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旅行編
幕間 優斗の父親
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妻が死んだ。数年前のことだ。
そして先日、息子も死んだ。
俺は一人になった。
俺は厳格な父に育てられ、いい大学を出て、そこそこ大きな企業に就職した。見合いで結婚した相手との間には息子が生まれ、俺の人生は順調そのものだった。これからも、幸せな人生を歩んでいくものだと思っていた。···妻が出て行くまでは。
最初は何かの冗談だと思っていた。幼稚園に通う子どもを置いて家を出たのだ。
それでも俺は、妻がごめんなさいと謝ってきたら許してあげてもいいと考えていた。妻がいつか泣いて謝ってくるはずだと信じていた。
帰って来てくれとこちらから頼むのは、俺のプライドが許さなかった。
あの頃は大変だった。
延長保育でギリギリまで息子を幼稚園に預け、仕事を急いで終わらせて迎えに行く。どうしても仕事が終わらないときは、その頃は健在だった俺の親に頼んで迎えに行ってもらっていた。
慣れない料理に挑戦するも結局は惣菜に頼り、コンビニの弁当で済ますことも少なくなかった。
妻が家を出たことは、誰にも言わなかった。
職場では、弁当を持って来なくなった俺になんやかんや詮索する奴もいたが、共働きになって忙しいのだと言うようにしていた。
もちろん、俺の親にもそう言っていた。
俺は、そういう幸せな人生を送るはずだったからだ。
息子は小学生になり、だんだん手がかからなくなった。自分で出来ることが増え、俺は仕事に集中できるようになった。
息子は俺に甘えなくなった。俺は毎日遅くまで仕事をするようになった。
俺は一生懸命仕事をした。いや、今思うと、仕事をすることで現実から逃げていたのかもしれない。
いつまで経っても戻って来ない妻と、いつの間にか笑わなくなった息子。そんな現実を受け入れられなかったのだ。
俺は幸せな人生を送るはずだったんだ。
こんなはずでは、なかったのだ。
ある日、俺はふと思い立って有給を取った。息子の様子を見てみたくなったのだ。
学校の近くまで行って気づいたのだが、俺は息子のクラスや時間割りを把握していなかった。
面談は忙しいからと断っていたし、息子との会話も最後にいつしたのか覚えていないくらいだ。
何も知らない。それだけは分かった。
幸運なことにちょうどその時は体育の授業だったようで、息子の姿をグランドに見つけた。そして俺は愕然とした。息子が笑っていたのだ。クラスメイトと笑顔でサッカーをしていた。
俺が見たことのない、楽しげな表情だった。
その後、どうやって帰ったかはあまり覚えていていない。ただ、気づいたら家のテーブルに空の酒瓶がいくつも転がっていた。
その日、息子に酷く怒ったのは覚えている。学校で見せていた表情は微塵もなく、ただ無の表情で帰って来た息子に、腹が立ったのだ。
誰のおかげで飯が食えていると思ってんだ、誰のおかげでここまで育ったと思ってんだ、もっと感謝しやがれ。そんなことを叫んでいた気がする。
それから、たまに有給を取っては酒を飲むようになった。俺は幸せな人生を送るはずだったんだ、と俺以外の全ての人間に苛つきながら。いや、俺自身にも苛ついていたのかもしれない。
そんな生活をしていたら、ある日俺の妻が死んだと知らされた。結局あいつは一度も帰って来なかった。一度も謝って来なかった。
葬儀では、最愛の妻を亡くした夫として振る舞った。
だが、誰が墓など建ててやるものか。一度でも泣いて請えばいいものを。そうしなかったあいつが悪い。そんな奴のために、墓を建てる義理などない。
妻の両親は既に他界していたし、他の家族や親戚とは疎遠のようだった。厳しかった俺の父は認知症を患い、母は足腰が弱っていた。
墓について言及する者は誰もいなかった。俺は妻を弔うことを拒否した。
それを知るのは息子だけだった。
俺はそれからも、たまに有給を取っては酒を飲んでいた。そしてパチンコにも行くようになった。
あの空間に響く轟音は、そこにいる間だけ現実の虚しさも煩わしさもかき消してくれるのだ。
俺は幸せな人生を送るはずだったんだ。そんな思いすらもかき消してくれたらいいのにと思っていた。
息子はあまり家に寄り付かなくなった。友人の家に泊まっているのか、どこにいるのか、俺は知らない。
たまに顔を合わせるとその無表情に苛立ち、俺は暴言を吐いてしまう。俺の人生が上手くいかない苛立ちを、息子にぶつけていた。
そんな俺に、俺は苛ついた。
いつだったか、小遣いをあげていないのに冷蔵庫に野菜が入っているのに気づいた。俺ではないから、息子が買ったのだろう。
カマをかけて、バイトをしているんだろうと聞けばその通りだった。
俺は腹が立った。俺の知らないところで息子が成長し、自立しようとしている。そうなった時、俺はどうなる?
