リア=リローランと黒の鷹

橙乃紅瑚

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第三章

57.咲き誇る

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「エルフは素晴らしい! この神に愛された種に生まれついて良かった。果てなき命とこの魔力さえあれば、何だって出来る! そうは思いませんか、先生?」

 少年の日のゼルドリックは、師に向かって高らかにそう言った。ミーミスは目線を合わせるように腰を屈め、ダークエルフの教え子の艷やかな黒髪をそっと撫でた。くすぐったさに彼の長い耳がひくひくと動く。ミーミスはその可愛らしさに顔を綻ばせた。

「ゼルドリック。君はエルフという種に誇りを抱いているのだね」

「はい! エルフは最上位に位置する種族です! そう中央政府の方から教わりました!」

 ゼルドリックはきっぱりと言い切った。優秀で生真面目な生徒である彼は、高慢な同胞が言ったことを素直に受け取った。だがミーミスは顎に手をやり、困ったことだねと呟いた。

「驕るのは良くない。エルフとて完璧な種族ではないからね」

「なぜです先生? 強健で長命、更に豊富な魔力さえ宿しているのですよ? 我々エルフは完璧そのものでしょう! それなのに、なぜエルフが人間如きに戦で負けたのか分からない」

 ゼルドリックは気に入らなさそうに眉を寄せた。

「先生、教えて下さい。なぜ我々の先祖は他種族に負けたのですか? 数が少ないとはいえ、それはエルフが遅れを取った理由にはならないと思います。私は先祖が負けた本当の訳を知りたい」

「そうだねえ。その答えは、君自身が探ってみなさい。本を読めば答えが分かるのではないかな」

「本ですか? ですがもう、図書室にある本は全て読んでしまいましたよ?」

「ああ驚いた。君は本当に優秀な生徒だね」

 ミーミスは微笑み、ゼルドリックの眉間をちょんとつついた。

「だが、あそこにある本は全てエルフが記した本だ。私が言っているのは他種族が書いた本のこと。特に人間が書いた本を読みなさい。そこに君が知りたい答えがあると思うよ」

「人間如きが書いた本を読めと仰るのですか」

「こら、そう高慢になるな。驕るのは良くないと言っただろう。いいかいゼルドリック? 人間は我々と比べて弱いし、すぐに死んでしまう。だけどね、彼らはその命の短さゆえに、我々が操る魔力とはまた異なる力を持っているのだ」

「異なる力? あの脆弱な人間共がそんなものを持っているというのですか? その力に我々の先祖が負けたと?」

「ああ。これは君への宿題だ、ゼルドリック。人間の書いた本をよく読み、その力が何なのか探りなさい。私が言わんとしていることがいずれ君にも分かる。繰り返すが、決して驕ってはいけないよゼルドリック。将来、良き中央政府の役人になりたくば、他種族のことをよくよく学びなさい。他種族は支配する対象ではなく、守るべき隣人なのだから」

 ミーミスはそう言い、ゼルドリックの前から立ち去った。

「……力、か……」

 ゼルドリックは師の後ろ姿を眺め、そう呟いた。

 リアはぼんやりと、少年の日のゼルドリックを見つめた。
 ミーミスの言葉が、彼の心に確かな灯火を宿したのを感じながら。


 ――――――――――


 それからゼルドリックは取り憑かれたように本を読み始めた。
 聡いゼルドリックは、ミーミスの言わんとした力の名にすぐ気が付いた。

「愛、か」

 本を閉じ、ゼルドリックは嘆息した。

「愛ゆえに人は生きる。愛ゆえに人は死ぬ。分からない。愛とは何なのだ? 俺が友や師、同胞に抱く感情とはまた別なのか?」

 ゼルドリックはぼんやりと天井を見上げ、そう呟いた。

「先祖は、人間が持つ愛の力に敗北したのだな。何を賭しても愛する者を守るという人間の強い意志に、俺の先祖たちはきっと打ち砕かれたのだ」

 そして彼は唇を噛み締めた。

(気に入らぬ。エルフである俺は、家族や恋愛、肉欲といった概念があるとは理解できても、真の意味でそれがどのようなものか噛み砕いて理解することはできない)

