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アイラス殿下の屋敷に来て半月が経とうとしていた。
彼が以前言っていた通り、この屋敷にいる人達は口数こそ少ないがとても優しく、私は平穏で穏やかな日々を過ごしていた。
「本日はどのお召し物になさいますか?」
私は短くなってしまった黒髪を侍女にセットしてもらいながら、ターシャが並べてくれた色とりどりのドレスを眺めた。
「藍色のドレスにしようかしら」
レオンハルト様と婚約していた時は、彼の瞳と同じ空色のドレスばかり着ていたので、今でも自然と青色ばかり選んでしまっていた。
「……いつも青系のドレスをお召しになられているので、気分を変えてこちらのドレスなんていかがでしょう?マーメイドラインでティアラ様にとても良くお似合いかと思うのですが……」
ターシャが持ち上げて見せたそのドレスは、アイラス殿下の瞳と同じ鮮やかな深紅のドレスだった。
「そんな大人っぽいデザインは似合わないわ」
「そうでしょうか……」
心なしか肩を落しながらターシャは言った。
あくまで形式的な婚約者でしかない私が、自分の瞳と同じ色のドレスを着ているのを見たら、彼はきっと不快な思いをするだろう。
「アイラス殿下は今日屋敷に戻られるのかしら?」
「どうでしょうか……いつもご多忙で騎士団の本部に泊まり込んでおられるようですから」
ゼスティリア王立騎士団の団長である彼は、この屋敷に帰って来ることはほとんどなかった。
たまに帰って来ても、執事のシリルと話し込んでいるだけで、私の元には会いに来てはくれなかった。
所詮、愛のない形式的な婚約者なのだから仕方ない──そう分かっていても、彼が屋敷の人達と談笑しているのを見ていると、どうしようもなく心がざわついた。
いつも鋭い目つきの彼が、屋敷の人達の前では楽しそうに笑っていたから。
彼は微笑むと、驚くほど柔らかい印象になることをそこで初めて知った。
私の前で、彼が微笑んだ事など一度もなかったのに。
「屋敷に帰って来て欲しいとアイラス殿下に手紙を書いてみてはどうですか?ティアラ様にお願いされたら、殿下もきっと帰って来て下さいますよ」
「……それは止めておくわ。迷惑になるもの」
そもそもアイラス殿下が私と婚約したのは、仕事に集中したいという理由からだった。
そんな彼の仕事を邪魔するような真似をしたら、私は嫌われてしまうだろう。
彼を煩わせるのを恐れるあまり、手紙を書く事も気軽に話しかける事も出来なくなっていた。
「それでは本日はどうなさいますか?」
ターシャに予定を聞かれ、私は考え込んだ。
少しでもアイラス殿下の事を知りたいと思い、屋敷の書庫にあったゼスティリア王国の歴史について書かれた本は全部読んでしまっていた。
「そうね……足も良くなったし、庭園でも散歩してみようかしら」
アイラス殿下が医者を呼んでくれたおかげで、ローズに殴られて打撲していた足もすっかり回復していた。
「そうなさいましょう。後ほど私がご案内致しますね」
ターシャの言葉に私は笑顔で頷いた。
◇◆◇
屋敷の広い庭園へ出ると、色鮮やかな春の花々が美しく咲き乱れ見頃を迎えていた。
「こんなにたくさんの花が咲いていたのね」
思わず感嘆のため息をついた。
ここへ来たときは真夜中だったので、全く気がつかなかった。
「ティアラ様のお好きな花は何ですか?」
喜々として庭園を散歩していると、後ろからついて歩くターシャが聞いてきた。
「私はね……」
そう言いかけて、ふと足を止めた。
近くに小さくてとても愛らしい花が咲いていたのだ。
それはアイラス殿下の瞳と同じ、鮮やかな深紅の花だった。
「綺麗なネモフィラですね」
ターシャは私がネモフィラを見ていると勘違いしたようだ。
たしかに深紅の花のすぐ隣にはネモフィラも咲いていた。
以前の私は、レオンハルト様の瞳と同色のこの花が大好きだった。
でも今は──小さくて愛らしい深紅の花に目を奪われていた。
その花の名も知らないのに。
『婚約はあくまで利害の一致によるもの』
そう言った彼を好きになってはいけないのに、日に日に想いばかりが募り、とても苦しかった。
彼はいま何をしているのだろう。
