引きこもる君を推すべきか?

日々曖昧

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第一話 出会ってしまった

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 元引きこもりからすれば、久々に乗るバスの車内の人口密度の高さには身震いするものがある。

「……でさでさ、結局あのゲーム、クリアしないまま寝ちゃったんだけど」
「いやいや、それは彼氏が悪いわ。ちょっと男としてっていうか、人としてないわ、それ」
「あーお腹いっぱい。さすがに朝から甘いもの続きだからきついわ。しょっぱいのと交互にいくんだった」
「それマジ!? かあっ、お前もついに勝ち組かよ!」

 みんながみんな、それぞれにそれぞれの世界の話をしていて、そのどれもに混ざれていない自分が、ひどく矮小なものに思えてしまう。
 耳にさしたワイヤレスイヤホンからは、まだなんの音も流していなかった。
 鞄に入れると皴になりそうだったので手で持っていくことにしたクリアファイルが、バスの揺れに合わせて芯のない動きを繰り返している。
 月並みだけど、まるで僕の心境のようだった。
 車窓から見る景色はどんどんと知らないものになっていた。この先に住んでいる同級生の顔もまた、僕はまともに知らない。
 バスの揺れと揺れの間隔に挟み込むように、僕は先程の会話を思い出す。
 元を辿れば、悪いのは完全に僕だ。だからまあ、甘んじて処罰を受け入れる覚悟はできていたのだけれど。

◇ ◇ ◇

「……それじゃあ、一ノ瀬の家はこの辺りだから。よろしくな、透坂」

 まさか授業中の居眠りに対する罰として、不登校の同級生の家まで課題を送り届ける羽目になるとは、つゆにも思っていなかった。というか、それを罰としてしまっていいのか、担任教師。
 自分の表情が苦悶に歪んでいくのがわかる。教師の手前、という建前が軽々しく崩れてしまうくらいには、億劫な依頼だった。

「……はあ」
「なんだよ、乗り気じゃないみたいな顔してさあ」

 よくもまあそんな白々しい台詞が吐けるものだ、と僕は思う。罪人が罰に乗り気だったらなんか嫌でしょ、なんて胸のうちでは毒づきつつも、それを表に出すことはない。


「……別に」
「なんだなんだ、その生煮えの返事は。言っとくけど、拒否権は保護者面談と引き換えな。お前、これで俺の授業、三回連続居眠りだし」
「行きます。行かせてください」
「おう、手のひらくるっくるで助かるわ」

 担任教師の新川は、去年も僕のクラスを受け持っていた。ゆえに、僕が去年どんな高校生活を送っていたのかを、この学校の誰よりも詳しく知っている。
 だから、僕はこの人が苦手だ。
 ただ大切なのは、苦手ではあっても、嫌いではないということ。少なくとも、教師という生き物の中では、この新川司のことを僕はかなり好意的に思っている。
 去年、新卒教師としてうちに来ただけあって年齢が若い、というものあるが、おそらく、彼の人間性そのものが柔軟なのだ。だからこそ、僕のような隅っこ暮らしの生徒に対しても彼はなんの滞りもないコミュニケーションを取ってくれる。
 他にも、人間としては割とろくでもないところとか、親近感を覚えることは多い。

「あ、あとさ」

 職員室を出ようとした僕に、新川が一言を添える。

「一ノ瀬踏穂は、どっかお前と似てるんだよ。だから、ほら、きっと仲良くなれる」

 まるで僕に友達がいないから気を遣ってやった、みたいな口ぶりだ。いないのは事実だが。
 けれど、新川は僕がそういう気遣いを嫌がるタイプだと知った上でこんなことを頼んでいるのだから、今さら腹も立たなかった。
 文字通り、このおつかいは僕への罰なのだ。

「別に、プリント届けるだけですから」

 僕の返事に新川が意地の悪い笑顔を浮かべたので、少しだけ強めにドアを閉めてやった。つもりだったが、ここのドアは閉まる寸前で勢いが死ぬ仕組みになっており、音一つ鳴ることはなかった。
 なんだかそれすらも新川の思い通りな気がして、悔しかった。
 と、まあこんな流れで、僕は今バスに揺られているわけだ。
 前方の電子案内を見るに、新川に教えてもらったバス停まではあと三つほどの停留所を挟むらしい。
 絵に描いたような手持ち無沙汰のせいで、そろそろ消そうと思っていたパズルゲームのスコアだけが伸びていく。このままの勢いだと今日のランキング一桁だって夢じゃなさそうだ。いや、どのみち消すんだけど。
 そのとき、ピコン、という通知音がイヤホンに響いた。そして間髪入れず、画面上にもその通知の内容が表示される。