(試験管から生まれた俺は親の顔を知らない。恋愛感情も性欲も殆ど持たぬエルフとして生まれついたからには、愛を知らぬまま死ぬのかもしれない。先祖を打ち負かした愛という力……知りたい。知らないことがあるというのは、許し難い)

 ゼルドリックの胸に、嫉妬や悔しさのような感情が沸き起こる。
 彼はその時、はじめて脆弱な短命種を心から羨ましいと思った。

 愛に対して強く興味が湧いた。理解したいと思った。
 己に理解できない力がある事が許せなかった。愛に親しむ種族が羨ましかった。

(いつか自分も、命を賭して愛を得たい)

「ゼル……」

 リアは思わず彼の名を呟いた。彼の心に植え付けられた強烈な欲求が心に流れ込んで来る。

(ああ、そうか……だからあなたは、恋物語をよく読むようになったのね)

 ――むしろ俺は、恋物語こそ率先して読んだものだ。恋愛というものを理解したくてな。

 冬の日に交わした会話を思い出し、リアは微笑んだ。


 ――――――――――


「お早う! ゼルドリック! また貴様はそんなやる気のなさそうな顔をして! 少しはしゃんとせんか!」

 オリヴァーがゼルドリックの肩を力強く叩き大声を出した。ゼルドリックは彼の声に耳を塞ぎ、顔を強くしかめた。

「お前はいつも声が大きすぎる。俺が朝に弱いのは知っているだろう、放っておけ」

「それは矯正するべきだぞゼルドリック! 良い一日は良い朝から始まるのだ! やる気を漲らせろ、私のように腹から声を出せ! さあ!」

「はあ……朝からこれはきついな……」

 ゼルドリックは大きな溜息を吐き、おかっぱ頭の同僚から目を逸らした。

「聞いたぞゼルドリック。貴様、王都の一等地にとうとう自分の屋敷を建てたらしいな? 寮暮らしともおさらばか! 羨ましいぞ!」

「ああ。金が余ってな。家でも建てようと思った」

「ほう! 余るほどの給金を貰うとはな! 中央政府行政部第二課の黒い鷹と呼ばれるだけのことはある! さすがは私の終生のライバル、その職務に邁進する様、尊敬に値するぞ!」

「別に大したことではない」

 ゼルドリックはつまらなさそうにそう呟いた。

(他にやることがないから、仕方なく仕事をやっているだけだ)

 リアの心に、彼が内に抱える空虚や諦めのようなものが流れ込んで来る。

(生まれも育ちも政府に管理された種族。国のために死ぬまで働くことが求められる種族。将来やる仕事は決まっていて、外国で自由に暮らすことも叶わない)

(家族の温かみも知らない。性的欲求も殆ど抱くことはない。金はあるが、何を買っても何を見ても心が満たされない。……エルフか。何とつまらない種族なのだ。俺はこんな思いを抱えたまま、これから生きていかねばならないのか?)

 彼の心はすっかり色褪せていた。

 無感動と諦めの中で、ゼルドリックは必死に求め続けていた。
 自分を突き動かす強い欲求を。世界が変わる程の衝撃を。

(ゼル。あなた……。こんなに哀しい思いを抱えて生きてきたのね)

 埋まらぬ空虚、どうしようもない欠落がリアの心も苦しめる。
 彼の空虚を味わうのは辛かった。早く欠落が埋まりますようにと、リアは思わず過去のゼルドリックに手を伸ばした。

 伸ばした手の先に、光が満ちる。


 ――――――――――




 光の先にリアが見たのは、自分自身だった。

「……え?」

 リアは目を瞬いた。自分と瓜二つの女が微笑んでいる。
 赤い髪。赤い瞳。よく見慣れた髪の癖からそばかすの場所、背丈まで……全てが、自分と同じだった。

 赤い髪の女はただ微笑んでいる。その前で、ゼルドリックが女に向かって必死に話しかけていた。
 夢見心地な、だが、心から切なそうな顔を女に向けている。

「君に会いたい。触れたい。手を握りたい。声が聞きたい。その赤い髪に触れてみたいんだ」

 ゼルドリックは熱っぽく囁いた。

「君は俺が創った存在だ。だから俺が生きている世界には存在し得ない……」

(創った? どういうこと?)

