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第一章
7.黒の鷹
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いつも通りの午前十時前。窓からは暑さを感じさせる強烈な日差しが差し込んでいる。汗ばむ胸を乾かすように、マルティンは襟をはたきながら二人の役人を待った。
「リローラン! ゼルドリック=ブラッドスターだ! 入るぞ!」
乱暴なノックの後、ゼルドリックは返事を待たずに事務所の扉を勝手に開けた。朽ちかけた扉が嫌な音を立てて軋む。相手に入室の許可を求めぬのなら、ノックをする意味など無いのではないかとマルティンは思った。扉を開けたゼルドリックは、早くもリアがいないことに気が付いたらしい。扉の取っ手に手をかけたままぴたりと動きを止め、それから忙しなく事務所の中を見渡し始めた。
「リローランはどうした?」
今週も変わらず自分に対して挨拶を求めることはしない。このダークエルフの役人は、良からぬ意味でリアにしか関心がないのだとマルティンは苦笑した。
「休みです」
端的にマルティンは答えた。
「休みだと?」
ゼルドリックは不快極まるとばかりに強く顔をしかめた。その様は非常に怖ろしいものであったが、マルティンはリアを見習い、怯えを表に出さず丁寧に椅子を引いて座るように促した。だが、ゼルドリックは椅子に座ることはしなかった。跳ね上がった眉を吊り上げ、威圧的な低い声を出した。
「今週、彼女がいないとは聞いていないぞ」
不機嫌な様子を隠そうともせず、ゼルドリックは吐き捨てた。
「急ですが、リアは先週で視察の応対から外れることになりました」
「……どういうことだ?」
「ご指摘どおり、僕たちは確かにリアに対して大きな負担をかけてきました。ですから、帳簿の報告も含めてしばらく休んでもらおうということになったのです。そういうわけで、今週の報告は僕一人が行います。来週からはもう一人加わる予定です」
マルティンは怯えが外に出ないように、落ち着いて、なるべくにこやかに答えた。再度椅子に腰掛けるようゼルドリックに言えば、ゼルドリックは渋々といった様子で椅子に座った。
マルティンが新たに帳簿に記載された事項について説明をしていく。それは滞りなく進んでいった。しかし滞りなく進んでいくことに対して、マルティンはずっと違和感があった。ゼルドリックは腕組みをしたまま、マルティンの報告に耳を傾けている。いつものように、途中で口を挟み、重箱の隅を突くような細かい説明は求めない。ただ静かに、マルティンの報告が終わるのを待っているかに見えた。
「報告は以上になります。何か気になる点はありますか?」
「…………」
ゼルドリックはマルティンの問いには答えず、目の前に用意された茶を飲みながら、しばらく指で机を叩いたり、また腕組みし直したり、窓から外を眺めたりした。暑さがマルティンを苛んでいく。彼は苛つきを出さないよう必死に耐えた。
(……何を考えているんだよ、もう……)
マルティンは滴る汗をじっと我慢しながら、目の前の役人の言葉を待った。ダークエルフの役人はしばらく落ち着きなく動いた後、マルティンに向き直って訊ねた。
「リローランは今どこにいる」
「お答えできかねます」
マルティンは反射的に答えてしまった。幾分つっけんどんなその返事がゼルドリックを怒らせるにしろ、リアの居場所を教えてしまえば、この役人はリアに会いに行くだろうという確信があったからだ。
「お答えできかねるだと? 彼女に会うのは帳簿の妥当性を評価する上で必要なことだ。早く教えろ」
ゼルドリックは案の定マルティンの答えが気に入らなかったようで、眉を跳ね上がらせ高圧的な物言いで命じた。しかしマルティンは粘った。風邪を引いて弱っているリアのもとに、この役人を絶対に行かせたくはなかったからだ。
「帳簿に記載の事項については、僕が説明した以上のことはありません。先程述べたことが全てです」
「混ざり血の女をこき使うような村だ。帳簿に記載されていない所に不正が潜んでいるやもしれぬ。リローランと会って言質を取らなければ、その帳簿に書いてあることが本当に正なのか判断できない」
