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第二話 同じだ
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バーチャルライバーの配信というものを、僕はそのとき初めて観た。
箱舟ノア。正直、その名前だけではいまいち、なんの人物像も湧かなかった。ネット上の名前だし、男なのか女なのかも曖昧だ。
だからまあ、逆説的に言えば、どんな見た目だろうと似合う名前ではあるのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕は彼女の配信画面を開いた。
正直、冷やかし半分だったと言ってもいい。気に入らなかったらすぐに退室して他の配信者のところに行こうとしていた。
それくらい、このアプリの配信者数は充実していたから。
「世紀末……さん? 初見さんですね! いらっしゃい、箱舟ノアです。まだ始めたばかりで拙い配信ですが、一緒に楽しみましょうね!」
違う。彼女のアバターの口が開かれ、第一声を聞いた瞬間、僕は思った。
箱舟ノアという名前は、彼女のためにある。それはそうだろう。通りすがりの人間の名前に対して、いちいち似合っているだとか考えるか?
白い髪も、大きな瞳も、一切の淀みもない滑らかすぎる肌も、全てが現実のものではないのに、それらが構成する箱舟ノアは、どこまでも現実の少女だった。
箱舟ノアは彼女で、彼女でしかないのだ。
ちゃんと、彼女はここにいる。僕は彼女の声から、確かな体温を感じた。
『初めまして、ほんとに綺麗な方で、驚いてます』
初対面で、それもアバターである彼女に対して何を言っているんだろう。
そう思う自分もいた。けれど、無意識に打ち込んだコメントが、確かな本心であるということも、僕は感じていた。
薄暗い部屋で朝か夜かもわからない一日を重ねている自分なんかよりもずっと、画面の中の彼女は、生きている、という気がした。
「えっと、綺麗? ……嬉しい。初めて言われました」
何にも染まっていない、純白のショートカットの前髪が揺れる。
まるで画面の向こうの空間にはそよ風が吹いているようだった。気づけば、僕は彼女がいるその空間が、できるだけ穏やかな空間であることを願っていた。
空き缶で埋まった自室の机をちらと見てから、どうか、楽園のような場所で彼女は生きていてほしい。そう強く思った。
『ああ、いや、忘れてください』
気恥しさを誤魔化すため、僕は咄嗟にそう返した。
なんだか顔が熱かった。
「なんでですか! 絶対忘れません、忘れませんからね。もう覚えましたから、世紀末さんの名前だって絶対に忘れません!」
忘れない。
なんて、優しい言葉なんだろうと思った。僕のことを覚えておきたい人間なんて、いないに決まっているのに。
ふと、外の光を断絶しているカーテンに目をやった。
ほら、僕のいる場所はこんなにも暗い。
言葉通り、ノアは配信を始めてからまだ三日しか経っていなかったので、フォロワーもまだ十人いるかいないかといったところだった。その日も、夕方ということもあって、コメント欄には僕しかいなかった。
まるで画面の中の彼女と、面と向かって話をしているようだった。
僕の言葉を、ちゃんと聞いて、飲み下して、そして返答をくれる。
それが、素直に嬉しかった。
『じゃあ僕も、ノアさんのこと忘れません』
優しい言葉だと思ったから、僕の方からも返すことにした。
もしかすると、これは彼女に対する誓いなのかもしれない。送信ボタンを押しながら、そう思った。
「ええっ、嬉しい! じゃあ世紀末さんがいる限り、私もずーっと、ここにいられますね」
なんの混じりけもない声で、箱舟ノアはそんなことを言ってのけた。
直感的、だけれど、この人は嘘とか建前とか、そういうのができない人なんじゃないかと思った。だから生きづらくなることも多いような、素直で、とても不器用な人なのかもしれない。
『はい』
自分でも無意識のうちにそう返事をしていた。
なんだ、これ。
ずっと止まっていた心臓が、そのとき確かに動き出したような気がした。
◇ ◇ ◇
もしかして、僕の心臓はもう止まっているのだろうか。だから今、こんなふうに彼女と出会ったあの日の走馬灯でも見てしまったのか。
「……透坂、くん?」
再度名前を呼ばれ、鼓動が痛いほど強くなる。
走馬灯がどうとか、そんな妄言も言ってられないくらいに。
大氾濫している頭の中で、現状を整理する。
この扉越しにいる顔も知らないクラスメイト、一ノ瀬踏穂は、ほぼ間違いなく、あの箱舟ノアだ。
毎日、というか毎時その声を聞いている僕が間違うわけがない。
間違えられる、はずがない。
ならば、僕はどうするべきだ?