 疑問を持つリアの前に、一冊の本が姿を現す。

『絵の中の姫君』

(これは……読んだことのある本だ)

 中年の冴えない醜男は、孤独から逃れるように絵を描いた。自分の理想とする女を描き、その女を現実にいるものとして、毎日話しかけ可愛がった。そうしている内に、本当に絵の中の女を愛してしまう。男は毎日、神に女と添い遂げられる様に祈った。神は男の願いを聞き入れ、絵の中の女は紙から抜け出し、死ぬまで男と連れ添った。

 確かそんな小説だったはずだ。そしてリアは、はっと息を飲んだ。

(……まさか、ゼルはこの本を読んで……?)

 ゼルドリックの記憶が一気に流れ込む。

 己の心の欠落を埋めるために、本の中の男を真似て理想の女を形作ろうと試みたこと。
 好ましいと思うものをぶつけ続け、そしてとうとう理想の女を創りあげたこと。

 やがてその女に、深い恋心を抱いてしまったこと。

「共に笑い合いたい。手を繋いでみたい。君と添い遂げて、温かな家族を作ってみたい」

 ゼルドリックの告白が続く。

「誰かを想い、喜んだり悲しんだりすること。自分が求めて止まなかった尊い感情。愛だ。これこそが愛なのだ。君が俺に教えてくれた。俺にその感情を植え付けたのだ」

「独りで生きることが寂しい……。君が俺の隣にいないということが耐えられない。俺は生涯に一度の恋情を、君にすっかり捧げてしまった。自分の想像上の女に恋をするなどおかしいのは解っている。俺は狂っている! ……だが、諦められない」

「ああ、どうして君は俺の生きる世界にいないのだ? 苦しい、苦しくてたまらない。俺の心の中から抜け出して、どうか隣に立ってくれないか……」

「君の内面を知りたい。何を好んで、何を嫌うのか。君と話してみたいのだ。微笑みだけではなく、君が浮かべる様々な表情が見たい。きっとそれは色褪せた世界の中で、何よりも色付いて見えるだろう」

 青い瞳から涙が溢れ落ちる。
 微笑み続ける女を前に、ゼルドリックは項垂れた。

「赤い髪の姫君……」

 その呼び名に、リアの胸がどくりと跳ねる。

「何を捧げたら君に会える? 何を賭しても君に会いたい。どうかあの絵の女のように、俺の前に現れてくれっ……!」

 ゼルドリックの叫びが響き渡る。



 次にリアが見たのは、この精神世界の中で必死に祈りを捧げるゼルドリックだった。

 姫君ただ一人を想い彼女を住まわせるために城を創る。そして毎夜毎夜、祈りのために女神像の前にかしずく。エルフの祖と云われる、愛を司る彼女に祈り続ける。

 赤い髪の姫君に会いたいと。

「女神よ、どうか彼女と巡り逢わせて下さい」

 パルシファーの花冠を乗せた石膏の女神像は、ただ穏やかな微笑みを浮かべている。
 ゼルドリックは女神像に縋りつき、自分の激情を彼女に聞かせた。

「俺の運命なのです。彼女がいなければ俺は生きていけません。彼女を創り出したのは俺自身で、想像上の女に一生に一度の恋を捧げてしまったなど、誰もが俺をおかしいと言うでしょう! ですが……俺はもう、彼女を妄想の産物だとは思えないのです。彼女は生きています。俺を見て柔らかく微笑むのです」

 狂気が滲んだ必死の祈りが、薄暗い精神世界の城で続けられる。

「彼女と俺は住んでいる世界が違う。このまま彼女に触れられないなんて耐えられない! 女神よ、どうかあなたの力で彼女をこの世界に連れてきて下さい。俺はあの女と話してみたい。そして契りたいのです」

 ゼルドリックの祈りが続く。やがて女神像の前に、彼が膝をつき続けた跡がくっきりと浮かび上がった。

(あんなに、床が擦り切れるまで……あなたは祈り続けたのね)

「ゼル……」

 祈りを続ける彼を後ろから抱き締めようとする。だが過去の幻影に触れられる訳もなく、リアの腕は空を切った。

「彼女と契ることが出来るなら、俺の何もかもを捧げたっていい。俺はこの先彼女への恋慕に苦しみながら……あなたから与えられた長き命を持て余しながら生きていくのでしょうか? そんなの耐えられない。彼女と会うことでしか俺は救われない」

