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王道ブルース

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全日本プロレス一筋、渕正信さんの著書。
旗揚げ当時の全日本プロレスを知る数少ない人物であり、ジャイアント馬場さんやジャンボ鶴田さんを見上げて、三沢光晴さんや小橋建太さんを見守って、スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディ、ベイダーらと渡り合ってきたプロレス界の生き字引。

内容は「人の悪口は言わないし、面白くないと思うよ。それでもいいなら」と引き受けたとある通り、あまりアイツはこうだった、コイツはああだった、とは言わない。
名レスラーたちの舞台裏、隠れたエピソードから強さを裏付ける証言までが明るく楽しく散りばめられています。
でも時々、渕さんの自信や自負がチラリと赤鬼の顔をして覗き込む。奥ゆかしい一冊。

入門まで、そして再入門とデビュー。同期だった大仁田厚さんとのアメリカ修行、最強レスラーの呼び声は今も高いジャンボ鶴田さんとのエピソード、ジャイアント馬場さんの強大さ、のちに台頭するプロレス四天王について。渕さんの目から見た全日本プロレスの在りし日が浮かび上がる。

この本の中でも渕さんが語っている通り、鶴田さんは若い頃から凄い。凄かった。が、なんかこうもどかしい。確かにいい試合だし、馬場さんや他の選手のキャリアを考えても、二十代後半で当時の世界最強クラスのレスラーと大会場で渡り合ってるのはとんでもないことだ。
と、自分が三十路も半ばを越えてみるとよくわかるのだが、ガキの頃はそんなことわからない。昔のビデオを見ても
「オッサン連中は絶賛してるけど、鶴田ぜーんぜん勝てねえじゃん。あっまたリングアウトだ」
とか思っていた。そしてそれはまあ、当時のファンやマスコミにも思われていたのか、有難くない称号を頂戴したという。

でも、昭和から四天王プロレスぐらいまでの全日本プロレスってハマると深みがあって、その若き日のもどかしさを覚えたままどんどん時代を進めていくと、あのニック・ボックウィンクルとのAWA世界戦(主審が真っ赤なタキシードのテリー・ファンクというのがまたイイ)に辿り着く。こっちが抱えていたフラストレーションごとバックドロップホールドで投げ飛ばしてフォールしてくれるからスカっとする。オススメの一戦である。
そして時代が平成に向かって行くと鶴田さんは黒パンツの怪物となり、覚醒してゆく……。

閑話休題。
そんな鶴田さんをそばで見続けた渕さんの言葉には重みがあるし、馬場さんにしても鶴田さんにしても、本当に強いから、そして張り合っても得が無いから、割り切ってあの頃は黙っていたのだというのがよくわかる。

あのロードウォリアーズにブチ切れたり、小林邦明さん始めジャパンプロレス勢を向こうに回したり、この一冊の中に含まれる渕さんの自信は確かな実戦で培われたものであるというのも、よくわかる。

この本は意外なことに、全日本プロレス最大のピンチを迎えるところで終盤を迎える。
もっと読みたいが、渕さんがこの時期まで、と区切ったことによるようだ。

私がそれまであまり注目してこなかった「全日本プロレスの渕正信」という名前を心に刻んだのは、中学生の時。会場は全日本プロレス日本武道館大会……ではなく、あろうことか
新日本プロレスのG1クライマックス両国国技館大会
だった。

この本の掉尾を飾る、全日本プロレスの存亡をかけた戦いの、その端緒。
何べんでも自慢したい、あの「開戦」の瞬間に私は居合わせたのだ。砂被り席で見たスーツ姿の渕さんは思ったより大きくて、新日本プロレスのブルーのマットによく目立っていた。
それまであまり目立ったところのない人だと思っていたし、当時の全日本プロレスは大量離脱とテレビ中継の終了で誰もが「もはやこれまで」と感じていた。そこに幾ら川田利明さんが残っても。そして渕さんが居たとしても……。