今日は帰って来てくれるのだろうか。
ひと目でもいいから、彼に会いたかった。
私は深紅の花を見つめながら、心の中で燻るどうしようもない想いを憂いていた。
「ティアラ」
名を呼ぶ声に、思わず胸が高鳴った。
耳に心地良く響くその声で、呼んだ相手が誰なのかをすぐに悟ったから。
「お帰りなさいませ」
振り返ると、そこにいたのはアイラス殿下だった。
思い焦がれていた相手にやっと会えたのが嬉しくて、すぐに駆け寄りたい衝動をぐっと抑えた。
この想いを、決して悟られてはならなかった。
アイラス殿下はこちらへゆっくり歩いて来ると、私が先ほどまで見ていた場所をじっと見つめていた。
「ネモフィラを見ていたんです。綺麗に咲いていたので……」
あなたに思い焦がれ、深紅の花を見ていたなど絶対に知られたくない私は言い訳するように言った。
「あなたは義妹を選んだレオンハルトを憎んでいないのか」
気のせいだろうか。
彼の声に微かな憤りを感じるのは。
「レオンハルト様が選んだ人が自分でなくても良いんです。それで彼が幸せになれるのであれば」
そう思えるようになったのも、全てはアイラス殿下と出会い、心に変化が生まれたからだった。
「レオンハルト様はお元気ですか?」
レオンハルト様の友である彼に何気ない気持ちで問いかけた。
しかし、彼は黙り込んだまま何も答えなかった。
自分は何か悪い事でも聞いてしまったのだろうか──不安になってきた時、彼はやっと口を開いた。
「……レオンハルトとは連絡を取っていない」
そう短く答えると、アイラス殿下は仕事が残っているからと足早にその場から去って行った。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
彼の大きな背中に声をかける。
アイラス殿下が去ってしまった後、彼の顔をまともに見れなかった自分を激しく責めた。
少年のように短くなってしまった自分の髪を気にするあまり、私はアイラス殿下と目を合わせる事が出来なくなっていた。
──今度お会いした時こそは、彼の目を見てお話しよう。
私はそう心に決めて、愛らしい深紅の花を再度見詰めた。
彼が以前言っていた通り、この屋敷にいる人達は口数こそ少ないがとても優しく、私は平穏で穏やかな日々を過ごしていた。
「本日はどのお召し物になさいますか?」
私は短くなってしまった黒髪を侍女にセットしてもらいながら、ターシャが並べてくれた色とりどりのドレスを眺めた。
「藍色のドレスにしようかしら」
レオンハルト様と婚約していた時は、彼の瞳と同じ空色のドレスばかり着ていたので、今でも自然と青色ばかり選んでしまっていた。
「……いつも青系のドレスをお召しになられているので、気分を変えてこちらのドレスなんていかがでしょう?マーメイドラインでティアラ様にとても良くお似合いかと思うのですが……」
ターシャが持ち上げて見せたそのドレスは、アイラス殿下の瞳と同じ鮮やかな深紅のドレスだった。
「そんな大人っぽいデザインは似合わないわ」
「そうでしょうか……」
心なしか肩を落しながらターシャは言った。
あくまで形式的な婚約者でしかない私が、自分の瞳と同じ色のドレスを着ているのを見たら、彼はきっと不快な思いをするだろう。
「アイラス殿下は今日屋敷に戻られるのかしら?」
「どうでしょうか……いつもご多忙で騎士団の本部に泊まり込んでおられるようですから」
ゼスティリア王立騎士団の団長である彼は、この屋敷に帰って来ることはほとんどなかった。
たまに帰って来ても、執事のシリルと話し込んでいるだけで、私の元には会いに来てはくれなかった。
所詮、愛のない形式的な婚約者なのだから仕方ない──そう分かっていても、彼が屋敷の人達と談笑しているのを見ていると、どうしようもなく心がざわついた。
いつも鋭い目つきの彼が、屋敷の人達の前では楽しそうに笑っていたから。
彼は微笑むと、驚くほど柔らかい印象になることをそこで初めて知った。
私の前で、彼が微笑んだ事など一度もなかったのに。
「屋敷に帰って来て欲しいとアイラス殿下に手紙を書いてみてはどうですか?ティアラ様にお願いされたら、殿下もきっと帰って来て下さいますよ」
「……それは止めておくわ。迷惑になるもの」