「あの女の名は何と言うのだろう? 彼女は今日も俺を見て笑うだけ。俺の心も知らずに、無垢な微笑みを向けるだけ……愛おしくも憎らしくもある。なぜ女は俺の前に現れてくれないのでしょうか」

「このまま生きていてもあの女に会えないのなら、もういっそ命を絶ってしまおうかと思うのです。そうすれば彼女の生きる世界に行けるでしょうか。こんな色褪せた世界で生きる理由が、どこにあるのでしょうか……」

 リアの脳裏にゼルドリックの祈る姿が焼き付く。重ねられる。
 百年以上に渡って続けられた祈りが、精神世界に大きく木霊し、響き渡る。

 ゼルドリックの悲愴がリアの心を苛む。リアは思わずもうやめてと幻影に向かって叫んだ。



 そして四万の夜の祈りの果てに、彼はとうとう運命の女に出逢った。

 辺りが赤く染まっている。
 夕暮れ時のはずれの村で、ゼルドリックは歓喜に胸を震わせた。

「リア=リローランと申します」

 彼の目の前に、「赤い髪の姫君」が立っていた。



 ――――――――――



 リアは目を覚ました。

「……リア。俺の過去を見たか」

 目の前にいる男の声は掠れていた。罪悪感と羞恥がないまぜになった彼の感情が、リアを包み込む。

「ええ。あなたが私を奇跡だと言った理由が分かったわ」

 リアは安心させるように、眉を下げるゼルドリックを優しく抱き締めた。

「そういうことだったのね。あなたが百年以上私を想ってきたと言った理由がようやく分かった」

 真っ直ぐにゼルドリックを見つめると、彼は怯んだように見えた。

「おかしいと思うか、想像上の女に恋をした俺が。君と出会うために毎夜祈り続けた俺を、君は狂っていると思うか?」

 リアは少し考えた後、ゆっくりと首を振った。

「思わないわ」

(母さんは私が生まれた時、外に赤い綿毛がたくさん飛んでいたって言ってた)

 アカドクジシソウ、エルフたちが「パルシファー」と呼ぶ真っ赤な綿毛を飛ばす毒草。

 エルフが崇拝する女神がこの世にもたらしたと云われる植物。ずっと不思議に思っていた。己の両親は茶色の髪を持っているのに、なぜ自分だけ真っ赤な髪を持って生まれてきたのだろうかと。

 生まれた時に飛んでいた赤い綿毛も、自分が持つ真っ赤な髪も。きっとそれは、エルフの女神からもたらされた祝福だったのだ。そして、恋物語に憧れた幼い自分の心に、いつも在った王子の姿を思い出す。

 黒い髪を持つ、少し意地悪な王子様。
 自分のことが大好きな王子様。

(あれは、きっとあなただった。信じられないことだけど、女神様があなたに巡り逢わせてくれたんだってはっきりと分かる。私は黒の王子様と契るために、この歳まで独りだったのかもしれないわね)

 ゼルドリックにとっての自分が奇跡ならば、自分にとってのゼルドリックは運命だった。

(あなたに逢えて良かった)

 リアは涙を流した。ゼルドリックの身体に触れていると、特に彼の記憶と精神が強く流れ込んで来るのが分かる。ゼルドリックからの愛が、自分を深く包み込んでいる。

(私も同じよ、ゼル。あなたと同じ感情を抱いている。話すことも、手を握ることも、身体を寄せ合うことも、何もかもが素晴らしかった。あなたと過ごした日々は輝いていた。私の心の支えだった)

(私と出逢った時の驚きと歓喜。一緒に暮らした時の何物にも代えがたい充足感)

 ゼルドリックの精神世界は温かく居心地がいい。
 赤い髪の姫君を想って創られたこの世界は、自分への愛に溢れている。

 だがリアは分かっていた。どこまでも優しいこの世界に歪みがあることを。

(失うかもしれない、離れていくかもしれないという恐怖。薔薇が受け取られなかった時の悲しみ。自分が受け入れられないことに対する憎しみ……。ああ……私はあなたに、こんなに辛い思いをさせてしまったのね)