決断をしろ。今、この場で箱舟ノアの名前を出してみるか? いや、それで彼女になんのメリットがある。自分の配信を約一年間観続けているクラスメイトなんて、普通に爆弾以外の何ものでもないだろ。
「ごめん、バス停からここまでそれなりに歩いたから、ちょっとだけ疲れちゃって」
知らないフリをしよう。箱舟ノアのことも、自分の胸の中のざわめきも。
一瞬のうちに下した決断だった。
「……そうだよね。ごめんね。わざわざ、ありが……」
謝る一ノ瀬の声は、途中からよく聞こえなかった。
本当は一言だって、聞き漏らしたくなかったはずなのに。
なんでだ。
なんで、僕は泣いている。
次から次へと頬をなぞる涙が、拭う制服の袖をどんどん濡らしていく。
だめだ。これ以上は、だめになる。
泣きやんでくれ。今は彼女の話し相手にならなきゃ、いけないんだから。
『こんな遅い時間なのに来てくれたの? 嬉しい』
『人を傷つけるのが怖いって、世紀末さんは優しい人なんだね』
『おかげさまで今日も楽しかった。いつも観てくれてありがとう!』
あの日々の、箱舟ノアに救われた記憶が濁流のように押し寄せてくる。薄暗い部屋で、唯一光っていた画面の中の君が、すぐ、そこにいる。
深呼吸をしてみるが、溢れる水滴は全くその勢いを弱めない。一ノ瀬に怪しまれるのは当たり前として、このままでは干からびて死んでしまいそうな勢いだった。
「……ちょっと、ごめん。休ませて、もらっていい?」
一ノ瀬の返事も待たず、僕はその場に蹲った。湧き上がる嗚咽を殺すのに必死だった。
少しして、扉が内側から二回ほどノックされた。とても返事はできなかった。
「あのさ……私、透坂くんのことなんにも知らないし、だから、わかったふりをしたいわけじゃないけどね。泣きたいときは泣くしかないんだよ。これ、私の経験則だけど。泣きたいときに泣けない方が、ずっと悲しい」
扉の向こうで、一ノ瀬が床に腰を下ろしたのがわかった。僕と同じ視点の高さになってくれた彼女は、さらに柔らかい声で続ける。
「……だからさ、いいんだよ。いくらでも、落ちつくまでここにいなよ」
やっぱりだ。
やっぱり、一ノ瀬踏穂は、どうしようもないくらい、箱舟ノアだ。
僕はふと、扉に右の手のひらで触れてみた。この先に、あの箱舟ノアがいる。
ずっと画面越しだった。ずっと観てきた。
だからこそ、僕は彼女に箱舟ノアのことを言えない。僕が知っているのは、あくまで箱舟ノアとしての彼女でしかないのだから。
その偶像に抱いた好意を現実世界にいる一ノ瀬にスライドさせることがどれだけ傲慢なことか、僕は知っている。そもそもそんなことが平気でできるやつの語る好意にどれだけの希少性があるというのだろう。
自分が作り上げた理想像は、自分で作り上げたからこそ、脆くて、そして絶対に現実の自分の手には届かないものだ。
僕自身がそうだった。周囲に合わせるための建前に嫌気がさしたから学校に行かなくなったし、いざ登校できるところまで気を持ち直せている今でさえも、僕は愛想笑いの一つさえ満足にできない。
だから、一人でいる。
箱舟ノアは年齢を公開していない。僕も、おそらく彼女は暇な時間の多い、周囲と溶け込めない大学生くらいとしか思っていなかった。