渕さんは引退するつもりで郷里に戻っていたが、川田さんの決意と馬場元子さんの全日本プロレスを潰したくないという思いを受けて翻意する。当時すでに46歳だったと語る渕さんだが、これが現在でも王道の生き証人でありマットの生き字引として現役を続けるきっかけになるとは。

乗り込んで来た渕さんを迎撃するため、通路の奥から現れたのは長州力さんだった。まさかの渕さん登場に加え、当時現役を引退していた長州さんの出現に両国国技館は屋根がすっ飛ぶんじゃないかというぐらい熱狂した。私も狂ったように長州コールをしていた。
次に現れたのは蝶野正洋さんだった。お馴染みのアジテーションで怒鳴りまくっていたが、リングに居た渕さんにも聞き取れなかったとは……私もあまりよく聞こえなかったが
「ココはテメエみてえのが来る場所じゃねえんだエーッ!」
みたいなことを言っていた気がする。
でもあの時、渕さんが蝶野さんの投げ捨てた帽子を「忘れもんだ」と言ったのは、よく覚えている。まさかそれが開戦、そして対戦に向けてのサインだったとは、ガキだった頃の私には思いもよらぬことだった。でも、考えて見りゃそうだよな。
そして蝶野さんが今度は全日本プロレスの日本武道館に乗り込んでゆく。
実に周到に仕組まれた戦いが、あの日はじまったのだ。

この「王道ブルース」のもう一つのハイライトは、やはり馬場さん・鶴田さんの死去だろう。亡くなられたときの衝撃は計り知れない。
そんな時に渕さんは、意外と距離を取って知らせを受けている。
和田京平さんの著書「人生は3つ数えてちょうどいい」には、馬場さんが亡くなれたときの様子が生々しく描かれている。馬場さんの側近で合った和田さんにしかわからないことがいっぱいある。
渕さんは現場の、おそらくあの当時の全日本プロレスの選手にはこうだったのだろうな、という描写になっていて、如何にあの出来事が秘せられていたのかがよくわかる。

全日本プロレス50周年記念出版、と銘打たれているとおり、全日本プロレスの歴史を、旗揚げ当時に入門した「プロレスラー・渕正信」のプロレス人生と共に振り返る一冊。
厭な話や悪口が少なく、カラッとした内容でとても読みやすく、昔を懐かしむ人にも、最近の全日本プロレスにハマっている人にもおすすめの本です。

ただこの本のプロローグだけは、ちょっと意外な描写で始まる。プロレスファンでもあまり馴染みのない名前や出来事だと思う。
本書で唯一と言っていいほどピリついた雰囲気の、物騒な出来事。
それが柔道の猛者、岩釣兼生さんとのスパーリングだ。
全日本プロレス入団が決まっていたという岩釣さんはしかし、師匠である木村政彦さんとの秘密特訓を重ねプロレスに「敵討ち」をするつもりでいた。
この辺りの描写が始まって、ピンと来たのは増田俊也さんの著書「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の冒頭。全日本プロレス事務所での馬場さんと岩釣さんのやり取りだった。あの緊迫の交渉のあとで、おそらく岩釣さんや全日本プロレス一行は道場にやって来た。そして、渕さんがスパーリングをすることになった。

あの時、そんなことが起こっていたのか。
それをまず知ったうえで読むと、全日本プロレスという猛者の軍団がぐっと力強く見えて来る。そしてその猛者の中に、たったひとり若くして飛び込んだ一人のプロレスファンの少年が、今やその全日本プロレスを象徴する選手の一人になった。
人生はチャレンジだ、チャンスは掴め!
これは馬場さんの言葉で、鶴田さんがお墓に刻んだフレーズだけれど、二巨星のもとプロレスラーとして育った渕さんも、これを体現しているように思える。
今や自分の作った団体ですら飛び出しちゃうレスラーが多い中、最初にデビューした一つの団体に半世紀近く在籍し活躍し続けるなんてことは、後にも先にも渕さんだけの偉業なのではないだろうか。

その偉業がこの先も続き、金字塔となるまで。
まだまだ元気で頑張って欲しい。
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