 ひび割れ、欠落。そして癒えぬ傷が彼を深く苦しめている。
 彼の心は安定していない。自分への愛憎に、この世界は揺れている。

 優しく穏やかな、溟海のように大きく深い愛。
 だがその底には、地獄の業火のように燃え盛る狂愛が在る。
 己も相手も焼き尽くす程の、憎悪が入り混じった愛が。

「……リア」

 ゼルドリックは哀しく微笑んだ。

「伝わるだろう、俺が君に対して抱いている感情が。君を何よりも慈しんで大切にしたいと思うのに、反対に傷付けて、壊して、永遠に俺の傍から離れられないようにしたいとも思う。俺は、狂っている」

 ゼルドリックは己の胸から契りの薔薇を取り出した。綻ぶことなく固く閉じられたままの、青い薔薇。

「俺は大切な君を苦しませ、そして死なせかけた。俺が君の隣にいる権利は無い。だが、駄目なんだ、制御できない。この薔薇を胸に抱える限り、俺は君への激情を止めることができない。今も君を縛り付けたくて仕方がない……」

 ゼルドリックは首を斬られる前の罪人のように、リアの前に項垂れた。

「俺はこの薔薇がある限り、また同じことを繰り返してしまう。そして今度こそ君を壊してしまうだろう。だから……」

 ゼルドリックはリアの指に薔薇を握らせた。

「終わらせてくれ。この薔薇を握り潰し、この狂気に止めを刺してくれ」

 リアは目を見開いた。ゼルドリックの哀しみが、リアの心と深く共鳴する。

「何、を……」

「リア。ここは俺の精神そのものだ。時は経たず、外から助けは来ない。俺が望む限り君はここに閉じ込められたまま。君にとって、ここは永遠の牢獄なのだ。だが、この薔薇を潰せばこの城は崩れ去る。君は外に出られ、俺はもう君を苦しめることはない……」

「……ゼル」

「償いにはならないが、俺の財産は全て君に渡そう。これで本当に終わりだ。頼む」

「あなたっ……」

(なんて、残酷なことを言うの……?)

 リアは唇を戦慄かせた。
 ミーミスは自分に言ったのだ、薔薇はゼルドリックの魂そのもので、散らせば彼の命が潰えると。

「ねえ、ゼル。私の気持ちを知っているでしょう?」

 彼の頬に手を添え、リアは涙で濡れる顔をゼルドリックに向けた。

「あの地下牢で、あなたと私の精神が深く共鳴したのをはっきりと感じたわ。私の王子様が誰なのか分かっているでしょう? 私がブローチに込めた感情が、あなたへの恋情だって分かっているでしょう? なのにどうして、そんなことを言うの……?」

 リアの赤い瞳から次々と溢れ出る涙。ゼルドリックはそっと黒い指でそれを拭った。

「罪人が隣にいる権利はない。リア、もう君を傷付けたくないんだ。頼む。身勝手なことを言っているのは分かっている。だが俺が正気を保っているうちに。俺が君を壊してしまう前に。どうか……」

 ゼルドリックは目を閉じた。
 哀しみに満ちた、だが安らかにも見える顔だった。

(……あなた、死ぬつもりで私をここに連れてきたのね)

 リアは呆然と彼の顔を見た。

 ――君がゼルドリックに会いに行ったことで、もしも万が一、彼が君を思い出してしまったのなら。その時は薔薇を受け取るか、薔薇を潰すか選びなさい。君が君の責任で選ぶのだ。中途半端は無しだよ。

(ミーミス様)

 ――胸に抱える契りの薔薇を持て余す限り、ゼルドリックはまた同じことを繰り返す。だから君が終わらせるのだ。君が薔薇を受け取り彼に己の魂を捧げるか。あるいは……彼の薔薇を散らし、魂を潰えさせるか。

(私は)

「君を想って創った薔薇。だから最後に、君の手で散らして終わらせてほしい。傷付けて済まなかった……。愛しているよ、リア」

 ゼルドリックは微笑んだ。優しく、リアへの慈愛に満ちた微笑みだった。

 ――契りを交わせば、君の胸にゼルドリックの感情が流れ込んでくる。その感情は、やがて君の人格や思考をすっかり変えてしまう。ゼルドリックが君を想って狂ったように、君もまた彼を想って狂う日が来る。それでも契ることを望むのかい?