しかし、現実に生きる一ノ瀬踏穂は引きこもりの高校生だ。それも、二年の初めに転校してきて以来、一度も学校に姿を見せていないほどの。
そんな彼女が、理想の自分としてつくった箱舟ノアを面と向かって肯定されたとして、それはつまるところ、現実の一ノ瀬踏穂を否定することになりかねない。
そんなこと、できない。するべきじゃない。
僕は、あくまでただの他人なのだから。
「……だいぶマシになってきた。ありがとう」
一人で思考を練り回していると、少しだけ落ちついてきた。
「よかった」
一ノ瀬は何も詮索しないまま、そう言った。
ひとまず、この空気を立て直そう。
三回深呼吸をすると、やっとまともに言葉が浮かぶようになってきた。
「それで、さ。一ノ瀬さんはいつも新川……先生とどんな話をしてる?」
「うーん……。いつもと言っても、一週間に一回くらいなんだけど……。当たりさわりのないことしか話さないよ。今日は何食べたとか、好きな将棋の駒は何かとか」
将棋の駒? ずいぶんマニアックな会話だな。というかノアって将棋の話、してたっけ。
「……将棋、するの?」
「全くしないけど。新川先生は好きらしくて、特に香車が」
いや、もうちょっと一ノ瀬に寄り添った話題を振れよ。
そこが新川っぽさではあるのだけれど。
「私は歩が好き。響きがね、可愛いから」
聞いてないよ、聞いてない。でも確かに、箱舟ノアもそう答える気がするな。解釈一致だ。
「……えっと、じゃあ次の話。一ノ瀬さんは今日、何した?」
口にしてから、これはかなり意地の悪い質問なんじゃないかと気づく。
だって、僕はついさっきまで箱舟ノアの配信を観ていたのだから。
彼女が何をしていたのかなんて、大体把握しているのだ。
「ああ、えっと、その、あれだよ。……うん、ネット……ネ……あっ! そうそう、ネトゲ、かな?」
あまりにもたどたどしく一ノ瀬は答える。
こんな質問をした僕が悪いんだけどさ、詰まりすぎだよ一ノ瀬。
そもそも、あんまりゲーム得意じゃないっていつも配信で言ってるだろ。
「へえ、ネトゲか。僕も半年くらい前までは結構真剣にユグドラやってたなあ」
つい配信で知っている彼女のことが脳裏をよぎるが、間違ってもそれを悟られないように相槌をうつ。
「ああ! ユグドラね! 最近アプデきてから触れてないや」
一ノ瀬の声には、知っているゲームの名前が出て助かったという感情が滲み出ていた。
まあ知っているのも当然だ。そのゲームの存在を教えたのは僕なのだから。ちなみに先週アップデートがあったことも、昨日コメントしたばかりだ。
「……透坂くんは何してたの?」
「まあ、学校だったし、そんなに色々できたわけじゃないけど。ちょっとだけ、配信とか観たりしたかな」
あ、普通に配信って言ったな、僕。
額に一筋の汗が流れるが、乱暴に袖で拭う。
いやいや、別にこれくらいなら言っても平気だろう。
ほら、配信者なんて星の数ほどいるんだし。
むしろここで変な嘘をついてボロが出る方がよっぽど怖かったって、ねえ、そうでしょ!?
「へっ、へえ……。配信かあ、はあ、へえへえ、なるほど、なんかそんなのもあるらしいね、うん。あんまりよく知らないんだけど、ね」
自分のボロなんて気にしている場合じゃないかもしれない。
いくらなんでも誤魔化すのが下手すぎるだろ、これ。
なんならもう新川にもバレてるんじゃないのか?