「リアは先週村の仕事を一切行っていません。僕がずっと、近くで見守っていたから分かります」
「お前が、ずっと、近くで、見守っていた……?」
どういう訳なのか、そのマルティンの一言で、ゼルドリックの怒りが湧き上がってしまったらしい。ゼルドリックはかっと目を見開いて、低く唸るような声を出した。
相手を怒らせてしまったことに対し、温厚な平時のマルティンであれば、すぐさま謝罪しただろう。しかしマルティンもまた、姉を揶揄う高圧的なゼルドリックに対して怒りを感じていた。
「お前が気に入らぬ」
ゼルドリックはマルティンを見据えたまましっかりと言い放った。
「本当に気に入らぬ。以前から、お前に対して言ってやりたいことがあったのだ。村の人間にリローランと仲が良い住人は誰だと尋ねれば、皆がお前の名を口にする……お前は、リローランのことを何の躊躇いもなくファーストネームで呼ぶ。そして肩……肩だ! べたべたと彼女の肩を気軽に触ったり、逆に自分の肩に触らせおって。お前は一体リローランとどういった関係だ?」
いつになくゼルドリックは早口で喋った。自分の行動を差し置いて、リアの肩を触ることにえらく怒りを示している。一体この役人は何を言っているのだろうとマルティンは思ったが、一言、リアとは家族だと答えると、尚更ゼルドリックの怒りに火を着けてしまった。
「家族だと!? それはあの女と夫婦であるということか!? そんな話は一切聞いたことがないぞ!!」
ゼルドリックは突然、事務所の窓ががたがたと音を立てるくらいの大声を出した。隣で優雅に茶を飲んでいたアンジェロが、びっくりしてカップを落としそうになるのをマルティンは見た。この飄々とした無表情のエルフも驚くことはあるのだなと、マルティンはどこか他人事のように思った。
「許さんぞ!! お前のような軟弱な男はふさわしくない! すぐに離縁しろ!!」
ゼルドリックは吼え、ずいっと顔を近づけてマルティンを脅した。青い双眸の力強さにマルティンは勢い良く目を逸らした。
「ちょっと……。お役人さん、何か誤解をしていませんか? 僕とリアは夫婦じゃありません」
「……? ではなんだというのだ」
「リアは僕にとって姉のような存在なんです。幼い頃、僕が山に入って熊に襲われそうになった時に、リアが熊を追い払ってくれたんですよ。それがきっかけで、両親がいない僕とこの村に越してきたリアは、姉弟のように十年くらい仲良く過ごしてきたんです」
マルティンの丁寧な釈明により、ゼルドリックは落ち着きを取り戻したらしい。しかめられた顔が緩んでいった。
「ふうむ……さすがはリローランだ、力が強いと聞いていたが、まさか熊まで追い払っていたとはな」
一転嬉しそうな様子で呟くと、また低い声に切り替えてゼルドリックはマルティンを追及した。
「だが、年頃の男と女が、長年共にいて何もない訳があるまい。お前、あの女のことをどう思っている」
「どうとは?」
「あの女に懸想しているのか? 夫婦でなければ恋人か? 十年も仲良く暮らしてきたなんてうらや……許し難い。以前リローランが、お前の無駄に長い髭を編んでいるのを見かけたぞ。随分と距離が近いように見えたが、本当にあの女とは何もないのか? 私に何か隠しているのではないか? 隠しているのなら正直に言ったほうが身のためだぞ?」
口早にゼルドリックはマルティンを責めた。マルティンはゼルドリックから顔を離し、首を横に降った。
「もう! リアと僕はそんなんじゃありません! リアは僕の姉ちゃんです!」
うんざりして、いつもは出さないような大声をマルティンは出した。マルティンは少しでも相手を怖がらせたくて、ゼルドリックを真似て眉を吊り上げて見ようとしたが、茶色の垂れ下がったたっぷりとした眉は柔らかそうで、まったくゼルドリックに恐怖を与えることはなかった。
「何なんですかさっきから! リアのことばかり聞いて!」
「ふん……田舎の村に住み、毎日村人にこき使われ、忙しく過ごしている混ざり血の女……弱い立場にありそうな者を気にかけるのは、中央政府の者として当然のことだ」
「違うでしょう! 仕事に関係ない個人的なことまで聞いて、こんなのただの職権濫用です! 横暴だ!」
マルティンは憤慨した。一度声を張り上げてしまえば、もう止まらなかった。
