君の唇に触れたい

小貝川リン子

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第三章 秋冬

第二話 旅館①

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「早くしろ。置いてかれるぞ」
 
 七瀬が瞬介を呼んでいる。集合場所からバスに乗り、これから宿へ向かうのだ。
 バスの座席は、当然のように七瀬の隣。道中何度か交換したが、今は七瀬が窓際。瞬介が通路側だ。月が出ていた。「満月だ」と七瀬が言った。
 班別行動も、もちろん七瀬と一緒の班で、宿の寝室も、当然のように同じ部屋。夕食の席だって、当然のように隣同士だ。「大食い対決しようぜ」とバイキングなのをいいことに瞬介がチョッカイをかければ、七瀬は澄ました顔をして「吐くまで食って叱られたの忘れたか」などと過去の恥を暴露するものだから、同じ班の面々が食い付いた。
 
「昔の話だろ! 今はそんな無茶しませーん」
「ああ。小一の夏だったなァ? そうめん食いすぎて吐いたんだ」
「七瀬だって、スイカ食いすぎて腹壊してたろ。知ってんだかんな」
「しょうがねぇだろ。スイカはうめぇ」
「そうめんだってうまかったんだもん!」
 
 またいつものくだらないケンカが始まった、と周囲には受け流され、先生には叱られた。
 大浴場での入浴時間はクラスごとに決まっているため、これもまた、当然のように七瀬と入ることになる。当然のように隣り合ったシャワーを使い、白い肌を流水が伝っていくのを見ていた。さらさらの黒髪が水を含んで、普段よりも濃く見えた。毛先から滴る雫さえ、目で追ってしまう。
 
「ばーか」
 
 滴る雫が唇を濡らす。濡れた唇がゆるりと動く。
 
「見過ぎだ」
 
 七瀬の視線が、すっとこちらへ滑ってきた。
 
「こんなところで発情すんなよ。それこそ猿以下だぜ」
「ふーんだ。別にそんな目で見てたわけじゃねぇし。変なアトとか残ってねぇか確認してただけだし」
「んなの、お前が残してねぇならどこ探したって見つからねぇよ」
「俺が残してなければ、だろ?」
「……」
 
 含みのある言い方をして揶揄ってやれば、七瀬はじろりと瞬介を睨む。かと思えば、桶いっぱいに溜めたお湯を顔面にぶっかけられた。
 
「ぶわっ? あっつ!」
「くだんねぇこと言って、のぼせても知らねぇぞ」
 
 そう言って、七瀬は浴槽へ行ってしまう。瞬介も後を追い、浴槽に飛び込んだ。
 
「ばか、跳ねるだろ」
「どーせ濡れてんだから、同じことだろ」
 
 男だらけ、知った顔だらけの大浴場。その片隅で、七瀬と共に温まる。大理石でできた、広く清潔な浴槽だ。小学生の時分ならば泳いでいた。
 
「お前と風呂入んのも、久しぶりだな」
「かもな」
「直近だと、中学の修学旅行か? だいぶ前だよな」
 
 小学生の頃までは、よく互いの家を行き来していた。泊まるとなれば、家の狭い風呂に二人仲良くぶち込まれたものだ。保育園の頃に至っては、中庭に出したビニールプールで、男女関係なく裸になって遊んでいたのだから、互いの裸に特別な価値を見出すような環境ではなかった。
 いつからなのだろう。こんな風に、水分を含んだ黒髪や、水滴の伝う首筋や、水面に覗く白い肩に、劣情を覚えるようになったのは。陶器のような肌がじんわりと火照って、薔薇色に染まってゆく様を、もっと近くで見てみたいと思うようになったのは。
 七瀬の肩が水面下に沈む。顎の下まで湯に浸かり、耳まで薔薇色に染まっていく。
 
「のぼせんなよ?」
「平気だ。せっかく広い風呂だから」
 
 そう言われて、瞬介も肩まで沈んだ。揺らぐ水面に、二人の影が映っている。果たして、いつまでこうしていられるのだろう。
 七瀬との修学旅行は、これで三度目。林間学校などの宿泊行事も含めれば、五度目になる。保育園でお泊まり会をしたこともあるので、そこまで含めれば六度目だ。けれども、広い湯船に肩を並べて入るのは、きっと今夜が最後になる。
 分かっている。大人になってまで、こんな関係ではいられない。
 
 
 
 大部屋に布団を敷き詰める。寝る場所まで、当たり前のように隣同士だ。当たり前のように本気の枕投げ合戦を開催し、大はしゃぎして先生に叱られ、そして消灯後には、これまた当たり前のように、猥褻談義に花を咲かせた。
 猥談──いや、そこまでレベルの高い話ではない。クラスで誰が一番かわいいか。隣のクラスではどうか。学年全体ではどうだろうか。女子の好きな髪型は? 正統派の黒髪ロングか、揺れるポニーテールこそ至高か、はたまたボーイッシュなショートヘアにこそ秘められた魅力があるのか。それぞれの勢力に分かれ、議論は白熱した。
 女子部屋では、どんな会話が繰り広げられているのだろう。誰々が好きとか、気になっている人がいるとか、そんな甘い恋の話に花を咲かせているのだろうか。それとも、もっと高レベルな下ネタで沸いているのだろうか。こういうところは、女子の方がエグいと聞く。
 もっと単純に、彼氏の愚痴でもぶち撒けているのだろうか。胸派か尻派かと呑気に盛り上がっているうちに、彼女にとんでもない恥を暴露されている男が、この部屋にも一人や二人いるのかもしれない。
 いつの間にか、一人、また一人と、睡魔に絡め取られて脱落していく。あれだけ騒々しかった大部屋はすっかり静まり返り、ひそひそ声の内緒話さえ聞こえなくなった。
 
 七瀬はまだ起きているだろうか。瞬介は隣の布団に忍び寄り、こっそりと潜り込んだ。暗闇の中、手探りで七瀬を探す。学校指定のジャージ、その下に着ている体操着。裾を捲って指先を滑り込ませれば、七瀬の手に阻まれた。
 なんだ、やっぱり起きているんだ。そう思いながら、指先は七瀬の体を駆け上がる。壁側を向いて寝ている七瀬の背中に体を寄せて、抱きしめた。布団の中は暑いくらいだ。七瀬の匂いで満ちている。
 腰が甘く痺れてゆく。心臓が熱を持っている。内側から炎に炙られ、汗ばむほど体が熱い。
 
「おい……」
 
 ようやく、七瀬の声が聞けた。冷静にこちらを咎めるような、しかし、纏い付く熱には抗えないというような、そんな囁きだった。
 
「静かにするから、な?」
「無理に決まってんだろ……」
 
 瞬介の腕の中で、七瀬は身を捩る。衣擦れの音が、案外大きく響いていたが、そんなことは気にも留めなかった。七瀬は瞬介の方を振り向いて、そして相変わらず、腕の中にすっぽりと収まっている。
 
「バレたくねぇ」
「だから静かにするって」
「無理」
「……」
 
 こそこそと喋る囁き声が、鼓膜をくすぐる。それどころか、神経を伝わって脳に直接触れられているようにさえ感じた。
 こつん、と額が触れた。いつの間にこんな距離まで迫っていたのかと、今更ながらたじろいだ。狭い布団の中、二人で密着しているのだから、当たり前の話である。七瀬の吐息を鼻先に感じる。
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