あまりにも弱い彼女のディフェンス力に呆気に取られていると、今度は一ノ瀬の方から話し始めた。
「……なんかさ、変な感じ」
「何が?」
「透坂くんには、あんまり緊張しない」
きっとそれは、僕が元引きこもりだからだろう。人が気を張るのは、自分より上手くやれてるやつに対してだけだ。
いくら学校に通っているとはいえ、元来の僕の人間力はやはり、放課後も奮って部活動に勤しむクラスメイトたちにはどう転んでも敵わない。
それが彼女の緊張を解いているなんて、皮肉だけれど、悪い気はしなかった。
「なんでだろ、コミュニケーションは苦手なんだけど」
「……だからかな」
「今、失礼なこと言われてる?」
一ノ瀬の笑い声が扉越しに聞こえる。本当の彼女は、こんなふうに笑える人間なんだ。
僕と同じだ。
重大な何かがあったとか、そういうわけじゃない。
ほんの少しだけ、歯車が狂ってしまっただけなんだ。
箱舟ノア。正直、その名前だけではいまいち、なんの人物像も湧かなかった。ネット上の名前だし、男なのか女なのかも曖昧だ。
だからまあ、逆説的に言えば、どんな見た目だろうと似合う名前ではあるのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕は彼女の配信画面を開いた。
正直、冷やかし半分だったと言ってもいい。気に入らなかったらすぐに退室して他の配信者のところに行こうとしていた。
それくらい、このアプリの配信者数は充実していたから。
「世紀末……さん? 初見さんですね! いらっしゃい、箱舟ノアです。まだ始めたばかりで拙い配信ですが、一緒に楽しみましょうね!」
違う。彼女のアバターの口が開かれ、第一声を聞いた瞬間、僕は思った。
箱舟ノアという名前は、彼女のためにある。それはそうだろう。通りすがりの人間の名前に対して、いちいち似合っているだとか考えるか?
白い髪も、大きな瞳も、一切の淀みもない滑らかすぎる肌も、全てが現実のものではないのに、それらが構成する箱舟ノアは、どこまでも現実の少女だった。
箱舟ノアは彼女で、彼女でしかないのだ。
ちゃんと、彼女はここにいる。僕は彼女の声から、確かな体温を感じた。
『初めまして、ほんとに綺麗な方で、驚いてます』
初対面で、それもアバターである彼女に対して何を言っているんだろう。
そう思う自分もいた。けれど、無意識に打ち込んだコメントが、確かな本心であるということも、僕は感じていた。
薄暗い部屋で朝か夜かもわからない一日を重ねている自分なんかよりもずっと、画面の中の彼女は、生きている、という気がした。
「えっと、綺麗? ……嬉しい。初めて言われました」
何にも染まっていない、純白のショートカットの前髪が揺れる。
まるで画面の向こうの空間にはそよ風が吹いているようだった。気づけば、僕は彼女がいるその空間が、できるだけ穏やかな空間であることを願っていた。
空き缶で埋まった自室の机をちらと見てから、どうか、楽園のような場所で彼女は生きていてほしい。そう強く思った。
『ああ、いや、忘れてください』
気恥しさを誤魔化すため、僕は咄嗟にそう返した。
なんだか顔が熱かった。
「なんでですか! 絶対忘れません、忘れませんからね。もう覚えましたから、世紀末さんの名前だって絶対に忘れません!」
忘れない。
なんて、優しい言葉なんだろうと思った。僕のことを覚えておきたい人間なんて、いないに決まっているのに。
ふと、外の光を断絶しているカーテンに目をやった。
ほら、僕のいる場所はこんなにも暗い。
言葉通り、ノアは配信を始めてからまだ三日しか経っていなかったので、フォロワーもまだ十人いるかいないかといったところだった。その日も、夕方ということもあって、コメント欄には僕しかいなかった。
まるで画面の中の彼女と、面と向かって話をしているようだった。
僕の言葉を、ちゃんと聞いて、飲み下して、そして返答をくれる。
それが、素直に嬉しかった。
『じゃあ僕も、ノアさんのこと忘れません』
優しい言葉だと思ったから、僕の方からも返すことにした。
もしかすると、これは彼女に対する誓いなのかもしれない。送信ボタンを押しながら、そう思った。
「ええっ、嬉しい! じゃあ世紀末さんがいる限り、私もずーっと、ここにいられますね」
なんの混じりけもない声で、箱舟ノアはそんなことを言ってのけた。
直感的、だけれど、この人は嘘とか建前とか、そういうのができない人なんじゃないかと思った。だから生きづらくなることも多いような、素直で、とても不器用な人なのかもしれない。
『はい』
自分でも無意識のうちにそう返事をしていた。
なんだ、これ。
ずっと止まっていた心臓が、そのとき確かに動き出したような気がした。
◇ ◇ ◇
もしかして、僕の心臓はもう止まっているのだろうか。だから今、こんなふうに彼女と出会ったあの日の走馬灯でも見てしまったのか。
「……透坂、くん?」
再度名前を呼ばれ、鼓動が痛いほど強くなる。
走馬灯がどうとか、そんな妄言も言ってられないくらいに。
大氾濫している頭の中で、現状を整理する。
この扉越しにいる顔も知らないクラスメイト、一ノ瀬踏穂は、ほぼ間違いなく、あの箱舟ノアだ。
毎日、というか毎時その声を聞いている僕が間違うわけがない。
間違えられる、はずがない。
ならば、僕はどうするべきだ?