(私は薔薇を受け取る前から、もうとっくに……)

 リアは青い契りの薔薇を胸に抱えた。

「ゼル。私もね、狂っているのよ」

 ゼルドリックがゆっくりと目を開いた。

「どんな形でも、あなたから触れられることが嬉しかった。切なくて悲しくて泣きたくなっても、それでも好きなあなたと肌を重ねられるのが嬉しかった。あなたに溺れてしまいたいって、何度も思った……」

「……リア」

「ゼルが私宛の手紙を全て捨ててたって聞いた時、異常だって思った。でもね、それほどにゼルが私に執着をしているって、形で確認して……確かに喜びを感じたの」

「…………」

 世界が優しく、切なく揺れる。リアはゼルドリックの心の震えを愛おしく思い、微笑んだ。

「私を監視して、壁一面にあんなに写真を貼り付けて、ごみも下着も集められて、すごく恥ずかしいって思った。でも、ゼルを怖いって思うことはなかった。むしろ心の底から嬉しいと思った。ああ、このひとは、こんなにも私を愛してくれるんだって……」


 契りの薔薇を咲かせるための狂愛の土壌は、とうに己の胸に在る。

「狂っているのは私も同じ。あなたになら壊されてもいい」

 リアは青い薔薇に唇を寄せた。

「リア……?」

 ゼルドリックは、己が心に宿す炎を赤い瞳にも認めた。

「私の全てをあなたにあげる。どれほど狂ったっていい、狂った先にあなたがいてくれるなら、私は何も怖くない。あの時、薔薇を受け取れなくて本当にごめんなさい。遠回りをしてしまったけれど、私の気持ちはずっと変わらない……」

 薔薇が綻んでいく。ゼルドリックは目を見開いた。

「愛しているわ、ゼル」

 青い薔薇が美しく咲き誇り、魔法の蔦がリアに伸びていく。蔦はリアの魂を強くきつく縛り付けた。
 リアは今、自分の何もかもがはっきりとゼルドリックのものになったのだと実感した。

 甘美な感覚だった。彼の想いが絶えず流れ込む。
 海のような深い愛も、地獄の業火のように燃え盛る恋情も、泥のようにこびりつく執着も、全てが愛おしい。

「……ぁ」

 ゼルドリックは息を詰まらせた後、青い瞳からぶわりと涙を溢れさせた。貴石を思わせる潤んだ瞳を、リアは心の底から美しいと感じた。

「リアっ……君は知っているだろう、誰かから聞いたのだろう!? その薔薇を咲かせてしまえば、君はもう俺から離れられない……」

「ええ、勿論知っているわ。この薔薇の怖ろしさはミーミス様から聞いたわ。それを承知で受け取ったのよ」

 リアは笑い、ゼルドリックの涙を舐め取った。

「ゼル。あなたは私と一緒に生きるのよ。家族を作るのがあなたの夢なのでしょう」

「……ああ」

「私のお腹にね、子がいるのですって」

 驚愕に固まるゼルドリックの手を、リアは己の腹に当てた。

「薔薇を潰すなんて二度と言わないで。あなたを死なせなんてしないわ。百年ちょっと働いて貯めたお金じゃ、お腹の子が生きていくのには到底足りないの。エルフの血を引くこの子は、長く長く生きるのでしょう。あなたにはこの子を養い、見守り続ける義務がある」

「リア……」

「償いたいと思うなら、ずっと私の傍にいて。私が年老いても、どんな姿になっても傍にいて。そして私の命が尽きた後も、この子をずっと守り続けて……」

 リアは泣きながらも口角を上げた。彼が好きだと言ってくれた笑顔を見せたかった。

 世界の欠落が埋まっていく。ゼルドリックの精神世界は愛に満ち、そして尚美しく輝いた。

 リアはゼルドリックに抱き締められた。
 肩を大きく震わせ、嗚咽する彼の髪を優しく撫で続ける。

「愛している、愛しているっ……リア……」

 唇が優しく塞がれる。リアはうっとりとその甘さに酔いしれた。

(私も心から愛しているわ、黒の王子様)

 彼に想いを伝えるように、広い背にしっかりと腕を回す。

 リアの指先で、咲き誇った青い契りの薔薇が美しく輝き続けていた。
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