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第5章 アムネシアは蜜愛に花開く
蘇るアムネシア
しおりを挟む「巽、お前はこの女に騙されているのよ」
「母さん。いつも言っているけど、俺が杏咲を好きなんだ。昔からなにひとつ変わっていない」
「巽!!」
義母が悲痛さを強めて叫んだ時、突然会場が暗くなった。
停電だろうか。
電話が繋がらないと騒いでいるひともいる。
その数秒後、壇にある大型テレビに映像が映り、同時にスマホも勝手に映像が映し出されたようだ。
――CMだ。加賀社長の仕業か。
なぜ一斉に流れたのかはわからないが、怪奇現象のようで場はざわめく。
画面の中で切ないピアノの旋律に乗って、巽が歩いてくる。
噴水の前にいるのは、ハゲハゲの口から下しか映らないわたし。
なんとか肌荒れも隠してくれたようで、美女に見えるから不思議だ。
巽が前のめりに体勢を変えながらわたしに口紅をつけ、不意にくしゃりとして笑う。
そして一瞬にして、欲情した蠱惑的な男の顔を見せ、アムネシア色に煌めくわたしの唇を奪った。
わたしは気づいていなかったが、彼はカメラから遮るように掌でわたしの顔を隠し、本当のキスをしているところだけを見せつけると、挑発的な目をカメラに向け、わたしを抱きしめながら意味ありげに笑う。
『艶づくきみを奪いたい』
そんなキャッチと共に、バイオリンが絡みついた音楽が激しい旋律を奏で、最高潮の盛り上がりを見せたところで、商品名が字と共に男性の声でアナウンスされる。
『溺恋――アムネシアは蜜愛に花開く』
……これは男性の、巽視点の溺恋だ。
蕾だったわたしは、巽によって大輪の華となり、奪われた。
十年前のあの日、枯れて散ったアムネシアを、巽は鮮やかに蘇らせたのだ――。
「電波ジャックだ……」
誰かがそう呟いたのがわかった。
「全国のテレビやネットも、このCMが流れているらしい」
「ハッキングか!?」
加賀社長は、否応にも全国民を釘付けにさせる、強行かつ派手な方法をとったようだ。
CMは他に四バージョンあった。
それぞれに音楽が違い、どれもわたしの顔は口しか出ないが、わたしの口の動きや、わたしと話している巽の表情が感情を語っていた。
いつ撮られたのか記憶がない巽の表情がある。
わたしを小突いたり、甘やかだったり、切なそうだったり、映像の中のわたし達は、とても幸せそうに見えた。
わたしは、巽の愛おしむような眼差しに静かに泣いた。
好きだ。
どうしてもわたしは、巽が好きだ。
巽が手に入るなら、他になにもいらない。
巽だけが欲しい。
この恋を、諦めたくない――。
強制終了を告げるように電気がついた時、壇上に戻っていた巽はマイクを握っていた。
「私達アムネシアが作った溺恋に、詳しい説明は致しません。ただ、常識や理屈を超えて恋をする者達や奪いたいと思えるほどの相手に出会った男女が、幸せになって欲しい……そう思って開発しました」
巽の艶やかな声が静まりかえった会場に響き渡る。
「私も恋をしています。二十年以上も前から、巷では気持ち悪いと思われる類いの恋でした。そのせいで悩み、荒れて、死にたくなりました。親の理解も得られませんでした」
――この売女っ!!