決断をしろ。今、この場で箱舟ノアの名前を出してみるか? いや、それで彼女になんのメリットがある。自分の配信を約一年間観続けているクラスメイトなんて、普通に爆弾以外の何ものでもないだろ。
「ごめん、バス停からここまでそれなりに歩いたから、ちょっとだけ疲れちゃって」
知らないフリをしよう。箱舟ノアのことも、自分の胸の中のざわめきも。
一瞬のうちに下した決断だった。
「……そうだよね。ごめんね。わざわざ、ありが……」
謝る一ノ瀬の声は、途中からよく聞こえなかった。
本当は一言だって、聞き漏らしたくなかったはずなのに。
なんでだ。
なんで、僕は泣いている。
次から次へと頬をなぞる涙が、拭う制服の袖をどんどん濡らしていく。
だめだ。これ以上は、だめになる。
泣きやんでくれ。今は彼女の話し相手にならなきゃ、いけないんだから。
『こんな遅い時間なのに来てくれたの? 嬉しい』
『人を傷つけるのが怖いって、世紀末さんは優しい人なんだね』
『おかげさまで今日も楽しかった。いつも観てくれてありがとう!』
あの日々の、箱舟ノアに救われた記憶が濁流のように押し寄せてくる。薄暗い部屋で、唯一光っていた画面の中の君が、すぐ、そこにいる。
深呼吸をしてみるが、溢れる水滴は全くその勢いを弱めない。一ノ瀬に怪しまれるのは当たり前として、このままでは干からびて死んでしまいそうな勢いだった。
「……ちょっと、ごめん。休ませて、もらっていい?」
一ノ瀬の返事も待たず、僕はその場に蹲った。湧き上がる嗚咽を殺すのに必死だった。
少しして、扉が内側から二回ほどノックされた。とても返事はできなかった。
「あのさ……私、透坂くんのことなんにも知らないし、だから、わかったふりをしたいわけじゃないけどね。泣きたいときは泣くしかないんだよ。これ、私の経験則だけど。泣きたいときに泣けない方が、ずっと悲しい」
扉の向こうで、一ノ瀬が床に腰を下ろしたのがわかった。僕と同じ視点の高さになってくれた彼女は、さらに柔らかい声で続ける。
「……だからさ、いいんだよ。いくらでも、落ちつくまでここにいなよ」
やっぱりだ。
やっぱり、一ノ瀬踏穂は、どうしようもないくらい、箱舟ノアだ。
僕はふと、扉に右の手のひらで触れてみた。この先に、あの箱舟ノアがいる。
ずっと画面越しだった。ずっと観てきた。
だからこそ、僕は彼女に箱舟ノアのことを言えない。僕が知っているのは、あくまで箱舟ノアとしての彼女でしかないのだから。
その偶像に抱いた好意を現実世界にいる一ノ瀬にスライドさせることがどれだけ傲慢なことか、僕は知っている。そもそもそんなことが平気でできるやつの語る好意にどれだけの希少性があるというのだろう。
自分が作り上げた理想像は、自分で作り上げたからこそ、脆くて、そして絶対に現実の自分の手には届かないものだ。
僕自身がそうだった。周囲に合わせるための建前に嫌気がさしたから学校に行かなくなったし、いざ登校できるところまで気を持ち直せている今でさえも、僕は愛想笑いの一つさえ満足にできない。
だから、一人でいる。
箱舟ノアは年齢を公開していない。僕も、おそらく彼女は暇な時間の多い、周囲と溶け込めない大学生くらいとしか思っていなかった。
しかし、現実に生きる一ノ瀬踏穂は引きこもりの高校生だ。それも、二年の初めに転校してきて以来、一度も学校に姿を見せていないほどの。
そんな彼女が、理想の自分としてつくった箱舟ノアを面と向かって肯定されたとして、それはつまるところ、現実の一ノ瀬踏穂を否定することになりかねない。
そんなこと、できない。するべきじゃない。
僕は、あくまでただの他人なのだから。
「……だいぶマシになってきた。ありがとう」