なぜだか、俺は無性に腹が立った。
今まで育ててやったんだ、誰のおかげで学校に行けていると思ってんだ、感謝しやがれ。そんな思いが込み上げる。
俺は偽りの笑みを浮かべて息子を褒めた。すると息子は驚いていた。まあ、そうだろうな。文句を言うことはあっても、俺が褒めることなんて今まで無かったからな。
息子の目にほんの少し希望の色が見えたのを確認して、俺はこう言った。
『ところで金、持ってるか?一万ほど貸してほしいんだわ』
息子の目に浮かぶ希望が絶望に変わる。そうなると分かっていたことだが、俺は腹が立った。
俺は息子を殴り、そして蹴ってしまった。
その日、俺は息子のバイト代で酒を飲んだ。
俺は幸せな人生を送るはずだったんだ。パチンコ店の轟音の中で呟いた言葉は、俺の耳にいつまでも残っていた。
あの日は、年度最後の有給を使って、昼から酒を飲んでいた。すぐに酒が無くなり、コンビニへ買いに行った。
そこで息子を見かけたのだ。
久しぶりに見た息子の笑顔に、今度は何をしているのだと苛立つ。
また俺の知らないところで息子は成長したのだろう。
俺は、俺の人生はこんなはずじゃなかったんだといつまでも立ち止まったままなのに、息子は前に進もうとしている。その事実に、また無性に腹が立った。
だから、ちょっと邪魔してやりたくなったのだ。
お前だけが進んで行くなんて、許さない。そう思って、息子に、···優斗に、声をかけたのだ。
優斗が死んだ瞬間は、今でも鮮明に思い出せる。あの風景、あの音、あの表情。繰り返し夢で見るのは、あの時、一瞬目が合ったからなのか。
あの時、優斗は何を思っていたのだろうか。
あの時、俺がもっと動けていたら、···いや、俺が声をかけていなかったら、優斗は···。
誰もいなくなって、やっと気づいた。こんなはずじゃなかったと思っていた俺の人生は、俺の自分勝手な言動が形作ってきたのだと。
幸せな人生とは何だ。自分以外の意思を許容してこなかった俺の、幸せな人生とは、何だ。そんなもの、クソくらえだ。
俺は、俺が思う幸せのために、ずっと息子に不幸せを強いていたのだ。
妻はこんな俺に早々に愛想を尽かしていたのかもしれない。今となっては聞く術もないが、きっとそうなのだろう。
そして俺がそうであるように、多分妻も、幼い子どもを置いて行くくらい身勝手な人間だったのだ。
優斗がどんどん成長していったのは、そうならざるを得なかったのだ。
俺の苛立ちは、俺自身にのみ向けるべきものだったのだ。
やっと、やっと分かった。
でも分かったときには、もう遅い。
俺は一人になっていた。
優斗の葬儀は、つつがなく終わった。
彼の死は、歩行者の信号無視による事故として片付けられた。
あのとき優斗が抱えていたカバンには、高校生が持つには多い、かなりの大金が入っていた。
あのお金の使い道が何だったのか、俺は知らない。大事そうに抱えていたから、大事な何かに使うつもりだったのだろう。
家で一人、ぼんやりと過ごす。ただ無為に時間が過ぎるのを、俺の寿命が刻々と消費されていくのを感じながら、ぼんやりと過ごしていた。
どれくらいの時間そうしていたのか分からないが、ピンポーンという音で意識が現実に引き戻される。
玄関を開けると、高校生が数人、硬い表情で立っていた。
「初めまして。僕は、優斗君の同級生の高橋といいます。今日はあなたに聞きたいことがあって来ました」
数人いる中の一人が、はっきりとした意志を感じさせる目でそう言った。
俺は彼らを家の中に通した。顔をしかめる子達を見て、リビングがひどく散らかっていることに気づく。
今までは優斗が掃除や片付けをしてくれていたのだ。俺はそんな事さえ気づいていなかったのだ。
「···優斗君がアルバイトをしていたのは、ご存知ですよね?」
「···知っている」
「それなら、その理由はご存知ですか?」
「···いや、知らない」
俺が優斗のことで知っていることなど、ほとんどないのだ。
「···優斗君は、お母さんのお墓代のために働いていたんです」
その言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受ける。