「僕こそ、お役人さんのあなたに言ってやりたいことがたくさんあるんです! あなたこそリアにあんな嫌味を言うくせに、べたべた手やら顔やら触って!! 女性に対してあんな触り方をしちゃ駄目です、すぐにやめて下さい!」
「田舎者には刺激が強かったか? 許せ。あれは都会式の挨拶なのだ」
真偽を確かめる意味を込めてアンジェロの方を見れば、アンジェロは茶を飲みながら、視線だけをマルティンから逸らした。アンジェロは相変わらずの無表情だったが、その様子には何となく後ろめたさやごまかしがあるように思われた。
「つまりだ。リローランとお前は、姉と弟以外の何物でもないというのだな?」
指を差し、念を押してゼルドリックは言った。
「そうです! 大事な大事な、僕の姉ちゃんです! ですからいい加減に、リアにあれこれ言うのは止めて下さい! いつも会う度にリアの髪をなんとかの綿毛みたいだって言って! リアの髪は赤くて、ふわふわで、とても可愛いんです! 決して馬鹿にされるような髪じゃない!!」
「当然だ。お前などに言われなくとも分かっている。パルシファーの綿毛の如き赤い髪、その愛らしさ、美しさは私自身が一番よく分かっているのだ。柔らかで繊細、女神の愛を溶かしたような、夕陽の光を表したような美の頂点に位置する色。そして何とも良い香りがする。本当に、本当に可愛い髪だ」
「そうですよ! リアの髪は可愛いんです! 馬鹿にしないで……うん?」
(可愛い?)
マルティンは一瞬、ゼルドリックが何を言ったのか分からなかった。ただ、自分の聞き間違いでなければ、ゼルドリックはリアの髪を随分と褒めそやしたように聞こえた。
「だが、お前がリローランの髪を褒めるのは気に入らぬ。あの美しさはエルフである私こそが真に理解しているゆえに。髭面よ、お前はもう黙れ」
ゼルドリックは一方的にマルティンに命じると、優雅に茶を飲み続けるアンジェロに言った。
「アンジェロ。お前はベアクローと共に村を回れ。私は用事を思い出したのでな」
ゼルドリックの声は弾んでいた。呆けているマルティンと、何杯目かの茶を飲むアンジェロを放ったまま勢いよく席を立ち、そのまま自警団の事務所を後にした。
――――――――――
ゼルドリックはリアに会おうとしていた。事務所を出て、広大な農地に囲まれた道を進んでいく。
(働き詰めだったあの女が休めているのならば、これほど喜ばしいことはない。村の住民共にしつこく道徳を説いた甲斐があった)
ゼルドリックは満足そうに笑った。しかしゼルドリックは、リアが視察の応対から外れる可能性を考えていなかった。毎週はずれの村に行けば、必ずリアに会えるだろうと思いこんでいた。
(リアの休みは喜ばしい。だが、今日リアに会わないと俺が持たない。何としてでも会いたい)
リアに会うことは、ゼルドリックにとっては一週間に一度の楽しみで、正直何よりも優先されるべきものだと思っていた。リアが休みの日だと分かっていても、どうしても彼女の顔を見たかった。彼の腕は、小包をしっかりと抱えている。ゼルドリックは、手に入れるのに苦労した最高級品の茶葉をリアに渡し、視察の理由以外に、これからも彼女と会う理由を何としても取り付けたかった。
事務所を出て周囲を見渡してみても、書き入れ時だというのに出歩いている農民は一人もいない。皆、熱心に道徳を説く自分を恐れて外出をしないようだった。適当な人間を捕まえて、リアはどこにいるのだと聞くことはできなさそうだと、ゼルドリックはひとつ鼻を鳴らし、足を止めた。
(ふん。あの女の居場所を聞けぬというのなら、こちらから探しにいくまでだ)
エルフであるゼルドリックは、空気中に流れる魔力を拾ってリアの居場所を突き止めようとした。目を閉じ、よく集中して周囲の魔力を探れば、微量ではあるが自らの魔力が村の高台から流れてくるのを感じた。その魔力の形を捉え、ゼルドリックはうっとりと息を吐いた。
リアに自らの魔力が確かに宿っている。贈った品々に自らの魔力を溶かし続けた甲斐があったと、ゼルドリックはほくそ笑んだ。
ゼルドリックが腕を天に掲げると、黒い靄が彼の身体を覆った。そしてその姿はあっという間に、見事な一羽の黒い鷹に変わった。
(リア、今会いに行くからな……!)