『箱舟ノアさんの配信が始まったよ!』

 僕はすぐに途中だったパズルゲームの画面をスライドで削除した。
 こんなことをしている場合じゃない。
 ホーム画面から『Real・Sky』のアイコンをタップし、自動ログインを終わらせる。外だからか、読み込みが普段より数秒遅く感じた。
 最悪だ! 一コメが取れなかったらどうするつもりなんだよ。

『リアスカへようこそ!』

 もう何百回と目にしている表示がうっすらと消えていき、やっとマイページを見ることができた。フォローの欄から『箱舟ノア』のアイコンを見つけ、配信中と書かれた虹色のマークを押す。
 一秒ほどの読み込みを挟み、いつもの声が聞こえてきた。

「……なさん聞こえますか、人類最後の拠り所、バーチャルライバーの箱舟ノアです!」

 お馴染みの挨拶と共に、少し銀がかった彼女の白髪が揺れる。今日の髪型は珍しくポニーテールらしい。
 大きくはっきりとしたつくりの瞳は今日も青々と宝石のように輝いていて、口元にある小さな黒子が彼女の顔全体を引き締めていた。
 これだけ毎日観ていると、もう目の前の箱舟ノアの姿をアバターとは思えなくなった。
 彼女は一人の人間としてこのバーチャル世界に存在していて、配信画面を開けば、ずっとそこで視聴者である僕たちのことを待っている。
 その事実が、何よりも僕の心を安らかにしてくれる。
 彼女の言葉を少し拝借するならば、僕にとって箱舟ノアは、まさに人生最後の拠り所だった。
 幸いにもまだコメント欄には何も書き込まれていなかった。誤字をしないよう注意を払いつつも、僕は迅速に親指を動かす。

『ノアちゃん来たよ! 今バスに乗ってるんだけど、ちょっと酔いそう……』
「ああ! 世紀末さんいらっしゃい! 一コメもありがとー。うわあ、乗り物酔いって辛いよね……。私も小さいときに遊園地に行ってさ……あ、みやみやさんもいらっしゃい! えっ、みやみやさんもジェットコースターダメなんだ!」

 最初の挨拶でさりげなく話しやすい話題を提供するのがコツだ。そうすることで配信序盤にありがちな『コメント待ち』の時間をなくすことができるし、配信主のエピソードトークには視聴者もコメントしやすい。
 まあ、これくらいは一視聴者として身につけておくべき当然の嗜みだ。原始時代からの教えにもある通り、配信とは、主と視聴者で作り上げていくものなのだから。
 彼女、箱舟ノアは配信アプリ『Real・Sky』にて一年半ほど前から活動を続けており、フォロワーは一万人越え、アプリ内ランキングでは常に百位圏内をキープしている、いわゆる中堅配信者だ。
 ちなみに、かの有名なノアの方舟と字が違うのはあえてであるらしい。

「私の船はみんなが乗れる、大きな大きな箱だから」

 当初頻繁に口にしていたキャッチコピーは、最近忘れられたのか、あまり聞くことはなくなった。いまいち意味も通ってなかったし、僕としてはそれでいいと思う。

◇ ◇ ◇

 僕が彼女に出会ったのは、高校一年の秋ごろ、ちょうど引きこもりが板についてきていた、なんでもない日のことだった。
 その日も、何一つ意味のあることなんてしていなかった。
 動く気になんてなれず、ベッドの上で座り込み、もう何度も読んだ本を再読したり、楽しさなんて微塵も感じなくなったゲームで時間を潰したりしていた。毎日が消化しきれない暇で満ちていて、世の中の全部が暇つぶしでしかなかった。
 黒く厚い遮光カーテンはもう、一週間以上開かれていなかった。とにかく頭を空っぽにして、楽な方に逃げようと必死だった。
 そんなときだった。

「……なんだ、これ」

 間違えて踏んでしまった広告の案内で、『Real・Sky』という配信アプリがあることを知った。宣伝文句には、『本当の自分になれる』とか、『もうひとつの世界で生きていこう』だとか、とにかく耳さわりのいい言葉が並べられていた。
 別にそれらの文言に惹かれたわけでもなかったけれど、試しにダウンロードしてみるのも悪くないかもしれないと思った。
どうせ、他にすることもなかったから。
 少し調べてみたところ、『Real・Sky』には投げ銭制度といって、視聴者から金銭を受け取る仕組みもできているらしかった。
 適当に配信して小遣いを得られるなら、やってみるのもひとつの暇つぶしにちょうどいい気がした。なんせ、時間だけはあったから。
 結果、僕はそのリアスカで思わぬ運命の出会いを果たすことになる。
 それは一方的で、自己満足でしかないのだけれど、それでも確かに、運命だった。

