの肩に埋められた。
組織って自然に解体されたのではなく、早瀬と棗くんがどうにかしたということ?
「……お前の家にも居て」
「え……」
「お前に、汚ぇ手で触れるなと言われてっ」
うちに来たの?
それとも裏でやりとりがあったの?
誰に言われたの?
だけどそれは、声になって出てこなくて。
「だから俺は……賭けに出たんだ。上手くいくと甘く見ていた。上手く収めれたらお前に、好きだと言おうとした。穢れのねぇお前に、お前が好きだと、お前が必要だから傍にいて欲しいと、愛して欲しいと、言おうとしてたんだ。俺は……」
――俺にだって……伝えたい言葉はあったんだ。……九年前から、あんな形ではなく。
「それなのに、気持ちが抑えられずに、音楽室でお前を抱いてしまって。俺もお前も初めてだったのに……。だけどそれを力にして、次の日に言おうと、あの後……いつもは蹴っていた、俺の本当の身内だとかいう奴らと会うことを承諾した。組織に監視されていた俺に連絡を取れた奴らなら、組織との上と知り合いということになる。だから俺は、組織を抜けることでの俺とお前の安全の保証を、そいつらに……っ、だけど……」
早瀬の声が震えた。
「……そいつらは、組織の連中となにも変わらなかった。あまりにも非道で、あまりにも身勝手な奴らで。誰のせいで俺がこんな目に遭っているんだと思って……決裂してしまった」
「………」
「最後の切り札を失った俺は、自作自演で倒れ込んだ奴を嘲笑ったよ。そこまでしてどうだ? それでもあいつらは、まるで助けようとしてねぇじゃねぇか。やるだけ無駄だ。やるだけ滑稽だ。身体を張っても、話が通じる連中じゃねぇんだから。こいつらに会いに来たことが間違いだった」
「………」
「……それでもな、俺は……僅かには期待してたんだ。血が繋がっているのなら、暖かい血が通っている人間であるのなら、苦しんでいる俺を理解してくれるんじゃねぇかって。唯一中立でいようとしていた奴なら、話が通じるかもしれねぇと最後まで訴えた。だけどあいつは……、自作自演の方についた。俺は……見向きもされなかった。俺も倒れて気を引けばよかったのかよ……」
ぎゅっと苦しいくらいに抱きしめられて。
「……次の日、組織から……選択を突きつけられた。あいつらに助けを求めようとしていたことを知られ、逆手にとられた。……永遠に抜け出ることが出来る代わりに、金輪際お前に近づかねぇか。永遠に組織の闇に沈められる代わりに、お前に気持ちを言うか。……俺が組織と縁がある限り、お前に危険が及ぶ。お前は、俺を道具にしてぇ組織に利用される。……だから俺は、前者を選んだ。組織をきっぱり抜け出れれば、いつか……無事なお前と、また必ず出会えるからと」
「……っ」
「……最低な選択を選んだ俺は、最低な酷い奴だとお前に背を向けて欲しい一方で、お前に忘れないで欲しくて、お前を傷つけた。せっかく男装しているのに、棗に頼んで。……俺は、お前以外の他の女には触りたくもなかったから。思ってもいねぇ言葉で、お前を傷つけた」
――上原サンから去った後、須王は震えながら泣いていたの。噛みしめた唇から血を流して、そして……壁に頭と拳を叩きつけて、泣き叫んでいたわ。
「事情を教えてくれれば、一緒に考えれば……」
九年前に何らかの早瀬からの相談があれば、あたしも理解出来た。
「巻き込みたくなかったんだよ。組織は俺の問題だ。お前は……日の当たるところに生きるのが相応しいから。……俺のような地下ではなく」
「そんな……」
最初から線を引いているのは早瀬じゃないか。
「お前の指……俺のせいなんだろう?」
早瀬はあたしの左手に指を絡ませ、動かない薬指に唇を寄せた。
「綺麗なピアノを奏でていた指だったのに」
あたしの目にぶわりと涙が溢れる。
「俺が好きな……音楽を作る指だったのに」
感覚を無くしてしまっていたはずの薬指が熱い。
「本当に、すまなかった」
――自業自得とはいえ……もしかすると須王は、あなた以上に傷ついていたかもしれない。虚ろな目をしてゾンビみたいだったから。いっそ死んだ方が楽なんじゃないかと思うくらい。
「これは、別に早瀬のせいじゃ」
「俺のせいだ。お前は優しいから、ひとのせいにしねぇが、幾ら俺でもわかる。お前に傷を作ったから、怪我をするに至らせた。俺が階段から突き落としたようなものだ」
早瀬は、顔に凄惨な翳りを作った。
「……お前を守りたいはずがお前を苦しめていくことを知った。それでも俺は、どうしてもお前の想いを断ち切れなかった。組織を出ればまた会える……そう思っていた。監視を欺くためとはいえ、言った言葉は取り消して、時間を戻せると高を括っていたんだ。思えば俺は、すべてに対して甘すぎて……お前の行方がわからなくなった時に、いや、お前をフッたあの時から、俺は取り返しのつかないことをしでかして、お前との縁は切れてしまった現実を知った」
「……っ」
「だけどどうしても会いたかった。普通の男女のように、今度は命の危険が出る組織なんてものが絡まない、対等な立場で。戻れないとわかっていても、それでも……、仕切り直しをしたいと淡い希望を抱いた」
その頃あたしは、生きていくのに必死で。
早瀬につけられた傷を塞ぐのに懸命で。
「お前はピアノが弾けなくなっても、必ず音楽に携わっていると思った。あんなにお前は、音楽を楽しそうに語っていたから。だけど調べてもお前を見つけることが出来なくて」
あたしは――、音楽と無縁な大学時代を送っていた。
「いつか会えるように、組織から出た俺は音楽を選んだ。ひとへの攻撃を植え付けられた俺が、ひとの心を癒やす音楽を作ることの滑稽さに、内心自嘲しながら、いつか……昔とは違う俺の姿を、お前に見て貰えたら。また会えたら今度こそ俺は、お前の心を守る側に……味方に立ちたいと」
「………」
「……俺の音楽は、伝えられなかった俺の想いだ。お前に会えなかった九年間、言葉の代わりに音に込めてきた。音を通して、お前に告げていた。いつでもどんな時でも……好きだって。苦しめて悪かったと。だから、また……音楽であの笑顔を見せて欲しいと」
罪悪感を滲ませる早瀬の愛情に、胸が痛い。
あの素敵な音楽に、込められたメッセージをあたしは無意識に受け取っていたのだろうに、それでもあたしは早瀬を嫌ってきた。嫌いだと、本人に告げた。
早瀬を拒絶していたあたしに、早瀬はどう思っていただろう。
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