鷹は、見事な両翼を勢い良く羽ばたかせ、高台へ一気に向かっていった。
「リローラン! ゼルドリック=ブラッドスターだ! 入るぞ!」
乱暴なノックの後、ゼルドリックは返事を待たずに事務所の扉を勝手に開けた。朽ちかけた扉が嫌な音を立てて軋む。相手に入室の許可を求めぬのなら、ノックをする意味など無いのではないかとマルティンは思った。扉を開けたゼルドリックは、早くもリアがいないことに気が付いたらしい。扉の取っ手に手をかけたままぴたりと動きを止め、それから忙しなく事務所の中を見渡し始めた。
「リローランはどうした?」
今週も変わらず自分に対して挨拶を求めることはしない。このダークエルフの役人は、良からぬ意味でリアにしか関心がないのだとマルティンは苦笑した。
「休みです」
端的にマルティンは答えた。
「休みだと?」
ゼルドリックは不快極まるとばかりに強く顔をしかめた。その様は非常に怖ろしいものであったが、マルティンはリアを見習い、怯えを表に出さず丁寧に椅子を引いて座るように促した。だが、ゼルドリックは椅子に座ることはしなかった。跳ね上がった眉を吊り上げ、威圧的な低い声を出した。
「今週、彼女がいないとは聞いていないぞ」
不機嫌な様子を隠そうともせず、ゼルドリックは吐き捨てた。
「急ですが、リアは先週で視察の応対から外れることになりました」
「……どういうことだ?」
「ご指摘どおり、僕たちは確かにリアに対して大きな負担をかけてきました。ですから、帳簿の報告も含めてしばらく休んでもらおうということになったのです。そういうわけで、今週の報告は僕一人が行います。来週からはもう一人加わる予定です」
マルティンは怯えが外に出ないように、落ち着いて、なるべくにこやかに答えた。再度椅子に腰掛けるようゼルドリックに言えば、ゼルドリックは渋々といった様子で椅子に座った。
マルティンが新たに帳簿に記載された事項について説明をしていく。それは滞りなく進んでいった。しかし滞りなく進んでいくことに対して、マルティンはずっと違和感があった。ゼルドリックは腕組みをしたまま、マルティンの報告に耳を傾けている。いつものように、途中で口を挟み、重箱の隅を突くような細かい説明は求めない。ただ静かに、マルティンの報告が終わるのを待っているかに見えた。
「報告は以上になります。何か気になる点はありますか?」
「…………」
ゼルドリックはマルティンの問いには答えず、目の前に用意された茶を飲みながら、しばらく指で机を叩いたり、また腕組みし直したり、窓から外を眺めたりした。暑さがマルティンを苛んでいく。彼は苛つきを出さないよう必死に耐えた。
(……何を考えているんだよ、もう……)
マルティンは滴る汗をじっと我慢しながら、目の前の役人の言葉を待った。ダークエルフの役人はしばらく落ち着きなく動いた後、マルティンに向き直って訊ねた。
「リローランは今どこにいる」
「お答えできかねます」
マルティンは反射的に答えてしまった。幾分つっけんどんなその返事がゼルドリックを怒らせるにしろ、リアの居場所を教えてしまえば、この役人はリアに会いに行くだろうという確信があったからだ。
「お答えできかねるだと? 彼女に会うのは帳簿の妥当性を評価する上で必要なことだ。早く教えろ」
ゼルドリックは案の定マルティンの答えが気に入らなかったようで、眉を跳ね上がらせ高圧的な物言いで命じた。しかしマルティンは粘った。風邪を引いて弱っているリアのもとに、この役人を絶対に行かせたくはなかったからだ。
「帳簿に記載の事項については、僕が説明した以上のことはありません。先程述べたことが全てです」
「混ざり血の女をこき使うような村だ。帳簿に記載されていない所に不正が潜んでいるやもしれぬ。リローランと会って言質を取らなければ、その帳簿に書いてあることが本当に正なのか判断できない」
「リアは先週村の仕事を一切行っていません。僕がずっと、近くで見守っていたから分かります」
「お前が、ずっと、近くで、見守っていた……?」
どういう訳なのか、そのマルティンの一言で、ゼルドリックの怒りが湧き上がってしまったらしい。ゼルドリックはかっと目を見開いて、低く唸るような声を出した。