一人で思考を練り回していると、少しだけ落ちついてきた。
「よかった」
一ノ瀬は何も詮索しないまま、そう言った。
ひとまず、この空気を立て直そう。
三回深呼吸をすると、やっとまともに言葉が浮かぶようになってきた。
「それで、さ。一ノ瀬さんはいつも新川……先生とどんな話をしてる?」
「うーん……。いつもと言っても、一週間に一回くらいなんだけど……。当たりさわりのないことしか話さないよ。今日は何食べたとか、好きな将棋の駒は何かとか」
将棋の駒? ずいぶんマニアックな会話だな。というかノアって将棋の話、してたっけ。
「……将棋、するの?」
「全くしないけど。新川先生は好きらしくて、特に香車が」
いや、もうちょっと一ノ瀬に寄り添った話題を振れよ。
そこが新川っぽさではあるのだけれど。
「私は歩が好き。響きがね、可愛いから」
聞いてないよ、聞いてない。でも確かに、箱舟ノアもそう答える気がするな。解釈一致だ。
「……えっと、じゃあ次の話。一ノ瀬さんは今日、何した?」
口にしてから、これはかなり意地の悪い質問なんじゃないかと気づく。
だって、僕はついさっきまで箱舟ノアの配信を観ていたのだから。
彼女が何をしていたのかなんて、大体把握しているのだ。
「ああ、えっと、その、あれだよ。……うん、ネット……ネ……あっ! そうそう、ネトゲ、かな?」
あまりにもたどたどしく一ノ瀬は答える。
こんな質問をした僕が悪いんだけどさ、詰まりすぎだよ一ノ瀬。
そもそも、あんまりゲーム得意じゃないっていつも配信で言ってるだろ。
「へえ、ネトゲか。僕も半年くらい前までは結構真剣にユグドラやってたなあ」
つい配信で知っている彼女のことが脳裏をよぎるが、間違ってもそれを悟られないように相槌をうつ。
「ああ! ユグドラね! 最近アプデきてから触れてないや」
一ノ瀬の声には、知っているゲームの名前が出て助かったという感情が滲み出ていた。
まあ知っているのも当然だ。そのゲームの存在を教えたのは僕なのだから。ちなみに先週アップデートがあったことも、昨日コメントしたばかりだ。
「……透坂くんは何してたの?」
「まあ、学校だったし、そんなに色々できたわけじゃないけど。ちょっとだけ、配信とか観たりしたかな」
あ、普通に配信って言ったな、僕。
額に一筋の汗が流れるが、乱暴に袖で拭う。
いやいや、別にこれくらいなら言っても平気だろう。
ほら、配信者なんて星の数ほどいるんだし。
むしろここで変な嘘をついてボロが出る方がよっぽど怖かったって、ねえ、そうでしょ!?
「へっ、へえ……。配信かあ、はあ、へえへえ、なるほど、なんかそんなのもあるらしいね、うん。あんまりよく知らないんだけど、ね」
自分のボロなんて気にしている場合じゃないかもしれない。
いくらなんでも誤魔化すのが下手すぎるだろ、これ。
なんならもう新川にもバレてるんじゃないのか?
あまりにも弱い彼女のディフェンス力に呆気に取られていると、今度は一ノ瀬の方から話し始めた。
「……なんかさ、変な感じ」
「何が?」
「透坂くんには、あんまり緊張しない」
きっとそれは、僕が元引きこもりだからだろう。人が気を張るのは、自分より上手くやれてるやつに対してだけだ。
いくら学校に通っているとはいえ、元来の僕の人間力はやはり、放課後も奮って部活動に勤しむクラスメイトたちにはどう転んでも敵わない。
それが彼女の緊張を解いているなんて、皮肉だけれど、悪い気はしなかった。
「なんでだろ、コミュニケーションは苦手なんだけど」
「……だからかな」
「今、失礼なこと言われてる?」
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