そもそもアイラス殿下が私と婚約したのは、仕事に集中したいという理由からだった。
そんな彼の仕事を邪魔するような真似をしたら、私は嫌われてしまうだろう。
彼を煩わせるのを恐れるあまり、手紙を書く事も気軽に話しかける事も出来なくなっていた。
「それでは本日はどうなさいますか?」
ターシャに予定を聞かれ、私は考え込んだ。
少しでもアイラス殿下の事を知りたいと思い、屋敷の書庫にあったゼスティリア王国の歴史について書かれた本は全部読んでしまっていた。
「そうね……足も良くなったし、庭園でも散歩してみようかしら」
アイラス殿下が医者を呼んでくれたおかげで、ローズに殴られて打撲していた足もすっかり回復していた。
「そうなさいましょう。後ほど私がご案内致しますね」
ターシャの言葉に私は笑顔で頷いた。
◇◆◇
屋敷の広い庭園へ出ると、色鮮やかな春の花々が美しく咲き乱れ見頃を迎えていた。
「こんなにたくさんの花が咲いていたのね」
思わず感嘆のため息をついた。
ここへ来たときは真夜中だったので、全く気がつかなかった。
「ティアラ様のお好きな花は何ですか?」
喜々として庭園を散歩していると、後ろからついて歩くターシャが聞いてきた。
「私はね……」
そう言いかけて、ふと足を止めた。
近くに小さくてとても愛らしい花が咲いていたのだ。
それはアイラス殿下の瞳と同じ、鮮やかな深紅の花だった。
「綺麗なネモフィラですね」
ターシャは私がネモフィラを見ていると勘違いしたようだ。
たしかに深紅の花のすぐ隣にはネモフィラも咲いていた。
以前の私は、レオンハルト様の瞳と同色のこの花が大好きだった。
でも今は──小さくて愛らしい深紅の花に目を奪われていた。
その花の名も知らないのに。
『婚約はあくまで利害の一致によるもの』
そう言った彼を好きになってはいけないのに、日に日に想いばかりが募り、とても苦しかった。
彼はいま何をしているのだろう。
今日は帰って来てくれるのだろうか。
ひと目でもいいから、彼に会いたかった。
私は深紅の花を見つめながら、心の中で燻るどうしようもない想いを憂いていた。
「ティアラ」
名を呼ぶ声に、思わず胸が高鳴った。
耳に心地良く響くその声で、呼んだ相手が誰なのかをすぐに悟ったから。
「お帰りなさいませ」
振り返ると、そこにいたのはアイラス殿下だった。
思い焦がれていた相手にやっと会えたのが嬉しくて、すぐに駆け寄りたい衝動をぐっと抑えた。
この想いを、決して悟られてはならなかった。
アイラス殿下はこちらへゆっくり歩いて来ると、私が先ほどまで見ていた場所をじっと見つめていた。
「ネモフィラを見ていたんです。綺麗に咲いていたので……」
あなたに思い焦がれ、深紅の花を見ていたなど絶対に知られたくない私は言い訳するように言った。
「あなたは義妹を選んだレオンハルトを憎んでいないのか」
気のせいだろうか。
彼の声に微かな憤りを感じるのは。
「レオンハルト様が選んだ人が自分でなくても良いんです。それで彼が幸せになれるのであれば」
そう思えるようになったのも、全てはアイラス殿下と出会い、心に変化が生まれたからだった。
「レオンハルト様はお元気ですか?」
レオンハルト様の友である彼に何気ない気持ちで問いかけた。
しかし、彼は黙り込んだまま何も答えなかった。
自分は何か悪い事でも聞いてしまったのだろうか──不安になってきた時、彼はやっと口を開いた。
「……レオンハルトとは連絡を取っていない」
そう短く答えると、アイラス殿下は仕事が残っているからと足早にその場から去って行った。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
彼の大きな背中に声をかける。
アイラス殿下が去ってしまった後、彼の顔をまともに見れなかった自分を激しく責めた。
少年のように短くなってしまった自分の髪を気にするあまり、私はアイラス殿下と目を合わせる事が出来なくなっていた。
──今度お会いした時こそは、彼の目を見てお話しよう。
私はそう心に決めて、愛らしい深紅の花を再度見詰めた。
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