水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~

楪 彩郁

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奪われたファーストキス

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 焦らず、しかし普段よりは速めのペースで、波音は食事を進めていった。碧は先に食器を流しに下げ、二階へと上がっていく。恐らく、着替えをしに行ったのだろう。その間、波音はベーコンの欠片を飲み込みながら、周囲をぐるりと見渡した。

(今のところ、私ができることって少ないような……)

 碧は波音をこき使うと宣言したのだが、昨日も思った通り、家の中は整理整頓され、片付いている。どこかが特に汚れているとか、飼っている生き物の世話が必要だとか、そういったこともなさそうだ。できることと言えば、一般的な、掃除・洗濯・皿洗いのような日課だけに思える。

 元の世界に帰れるようになるか、渚のところに移されるまで、しばらくは碧に世話になるだろう。碧の思うつぼかもしれないが、できることは何でもやっておこうと、波音は決めた。これ以上、一つの文句も言われたくないからだ。碧に対する、ちょっとした対抗心。

(もう、『アホ』『馬鹿』って言わせないから)

 波音が食べ終わる頃には、碧も着替えを済ませて降りてきた。今日も練習に最適そうなスウェット素材の運動着だ。灰色のタンクトップに黒のズボンというシンプルな組み合わせなのに、碧が着ると格好良く映る。鍛え上げられた胸筋と腕、背中がはっきりと分かるからだろう。

「食べ終わったか?」
「はい。ごちそうさまでした。おいしかったです」
「じゃあ、風呂入ってこい」
「えっ、でも。これの片付けと皿洗い……」
「いい。俺がやっておく。お前が出掛けられそうなら、後で一緒に服と靴を買いに行くぞ」
「あ……はい。ありがとうございます」

 波音がきょとんとしている隙に、碧が手早く食器を下げていく。そのまま流し台で洗い物を始めてしまったので、波音は素直にシャワーを借りることにした。

(や、やっぱり、優しくなってる?)

 償いはしないと断言したのに、やはり気にしているのだろうか。台所横の脱衣所へと入った波音は、そこで想定外の光景を目の当たりにする。

「わ……」

 大きめのタオルと、淡い青色のシャツが、きちんと畳まれて置かれていた。波音の為に碧が準備してくれたに違いない。シャツを広げてみると、男性用の大きさで、波音が着ればワンピースとして誤魔化せそうだ。

(こんな至れり尽くせり……ずるい)

 波音は、皺ができない程度の力でシャツを抱きしめ、先程から鳴り止まない鼓動を落ち着けようとする。それなのに、清潔感のある爽やかな洗剤の香りが碧のものと同じで、それは加速するばかりだった。
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