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第三十話 姉妹
しおりを挟む服を着て漸くまともな恰好に戻れば、緊張した面持ちのエステルと視線が合う。
「見苦しい物をお見せしました」
「いえ……」
まずは自分語りから始めようか。彼女の信頼を得る為に。
私は生粋の貴族である彼女に膝をつき、口を開いた。
「お気づきかもしれませんが、私は騎士です。カルペラ公爵家に雇われておりました」
カルペラ公爵家の名前が出た途端に彼女が手を強く握ったのが見える。
目を大きく開き、私が急に剣を突き立てやしないかと怯えた視線を向けて来た。
「ある日、貴女の事を殺せと言われました。エステル様の宿した御子が将来この国に災厄を齎すだろうから、その前に処理をしろと」
嘘と真実を交えて語る。真実を混ぜなければ、私の心は届かないだろうから。
震える彼女に、出来るだけ優しく見えるように微笑みかけながら言った。
「けれど殺したくなかった」
エステルの震えが、私の言葉に驚いて止まった。
「将来不幸を齎す程の力があるならば、その子が愛を知り、この国を愛したならばきっとこの国を救う力にもなるだろうと。そんな希望を愚かにも抱きました」
「え……」
エステルの目に光が宿る。自分を連れ去った不審者の言葉が、少しずつ彼女に届くのが見て分かった。
「私が剣を握った時、この国と親しい人を守る為に力を揮うと誓いました。けれどエステル様と生まれる子を殺してしまったら、私はきっと私ではなくなるでしょう。人には馬鹿だと言われるでしょうが、私は貴女に一つの選択肢を用意しました」
「選択肢……ですか」
「はい。私と共に逃げませんか?」
そんな提案は思いもよらない物だったのだろう。彼女は目に見えて硬直してしまう。
「このままニクライネン侯爵家に行った先で、どういう待遇が待っているか知っていますか?」
「……薄々は」
さっとエステルの顔色が悪くなった。どうやら彼女の親は覚悟をさせる為なのか、予め伝えておいたようだった。
「食事に飢える事はありませんが、狭い一室から自由に出る事は叶いません。庭に出る事さえもです。子が生まれたら、抱く事も出来ずに直ぐに引き離されるでしょう」
ただ、生きているだけである。
籠の中の鳥という立場が受け入れられず、若い彼女は壊れていく。これはそんな運命の転機なのだ。
「貴女と共に行けば、違うと?」
「小さな山間の村を用意しました。私を信頼してくれている純朴な村人達です。その場所は冬は雪に閉ざされ、外部とは暫くの期間遮断されます。時期的に少しの間エステル様は子を抱く事が出来るでしょう」
「その後は?」
「王族の赤子を連れ歩く事は出来ません。けれど、エステル様だけなら守れます。御子と共に戻るか、それとも離れて私と共に平民として暮らすか、その時に選んでください」
エステルは私の言葉に沈黙し、何かを考えるように深く俯いた。そして暫く熟考した後、顔を上げて理知の目で私に言った。
「それを、信じろと?」
信じられないなら、私にこれ以上の手は何もなかった。
全てを曝け出した苦笑いで肩を竦めようとし、怪我の痛みを思い出して止める。
「信じられないならどうしようもありません。私はエステル様を拘束しません。お戻りになるつもりなら、諦めるしかないでしょう。止めはしません」
本当に、現状ではやりようがないのだ。エステルを殺さないとするならば。
せめて彼女に語る言葉が未来を変えるかもしれないという、微かな可能性に賭けるしかなかった。
「けれどどうか、一つだけ言わせて下さい。……この国の民を愛して欲しい。貴女の子供が同じように愛せるように」
それは多分、今の彼女には難しい注文だろう。
代々王族の世話をするという職業を継ぐ家に生まれ、成長すれば直ぐに閉ざされた王宮で生活を始めたのだから。
しかし私はこの為に命まで懸けて来た。矢で射られたこの姿をエステルも見たのだから、少しぐらいは耳を傾けてくれる事を願う。
「拘束もしませんから、とりあえず私と共に行動してからの判断でも構いません」
彼女は再び自らの思考に沈み込んでしまった。結論を出すには時間が必要だろう。
そう思って立ち上がり外に向かう。一人にさせてあげようかと思ったのだが、そんな私を呼び止める声があった。
「セレナ。貴女を信じます」
「……宜しいのですか」
予想以上に速い結論に、思わず立ち止まってまじまじと彼女を見つめてしまった。
けれどエステルは強い視線で私を見ていた。それは、少女と言うよりも既に母親の力強さだった。
「この子を宿した時、誰も祝福などしてくれませんでした。私の父でさえもです。皆が皆、とんでもない事をしてくれたと。子供まで作ってどうするのかと。私の子供は皆に眉を顰められました」
その言葉に彼女の苦悩を垣間見る。今に至るまで周囲から散々責められた事だろう。
命まで狙われて気の休まる時間はなかった筈だ。
けれどエステルは、この少女は、確かに自分の子供を愛していた。
「貴女は初めて私にこの子の明るい未来を語ってくれた。この子を信じてくれた」
ほろりと彼女の眦から涙が零れ落ちた。窓辺からの光に照らされて、金の髪が美しく輝く。
自分の子供の為に泣く彼女は、まるで聖母のように清らかで尊い存在に見えた。
「だから私は、貴女を信じます」
それは私が真実心から望んでいた言葉で、言われるとは思っていなかった言葉でもあった。
エステルがセレナを信じる確率はとても低く、そうなればどうにかして次の手段を考えるしかなかった。
それは恐らく、もっと強硬で多少の犠牲を含めたものになっただろう。
けれど彼女はセレナを信じた。それは彼女自身が選んだ唯一の救済の道だった。
「ありがとう……ございます」
余りにも彼女の姿が眩しくて目を細めた。母親というものはこの世で最も強い存在に違いない。
守らねばという決意を一層強くする。私は親愛の表情を浮かべ、エステルの手を取り恭しく口づけした。
それを当然のように受けるのは貴族令嬢の育ちの良さ故だろう。教える事が多そうだと少し笑う。
「それではエリー。貴女は今から私の妹だ。貴女は裕福な商人の夫に嫁いだものの、酷く暴力を振るわれたので姉と共に逃げる事にした。これを誰かに事情を聞かれたら答えるようにしてほしい」
急に荒々しい口調に変わった私に目を白黒させながらも、エステル改めエリーは頷く。
「分かりました」
「言葉遣いも変えなければ。平民ならば姉に『分かったわ』と言う」
「わ、分かったわ」
慣れない言葉遣いに急にエリーの顔が曇る。
外に一人で行くなんて経験はした事がなかったエリーが、未知の生活に不安になるのは当然だった。
その不安を晴らす為に私は彼女の手を握って明るく言った。
「エリーが何か失敗したとしても、私がどうにかする。だから……そうだな、楽しむといい」
「楽しむ?」
「ああ。平民の生活というものを。観光の気分で。そうした方が、逃亡中でもいい思い出が出来るだろうから」
エリーは呆気に取られた顔をした。こんな状況でまさかそんな事を言われるとは思わなかったのだろう。そして感心したように言った。
「……姉さんは変わった人ね」
それは全く適切な表現だったので、尤もらしく頷く。
「私はこの国で最も楽天的な夢想家に違いないだろうね」
気が抜けたのか初めて彼女は年相応に笑った。彼女本来の明るさが垣間見える笑顔だった。
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