相手を怒らせてしまったことに対し、温厚な平時のマルティンであれば、すぐさま謝罪しただろう。しかしマルティンもまた、姉を揶揄う高圧的なゼルドリックに対して怒りを感じていた。
「お前が気に入らぬ」
ゼルドリックはマルティンを見据えたまましっかりと言い放った。
「本当に気に入らぬ。以前から、お前に対して言ってやりたいことがあったのだ。村の人間にリローランと仲が良い住人は誰だと尋ねれば、皆がお前の名を口にする……お前は、リローランのことを何の躊躇いもなくファーストネームで呼ぶ。そして肩……肩だ! べたべたと彼女の肩を気軽に触ったり、逆に自分の肩に触らせおって。お前は一体リローランとどういった関係だ?」
いつになくゼルドリックは早口で喋った。自分の行動を差し置いて、リアの肩を触ることにえらく怒りを示している。一体この役人は何を言っているのだろうとマルティンは思ったが、一言、リアとは家族だと答えると、尚更ゼルドリックの怒りに火を着けてしまった。
「家族だと!? それはあの女と夫婦であるということか!? そんな話は一切聞いたことがないぞ!!」
ゼルドリックは突然、事務所の窓ががたがたと音を立てるくらいの大声を出した。隣で優雅に茶を飲んでいたアンジェロが、びっくりしてカップを落としそうになるのをマルティンは見た。この飄々とした無表情のエルフも驚くことはあるのだなと、マルティンはどこか他人事のように思った。
「許さんぞ!! お前のような軟弱な男はふさわしくない! すぐに離縁しろ!!」
ゼルドリックは吼え、ずいっと顔を近づけてマルティンを脅した。青い双眸の力強さにマルティンは勢い良く目を逸らした。
「ちょっと……。お役人さん、何か誤解をしていませんか? 僕とリアは夫婦じゃありません」
「……? ではなんだというのだ」
「リアは僕にとって姉のような存在なんです。幼い頃、僕が山に入って熊に襲われそうになった時に、リアが熊を追い払ってくれたんですよ。それがきっかけで、両親がいない僕とこの村に越してきたリアは、姉弟のように十年くらい仲良く過ごしてきたんです」
マルティンの丁寧な釈明により、ゼルドリックは落ち着きを取り戻したらしい。しかめられた顔が緩んでいった。
「ふうむ……さすがはリローランだ、力が強いと聞いていたが、まさか熊まで追い払っていたとはな」
一転嬉しそうな様子で呟くと、また低い声に切り替えてゼルドリックはマルティンを追及した。
「だが、年頃の男と女が、長年共にいて何もない訳があるまい。お前、あの女のことをどう思っている」
「どうとは?」
「あの女に懸想しているのか? 夫婦でなければ恋人か? 十年も仲良く暮らしてきたなんてうらや……許し難い。以前リローランが、お前の無駄に長い髭を編んでいるのを見かけたぞ。随分と距離が近いように見えたが、本当にあの女とは何もないのか? 私に何か隠しているのではないか? 隠しているのなら正直に言ったほうが身のためだぞ?」
口早にゼルドリックはマルティンを責めた。マルティンはゼルドリックから顔を離し、首を横に降った。
「もう! リアと僕はそんなんじゃありません! リアは僕の姉ちゃんです!」
うんざりして、いつもは出さないような大声をマルティンは出した。マルティンは少しでも相手を怖がらせたくて、ゼルドリックを真似て眉を吊り上げて見ようとしたが、茶色の垂れ下がったたっぷりとした眉は柔らかそうで、まったくゼルドリックに恐怖を与えることはなかった。
「何なんですかさっきから! リアのことばかり聞いて!」
「ふん……田舎の村に住み、毎日村人にこき使われ、忙しく過ごしている混ざり血の女……弱い立場にありそうな者を気にかけるのは、中央政府の者として当然のことだ」
「違うでしょう! 仕事に関係ない個人的なことまで聞いて、こんなのただの職権濫用です! 横暴だ!」
マルティンは憤慨した。一度声を張り上げてしまえば、もう止まらなかった。
「僕こそ、お役人さんのあなたに言ってやりたいことがたくさんあるんです! あなたこそリアにあんな嫌味を言うくせに、べたべた手やら顔やら触って!! 女性に対してあんな触り方をしちゃ駄目です、すぐにやめて下さい!」