◇ ◇ ◇

 ノアの配信は一回につき三十分から一時間ほどしか開かれない。
 彼女は運動が大の苦手で体力に自信がないといつも言っているので、短い時間しか配信をしないのはきっと、配信としてのクオリティを守るためのことなのだろう。プロ意識、というやつだ。
 今日は何やら用事を控えているらしく、僕を乗せたバスが目当ての停留所に止まる頃には、彼女の配信は締めの挨拶に入っていた。また夜の九時頃からいつもの定期配信をするらしい。

「それじゃあ、ちょっと短いんだけどこれくらいで! ゲリラで開いちゃったのにみんな来てくれてありがとねー!」

 プシュー、炭酸飲料が吹きこぼれるような音を立てながら、バスの扉が開く。

『おつノア!』

 コメントを打ち終え、画面をスリープさせてから、左手に持っていた二百九十円を運転席横の回収口に滑らせる。「どうも」という運転手の声に軽く会釈し、僕はバスを降りた。
 画面をのぞき込んでいた頭を持ち上げ、首を傾けて軽く骨を鳴らす。
 自分は何も頑張っていないのに、ノアの配信を観た後はいつも達成感に満ちているから不思議だ。
 この辺りは高級住宅街らしく、見渡す限りが見覚えのない建物ばかりで目が回りそうだった。僕は少し身構える。知ってはいたけれど、ここは僕の知らない場所だ。
 早く用件を済ませて、夜の配信までに全てのタスクを終わらせておかなければ。そんな意気込みを胸に抱きつつ、新川から教えられた住所を携帯でマップ検索した。
 よかった。徒歩で十分もかからないらしい。これなら往復の時間を含めても三十分以内にはまた帰りのバスに乗れるだろう。
 一応停留所の時刻表を写真に残してから、僕は歩き出した。

 一ノ瀬踏穂の家は、誰がどう見ても恵まれた家庭のものとわかるくらいには豪華なつくりをしていた。縦長のフォルムから察するに、おそらくは三階建てで、そもそも玄関の扉からして重厚だった。まるで中に財宝でも詰め込んでいるかのような厳かな雰囲気があった。
 家の規模感も相まって、インターフォンを押す僕の周りには、目に見えない緊張の糸が張りつめていた。
ふとした動作が命取りになるような、そんな感覚だった。
 しかしまあ、その一ノ瀬さん? だって、ただ課題を届けに来ただけの同級生に対してなんの感情の揺らぎもないだろう。深く考えず、彼女の親か誰かが出てくれれば、このファイルだけ渡して帰ればいい。
 ただ、それだけだ。
 手っ取り早く結論から言うと、押し込んだインターフォンの呼び出しに対して、家の中からはなんの反応もなかった。
 取り込み中だろうか。もしくは留守?
 思わず頭を抱える。さすがにしれっと郵便受けに入れて帰るのは新川の性格からして依頼の達成にはなりえないだろうが、かといって誰かが帰宅するまでここで待ち続けるという選択肢も同じくらいありえない。
 僕はこれでも忙しいんだ。
 箱舟ノアとか、箱舟ノアとか、箱舟ノアとかで。

『……先生、ですか?』

 もういっそ新川に現状を報告して今日のミッションをリタイアしようかというところまで考えかけていたそのとき、インターフォンに取り付けられているスピーカーから声が聞こえてきた。
 今にも消えてしまいそうなほど、か細い声だった。

『あ……え、と。すみ、すみません。今日も、顔は出せそうに……なくて、でもお話なら……少しできます』

 躓きながらも、声の主はなんとか言葉を絞り出していた。
 僕はこういう声の出し方を知っていた。
 こういうふうにしか喋れない人間がいることを、知っていた。
 慎重に言葉を選ぼう。そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと口を開く。