わたしの目からぽたぽたと涙が零れる。
「好きで、好きで。たまらなく好きで。そのひとの存在が生きる理由になっていて、諦めたくても諦められない人間に、そこまで恋に溺れ、弱って死んでしまいそうな人間に。気持ち悪いとかいけないものだと否定する前に、この気持ちが本物なのだと、辛いほどの本当の恋をしているのだとわかって貰いたかった」
巽は語りかける。
ただひとりの母親に向かって。
「すべてを捨ててもいいと思える俺の恋を、一時の気の迷いとか、アズを狂ったように言わないでくれ。二十年も抱えた俺の想いを、偽りにしないでくれよ。あんたのものさしで、俺の気持ちを測らないでくれ。俺は……あんたの道具じゃない。俺を育ててくれたたったひとりの親を、俺に捨てさせるなよ」
巽が声を向けた先は、唇を震わせていた。
「杏咲を認めてほしい。頼むから、杏咲を俺を理解しようとしてくれ。……お願いします」
わたしも嗚咽を堪えながら、頭を下げる。
巽と血が繋がっているのだから、わかるはずだ。
巽が抱えたものを。
捨てたくないと叫ぶ巽の心が、どうか伝わって欲しい。
静まり返った中、隣から凛とした声が響く。
「……杏咲も巽くんも、ずっと心に疵を負い耐えてきました。血の繋がりもないのに」
香代子だ。
「もういいじゃないですか、ねぇ、お義母さま。CMを見たでしょう? あれがふたりの偽りない姿なんです。幸せそうで互いを必要としているのがわかったでしょう? 他人のわたしですらわかったのだから、お義母さまにはもっとおわかりのはず。息子さんの気持ちが。そして杏咲の気持ちが」
「香代子……」
ぱらぱらと拍手がまた湧き、それは次第に大きくなった。
「認めてやれよ」
「認めて下さい」
観衆が声を揃える。
「あんな幸せそうなふたりを、引き離さないで」
「CM、凄くよかったよ」
「どうか頑張って」
認めようとしてくれているのがありがたくて、わたしも巽も、皆に頭を下げた。
わかってくれようとしているひとがいることが嬉しくてたまらなかった。
ああ、こんなにも世間は温かかったのか。
勝手に非情にしてしまっていたことを後悔するほどに。
「私は――鬼母なんですか?」
義母の声に静まり返る。
「たかが恋如きに溺れる息子を正しく導いてはいけないのですか? 私は息子を産んだ母なのに」
巽には女を押しつけながら、母でいたいと悲痛に叫ぶ。
どれが義母の本音?
……きっと、どれもが本音なのだろう。
先に生きているからといって、矛盾なきものを抱えられるほど、ひとは強くない。
間違って壁にぶちあたって、泣き叫んで。
そうして見えてくるものがあったっていいじゃないか。
それを言えるのはきっと、同じ〝女〟であり、巽と同じ〝子供〟だったわたししかいない――そう思い、わたしは声を上げた。
「〝たかが恋如き〟と決めつけるのは、ただの我欲です。お義母さん」
わたしは言った。
「大人になり親のように誰かに恋をする子供に、庇護をする母の役目に限界がくることはお気づきのはず。だけど、限界が見える母の役目と、母子間の愛は同等ではない。母子の愛は限界はなく、永遠です」
「……っ」
「若くても老いても母は母。子供にとってはなにも変わらないことに、気づいて欲しいのです」
義母は寂しくて、怖れているのだ。
またひとりになることを。
「あなたと巽は血が繋がっているというだけで、無条件で絆がある。その領域に他人が踏み込めないだけの強固なものがあって、なにを怖れるのです? 巽はお義母さんを捨てません。わたしがそんなことをさせやしません。母親の顔をよく思い出せないわたしにとっても、あなたは母なのです」
孤独を嫌うからこその執着と独占欲。
「だから安心して、巽に無償の愛を注いであげて下さい」
巽に捨てられたくなくてセックスで愛を感じ取ろうとしていた……恋にも似た歪んだ溺情は、いつかは聖母のような慈愛に変わると、わたしは信じたい。
「巽の声に、どうか耳を傾けて下さい。聞こえるはずです、巽の心の叫びが」
つぅと義母の目から涙が零れた時、義母はくるりと背を向けて言う。
「あなたも巽も、ここに来いとうるさくて。なにが始まると思ったら、とんだ茶番だわ」
巽もまた、義母を呼んだのか。
呼んで、わかって貰いたかったのか。
すべてを公にしてもいいほど、彼も切羽詰まっていた。
「……いい加減、シュークリームは飽きたから、今度はケーキにして」
「え?」
「それと、呪いの手紙はもうやめて貰える? 捨てるに捨てれないじゃないの」
――アズちゃん、お母さんと美味しいケーキを食べよう。
――お風呂、一緒に入ろうか、アズちゃん。
「またね、アズちゃん」
そして彼女は扉に向かって歩いていく。
わたしの頭を踏みつけるほどの憎しみを持つ、義母なりの精一杯の譲歩だったのだろうと思う。
それでもほんの少しずつでもいい、歩み寄ってくれようとしているのなら、少しずつわたし達の声に耳を傾けてくれようとしているのなら、昔のような関係を築くことが出来るのではないか――そう思うわたしは甘いのだろうか。
わたしは義母が好きだった。
――アズちゃん、初めまして。ほら、巽。ご挨拶をなさい。アズちゃんよ。
――アズちゃん、はい、あーん。巽もあーん。
母親の愛を知らないわたしにも、巽同様の無償の愛情を注いでくれたひとだったから。
――この売女っ!
……憎まれた過去は変えられない。
だけど未来は変えられると、そう信じたい――。
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