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こつこつ学徒編
102.イワンの新生活 後編
しおりを挟む「ようこそいらっしゃいました。プース様、イワン様」
やたら綺麗なおばさ……ご婦人が扉の前に立っていた。門からここまで相当な距離があったため、イワンは何とか意識を取り戻した。もう何が来ても驚かないと心構えしていたので、その綺麗なご婦人にも動揺することはなかった。
むしろ予想範囲内だ。あんなに可愛いウィリアちゃんの過ごしていた家に美人が居ないはずがない。
わけのわからない理論だが、あながち間違いというわけでもなかったのが幸いしたようである。
「マリー殿ぉ、今日はイワン殿をお連れしましただぁ」
「ええ、ありがとうございます。プース様。旦那様から聞いておりますよ。ウィル様からの御推薦だそうで。旦那様にはイワン様を執務室にお通しするようお達しを受けておりますけれど……プース様はこの後のご予定はいかがでしょう?」
ご婦人の名はマリーというらしい。優雅な言葉遣いで話すマリーに尋ねられてプースが笑顔で首を横に振った。
「そろそろ商会の方も気になってますんでぇ、オレはお暇させていただきますだぁ」
「承知いたしました。再度申し上げますが、本日は誠にありがとうございました。わざわざ御足労いただいて、御手数お掛けいたしました」
イワンがシツムシツ?と頭をフル稼働させて言葉の意味を考えているうちに、優雅にお辞儀したマリーに見送られてプースはさっさと退散していた。
気付いたときにはもう遅い。
イワンがはっと顔を上げた時には、その場には笑顔のマリーとイワンしか居なかった。
「さ、イワン様。お入りくださいませ」
ぼうっとしているイワンに、扉を開いたマリーが笑みを浮かべた。
「ひょ……!?はっ!はい!」
様付けされた驚きに変な声が出るが、マリーのその綺麗な笑みに何故か鳥肌が立って、イワンは声を裏返させながらも返事をしてすぐにきびきびと動き出した。
それでも扉の向こう側に広がっているのは、今まで見た何よりも柔らかそうな絨毯だ。心拍数を最高値にしながら恐る恐る足を踏み入れる。
もふ。
「……っ!?」
靴が沈み込んだ。また変な声が出そうになったイワンは慌ててそれを飲み込む。
急に自分のブーツの泥汚れが気になり出す。後ろで扉が閉まった音がした。イワンにはその音が魔物の雄叫びに思えた。
しかもニコリと笑ったマリーがずんずん先に行ってしまう。もう諦めるしかないのだろう。
勇気を振り絞ってイワンは歩み出す。
長い廊下の両脇の壁には絵画がかけられている。ところどころその壁に穴が開けられており、その中には皿やら花やらが飾られていた。
いったいいくらなんだろう。
一瞬そんな考えがイワンの脳裏をよぎったが、それはきっと考えてはいけないことだ。イワンは努めて、マリーの背中だけをジッと見つめるようにした。
しばらくマリーの背中を追いかけていると、マリーが立ち止まった。時間にすればほとんど立っていないのだが、イワンには数時間にも思えた。汗がしたたったような気がする。
見ていると、マリーは立ち止まった目の前の扉に静かにノックした。
「旦那様、イワン様をお連れしましたよ」
「入れ」
黒い重厚感のある木製の扉の向こうから、爽やかな印象の声が聞こえた。イワンはピクリと肩を跳ねさせる。
どうするんだろうとマリーを見れていれば、扉をためらいなく開くと開いたまま廊下の脇に立ち止まってしまった。
「え……っ?」
イワンが小さく声を漏らすと、マリーは会釈とともに腕で扉の中を差し示した。
中に入れということだろうか。世は非情だ。イワンは、マリーの背中しか見ないかことで何とか平静を保っていたというのに。
でも従うしかない。イワンはもはや泣きそうになりながら、見るからに高そうな扉をくぐった。
部屋に入ったイワンの目に最初に飛び込んできたのは、紙の山であった。というか、紙の山しか見えない。いや、確かに落ち着いたの赤の絨毯や、分厚い1枚板の机などところどころ見えてはいるのだが、メインはやはり紙の山なのだ。
イワンは頭の上に並べられるだけのハテナマークを並べたてた。
「そのあたりにでも立っていてくれ」
しかし、笑顔のマリーに目で中に入れと言われてしまったからには、入るほかない。イワンが足元にも積まれている紙の山を崩さないよう、細心の注意を払ってそろりそろりと歩いていると、机の上の一際大きな紙の山の方から、そう声をかけられた。
「は、はいっ……」
爽やかな青年のようなその声は優しげな響きを持っているのに、イワンには逆らえない何かが感じられて、咄嗟にそう返事をした。少々声が裏返ってしまったのはご愛嬌だ。
慌てて立ち止まったイワンだったが、そこで唐突に、ついさっきのプースとマリーの会話を思い出してしまった。
『旦那様にはイワン様を執務室にお通しするようお達しを受けておりますけれど……』確かにマリーはそう言っていた。ということは、ここには旦那様とやらがいるのではなかろうか。こんなすごい屋敷に住む旦那様だ。ものすごく偉い人に違いない。
イワンはピシリと姿勢を正した。
そして、先ほどの声。紙の山から声をかけられた。このことから導かれる結論は、だ。
「ははーっ!」
イワンは流れるような所作で、土下座をした。きっとあの紙の山こそが『旦那様』に違いない。残念ながら、獣人差別の国に居たイワンにはその旦那様の種族は、検討もつかないが、何にせよ絶対偉い人だ。部屋に入ったときからそんな感じの空気になったのだから。
粗野者であるイワンにでも感じられる雰囲気なのだから、相当なものだろう。
イワンはそう考えながら床に額を擦りつけていた。
「……は?」
そんなカオスな状況の中、キアンの困惑の声がやけに部屋に響いた。
◆
「はっはっはっは……」
キアンが腹を抱えながら、目尻に浮かんでいた涙を拭った。笑いすぎである。酸欠で指が震えている。
一方、笑うキアンの前に立つイワンは、顔を俯かせて真っ赤にさせている。
「……そういう種族の方かと思ったんだ……」
搾り出すように呟かれた言葉に、キアンが更に肩を震わせた。イワンはついに耐え切れなくなって、顔を両手で覆う。
ベリル領ではじまるイワンの新生活は、どうやら順風満帆になりそうだ。
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