「ごめん、僕は新川先生の代理で来た、透坂です。一ノ瀬さんとは同じクラスなんだ。……それで、課題を持ってきたんだけど、どこに置いておけばいい?」

 数秒、スピーカーからは何も聞こえてこなかった。
 もしかしたらもう、一ノ瀬は話し出さないのかもしれないと思った。いや、むしろそっちの可能性の方がずっと高いだろう。
 こんな、クラスメイトということ以外なんの関わりもないような男にいきなり訪ねてこられても迷惑千万だろう。僕もまあ、元引きこもりとしてはそういうところに理解はあるつもりだ。
 もちろん、僕と彼女が抱えている地獄は似ても似つかないようなものかもしれないが。
 人には人の地獄がある。この事実だけは、悲しいかなこの世の心理だ。

『……透坂、くん? わざわざ、ありがとう』

 予想に反して、一ノ瀬はまだ会話を続けてくれた。
 まさか会話が続くなんて思ってもみなかった僕としては、そりゃ戸惑う他ないわけで。

「いやっ、あの、全然気にしないで。居眠りのペナルティでおつかいを頼まれただけだから」
『……ふっ』

 今、笑ったか? 完全に笑ったよな。
 いや、全然いいけど。いいんだけどさ。

『新川先生っぽい』
「あの人は意地悪だから」

 僕がそう返すと、また一ノ瀬は少しだけ微笑んだようだった。
 意外とよく笑うんだな、なんて少し失礼なことを思う。

『……あのさ、その、透坂くんが迷惑……じゃなければなんだけど。ちょっとだけ……話し相手になってもらっても、いい?』

 全く予想もしてなかった提案だった。
 けれど、僕の中に彼女の言葉を突き放す選択肢は自然と浮かばなかった。
 高校二年の始めに転校してきて以来、全く学校に来ていないクラスメイト、一ノ瀬踏穂。今の今まで声も知らなかった彼女がこんな提案をする気持ちは、なんとなくわかるから。
 一人でいる人間は、決して寂しさを感じないわけじゃない。寂しさよりももっと重力を秘めた絶望が、『寂しい』と感じる器官に蓋をしているだけだ。泣きたいときに泣けない、そういう経験が積もるほど、人はそもそも泣きたいと思えなくなる。

「少しくらいなら、全然」
『……ありがとう。病院から、できるだけ、誰かと話すように言われてて』

 なるほど、それで新川はいつも一ノ瀬と話す習慣をつくっているわけか。
 今日、僕がその代理を彼女に頼まれるかもしれないというところまで、きっと彼は見越していたのだろう。いや、さすがに先回りしすぎて気味悪いな。
 そして案の定、僕は新川の手のひらの上で踊らされようとしているというわけだ。

『鍵、開けるけど。……私がいいって言うまで、その、入らないでもらってもいいかな』
「わかった」

 スピーカーの電源が落ちる音がして、すぐに玄関の扉の鍵が開いた。
 僕は言われたとおり、一ノ瀬の許可が下りるまで動かなかった。

「……いいよ。私、突き当たりの部屋だから」

 少しして、何層も向こうの方から一ノ瀬の声が聞こえた。耳を扉に押し付けるようにして、なんとか聞き取れるくらいの声量だった。スピーカーを通していない彼女の声は、より一層、なんだろう、頼りない。
 とにかく許可は下りた。
 冷たいドアノブを捻り、広い玄関に足を踏み入れる。そこには靴の一足すら出されていなかった。
 ここまで人間の匂いがしない玄関があるのか、と静かに驚く。

「おじゃま、します」

 僕は端の方に靴を揃えて脱ぎ、人の気配の薄い廊下を渡った。
 外観からわかってはいたが、やはり一ノ瀬の家は立派な内装をしていた。
 まず、天井が高い。あの三階に日光を差し込ませている窓、どうやって掃除するんだ? 人の家に上がるという経験が少なすぎて、そんなどうでもいいはずのことがいちいち気になってしまう。
 豪華なつくりであるとはいえ、玄関から続く廊下はそこまで長くなかった。
 僕はあっという間に、彼女の言っていた突き当りの部屋に着く。おそらく、ここが一ノ瀬の部屋なのだろう。さっきインターフォンを押したときとは別種の緊張感が、喉の奥を詰まらせる。

「……一ノ瀬、さん? 今、扉の前にいるよ」

 扉と少し離れた位置から、僕は呼びかけた。
 そして、次の瞬間、僕はその場に崩れ落ちることになる。
 まるで雷に打たれたような衝撃、なんて言葉があながち誇張表現ではないということを、僕は思い知った。
 想像もしていなかった。いや、できるはずなんてないだろう。

「ありがとう、透坂くん」

 僕の名前を呼ぶ一ノ瀬踏穂の声は。
 僕の頭の中にある、あの箱舟ノアの声と、完全に同じものだったのだから。
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