「優斗君は、家のことはあまり話したがりませんでした。でも最近嬉しそうだったので聞いたんです。そしたら、もうすぐお墓を建てられそうなんだと言っていました。『母さんのことはよく知らないけど、お墓っていう形あるものを作ったら、母さんが死んだことを事実として受け入れられる気がするんだ。そうしたら、僕も、もしかしたら僕の父も、ちゃんと未来へ進めるかもしれないと思ったんだ』って」
俺は高橋と名乗った青年の言葉に絶句する。
優斗がそんなことを考えていたなんて。俺が自分の人生に悲観して他人を責めている間に、優斗は自分と、そして俺のために出来ることを考えてくれていたのだ。
「···優斗君は、事実を受け入れないあなたの代わりに、現実と向き合って、前に進もうと、···頑張って、いたんです···!」
高橋君の声が震える。
堪えきれずに涙を流している子もいる。
「優斗君は、いつも前向きな人でした!優しくて、思いやりに溢れていて、人の良い所を見つけるのが得意で、些細なことにも感謝できる、そんな人だったんです···!」
高橋君の目からも涙が溢れる。彼の固く握った拳が小刻みに震え、そこに涙がポトリと落ちる。
「···僕は、僕達は、優斗君とこれからもずっと仲良く成長していきたかったです。···一緒に、大人になりたかったです。でも、もうそれは叶わない夢だから···。だから、せめてあなたには、前を向いて欲しい···!お願いだから、優斗の、あいつの思いを無駄にしないで···。お願いだから···」
彼の悲痛な叫びに、俺は激しい後悔に襲われる。俺の身勝手さが、優しく成長した優斗の未来を閉ざしたのだ。
彼らは泣きながら「お願いします」と頭を下げて、帰って行った。
今さら後悔しても、遅い。遅過ぎる。分かっていても、激しい後悔の念が胸に渦巻く。
俺はなんて馬鹿なんだ。なんて自分勝手なんだ。なんて最低な人間なんだ。
今さら自分勝手だと分かっていながらも、願わずにはいられない。
もし優斗が生まれ変われるのなら、今度は愛情をしっかり注いでくれる父親のもとに生まれて欲しい。優斗の気持ちを察してくれて、優斗が思いっきり甘えられる父親がいい。
そんな父親のもとで、今度こそ家族の幸せを感じて欲しい。
俺は、また仕事人間になった。以前と違うのは、酒とパチンコをやめたことくらいか。···いや、それと、毎月墓参りをしている。妻と優斗の墓だ。妻の墓は、優斗の金で作らせてもらった。そして優斗の墓は、俺が別に建てた。
「あ、···優斗のお父さん」
墓に行くと、たまに高橋君達に会う。
「君達は···大学を卒業して今年から社会人だったかな」
「はい。···僕達は、大人の仲間入りです」
優斗は、大人になる前に命を落とした。他でもない、この俺のせいで。
「そうか···。体に気をつけて。働き過ぎは良くないぞ。周りを見て、···いや、君達なら大丈夫か」
「···はい」
何年経っても優斗に会いに来てくれる優しいこの子達なら、俺のような人生は歩まないだろう。
「···それじゃ、元気でな」
「···はい、お元気で」
去っていく彼らの背中に、優斗を重ねる。
生きていたら、あんな感じになっていたのだろうか。いつかはスーツの似合う大人になり、愛する人と結婚していたのだろうか。
俺が奪った優斗の人生は、きっと優しさに満ちていただろう。
今でも、願わずにはいられない。
優斗が、いい父親のもとに生まれ変わっていますように。たくさんの幸せを感じていますように。
俺は、俺の人生が終わるその時まで、そう願わずにはいられない。
そして先日、息子も死んだ。
俺は一人になった。
俺は厳格な父に育てられ、いい大学を出て、そこそこ大きな企業に就職した。見合いで結婚した相手との間には息子が生まれ、俺の人生は順調そのものだった。これからも、幸せな人生を歩んでいくものだと思っていた。···妻が出て行くまでは。
最初は何かの冗談だと思っていた。幼稚園に通う子どもを置いて家を出たのだ。
それでも俺は、妻がごめんなさいと謝ってきたら許してあげてもいいと考えていた。妻がいつか泣いて謝ってくるはずだと信じていた。