「田舎者には刺激が強かったか? 許せ。あれは都会式の挨拶なのだ」
真偽を確かめる意味を込めてアンジェロの方を見れば、アンジェロは茶を飲みながら、視線だけをマルティンから逸らした。アンジェロは相変わらずの無表情だったが、その様子には何となく後ろめたさやごまかしがあるように思われた。
「つまりだ。リローランとお前は、姉と弟以外の何物でもないというのだな?」
指を差し、念を押してゼルドリックは言った。
「そうです! 大事な大事な、僕の姉ちゃんです! ですからいい加減に、リアにあれこれ言うのは止めて下さい! いつも会う度にリアの髪をなんとかの綿毛みたいだって言って! リアの髪は赤くて、ふわふわで、とても可愛いんです! 決して馬鹿にされるような髪じゃない!!」
「当然だ。お前などに言われなくとも分かっている。パルシファーの綿毛の如き赤い髪、その愛らしさ、美しさは私自身が一番よく分かっているのだ。柔らかで繊細、女神の愛を溶かしたような、夕陽の光を表したような美の頂点に位置する色。そして何とも良い香りがする。本当に、本当に可愛い髪だ」
「そうですよ! リアの髪は可愛いんです! 馬鹿にしないで……うん?」
(可愛い?)
マルティンは一瞬、ゼルドリックが何を言ったのか分からなかった。ただ、自分の聞き間違いでなければ、ゼルドリックはリアの髪を随分と褒めそやしたように聞こえた。
「だが、お前がリローランの髪を褒めるのは気に入らぬ。あの美しさはエルフである私こそが真に理解しているゆえに。髭面よ、お前はもう黙れ」
ゼルドリックは一方的にマルティンに命じると、優雅に茶を飲み続けるアンジェロに言った。
「アンジェロ。お前はベアクローと共に村を回れ。私は用事を思い出したのでな」
ゼルドリックの声は弾んでいた。呆けているマルティンと、何杯目かの茶を飲むアンジェロを放ったまま勢いよく席を立ち、そのまま自警団の事務所を後にした。
――――――――――
ゼルドリックはリアに会おうとしていた。事務所を出て、広大な農地に囲まれた道を進んでいく。
(働き詰めだったあの女が休めているのならば、これほど喜ばしいことはない。村の住民共にしつこく道徳を説いた甲斐があった)
ゼルドリックは満足そうに笑った。しかしゼルドリックは、リアが視察の応対から外れる可能性を考えていなかった。毎週はずれの村に行けば、必ずリアに会えるだろうと思いこんでいた。
(リアの休みは喜ばしい。だが、今日リアに会わないと俺が持たない。何としてでも会いたい)
リアに会うことは、ゼルドリックにとっては一週間に一度の楽しみで、正直何よりも優先されるべきものだと思っていた。リアが休みの日だと分かっていても、どうしても彼女の顔を見たかった。彼の腕は、小包をしっかりと抱えている。ゼルドリックは、手に入れるのに苦労した最高級品の茶葉をリアに渡し、視察の理由以外に、これからも彼女と会う理由を何としても取り付けたかった。
事務所を出て周囲を見渡してみても、書き入れ時だというのに出歩いている農民は一人もいない。皆、熱心に道徳を説く自分を恐れて外出をしないようだった。適当な人間を捕まえて、リアはどこにいるのだと聞くことはできなさそうだと、ゼルドリックはひとつ鼻を鳴らし、足を止めた。
(ふん。あの女の居場所を聞けぬというのなら、こちらから探しにいくまでだ)
エルフであるゼルドリックは、空気中に流れる魔力を拾ってリアの居場所を突き止めようとした。目を閉じ、よく集中して周囲の魔力を探れば、微量ではあるが自らの魔力が村の高台から流れてくるのを感じた。その魔力の形を捉え、ゼルドリックはうっとりと息を吐いた。
リアに自らの魔力が確かに宿っている。贈った品々に自らの魔力を溶かし続けた甲斐があったと、ゼルドリックはほくそ笑んだ。
ゼルドリックが腕を天に掲げると、黒い靄が彼の身体を覆った。そしてその姿はあっという間に、見事な一羽の黒い鷹に変わった。
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