帰って来てくれとこちらから頼むのは、俺のプライドが許さなかった。
あの頃は大変だった。
延長保育でギリギリまで息子を幼稚園に預け、仕事を急いで終わらせて迎えに行く。どうしても仕事が終わらないときは、その頃は健在だった俺の親に頼んで迎えに行ってもらっていた。
慣れない料理に挑戦するも結局は惣菜に頼り、コンビニの弁当で済ますことも少なくなかった。
妻が家を出たことは、誰にも言わなかった。
職場では、弁当を持って来なくなった俺になんやかんや詮索する奴もいたが、共働きになって忙しいのだと言うようにしていた。
もちろん、俺の親にもそう言っていた。
俺は、そういう幸せな人生を送るはずだったからだ。
息子は小学生になり、だんだん手がかからなくなった。自分で出来ることが増え、俺は仕事に集中できるようになった。
息子は俺に甘えなくなった。俺は毎日遅くまで仕事をするようになった。
俺は一生懸命仕事をした。いや、今思うと、仕事をすることで現実から逃げていたのかもしれない。
いつまで経っても戻って来ない妻と、いつの間にか笑わなくなった息子。そんな現実を受け入れられなかったのだ。
俺は幸せな人生を送るはずだったんだ。
こんなはずでは、なかったのだ。
ある日、俺はふと思い立って有給を取った。息子の様子を見てみたくなったのだ。
学校の近くまで行って気づいたのだが、俺は息子のクラスや時間割りを把握していなかった。
面談は忙しいからと断っていたし、息子との会話も最後にいつしたのか覚えていないくらいだ。
何も知らない。それだけは分かった。
幸運なことにちょうどその時は体育の授業だったようで、息子の姿をグランドに見つけた。そして俺は愕然とした。息子が笑っていたのだ。クラスメイトと笑顔でサッカーをしていた。
俺が見たことのない、楽しげな表情だった。
その後、どうやって帰ったかはあまり覚えていていない。ただ、気づいたら家のテーブルに空の酒瓶がいくつも転がっていた。
その日、息子に酷く怒ったのは覚えている。学校で見せていた表情は微塵もなく、ただ無の表情で帰って来た息子に、腹が立ったのだ。
誰のおかげで飯が食えていると思ってんだ、誰のおかげでここまで育ったと思ってんだ、もっと感謝しやがれ。そんなことを叫んでいた気がする。
それから、たまに有給を取っては酒を飲むようになった。俺は幸せな人生を送るはずだったんだ、と俺以外の全ての人間に苛つきながら。いや、俺自身にも苛ついていたのかもしれない。
そんな生活をしていたら、ある日俺の妻が死んだと知らされた。結局あいつは一度も帰って来なかった。一度も謝って来なかった。
葬儀では、最愛の妻を亡くした夫として振る舞った。
だが、誰が墓など建ててやるものか。一度でも泣いて請えばいいものを。そうしなかったあいつが悪い。そんな奴のために、墓を建てる義理などない。
妻の両親は既に他界していたし、他の家族や親戚とは疎遠のようだった。厳しかった俺の父は認知症を患い、母は足腰が弱っていた。
墓について言及する者は誰もいなかった。俺は妻を弔うことを拒否した。
それを知るのは息子だけだった。
俺はそれからも、たまに有給を取っては酒を飲んでいた。そしてパチンコにも行くようになった。
あの空間に響く轟音は、そこにいる間だけ現実の虚しさも煩わしさもかき消してくれるのだ。
俺は幸せな人生を送るはずだったんだ。そんな思いすらもかき消してくれたらいいのにと思っていた。
息子はあまり家に寄り付かなくなった。友人の家に泊まっているのか、どこにいるのか、俺は知らない。
たまに顔を合わせるとその無表情に苛立ち、俺は暴言を吐いてしまう。俺の人生が上手くいかない苛立ちを、息子にぶつけていた。
そんな俺に、俺は苛ついた。
いつだったか、小遣いをあげていないのに冷蔵庫に野菜が入っているのに気づいた。俺ではないから、息子が買ったのだろう。
カマをかけて、バイトをしているんだろうと聞けばその通りだった。
俺は腹が立った。俺の知らないところで息子が成長し、自立しようとしている。そうなった時、俺はどうなる?
なぜだか、俺は無性に腹が立った。
今まで育ててやったんだ、誰のおかげで学校に行けていると思ってんだ、感謝しやがれ。そんな思いが込み上げる。
俺は偽りの笑みを浮かべて息子を褒めた。すると息子は驚いていた。まあ、そうだろうな。文句を言うことはあっても、俺が褒めることなんて今まで無かったからな。
息子の目にほんの少し希望の色が見えたのを確認して、俺はこう言った。
『ところで金、持ってるか?一万ほど貸してほしいんだわ』
息子の目に浮かぶ希望が絶望に変わる。そうなると分かっていたことだが、俺は腹が立った。
俺は息子を殴り、そして蹴ってしまった。
その日、俺は息子のバイト代で酒を飲んだ。
俺は幸せな人生を送るはずだったんだ。パチンコ店の轟音の中で呟いた言葉は、俺の耳にいつまでも残っていた。
あの日は、年度最後の有給を使って、昼から酒を飲んでいた。すぐに酒が無くなり、コンビニへ買いに行った。
そこで息子を見かけたのだ。
久しぶりに見た息子の笑顔に、今度は何をしているのだと苛立つ。
また俺の知らないところで息子は成長したのだろう。
俺は、俺の人生はこんなはずじゃなかったんだといつまでも立ち止まったままなのに、息子は前に進もうとしている。その事実に、また無性に腹が立った。
だから、ちょっと邪魔してやりたくなったのだ。
お前だけが進んで行くなんて、許さない。そう思って、息子に、···優斗に、声をかけたのだ。
優斗が死んだ瞬間は、今でも鮮明に思い出せる。あの風景、あの音、あの表情。繰り返し夢で見るのは、あの時、一瞬目が合ったからなのか。
あの時、優斗は何を思っていたのだろうか。
あの時、俺がもっと動けていたら、···いや、俺が声をかけていなかったら、優斗は···。
誰もいなくなって、やっと気づいた。こんなはずじゃなかったと思っていた俺の人生は、俺の自分勝手な言動が形作ってきたのだと。
幸せな人生とは何だ。自分以外の意思を許容してこなかった俺の、幸せな人生とは、何だ。そんなもの、クソくらえだ。
俺は、俺が思う幸せのために、ずっと息子に不幸せを強いていたのだ。
妻はこんな俺に早々に愛想を尽かしていたのかもしれない。今となっては聞く術もないが、きっとそうなのだろう。
そして俺がそうであるように、多分妻も、幼い子どもを置いて行くくらい身勝手な人間だったのだ。
優斗がどんどん成長していったのは、そうならざるを得なかったのだ。
俺の苛立ちは、俺自身にのみ向けるべきものだったのだ。
やっと、やっと分かった。
でも分かったときには、もう遅い。
俺は一人になっていた。
優斗の葬儀は、つつがなく終わった。
彼の死は、歩行者の信号無視による事故として片付けられた。
あのとき優斗が抱えていたカバンには、高校生が持つには多い、かなりの大金が入っていた。
あのお金の使い道が何だったのか、俺は知らない。大事そうに抱えていたから、大事な何かに使うつもりだったのだろう。
家で一人、ぼんやりと過ごす。ただ無為に時間が過ぎるのを、俺の寿命が刻々と消費されていくのを感じながら、ぼんやりと過ごしていた。
どれくらいの時間そうしていたのか分からないが、ピンポーンという音で意識が現実に引き戻される。
玄関を開けると、高校生が数人、硬い表情で立っていた。
「初めまして。僕は、優斗君の同級生の高橋といいます。今日はあなたに聞きたいことがあって来ました」
数人いる中の一人が、はっきりとした意志を感じさせる目でそう言った。
俺は彼らを家の中に通した。顔をしかめる子達を見て、リビングがひどく散らかっていることに気づく。
今までは優斗が掃除や片付けをしてくれていたのだ。俺はそんな事さえ気づいていなかったのだ。
「···優斗君がアルバイトをしていたのは、ご存知ですよね?」
「···知っている」
「それなら、その理由はご存知ですか?」
「···いや、知らない」
俺が優斗のことで知っていることなど、ほとんどないのだ。
「···優斗君は、お母さんのお墓代のために働いていたんです」
その言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受ける。
「優斗君は、家のことはあまり話したがりませんでした。でも最近嬉しそうだったので聞いたんです。そしたら、もうすぐお墓を建てられそうなんだと言っていました。『母さんのことはよく知らないけど、お墓っていう形あるものを作ったら、母さんが死んだことを事実として受け入れられる気がするんだ。そうしたら、僕も、もしかしたら僕の父も、ちゃんと未来へ進めるかもしれないと思ったんだ』って」
俺は高橋と名乗った青年の言葉に絶句する。
優斗がそんなことを考えていたなんて。俺が自分の人生に悲観して他人を責めている間に、優斗は自分と、そして俺のために出来ることを考えてくれていたのだ。
「···優斗君は、事実を受け入れないあなたの代わりに、現実と向き合って、前に進もうと、···頑張って、いたんです···!」
高橋君の声が震える。
堪えきれずに涙を流している子もいる。
「優斗君は、いつも前向きな人でした!優しくて、思いやりに溢れていて、人の良い所を見つけるのが得意で、些細なことにも感謝できる、そんな人だったんです···!」
高橋君の目からも涙が溢れる。彼の固く握った拳が小刻みに震え、そこに涙がポトリと落ちる。
「···僕は、僕達は、優斗君とこれからもずっと仲良く成長していきたかったです。···一緒に、大人になりたかったです。でも、もうそれは叶わない夢だから···。だから、せめてあなたには、前を向いて欲しい···!お願いだから、優斗の、あいつの思いを無駄にしないで···。お願いだから···」
彼の悲痛な叫びに、俺は激しい後悔に襲われる。俺の身勝手さが、優しく成長した優斗の未来を閉ざしたのだ。
彼らは泣きながら「お願いします」と頭を下げて、帰って行った。
今さら後悔しても、遅い。遅過ぎる。分かっていても、激しい後悔の念が胸に渦巻く。
俺はなんて馬鹿なんだ。なんて自分勝手なんだ。なんて最低な人間なんだ。
今さら自分勝手だと分かっていながらも、願わずにはいられない。
もし優斗が生まれ変われるのなら、今度は愛情をしっかり注いでくれる父親のもとに生まれて欲しい。優斗の気持ちを察してくれて、優斗が思いっきり甘えられる父親がいい。
そんな父親のもとで、今度こそ家族の幸せを感じて欲しい。
俺は、また仕事人間になった。以前と違うのは、酒とパチンコをやめたことくらいか。···いや、それと、毎月墓参りをしている。妻と優斗の墓だ。妻の墓は、優斗の金で作らせてもらった。そして優斗の墓は、俺が別に建てた。
「あ、···優斗のお父さん」
墓に行くと、たまに高橋君達に会う。
「君達は···大学を卒業して今年から社会人だったかな」
「はい。···僕達は、大人の仲間入りです」
優斗は、大人になる前に命を落とした。他でもない、この俺のせいで。
「そうか···。体に気をつけて。働き過ぎは良くないぞ。周りを見て、···いや、君達なら大丈夫か」
「···はい」
何年経っても優斗に会いに来てくれる優しいこの子達なら、俺のような人生は歩まないだろう。
「···それじゃ、元気でな」
「···はい、お元気で」
去っていく彼らの背中に、優斗を重ねる。
生きていたら、あんな感じになっていたのだろうか。いつかはスーツの似合う大人になり、愛する人と結婚していたのだろうか。
俺が奪った優斗の人生は、きっと優しさに満ちていただろう。
今でも、願わずにはいられない。
優斗が、いい父親のもとに生まれ変わっていますように。たくさんの幸せを感じていますように。
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